ヴェーバーの学問は科学か?

カール・ポパーという哲学者がいて、最近日本でもすっかり有名になっているアドラー心理学を科学ではない「疑似科学」と批判しています。その理由は
(1)反証することが不可能→そもそも明確な根拠も不明な諸前提に基づいた論で、科学的なエビデンスを出して反証することが不可能。
(2)なんでももっともらしく説明してしまう。
の2つです。
これってよく考えたら、ヴェーバーの学問にもそのまま言えるのではないでしょうか?プロ倫におけるヴェーバーテーゼはきわめて知名度が高いですが、そもそも本人が証明に失敗しているし、またはっきりと誤っているという証明に成功した人もいません。即ち反証不可能。
また、ヴェーバーの宗教社会学を見れば、色んなことをもっともらしく説明するのばかりだということは誰でも読めば分かります。
これって、誰でも気付きそうな内容なのにこれまで主張している人を見たことがありません。もしかするとこのことを明らかにするとヴェーバー教団から刺客が送られて暗殺される?(笑)
ちなみに前の投稿で、ヴェーバーの理念型のファイヒンガーの「かのようにの哲学」の影響を論じましたが、アドラーもまたファイヒンガーの「かのように」を心理学に応用した人です。
(余談ですが、私はブームになるはるか前からアドラー心理学は知っています。昔Nifty Serveの外国語フォーラムで野田俊作さんという日本におけるアドラー心理学のエヴァンジェリスト的な人と知り合いだったからです。岸見一郎氏はちなみにそのフォーラムのシスオペ{会議室管理者}でした。岸見氏のアドラー心理学は元々野田氏から教わったもの。)

マックス・ヴェーバーと森鴎外(2)

ヴェーバーの理念型がファイヒンガーの「かのようにの哲学」の影響によるものだという仮説について、同じことを言っている人を発見しました。
https://www.haujournal.org/index.php/hau/article/view/1675
Reality remodeled
Practical fictions for a more-than-empirical world
Lars Rodseth
Abstract
Most ethnographers have little use for models and other formal abstractions, yet even a staunch empiricist such as Franz Boas could appreciate the “aesthetic” advantages of idealization and simplification. These advantages have been largely ignored in recent decades, as anthropologists have come to favor ever more intricate and encompassing accounts. The resulting “ethnographic involution,” I suggest, has steadily diminished anthropology as a source of usable, socially shared knowledge. Much the same problem, interestingly, was confronted long ago by Max Weber, who developed the method of “ideal types” precisely as a way to grasp, represent, and investigate the complexity of historical reality. Weber converged in this regard with his contemporary at Halle, the neo-Kantian philosopher Hans Vaihinger (1852–1933). Since the late twentieth century, Vaihinger’s “fictionalism” has attracted renewed interest within philosophy and beyond. Yet his notion of “as-if” reasoning—a via media, I would argue, between particularism and positivism—remains virtually unknown within anthropology.

森鴎外は「かのように」の中で、当時の欧州で、ヴェーバーのような社会科学系だけでなく、プロテスタント神学(鴎外は社会を安定させるものとしてプロテスタント神学を「かのように」の中で高く評価しています、要するに神学では神をあたかも存在しているかのように扱う訳です)、それどころか自然科学(例えば当時の物理学でのエーテルとか、電子、陽子などはその存在が確認されていたのではなく、モデルとして考案されたもの)にも共通する考え方であることをファイヒンガーの本を読んで理解しています。ちなみにファイヒンガーのこの本は900ページ近くありますが、鴎外は「かのように」での記述が本人の実体験に基づくものとすると、この2/3を何と一晩で読んでいます。恐るべきドイツ語読解力です。

