ヴェーバーの「合名・合資会社成立史」をこの正月休みに改訂して読み直しましたが、翻訳していた時には気付かなかったことを段々と考えるようになって来ました。まず、合名会社の起源については、ヴェーバーが説くように、家計ゲマインシャフトから発展したものであるということは、現在でも定説のようですので、こちらは一応OKとします。気になるのが合資会社の方で、Wikipediaによれば、各言語での合資会社の表現は、羅: societas in commendam、独: Kommanditgesellschaft、仏: société en commandite になります。見ていただければお分かりのように、いずれも「コムメンダ」に相当する表現を含んでおり、すなわち現在での定説は「合資会社はコムメンダから発達した。」になります。この定説の長所は、コムメンダは、出資者と航海者というように対等ではない人間関係に基づいているため、合資会社における無限責任社員と有限責任社員の差別をある程度説明出来るということです。逆に短所は、コムメンダでは航海する側は出資していないのに対し、合資会社での有限責任社員は一応出資者であり、そこがどうしてそうなったのかを説明するのが困難です。一方ヴェーバーの合資会社がソキエタース・マリースから発達したという説ですが、こちらは本来の出資者と航海者が両方出資しており、それでも立場は対等ではないため、合資会社の2種類の社員の差をある程度説明出来ます。ただヴェーバーは、無限責任社員となったのは、貿易事業に関わる出資者(複数)・航海者の中で、capitaneus(キャプテン)と呼ばれるいわばリーダー的な存在だと論じています。この場合、もし航海者がcapitaneusになったとすると、通常ソキエタース・マリースでの航海者は一人ですから、そこから出来た合資会社のプロトタイプにおける無限責任社員は一人だけ、ということになります。このことは歴史的な実例に合致するのか、ヴェーバーは法規のみしか論じていないのでそこは不明です。また逆に複数の出資者の中から誰かがcapitaneusになった場合を考えると、この場合も一人(何故なら通常会社の社長は一人ですし、トップが複数いるのは多くの点で不都合でしょう)であり、他の出資者よりリスクの高い地位を引き受けるインセンティブやメリットは何なのかが不明です。いずれにせよ、無限責任社員が1名というのが本当に歴史の真実なのかがポイントです。もし合資会社の無限責任社員が1名であるのが通例なら、このことは合資会社が合名会社から発展したものであるという大塚久雄他の発展段階説のはっきりした否定になります。何故なら合名会社では社員(出資者)が1名ということは、今の日本の法律では認められるようになっていますが、本来は絶対にあり得ないからです。
私見では、コムメンダとソキエタース・マリースは、元々厳密に区別出来るようなものではなく(法律上の規定は別として)、例えばジェノバの公証人の記録に出て来る例では、ある冒険心には富んでいるけどお金の無い若者が、まずコムメンダで金持ちから出資してもらい、対スペイン貿易を決行して成功し、1/4の利益を得、次にその得た利益を全額出資して、今度はより儲けることの出来る可能性の高い中東地域との貿易で再度前の出資者と組んでソキエタース・マリースを行う、という風にある意味一種のオプション選択に過ぎないものであったと理解すべきと思います。なので定説がコムメンダ起源にしていますが、この場合のコムメンダはその変種であるソキエタース・マリースを含むと解釈すべきと思います。いずれにせよヴェーバーの「成立史」の欠点は、そういった経済史的な実例の分析が弱く、慣習法から制定法に変わっていく法的な取り扱いだけしか見ていないことで、ヴェーバーの論述だけで合資会社の起源について確定的なことを述べることは出来ません。
投稿者: Moritz
佐藤俊樹の「社会学の新地平 ――ウェーバーからルーマンへ」
佐藤俊樹の「社会学の新地平 ――ウェーバーからルーマンへ」を読了。この本を読んだのは、どうも私が日本語訳した「中世合名・合資会社成立史」を読んだ上で議論している様子が伺い見えたからです。そしてそれはその通りで、「プロテスタンティズムの倫理の資本主義の精神」を理解する上に、ヴェーバーの会社制度の研究を考慮に入れなければならない、という主張が含まれており、そういう風に活用していただけると訳した方としても張り合いがあります。また「丁寧で精度の高い日本語訳」(P.117)とお褒めの言葉もいただいているので、その点については感謝したいと思います。
