理解社会学ではなく誤解社会学

折原先生や中野敏男氏は、ヴェーバーの学問において最重要なものは「理解社会学」としています。
しかし私はヴェーバーの「理解社会学」を敢えて「(異文化)誤解社会学」と呼びたいと思います。

そもそもヴェーバーが人間の行為を理解すると言っている意味は、その行為者が主観的に持っていた行為についての意味付け(行為の理由を)

1.合理性からの推測 または
2.感情移入

によって知ろうとするものです。
しかし、この「合理性」と「感情」が世界の全ての文化・文明で共通であるなどということがどうして言えるのでしょうか?合理性には種類があり、一見非合理的に見えるものにもそれ自体の合理性があることをヴェーバー自身が論じています。
また「感情」もまたある意味文化的・社会的な産物である部分が大きくあり、ある事象に対する感情的な反応が世界のどこでも共通である保証は全くありません。

ヴェーバーの「理解社会学」はある意味、ヴェーバーが属していた西欧近代社会という、同じ合理性、感情構造を共有していた社会の中でしか有効ではありません。ヴェーバーは「価値自由」を説いていますが、マンハイムがこれを批判したように、それ自体が実はヴェーバーの属していた階層の価値観の反映であり、本当の意味での「価値自由」と「理解社会学」は本来相互に矛盾する概念です。

ヴェーバーが如何に西欧近代以外の社会の文明・文化を誤解したかは既に「宗教社会学」の中の事例で多く紹介済みですが、追加して「儒教と道教」を例にして説明します。

1.そもそも儒教が宗教であるとは中国でも日本でもほとんど誰も思っていない。孔子自身が「怪・力・乱・神」を語らなかったことは論語を読んだことがある人は誰でも知っています。

2.そのように宗教とはいえない儒教をヴェーバーはこともあろうに「正統信仰」と位置付け、更にその上塗りで道教が「異端信仰」であったとします。中国の「西遊記」「封神演義」「平妖伝」といった物語を読めば明らかですが、中国では仏教・儒教・道教は相互補完的に混ぜ合わされていたというのが正しく、そこに正統と異端などという概念は存在しません。ヴェーバーは明らかにローマ教会のアナロジーとして中国社会を勝手な解釈で理解(誤解)しています。

3.更には道教についても、おそらくはヴェーバーは老子の「道徳経」の欧州語訳を読んで、老子を道教の「開祖」と位置付け、そこに書かれている内容から道教を分析します。しかし道教は元々は中国の民間信仰であり、老荘の道家の思想とは本来はまったく別なものです。老子が太上老君として道教の中に取り入れられたのは、仏教が大量の経典と共に中国に入って来て、その対抗上道教にも経典に相当するものが必要だったために老子が使われただけのことです。2.の道教異端説も要するに儒家と道家の位置付けから勘違いした可能性が高いです。

以上は中国についての例ですがインドについても基本的には変わりません。
ヴェーバーの異文化理解は、西欧的価値観から異なる文明を下に見る、いわゆる「オリエンタリズム」の典型です。ヴェーバーが到達したのは「社会の理解」ではなく、「社会を理解したつもりになる構造」であり、それは異文化理解の限界の原型として、今日のグローバル社会にもなお見られるものです。

またも変な創文社の訳(とそれをそのまま採用する折原訳)

Die charismatische Erziehung in diesem Sinn, mit ihren Noviziaten, Mutproben, Torturen, Graden der Weihe und Würde, ihrer Jünglingsweihe und Wehrhaftmachung ist eine in Rudimenten fast überall erhaltene universelle Institution aller kriegerischen Vergesellschaftung.

折原訳(前半部は創文社訳そのまま)
この意味におけるカリスマ教育は、修練期・肝試し・しごき・聖祓と威厳の格付け・元服式・佩刀礼をともなう、戦士的ゲゼルシャフト結成の普遍的制度で、ほとんどいたるところに痕跡を止めている。

丸山訳
この意味でのカリスマ的教育は、修練期・勇気の試練・苦行・聖別(注)と位階の格付け・[通過儀礼としての]成年式および武装の許可を伴うものであり、ほとんどすべての戦士的ゲゼルシャフトとして形成された集団において、痕跡的ながら普遍的に認められる制度である。
(注:聖別:カトリックや聖公会などで人や物を宗教上の目的で他の人や物から別の聖なるものとすること。)