前の投稿で書いたようにヴェーバーと鴎外はほぼ同世代ですが、この二人色んな意味でそっくりです。
(1)異常なレベルの広範囲な読解力
(2)攻撃的な論争が大好き
(3)高度な語学力
(4)そういった学問の間に女性と…(笑)(ヴェーバ-の場合のエルゼ・ヤッフェとミナ・トープラ-、鴎外の場合のエリスや児玉せき他)
鴎外はおそらくドイツに滞在した時に、ヴェーバーを読んだかどうかは不明ですが、社会科学系もそれなりに読んだのではないかと思います。それを鴎外が帰国後語っていないのは軍医という立場と大逆事件以降の思想取り締まりの影響との両方がありそうです。

「経済と社会」における「理解社会学のカテゴリー」破綻例

「理解社会学のカテゴリー」のタームが、「経済と社会」の中で決して効果的にも説得的にも、意味整合的にも使われていないという例を見つけました。
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「支配の社会学」世良訳:P. 115 「四 官僚制的装置の永続的性格」

ひとたび完全に実現されると、官僚制は最もうちこわしがたいい社会組織の一つになる。官僚制化は、「ゲマインシャフト行為」を合理的に組織された「ゲゼルシャフト行為」に転移させるための、特殊的手段そのものである。したがって、官僚制化は、官僚制的装置を統轄する者にとって、支配諸関係の「ゲゼルシャフト化」の手段として、過去においても現在においても、第一級の権力手段なのである。
(元訳の「共同社会行為」などは「ゲマインシャフト行為」等に変更。)====================================
ここで言っているのは「ゲマインシャフト」を「ゲゼルシャフト」に転移させること(「ゲゼルシャフト化」)において官僚制化が有効と言っているのであって、ゲマインシャフト、ゲゼルシャフトにそれぞれ「行為」を付けるのは、それをヴェーバーが「理解社会学のカテゴリー」で定義していることを考えても、およそ無意味で誤解を招くだけです。成員の行為に変化が生じるのは、その共同体の性格が変わった結果であり、原因でも先行するものでもありません。

折原先生の説明だと、ヴェーバーは社会関係を所与のものとせず、個々の成員の行為から動的に構成されると論じているのですが、それが通じるのはゲマインシャフトの最初の形成の段階だけであり、ここのようにゲマインシャフトがゲゼルシャフトへと合理化する過程においては既に行為はその動因としては無意味になっています。従ってヴェーバーのカテゴリー論自体が破綻していると考えます。要するにカテゴリー論文が持っている元々の欠陥がここに現れているのであり、「頭」としては機能出来ていない例です。

マックス・ヴェーバーと森鴎外

以前、ヴェーバーにおいて重要な方法論である決疑論を説明するのに、森鴎外の小説「カズイスチカ」を紹介したことがあります。
ちょっと思い立ってまだ読んでいなかった鴎外の「かのように」を青空文庫で読んで見たのですが、その中に出てくる”Die Philosophie des Als Ob”(「かのようにの哲学」)という書籍があります。これは鴎外の創作かと思ったら、ファイヒンガーという哲学者が実際に書いた本でした。実は森鴎外は1862年生まれで、1864年生まれのヴェーバーとほぼ同時代人であり、鴎外がドイツ留学してベルリンにいた時にはヴェーバーは主としてハイデルベルクにいました。
それでふと思ったのですが、ヴェーバーはこのファイヒンガーの「かのように」の影響をかなり受けているのではないかと。(ファイヒンガーは新カント学派です。ヴェーバーの方法論が新カント学派の影響を強く受けているのは周知の事実です。)本が出たのは1911年ですが、そのかなり前から哲学雑誌に連載され話題になっていたもので、ヴェーバーが読んでいる可能性は高いと思います。ヴェーバーにおいての「かのように」の影響は、まずは理念型がまさにこの「かのように」であり、実際には存在しないものをあたかも存在するように扱うものです。また「理解社会学のカテゴリー」における「諒解」概念も、ある人間集団の人が制定律には拠らないが、それがあたかも「あるかのように」扱うということです。
それで鴎外の方も、「かのように」を書いたのはおそらくは自分の歴史小説の方法論としてであり、歴史そのままを書くのではなく、まさしく理念型的に歴史を構築したのが鴎外の歴史小説と言えると思います。
まあ思い付きですが、日本の研究者でヴェーバー-鴎外-ファイヒンガーという連関を論じている人は私が知る限りではいないので、ちょっと紹介させていただきました。

折原浩先生訳の問題点(5)

Vornehmlich diese praktischen Aufgaben von Predigt und Seelsorge sind es auch, welche die Systematisierung der kasuistischen Arbeit der Priesterschaft an den ethischen Geboten und Glaubenswahrheiten in Gang erhalten und sie überhaupt erst zur Stellungnahme zu den zahllosen konkreten Problemen zwingen, welche in der Offenbarung selbst nicht entschieden sind.