ただ、これまでのヴェーバー研究がこの「成立史」の内容をほとんど知らずかまたは完全な誤解をして他人に伝えるかのどちらかであり、それがきちんと内容を読んだ上で新たな議論をしているということは良いのですが、著者には申し訳ありませんが、著者の「成立史」の解読には私から見ると間違っていたり不正確な部分が多く見受けられます。まず第一に、これは安藤英治氏と同じ誤解ですが、フィレンツェにおける家業ゲマインシャフトからの合名会社の成立ということだけが、この論文の主張ではない(元になっている博士号論文「イタリアの諸都市における合名会社の連帯責任原則と特別財産の家計ゲマインシャフト及び家業ゲマインシャフトからの発展」はそれだけを論じていますが)と言うことです。特にピサのConstitutum Ususの分析の章にはっきり書いてありますが、コムメンダのバリエーションとして同時期に行われていたソキエタース・マリースが、合資会社が成立する基礎であることがはっきり述べられています。(訳からの引用(一部略):「ここまでの論述の結果として私にとって明らかになって来たことは、理解しづらいConsitutum Ususの法文について、より明証性の高い解明を行うことが出来たということである。――それはつまり、我々はここにおいて合資会社の財産法的な基礎原理を目の当たりにしているということである。合資会社に必要なものは全てここにおいて揃っているか、あるいは少なくともその登場が予示されている。」)(大塚久雄は会社組織というものは個人事業→合名会社→合資会社のように段階的に発展したとしていますが、ヴェーバーはそういう発展段階説を否定し、合名会社と合資会社の起源は異なりお互いに鋭く対立するものとしています。)また、合名会社についてもそもそも当初の合名会社はフィレンツェの章で述べられているアルベルティ家(商会、銀行)のように、家業ゲマインシャフトという表現から想像されるよりもはるかに巨大な「財閥ファミリー」が採用したものでした。その主目的はファミリーの資産の一体性を保ち、それが相続等で分割され小さくなっていったり他人に分与されるのを防止するということです。このことは日本でも同じで、明治になって財閥も会社化することが必要になると、三井や安田の財閥が(持ち株会社として)採用したのは合名会社でした。このことから合名会社を「自由な労働の合理的組織」の基礎として捉えるのはまったくもって無理があります。そもそも合名会社は合名会社の法律上の社員(会社法での「社員」は株式会社なら株主であり、従業員ではありません)ではない、単なる従業員(もしいたとしたら)に何かのメリットがある制度ではまったくありませんし、様々な技能を持った人材が集まって共同で会社の仕事をする、などという著者が主張しているような機能はまったく果たしていません。それから容易に推測出来ることですが、社員一人一人に無限責任が求められる合名会社は、財閥家にとっては都合が良いものの、それ以外の場合は、会社規模が限定され(例えば「成立史」論文でも出て来るお雇いドイツ人法学者レースラー{ロエスレル}が作った日本最初の商法の草案では「合名会社の社員は2人以上7人以下」でした。現在の会社法では上限は無く、最低は1人でも可能になりましたが、私は現在において、規模の大きい合名会社の例を寡聞にして知りません。)、この意味でも合名会社は近代的な資本主義のベースにはなり得ません。むしろ合資会社の方が投資という形で参加だけする社員(有限責任社員)とその外部資本を取り込めるので、規模の拡大にははるかに有利です。最終的には株式会社という形で経営と資本の分離がある意味完成する訳ですが、この流れは合名会社からは生まれ得ません。(特にドイツにとって、株式会社は「外から」入って来たものでした。ヴェーバーのこの論文の当時、ドイツの法学者の間で株式会社をどう法的に位置づけるかの議論が盛んでした。)