何ですか「肝試し」とか「元服式」とか「佩刀礼」って。ここで言っている成年式はマサイ族でライオン一匹を一人で倒すとかの、いわゆる通過儀礼としての成年式であって、単なる成人のお祝いの儀式ではありません。(通過儀礼:人の一生で一回だけでそれを通過しない限り次の段階に進めないという儀礼。反対語は循環儀礼で毎年のお祭りなど。)そもそもここは宗教カリスマと戦士カリスマの共通性を論じている重要な箇所ですが、「肝試し」とか訳した瞬間に元の文章の緊張感がすっ飛んでしまいます。

「宗教社会学」折原浩訳、丸山補訳、R3

折原浩私家版訳「宗教社会学」の丸山補訳版のR3(P.90まで)を公開します。
ここはヴェーバーの記述より、折原浩先生の訳の不正確さが目立ちました。
申し訳ありませんが、あれだけ人の誤訳を声高に主張するのであれば、ご自身で訳される時には最善の注意を払っていただきたいと思いますが、残念ながら良く考えられた翻訳ではありません。先に例に出したように「理解社会学のカテゴリー」の概念を含む文ですらきちんと訳出されていません。「無神経な」翻訳です。

202511104_宗教社会学補訳R3.pdf

折原浩先生訳の問題点

「宗教社会学」のゲマインデ(教団)の宗教性について定義している箇所ですが、

原文
Wir wollen nur da von ihrem Bestand reden, wo die Laien 1. zu einem dauernden Gemeinschaftshandeln vergesellschaftet sind, auf dessen Ablauf sie 2. irgendwie auch aktiv einwirken.

折原訳
われわれはもっぱら、平信徒が、① ゲゼルシャフト形成によって[スタッフと平信徒、相互の権利-義務を規定する秩序の制定によって、この秩序に準拠する]継続的なゲマインシャフト行為に編成され、同時にまた、②当のゲマインシャフト行為の経過に、なんらかの仕方で能動的にもはたらきかけている場合にかぎって、ゲマインデ宗教性が存立すると考えたい。

丸山訳
我々はもっぱら、平信徒が、① 単発のゲマインシャフト行為ではなくそれが継続的に[何らかの制定律に準拠しているかのように]繰り返されるという形でゲゼルシャフト化されているという場合で 、そしてその経過において、②そういった連続したゲマインシャフト行為が何らかの形で能動的に作用している場合に、ゲマインデの宗教性が成立していると考えたい。

を比較してどう思われますか?
折原訳の「ゲゼルシャフト形成がゲマインシャフト行為に編成される」という訳、まるで意味不明です。また「理解社会学のカテゴリー」の定義からもまったくあり得ません。因果関係が逆です。私が訳したように、あるゲマインシャフト行為が何度も繰り返し行われることによってそこにまるである種の暗黙の制定律への準拠が見られるという形でゲゼルシャフト形成が行われるで何ら問題ないと考えます。

p.s.
その後の部分でも、Kleine Reste von Gemeinderechten sind in einigen orientalischen christlichen Kirchen erhalten und fanden sich auch im katholischen Okzident und im Luthertum.を「いくつかの東方キリスト教会では、ゲマインデの権利の残滓がわずかながら維持されており、そうした残滓はまた、カトリック的西洋とルター派にも見られた。」と訳しています。
ヴェーバーはゲマインデをゲゼルシャフト化されたものと捉えている訳ですがから、こでのGemeinderechtenは権利ではなく、ゲマインデの制定律(内部ルール)のことでなければおかしいです。初期のキリスト教の信徒団の中でのルールが現在のカトリックやルター派においてもまだ名残りが見られる、という解釈は自然で無理がありません。折原先生は「理解社会学のカテゴリー」を重視すると言いながら、実際の読解ではその内容に沿った理解が出来ていません。