折原訳
主としてこの、説教と司牧という実践的課題が、倫理的な命令や信仰上の真理にかかわる祭司層の働きを、決疑論的な体系化の方向に釘付けにした。というよりもむしろ、そうした課題が、およそ祭司層を、啓示そのものにおいては未決定の無数の具体的問題に取り組み、自ら初めて態度決定をくださざるをえないように、仕向けたのである。

丸山訳
主として、伝道や司牧にかかわるこうした実践的な課題こそが、祭司達の決疑論的な実務を、倫理的戒律や信仰上の真理に沿った形で体系化させ続ける原動力となり、そして同時に、啓示そのものでは決定されていない無数の具体的問題について、祭司たちの態度を明確にすることをも迫るのである 。

この部分は折原訳で「釘付けにする」に引っ掛かって原文を確認したもの。
in Gang erhalten は「動いてる状態=Gangを保持する」、つまり推進力・原動力となる、という意味です。何も難しいことはありません。「釘付けにする」というと固定するような意味になり、また否定的なニュアンスになってしまい明らかな誤訳です。

折原先生はこの「私家版」について創文社への手紙で、「しかし、今回は、上記のような事情を踏まえ、前訳の大いなる長所と無理からぬ欠陥を明示明記したうえ、後者[注:解説と訳注]は補填し、読者がこんどこそ、ヴェーバーの「宗教社会学」を、基礎カテゴリーから体系的に読めるように、半生の研究成果を注いで全力を尽くしたいと思います。こんどは、正式の全訳・解説者と名乗り出て、形式上も全責任を負います。この点、御社にも、武藤氏他の初訳者各位にも、ご了承いただけるものと確信いたします。」
と書いていますが、「半生の研究成果を注いで全力を尽くした」結果の日本語訳であるとはまったく評価出来ません。途中で投げ出されたレベルの低い日本語訳です。申し訳ありませんが、折原先生は典型的な「人には厳しく自分には甘い」人であり(マタイ7:3、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」)、また「眼高手低」(言っていることは正しいがいざ自分がやるとまるで出来ない)の人でもあります。ここまで折原訳をチェックして来てそう結論付けざるを得ません。

折原浩先生訳の問題点(4)

今回の箇所の折原訳は本当にひどいです。中途半端に創文社の訳の注を参照して勝手に解釈して奇妙な訳語を多用しています。
ムフティーについての創文社の注で「ユダヤ教のラビに相当」とあるのをいいことにそのまま「律法学者」と訳しています。言うまでもなくイスラム教に律法学者などという人はいません。
ダルヴィーシュ=シャイフも「托鉢修道団長」などというおよそ意味不明の訳を使っています。普通にスーフィー派という用語を使った方がはるかに分かりやすいと思いますし、シャイフは修道団長ではありません。木村・相良の独和辞典にDerwishが「(回教)の托鉢僧」とあるのに引き摺られたんでしょうが。
それにこういう専門用語が多数使われている箇所で訳注まったく無しというのは信じられません。創文社の訳は現在でも講談社からオンデマンド出版で販売されていますが、確か6,000円くらいした筈です。新訳なのに旧訳の訳注を参照しろなどというのは新訳の意味がゼロです。

Die Ratschläge der Rabbinen im Judentum, der katholischen Beichtväter, pietistischen Seelenhirten und gegenreformatorischen Seelendirektoren im Christentum, der brahmanischen Purohitas an den Höfen, der Gurus und Gosains im Hinduismus, der Muftis und Derwisch-Scheikhs im Islam(以下略)