また合名会社誕生当時のフィレンツェでは、経済を牛耳っていたのはツンフト(ギルド)であり、前述のアルベルティ家の場合も、アルテ・ディ・カリマラという毛織物の生産・販売同業者組合に所属しており、その保護の下で資本を蓄積して行っています。ヴェーバーは何故かツンフトを詳細に論じた箇所がほとんど無い(「都市の類型学」に少しだけ出て来ます、また講義ベースの「一般社会経済史要論」を除く)のですが、このツンフトこそある意味「資本主義の精神」の反対のものです。時間をかけてずっと読んできているギールケの「ドイツ団体法論」にて丁度今読んでいる所がツンフトに関する箇所なのですが、原材料をツンフトからの購入に限定、夜間・休日労働の禁止、価格の統制、取引先の統制等々、今なら独占禁止法に抵触することばかりです。(もちろん会員の安定した利益を保証したり、作られる製品の品質を一定以上に保つ、などメリットが無い訳ではもちろんありません。)つまりガチガチの「不自由労働」の世界であり、この意味でも「自由な労働の合理的組織」の元になったことはあり得ません。最初の合名会社はそれ自体が独立的に生まれたのでは無く、このツンフトという「都市の中の都市」的なものの内部で生まれた、それによって強い規制を受ける存在であったことには注意すべきです。(ヴェーバーの「成立史」は8割方法制史の論文であり、ローマ法のソキエタースの概念が拡張されて如何に合名・合資会社が新たに法的に定義されたかが主軸であり、経済史的な分析は非常に少ないといえます。)ちなみにドイツではこのツンフトの解体が遅れ、ビスマルクの時代であっても、未だに多くのツンフトが存在していました。この本に出てくるカール・D・ヴェーバーの活動も、反ツンフト(かつ反問屋制度、問屋制度はある意味ツンフトの残滓)であると考えると理解しやすいでしょう。
それから、「成立史」は「資本主義の起源」を研究したものでも「株式会社のスタート」を研究したものではありません。著作の発表順序や思想的発展を無視した議論はすべきではないでしょう。(もちろんこの論文で研究した素材が後の著作で何度も使われ、「後から」本人の中での位置付けが変化したのでしょうが{特にゾンバルトとの資本主義の起源を巡る論争の中で}、論文の評価はそれ自体に書かれていることに基づいて判断すべきです。「資本主義」「株式会社」という単語はどちらも一度も出て来ません。)
後、用語として「共同責任」などという法律用語はありません。言うまでもなく「連帯責任」です。(もしかすると、会社の所有者の間の「連帯責任」を、法律上の社員ではない単なる従業員のエンゲージメント意識に意図的にすり替えてわざと「共同責任」という言い方に変えた可能性も考えられます。もしそうなら一種の詐術です。また中世の「手工業」と書くべきを何度も「工業」と書いているのも同様の詐術。ヴェーバーは「古代社会経済史」の中で、中世のイタリアの一番大きな工房でもそれは「工業」と呼べるものではなかった、と書いています。)
後、これは「成立史」と関係ないことも含め、3点指摘しておきます。
(1)「資本主義の精神」の定義
プロ倫でどこにも「資本主義の精神」の定義が無い、とありますが、理念型に最初からきちんとした定義がある筈が無く最初は例示で大体の概念が示されるだけだと思います。理念型は研究の最後できちんとした類型として確立するものだと思います。(プロ倫はある意味で研究のスタートであり完成した研究ではないので、最後まで完全な定義が出て来ないのは事実です。)それから法律というものは厳密な定義から始る、というのはナンセンスであり、通常法律の制定それだけで厳密な適用範囲は決まらず、裁判と判例を通してその意味する所が次第に確定していくものです。(つまり決疑論)最近の日本の例では「同一労働同一賃金」(2020年4月1日より適用開始の「短時間労働者及び有期雇用労働者の雇用管理の改善等に関する法律」)で、その適用範囲は2020年10月の5つの最高裁判決と、最近の1つによってようやく少しずつその意味する所がはっきりしつつあります。)もっと分かりやすいのは憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」です。これに厳密な定義がありますか?これについては朝日訴訟という裁判で最高裁が「この条文は国がこれを目差していく」というプログラム的な規定であるとしました。
(2)うつ病?