創文社訳の「宗教社会学」もひどいです。

「とりわけユダヤ教の預言者たち、あるいはまた、たとえばモンタヌスやノヴァティアヌス 、さらにはまた、もとより顕著に合理的な特徴を帯びてはいるが、マニとマヌス 、他方、いっそう情動的な性格を帯びたジョージ・フォックス 、こういった人々はいずれも、そういう告知をなした[したがって、ここでの規定によれば、そのかぎり預言者に該当する]。」という預言者について述べている所で創文社訳の訳注はこの「マニとマヌス」の後者(前者はマニ教の創始者)を勝手にマヌに変えて、インド神話のマヌとしています。しかしインド神話のマヌは旧約聖書で言えばノアと同じで、大洪水をヴィシュヌ神から教えてもらって生き延び、人類の始祖とされる人です。ノアが預言者でないのと同じでマヌも預言者ではまったくありません。私の解釈は、Manusはマニのラテン語綴りのManesを間違えたもので、「マニまたはマネス」と書きたかったのだろうと解釈します。他の人はいずれも歴史上実在する人で、マヌスだけ神話の登場人物というのもまったく整合的ではありません。(ちなみに全集はここについてはテキスト欠損により解明不可、としています。)

AbschichtungとAusschichtung

ハインリヒ・ミッタイスの「ドイツ私法概説」を読んでいたら、家族・相続・結婚の所で、Abschichtungという言葉が出て来ました。これは父が息子に財産を分与して息子が独立する(=新しい層を形成する)ことを言います。
ヴェーバーの「中世合名合資会社成立史」には一方Ausschichtungという言葉が出て来て、これが辞書に無い言葉なのですが、私は訳注で「現代のドイツ語辞書には無い単語。おそらくは初高ドイツ語で、原義は「層を形成すること」、ここでは息子に財産を分与することで、元の家ゲマインシャフトとは層関係を成す新しい家ゲマインシャフトを作ることを言っていると思われる。」としました。この解釈は反対側から見たAbschichtungが同じ意味を表していることからも正しかったようです。

ChatGPT5も私の解釈が正しいとしてくれました:
2. 「Ausschichtung」——ヴェーバー独特の古語的造語
ヴェーバーの『中世商事会社成立史』(Zur Geschichte der Handelsgesellschaften im Mittelalter)で出てくる Ausschichtung は、
現代ドイツ語にはほぼ存在しない語であり、彼自身の文脈的創造語(もしくは古語再生)と見られます。
原義と文脈
接頭辞 aus- は「外へ」「切り離して外に出す」の意。
Schichtung は「層」「層を形成すること」から派生して「分層化・階層分離」のニュアンス。
したがって、Ausschichtung = 共同体(Hausgenossenschaft, familia, gens)から財産的に一部を切り離して、新しい層=独立家を作る行為。

文献上の使い方(要約)
「Ausschichtung der Hausgemeinschaft bedeutet, daß ein Sohn oder Hausgenosse durch Zuteilung von Vermögen ausgeschichtet wird …」
(家ゲマインシャフトの Ausschichtung とは、息子または同居成員が財産分与によって分離されることを意味する)
→ つまり、あなたの訳注の説明
「元の家ゲマインシャフトとは層関係を成す新しい家ゲマインシャフトを作ること」
は語義的にも文意的にもまったく正しい読みです。

ヴェーバー学ではなく折原学

折原浩先生は「理解社会学のカテゴリー」を非常に重視しており、その中でも「諒解」を最重要視しています。例えば2008年の「ヴェーバー研究の「新しい風」に寄せて」では、

「二、松井著の意義と射程――「諒解」概念の展開可能性
松井著と小著とは、「カテゴリー論文」の基礎概念にもとづく「旧稿」の体系的読解をめざし、(「旧稿」を、著者ヴェーバーの「1914年構成表」に依拠して、①「概念的導入」篇、②「ゲマインシャフト」篇、および③「支配」篇に三分すれば)松井著が①と②、小著が①と③を集約的に論じ、その意味で相互補完関係をなしている。したがって、読者がいま「旧稿」全篇を体系的に読解しようとされるならば、小著をプロレゴーメナとする両著の併読が、ヴェーバー研究の現在の到達水準から道標を提供する案内として役立つであろう。