折原訳
ユダヤ教におけるラビ、キリスト教では、カトリックの聴罪師、敬虔派の牧者、対抗改革派の霊的指導者、さらには、バラモン教の宮廷付き教父、ヒンドゥー教のグルとゴーサーイン、イスラムの律法学者や托鉢修道団長

丸山訳と訳者注
ユダヤ教におけるラビ(N1)、キリスト教では、カトリックの聴罪司祭(N2)、敬虔派(N3)の傾向を持つ牧師、カトリック改革派(N4)の霊的指導者、さらには、バラモン教の宮廷祭司(N5)、ヒンドゥー教のグルとゴーサイン(N6)、イスラム教におけるムフティー(N7)やダルヴィーシュ=シャイフ(N8)

N1<丸山>ユダヤ教の宗教的指導者・聖職者。トーラーを教えることを職業とする。元々パリサイ人の中から発生し、タルムードの時代に発生した。</丸山>
N2<丸山>カトリックにおいて司教より聴罪を許可された司祭のこと。信徒の死に際しての告解の秘蹟に際してその告白を聴き取って教え導く。</丸山>
N3<丸山>ドイツのプロテスタントにおいて、17世紀中頃から末にかけてシュペーナーが起こした形式的な宗教実践よりも信者の敬虔さを重んじる宗派。</丸山>
N4<丸山>イエズス会など。</丸山>
N5<丸山>Purohita、元々は宮廷の大祭司であるが、時代が下ると家庭にて結婚式や葬儀を司る家庭祭司という意味が強くなる。</丸山>
N6<丸山>ヒンドゥー教の中で苦行を行う行者(サドゥー)の集団のこと。グルが正規の宗教的指導者であるのに対し、非正規の聖者。</丸山>
N7<丸山>イスラム教で宗教法的な判断を下す専門家、法的顧問。</丸山>
N8 <丸山>ダルヴィーシュはスーフィー(イスラム神秘主義)の修道僧のことで、シャイフはその中で一般のスーフィー達を教え導くことを許された年長者のこと。</丸山>

折原浩先生訳の問題点(3)

今回は誤訳というより語彙の選定の問題です。

Sie kann aber auch individuelle Belehrung über konkrete religiöse Pflichten in Zweifelsfällen sein, oder endlich, in gewissem Sinn, zwischen beiden stehen, Spendung von individuellem religiösem Trost in innerer oder äußerer Not.

折原訳
とはいえ、それは、具体的な宗教的義務について疑いが生じた場合に、当の義務にかかわる個別的な教化でもありうる。さらには、これらふたつの場合の、ある意味における中間項、すなわち、内的ないし外的な窮境における個別的な慰藉の分与でもありうる。

丸山訳
しかしそれはまた、具体的な宗教的義務について判断に迷う場合には、当の義務に関する個別的な助言でもあり得るし、さらに状況によっては、これら二つのある意味中間的なもの、即ち内的または外的な苦境に陥っている個人に対して宗教的な慰めを施すことでもありうる 。

「内的ないし外的な窮境における個別的な慰藉の分与」って原文をより難しくて読む人に余分な努力を強いるような訳だとは思いませんか?何故もっとこなれた日本語が書けないのか理解に苦しみます。これぞ悪い意味での翻訳調でしょう。

大学文系学部不要論の実証?

試しに「大学文系学部 不要」でググってみたら、トップで表示されたのが次のページ。
https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/C_00186.html

何と東京大学のHPで、「東京大学教員の著作を著者自らが語る広場」だそうです。
そこにあったのは吉見俊哉という人の「「文系学部廃止」の衝撃」という集英社新書の内容を著者自身が語っているものです。で、そこに書いたあった内容に笑ってしまいました:
「こうした視座を、本書は文系的な知の歴史をたどりながら明らかにしている。中世の大学における「神学」「法学」「医学」に対し、リベラルアーツが持っていた根底的な役割。近代の出版と結びついた哲学や人文学の発展。19世紀以降の産業革命と理工系的な知の拡大のなかで、初めて自然科学と人文社会科学がはっきりと分離し、後者の存在価値が問われるようになっていったこと。そして20世紀初頭、マックス・ウェーバーをはじめ新カント派の人々によって、人文社会科学は「価値」の学であるという結論に達していったことを再確認した。」