別の所でも書きましたが、ヴェーバーの神経症を根拠も示さず「うつ病」(大うつ病)と断定しないで欲しいです。
(3)ヴェーバーの時間管理
著者はヴェーバーが時間管理が出来ない証拠として博士号論文に時間をかけすぎていることを挙げますが、おそらく著者は博士号論文は「成立史」論文の第三章の所だけだということを理解していないように思います。またこの時期ヴェーバーは裁判所に勤務しながら論文を書いていて更に中世の法文献を調べるためスペイン語まで勉強したりしています。また「成立史」論文で参照された法文献は膨大なものであり、読みにくい中世ラテン語他の文献を短期間によくぞこれだけ読んだと感心しこそすれ、時間管理が出来ない、などとは思いません。むしろヴェーバーの徹底癖が出ていると私は理解しますし、どちらかと言えば仕事は他の人に比べて非常に速く普通の意味の時間管理などする必要も無かったのだと思います。ヴェーバーの問題としては、短期的な時間管理ではなく、あまりにも興味の赴くまま手を広げすぎ、生涯全体で結局宗教社会学も社会経済学もどちらも未完で終ってしまった、ということを私は指摘したいです。(スペイン風邪によると思われる肺炎で急死するとはもちろん本人は予想していなかったでしょうが。)ついでに言えば「成立史」論文が教授資格論文の一つ(ローマ土地制度史以外に)使われたというのも、博士号論文に比べるとページ数だけでも約3倍(全集版で全体が193ページ、第三章の博士号論文部分が63ページ)であり、またそれぞれ別に出版されており、そういう意味でほぼ新規論文とも言え、まったく問題無いと私は考えます。
「ローマ土地制度史」の日本語訳(12)P.130~134
前回が2022年7月でしたから、約一年半開きましたが、「ローマ土地制度史」の日本語訳の12回目です。その間、自宅を購入し引っ越したり、会社を変わったりで色々と大変でした。ようやく落ち着いたので翻訳を再開します。ここはほとんど ager quaestorius に関する記述です。
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ager quaestorius の法的な性質については、これまで不十分な形でしか解明されていない。当時の測量人達の情報によれば、それは征服によって獲得された耕地に対して、ローマ市民から財務官(クワエストル)への委任に基づいて売却された土地であるとなっている。しかし私はモムゼンの推定 (C. I. L., I の lex agraria の c. 57. 66)と一致して、ager quaestorius はローマ市民の決定に基づくのではなく、元老院が決定し財務官に委任したものであると考える。更には次のことも想定できよう。それはこのやり方と関連がある trientabula (後述)≪国家債務の返済の際にその金額の内の1/3を現金ではなくそれに相当する価額の土地で返済すること≫のやり方を参考にすると、lex agraria の規定から派生したこととして、その土地の所有権を完全に購入者に与えるのではなく、ただ “uti frui licere”[使用する権利、(貸すなどして)利益を得る権利、売却する権利]だけが約束されている[つまり買い戻す権利が留保されている]ものであるということである。従ってここで扱われているのは、[完全な]売却という行為ではなく、財産管理上の[ある意味で勘定科目の変更のような]行為なのであり、それはケンススを実施する上での[ある土地の]場所の確定という目的にも沿っていた。何故ならば、ager quaestorius は財務官が国家の財産を[一時的に]売却することにより現金を得る形態なのである。それは言い換えれば資本の払い込みに対し使用権を引渡すことであり、ケンスス上の扱いでは、それは賃貸し、つまり使用権を与える代わりに使用料を取るということである。モムゼンが述べているこのことについての理由以外に、またそこからさらに発展させ、私はまた次のことが確かに言えると考える。つまり ager quaestorius は、例えば名目的な承認に基づく使用料(地代)の支払いという観点では、使用料(地代)支払いを義務として強制するような性格のものではない、ということである。それではこの場合、[土地を購入した]ローマ市民に対して継続的な所有権が認められるという[法的な]効果[通常の売却-購入との違い]は、この方式のどこにおいて現れるのであろうか?純粋に私法的な関係においては、所有権の移転[vindikation]と握取行為[物件を移転させる際に契約以外に必要とされる一種の儀礼的行為]が行われない、という点にそれは現れている。国家権力との関係については、再度モムゼンによって示された(C.I.L、上掲箇所)推定と一致するが、次のことが非常に確からしいと思われる:それは ager quaestorius の trientabula との類似ということで、そのようにモムゼンは引用の箇所で主張している。trientabula が最初に行われたのは a.u.c. 552年[B.C. 200年]のことであると、リヴィウスは1. 31の13章で述べている。