そのうえで松井著は、ヴェーバー研究の活性化をめざし、「カテゴリー論文」の基礎概念中とくに「諒解Einverständnis」に着目して、「ヴェーバー社会理論」のダイナミクスを復権させようとする。「鉄の檻」(「官僚制」)による現代人の「無気力な歯車」化といったステレオタイプにたいしても、(外からニーチェを持ち出すのではなく)「ヴェーバー社会理論」への内在を深めることによって、突破口を探ろうとする。しかも、「諒解」概念とその射程にかけては、佐久間孝正や中野敏男の「物象化論」を批判の俎上に乗せ、筆者の「没意味化論」にもとづく、「ゲゼルシャフト関係」の「頽落態」という「諒解関係」の捉え方にも、正面から批判を加える。松井によれば、ほとんどすべての「ゲゼルシャフト形成」は、「制定秩序」を「授与」されるゲマインシャフトの内部に、それ以前の(より「原生的」な)ゲマインシャフトを「取り込み」、「再編成」し、常態として「ゲマインシャフトの重層」構造を創り出す。「ゲゼルシャフト関係」の「合理的」秩序といえども、じつは「諒解」によって「妥当」するのであり、したがって「諒解」のカテゴリーこそ、あらゆる「ゲマインシャフト(社会)秩序」の存立と変動を解く鍵である。」

しかしながらこの「諒解」は「社会学の根本概念」では全く消滅しています。例えば「カテゴリー」論文でヴェーバーが諒解の例として挙げた言語については、「しかし言語の共通性は、それ自体ではまだゲマインシャフト関係を意味するものではなく、当該集団内の交通を容易にするだけであり、したがってゲゼルシャフト関係の成立を容易にするだけである。」と述べており、つまりは「ある人間集団が言語を共通にしているだけではそれはゲマインシャフト関係にあるとは必ずしも言えない。」ということです。(私が敢えていうならこれは言語ゲノッセンシャフトです。)なので折原浩先生が「諒解」こそ「あらゆる「ゲマインシャフト(社会)秩序」の存立と変動を解く鍵である。」とするのは、ヴェーバー本人が戦後重視しなくなっていたことを勝手に変えていて、もはやヴェーバー学ではなく折原学です。この点は非常に重要なので、折原浩先生がそう述べているんだからそれがヴェーバーの本当に主張したかったことなんだ、と思うべきではありません。

「経済と社会」の「頭」問題への現時点の個人的まとめ

「経済と社会」の「頭」問題について、現時点での個人的まとめです。この問題は折原浩先生とシュルフター教授の間で何度も論争が交わされましたが、尻切れトンボに終わってしまっているように思います。そういう意味でアマチュアの意見であっても公にする意味はあると思います。

(1) 「経済と社会」の旧稿は、第1次世界大戦後書き直されたものを除き、注釈すらほとんどついていない完全な手書きの草稿状態のもので、それがある「頭」に従って統一的になるよう十分な注意を払って書かれたとはとても見なし難い。

(2) 「理解社会学のカテゴリー」ではゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為を定義しているが、実際に良く出てくるのは、ゲマインシャフト・ゲゼルシャフトそのもの、あるいはVergesellschaftung(ゲマインシャフトが契約を結ぶなどしてゲゼルシャフトになること、ゲゼルシャフト形成)などであり、直接的に「理解社会学のカテゴリー」に依拠している部分は少ない。

(3) そもそも歴史に登場する人間集団で「行為」から見たその形成の経緯などほとんどの場合不明であり、ゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為などの定義は分析の役には立っていない。

(4) ヴェーバーに限らず、「経済と社会」の旧稿全体のような膨大なテキストに対して、あらかじめ全ての必要なカテゴリーを準備しておくことなどまず不可能。実際には「宗教社会学」で「教団」という意味でのゲマインデが新たに定義されたりなど、「理解社会学のカテゴリー」は「頭」とみなすにはあまりにも不十分。

(5) 既に何度も指摘しているように、ゲノッセンシャフトやケルパーシャフトなどの法制史等での重要カテゴリーは「カテゴリー」では定義されていない。

(6) 一方シュルフター教授の「双頭」仮説は、「社会学の根本概念」が戦後に書かれたものであることを考えれば執筆順で考えてそれが旧稿の頭を成しているというのは時系列を無視している。「旧稿」が書き進められていくにつれて徐々に歴史事象により適合する形で考えなおされたカテゴリー論が、さらにはミュンヘン大学の学生に教えた時の経験に基づく反省が「根本概念」に反映されている、というなら賛成出来る。しかしその場合でも「頭」というほどではないというのは「カテゴリー」論文と同じ。