ここをご覧になっている方には改めて説明は不要でしょうが
(1) ヴェーバーは新カント派の影響を強く受けているけど、新カント派そのものとまでは言えないし、筆頭に来るような代表者でもない。
(2) 言うまでもなくヴェーバーは「価値判断」と学問を切り離す価値自由を提唱したのであり、人文社会科学が「価値」の学だとはまるで言っていない。

奇しくもGoogleがこのページをトップに出して来たのは「御意。仰る通り、大学の文系学部はもう不要です。その証拠ページを出します。」という高度なSEO(検索エンジン最適化)?をやった結果としか思えません。(笑)
ちなみにこのページの日付は2018年になっており、7年間放置状態です。もはや大学の自己修正機能が停止しているとしか言いようがありません。

数学者岡潔のIdealtypusアプローチ

以下は https://ameblo.jp/vario08/entry-12911987994.html にあった、数学者の広中平祐さんの回想記事ですが、読んでみてヴェーバーの言っている「理念型」の「理想的」な学問への適用とはまさにこういうことなんじゃないかと思いました。

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岡先生は、「広中さん、そんな方法では、問題は解けません。もっともっと難しい問題にしていくべきだ。あなたのような態度じゃ、問題は解けませんよ。」と断言されたのである。「そんな方法」とは、こうである。
私はその時、一番理想的な問題はこれで、これはこういう形で解きたいが、今のところは欲ばり過ぎだから、これこれの条件をつけて、こういう形で解けたらいいと思う。しかしながら、それでも欲をいうように思えるから、もっと具体的な設定をして、これこれの段階までさがって、これを解ければ、ある程度役に立つだろう、そういう風に、問題を理想的な形から下へ下へさげる式で講演したのである。
しかし、その方法では解けないと、岡先生はいう。私は表面には出さなかったが、内心ではムカッとしていた。先生は数々の業績を築かれた偉大な数学者かもしれない。しかしこの「特異点解消」の問題にかけては世界広しといえども、私くらい時間をかけている学者はほとんどいない。また、この問題に関しての業績もいくつかあげているという自負が、私にはあったからだ。だが、何にせよ、偉い先生なのでその場を取りつくろうようにして、私は無言で頭を下げた。
すると岡先生は、こう言われたのである。「問題というものは、あなたのやり方とは逆に、具体的な問題からどんどん抽象していって、最終的に最も理想的な形にすることが大切だ。問題が理想的な姿になれば、自然に解けるはずですよ。」表現はこのとおりではないが、おおむねそういう意味のお言葉だった。
私は「ご忠告ありがとうございます」と頭を下げたが、腹の虫は容易におさまらなかった。正直いって、何を勝手なこといいやがる、という気持ちだった。
しかし、岡先生のその時の言葉は、少なくともこの問題を解く上では、的を射ていたのである。
私は米国に帰ってから、問題に対する考え方を少し変えてみた。理想的な形にしてみたのだ。そして数カ月ほどかけた結果、ついに全面的な解決を見ることができたのである。

「布置連関」のおかしさ

これも折原語でドイツ語のKonstellationを「布置連関」と訳しています。本人だけならまだしもこれを真似して使っている研究者が多数存在します。しかし、おかしいとは思わないのでしょうか?「布置連関」は言ってみれば「馬から落ちて落馬する」と同じ重言です。「布置」自体に「関連を持った配置」という意味が既に含まれています。例えば囲碁で「布石」と言えば、競技者がある戦略を持って配置する石のことです。誰も「連関布石」とは言いません。更にはユングの心理学でもまったく同じ概念が登場しますが、これの日本語訳は「コンステレーション」とそのままカタカナにするか、「布置」であることを付け加えておきます。