”Cum et privati aequum postularent nec tamen solvendo aeri alieno res publica esset, quod medium inter aequum et utile erat, decreverunt, ut, quoniam magna pars eorum agros vulgo venales esse diceret et sibimet emptis opus esse, agri publici, qui intra quinquagesimum lapidem esset, copia iis fieret. Consules agrum aestimaturos, et in jugera asses vectigales testandi causa publicum agrum esse imposituros, ut si quis, cum solvere posset populus, pecuniam habere quam agrum mallet, restitueret agrum populo.” [その市民達の要求は正当であり、そしてそれにも関わらずローマ共和国が要求された金額を支払うことが出来なかったので、元老院は次の処置を行ったが、それは正当性を実現しようとしたのとその場しのぎの中間にあるようなものだった。それは国家の土地で、大部分が公的に売りに出されており、その購入には現金での支払いが必要とされたもので、ローマから50番目の里程標の内側にあるものが、それらの市民に対し[現金で返済する代わりに]与えられることが出来るとされた。コンスルはそういった土地の価額を見積もり、そしてその土地について課税対象として使用料金を定めることとなった。その理由はそれらの土地が元々国家の土地だからである。そしてローマ市民でありローマ共和国への債権者である者の内の誰かが、土地よりも現金を選んだ場合には、その者は土地をローマ市民に返却することが出来た。]
法的な観点で分析した場合、ここでの手続きはつまり次のようなものである。ここで描写されている耕地は、ローマ国家に対する債権者達に後で買い戻すことを前提として売却されている。その土地の売却価格としては、借り入れ金の内未返済のものの1/3の金額が使われており、そこから trientabula [triens = 1/3]という名前で呼ばれた。土地を再度買い取らせる権利を持っていたのはその土地を買った者達だけであり、それもローマの人民がその資金を払うことが出来る場合のみであり、売主である国家がではなく、ローマ人民が、である。このように全くのところ国家の債務の整理を目的とした業務、まあそう言っても構わないであろうが、国家による個人への土地の売却という形を取っている。そしてそれはその法的な本質としては明らかに売却という大きな枠組みの中でのみ行われ、そして個別の特別な事例に適合する協定を取り結ぶことによって、ager quaestorius においての売却のやり方とは異なっていた。その当時債務者であった国庫は、この方法を非常な困窮の中でやむを得ず行ったのであり、だからこそ次のことが理解出来る。つまりこの売却の特殊性が協定という形を取らざるを得なかった理由であり、その場合に買い主は一般的な場合と比べてより有利な形で土地を買うことが出来た、ということである。次のことは自明である。つまり、こういう買い主に対する特別扱いに見出すことが出来るのは、土地の買い戻しを実行させる権利を持っているのは、買い主であって国家ではない、ということである。私見ではその他の場合ではこれは逆であったであろう。この点について考えられるのは、ager quaestorius の本来の法的な特性は、国家に帰属する買戻し権であった、ということである。