(7) 「カテゴリー」論文のゲマインシャフト行為・ゲゼルシャフト行為は、ミクロ経済学でいう「限界効用」に近い。「限界効用」理論が実際的な人間や会社の経済行為の解明にはほぼ役に立たないというのは今日では常識に近いが、「ゲマインシャフト行為」「ゲゼルシャフト行為」は「限界効用」と比べても更に現実との接合が弱い。

ドイツ語を日本語に訳するということ。

während der Prophet ebenso wie der charismatische Zauberer lediglich kraft persönlicher Gabe wirkt. を折原浩先生は「預言者は、カリスマ的呪術師とまったく同様、もっぱらただ、かれの即人的な天賦の才によって活動する 。 」と訳しています。正確には創文社の訳を折原先生がそのまま採用してしまったものです。(例によって「即人的」は除く。)ここでの新たな問題はGabeを「天賦の才」と訳していることです。冒頭でカリスマと同じと言っているのですから、ここで言っているのは生まれつきの才能という意味ではなく、当然神から得た戒律(モーセの十戒)や神の言葉を得て、と訳すべきです。私の訳は「預言者は、カリスマ的呪術師とまったく同様、もっぱらただ、その者個人に神より賜わったもので影響を及ぼす 。」にしています。

他の例では、der Prophet dagegen kraft persönlicher Offenbarung oder Gesetzes Autorität beansprucht. を折原浩先生は「預言者は、即人的な啓示ないし原則によって権威を要求する。」と訳しています。(例によって(笑)「即人的」は無視して)ここでのGesetzesは当然上の文にも出て来た戒律・律法と解釈すべきと思います。またAutorität beanspruchtは「権威が自分に属すると主張する=自らを権威付ける」ということ、つまり「預言者は、個人的な啓示ないし戒律(律法)によって自己を権威付ける 。」ということです。「権威を要求する」は意味不明です。要するに翻訳というものは辞書に載っているそれぞれの単語の意味をつなぎ合わせることではない、ということです。

既にこれまで訳が存在するものの新しい訳を出すのであれば、その古い訳の間違いをそのまま持ち込まないように気を付けるべきと思います。

折原浩先生の日本語訳の特殊さ

「宗教社会学」でヴェーバーが「預言者」の定義を述べている所、折原浩先生の訳は
「われわれはここでは、「預言者」という言葉のもとに、自分の使命として宗教的教理ないし神の命令を告知する、純然たる個人・即人カリスマの担い手、を理解することにしたい。」

原文は
“Wir wollen hier unter einem »Propheten« verstehen einen rein persönlichen Charismaträger, der kraft seiner Mission eine religiöse Lehre oder einen göttlichen Befehl verkündet.”

です。問題は「個人・即人カリスマ」です。この訳一体何ですか?普通に訳せば”einen rein persönlichen Charismaträger”は「ある純粋に個人としてのカリスマの持ち主」です。何故か折原浩先生はpersönlichを文脈も見ず100%「即人的」と訳し、私はそれをこれまで全部別の訳に変えています。おそらくは「即物的」の反対の意味での造語でしょうが、この「即人的」はまるで意味不明ですし、それをまたここではわざわざ「個人・即人」と重ねています。ヴェーバーはここで別に哲学を論じている訳ではなく、persönlichはごく一般的な意味で使っているとしか解釈しようがありません。大体、哲学の語だって本来は日常語ですよ。ハイデガーのDaseinは文字通り「そこにあること」という意味でしかなく、「現存在」とかの日本語にすると途端に意味が分からなくなります。また、折原浩先生、「最終総括」で「推転」なるマルクス主義者御用達語(元はヘーゲルらしい)を使われていましたが、これも元はÜbergangで「夏から秋への移り変わり」という時の「移り変わり」という意味に過ぎません。こういうおかしな訳がこれまでヴェーバーの文章を実態以上に難解だと思わせることに貢献して来たのだと思います。

p.s.
Googleで「”即人的” site:http://hkorihara.com」で検索すると多数出てくるので、この訳に限ったことではなく「即人的」は昔から使っていたということが確認出来ました。おそらくはsachlich=即物的の反対語としての造語なんでしょう。そう考えると理解出来なくもないですが、問題は最初に読んだ人はそんなことは分からないということです。それからヴェーバーがいつも同じ語は同じ意味で使っているなんてことはありえないということです。それをいつもある語が出たらそれに同じ日本語を当てるのは、これもヴェーバーのテキストをある意味「聖典」化している訳です。