41) この一度売却した土地の買い戻しの権限は、ローマ法の規定にもある”habere uti frui licere”[所有すること、使用すること、それを使って利益を得ること、それを売却すること]≪元は”habere possidere uti frui licere”であり、 possidere =占有すること、を抜いた形で引用されている≫にも合致している。その規定は公法的には不安定な土地所有というものを言い表した”εχειν εξειναι”[所有すること、占有すること]という S. C. de Thisbaeis ≪引用元は後述される≫の表現と法的には同じである。更に ager quaestorius [の買戻し権]が本来国家に帰属する権利であるということは、次のこととも矛盾しない。つまり、この形での土地の授与の基礎が築かれたのは元老院勧告によってであり、(明らかに)民会の決議によってではない。しかも更に、おそらく次のことも想定出来る。それは国家が所有権を購入という形で移転させるのであり、そのため公的な建造物の贈呈と引き渡しの際には、[それに付随する]余剰の土地は監察官[ケンソル]によって「(公有地から)私有地に転換する」形で売却されたということである。(Liv. AG40 40. 51, 5. cf. 41. 27. 10)しかしながらこの贈呈の手続きについては民会の決議を必要としたので、この場合の[土地の売却の]手続きもまた前もって特別な売却として[法的な]効力を与えられていた。42) いずれの場合でも元老院勧告は国家の所有物[である土地]を、規則に沿った形で完全に私有物化することを認めるまでには至っておらず、一方民会の決議は更に厳格に無条件に売却した土地の買い戻しを定めており、その当然の結果として土地の購入者はその購入の際に支払った金額全額の返還を要求するようになった。このことにより、推定して来た本質的な土地の買戻し権というものが成立しているのである。モムゼンが仮定しているように、ager quaestorius による土地の売却がローマの国庫の一時的な資金需要に応えるものであったとしたら、その場合我々は信用引き受けのこうした原始的な形態を見ると、直接的に中世における金融経済においての Satzung [不動産を抵当に入れた借り入れで、占有を条件とする古質(こしち)とそれを条件としない新質がある]及び買い戻しが前提である土地売却が思い起こされる。中世における諸都市においてと同様に、より洗練されたやり方であるRenteによる借り入れ[地代徴収権売買、レンテンカウフ]がまだ認められていなかった限りにおいて、古代ローマの場合はそれ故特別な場合での資金創造の形態としては次の2つに限定された:強制税(=tributum )と土地の買い戻しを約束した上にで売却するという形態での自然物の質入れである。その他の ager quaestorius による売却のやり方としては、当時の測量人達が述べているように、征服し占領した土地について即時に現金化するやり方もあった。――実際に存在したのは、前述の箇所で確認を試みたのであるが、国家のそのような買い戻し権の方であり、それはそれ自身がある種の土地の強制収用権であり、ager privatus に対して[の公有地化の方法としては]それ以外のものは知られていなかった。――そして植民市の耕地についてである限りは、例えば水道を設置するという目的等で行われたに違いなく、[ローマ法の]建築に関する法規の中で特別な権利として留保された。その例としては lex colon[iae] Genetivae c. 99 (Eph. epigr. II, p.221f.)があり、――そして次のことが考えられる。つまり何かの代償と引き換えによる、三頭政治の時代における強制収用が、ある場合はこの ager quaestorius において生じた[買い戻しの]権限に関連付けられ、また別の場合には古くからのやり方である占有による所有の不確実性に関連付けられた。そして後者の場合は、強制収用は統治者[三頭政治の政治家]の特別に完全な権力により、それによって収用された土地は ager privatus per nefas [違法な私有地]へと転換されたのである。43)
41) ルドルフ[Rudorff, Adolf]は(Gromatischen Institutionen の中で)次のことを仮定している。つまり国家は購買しようとする者との関係に応じて、それぞれ異なる内容の協定を締結していたと。売却対象の耕地のみが、我々には唯一の統一された制度として把握される。
42) Liv. 40, 51, 5 の場合は”M. Fulvius … locavit … basilicam … circumdatis tabernis, quas vendidit in privatum” [M. フルヴィウスは…契約した…その会堂を…その周りにある小さな建物については、私有物化する形で契約した]という箇所は、つまりある国家の所有物の譲渡が民会の決議無しに行われており、またそこに見出されるのは、その建築物の敷地については建物を譲渡する前に始めて購入されたのであり、その建造物の完成と譲渡の認可を得るまでの過程において、敷地については売却側の役所がそれを自由に処分出来るものであったと思われる。Liv. 41, 27, 10については、譲渡に際して in privatum [私有物化された]とは書かれておらず、おそらくそれは実際にそうであったのであろう。
43) 三頭政治の時代の土地の強制収用の法的根拠は、それが[征服した]敵の所有物を没収するのではない場合にははっきりしない。そういったケースの一部ではそもそも法的根拠がまるで存在しなかった。強制収用が如何に容赦なく行われたかをもっとも良く示しているのは Siculus Flaccus (p.160, 25)の注記である:ある数の土地占有者は公的な宣告を受けて[zur professio]その占有地を召し上げられた。その表向きの理由は土地の[再]割当てとケンススへの登記である。しかしそれが宣告された後に、その土地の占有者は宣告に基づいてその土地の税金相当額が支払われた上で没収された。その没収について裁判となった場合にも、それは結局[没収した側に]罰金刑が言い渡されるだけであり、その金額は当初の宣告の際のその土地の評価額に一致していた。ここではただ強制的な購買について述べられているのであり、また別の土地占有者への補償について言及されている箇所では、その補償自体が問題とされている。こうした土地の占有者に関しては、測量人達の間では、以前グラックス[兄弟の兄]が使った表現である「以前の占有者」[vetus possessor]が思い起こされていた。(C. Ⅲ 参照)
「中世合名・合資会社成立史」を改訂しました。
「中世合名・合資会社成立史」の日本語訳、第1回正式公開版(2020年9月23日より公開開始)はその後細かな校正で30回以上改訂して来ましたが、この度第4章の一部でちょっとした誤訳があったのを発見しこれを改めたのと、特に前半部で原注の番号が抜けている箇所が多く見つかったため、これを修正してこの機会に版を新たにしました。この際に同時にヘッダーにこれまで版番号を入れていたのを読者の便宜を考え章名に変更しました。
いわゆるヴェーバー・テーゼとヴェーバーの研究方法
ヴェーバーが1918年にウィーン大学で宗教社会学の講義を行った時、その題名は「唯物史観の積極的批判」でした。このことは、少なくともヴェーバー自身が自分の宗教社会学の意義(の主な一つ)は唯物史観への反証、批判であることを自覚していた、ということを示していると思います。しかしだからと言ってヴェーバーは、下部構造である経済が上部構造である宗教を規定するのではなく、その逆である、と主張したのではありません。というのも、ヴェーバーは1907年に「R・シュタムラーにおける唯物史観の『克服』」という論文を発表して、シュタムラーの主張は、いわば唯心論であって、マルクス主義の経済を宗教その他のものに置き換えただけではないかという批判をしているからです。
いわゆるヴェーバー・テーゼについて、私はラッハファールの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の間には親和関係はあるが、因果関係ではない」という主張に基本的に賛成します。統計学で言えば、「相関関係は必ずしも因果関係ではない」というのとまったく同じです。それから以前書きましたが、このラッハファールの批判を受けて、思考実験で他の要素は全て揃っていたけれど、プロテスタンティズムの倫理が欠けていた場合資本主義は発生しなかった、ということを検証するために、インドや中国他を研究したというのも、ヴェーバーが本当にそう思っていたかどうかは別にして、科学的にはナンセンスだと考えています。しかし、ヴェーバーを評価すべきなのは、仮にそうした目的があったとしても、短兵急に各文明での支配的宗教の倫理と資本主義に向かう経済発展のみに限定した研究は行っていないということです。「ヒンドゥー教と仏教」にしても「儒教と道教」にしてもきわめて回りくどいと思われるくらい、歴史や政治やその他の文明の全体像を把握することに多くのページが費やされています。ともかく私は、文明を評価・研究する上で、非常に特殊な2つの要素だけに着目してそれの相関・因果関係を研究するというのは、そもそもそうした要素が他の要素を無視してそれだけ切り出せるのか、という疑問も含めて問題があると思っています。ですが実際のヴェーバーの研究は、少なくとも視点としては総合的なものを失っていないと思います。なので私が提唱している様々な要素、パラメーターを使った比較研究というのを、ヴェーバー自身も数理的ではないですが、ある程度まではやっていたと考えています。そもそもヴェーバーの学問領域が、社会学だけでなく、国民経済学、政治学、法学、歴史学、哲学、と多岐に渡っていることもその傍証になるかと思います。
マハラノビス距離の社会学への応用
ChatGPT-4に、私がここで提唱している、マハラノビス距離を異なる文明・歴史を持つ社会の比較に応用可能か、と聞いたら、非常にポジティブな回答が出ました。
社会学において、異なる文明や歴史を持つ複数の社会を比較する際、多変量データを使用することが考えられます。例えば、教育、経済、健康、政治の指標など、多くの変数を組み合わせて社会を特徴づけることができるでしょう。
このような複数の変数を持つデータにマハラノビス距離を応用することで、変数間の相関構造を考慮しつつ、異なる社会間の「距離」や「類似性」を計算することができると考えられます。
しかしながら、注意点として:
- 変数の選択:どの変数を選ぶかは非常に重要です。選ばれた変数が文明や歴史の特徴を正確に反映しているかどうかを検討する必要があります。
- データの品質:使用するデータの品質や完全性も重要です。不完全なデータやバイアスのあるデータを使用すると、正確な比較が難しくなります。
- 文化的・歴史的な背景の理解:数理的な手法だけでは十分ではありません。文化的・歴史的な背景を深く理解することで、得られた結果に対する解釈や意義を深めることができます。
以上の点を考慮しつつ、マハラノビス距離を社会学的な文脈で応用することは十分に可能であり、有意義な結果をもたらす可能性があります。
マハラノビス距離と生成AI
以前ここで、異なる社会や文明を比較する方法としてマハラノビス距離が使えるのではないか、と書いたことがあります。
最近仕事がらみで生成AIを色々調べています。その中で学習する文書をベクトル化する技術をEmbeddingと呼びますが、これが実にマハラノビス距離と深い関係があることを発見しました。
論より証拠で、Chat-GPT4に聞いてみた結果が以下です。
Q: 生成AIのEmbeddingは、マハラノビス距離と関連がありますか?
A: ChatGPT
はい、マハラノビス距離と生成AIのembeddingには関連があります。マハラノビス距離は、特徴空間において、データの分布を考慮して2つの点またはデータセット間の距離を測定する方法を提供します。生成モデルのembeddingは、高次元データを低次元空間にマッピングし、データ間の関係を捉える役割を果たします。
具体的には、生成モデルが学習する過程で、データの内部構造やデータ間の関係を学習し、これらの情報を低次元のembedding空間にエンコードします。マハラノビス距離を利用することで、この低次元空間においてデータ点間の相対的な距離をより適切に計算し、クラスタリングや異常検知、類似度計算など多くのタスクを効果的に行える可能性があります。マハラノビス距離は、特にデータの分布が正規である場合や共分散行列が利用可能な状況で有用です。
手作業で、様々な文明の多次元ベクトル空間を作りそのマハラノビス距離を求めるのは非常に手間がかかりますが、それこそ生成AIが使えるのではないかと期待しています。文系の学問もいまや大きく変わろうとしています。
停電によりサーバーが落ちていました。
9月4日、5時頃から8時40分まで停電のためサーバーが落ちていました。
サーバーの移設完了
サーバーを新居に移設し、DNS設定も変更し、このブログは元通りにアクセス出来るようになりました。
サーバー移設によるアクセス停止
このブログを動かしている自宅サーバーを引っ越しにより移設するため、8月11日(金)の16時より同日深夜0時くらいまで、一時的にアクセス出来なくなります。移設が完了して元通りアクセス出来るようになりましたら、また連絡します。