折原浩訳の問題点(49)

なんでこの方はこの程度の難しくもない短い文章を正しく訳せないのですかね。
(1)「転じてしまう」なんて書いていません。「~の形で」ということ。
(2)「傾向」は原文にありません。
(3) 「倫理的志向性をそなえた宗教にも、ほとんどつねに見出されるものである。」→「倫理的な志向を持ったほとんど全ての宗教に見出される。」
勝手に原文の意味を変えてしまっています。

原文
Uneingestandene Einschränkungen der göttlichen Allmacht in Gestalt von Elementen dualistischer Denkweise finden sich in fast allen ethisch orientierten Religionen.

折原訳
そのようにして、神の全能を知らず知らず制限して、二元論的思考法を構成する諸要素に転じてしまう傾向は、倫理的志向性をそなえた宗教にも、ほとんどつねに見出されるものである。

丸山訳
神の全能を二元論的思考の諸要素の形で無意識の内に制限することは、倫理的な志向を持ったほとんど全ての宗教に見出される。

折原浩訳の問題点(48)

ちょっと長いですが、
慎重さに欠け、構文も理解しておらず、日本語も変、という三拍子揃っています。

(1)der Reinen und Erlesenen
ここは「清浄な者たち」と「選ばれた者たち」の並列ですが、それを勝手に「選ばれた清浄な人々」とまとめてしまう。

(2)Tendenz zu einer rein ethischen Wendung zeigt
「純粋に倫理的な尺度に基づく表現になりがち」を、「もっぱら倫理的な方向に転ずる」と断定に変えているのとまた「転ずる」では意味が分からない。

(3)spirituell は宗教的・二元論的文脈なので「精神主義的」はあり得ず、誰が考えても「霊的」。

(4)Materiellen, Körperlichen
ここも「物質的なもの、肉体的なもの」の並列を「質料的なもの、つまり身体的なもの」に勝手にまとめている。また「質料的」もここでは明らかに「物質的」の意味。変な哲学用語で訳すべきではない。ちなみに「いっそう粗野な」もここは比較級の絶対用法と解釈した方が自然で、「非常に粗野な」ということ。

(5)Lichtreich
これは決して誤訳じゃありませんが「光の国」と訳すと、私以下の世代はほぼ全員M78星雲を連想するので(笑)、私は「光の領国」にしました。

原文
Der schließliche Sieg der lichten Götter in dem nun entstehenden Kampf steht meist — eine Durchbrechung des strengen Dualismus — fest. Der leidensvolle, aber unvermeidliche Weltprozeß ist eine fortgesetzte Herausläuterung des Lichtes aus der Unreinheit. Die Vorstellung des Endkampfs entwickelt naturgemäß ein sehr starkes eschatologisches Pathos. Die allgemeine Folge solcher Vorstellungen muß ein aristokratisches Prestigegefühl der Reinen und Erlesenen sein. Die Auffassung des Bösen, welche bei Voraussetzung eines schlechthin allmächtigen Gottes stets die Tendenz zu einer rein ethischen Wendung zeigt, kann hier einen stark spirituellen Charakter annehmen, weil der Mensch ja nicht als Kreatur einer absoluten Allmacht gegenübersteht, sondern Anteil am Lichtreich hat, und weil die Identifikation des Lichtes mit dem im Menschen Klarsten: dem Geistigen, der Finsternis dagegen mit dem alle gröberen Versuchungen an sich tragenden Materiellen, Körperlichen fast unvermeidlich ist.

折原訳
ただし、現に発生している闘いにおいて、光の神々が最終的に勝利を収めるであろうことは――厳格な二元論を破ることにはなるが――おおむね確定している。不浄なもののなかから光を取り出して絶えず浄化することが、苦悩に満ちてはいるが避けることのできない世界過程である。[暗黒の力にたいする光の神々] の最終的な闘いという観念からは、当然ながら、きわめて強烈な終末論的情熱が発生する。
こうした観念からは、一般的な帰結として、選ばれた清浄な人々の貴族主義的な威信感情が生まれるほかはない。端的に全能な神という前提のもとでは、悪の観念がつねに、もっぱら倫理的な方向に転ずるが、この二元論のもとでは、むしろ顕著に精神主義的な性格を帯びることになろう。それというのも、人間が、被造物として全能の絶対神に対峙するのではなく、光の国に参与していることになるれば、一方では光を、人間におけるもっとも曇りのないもの、つまり精神的なものと同一視し、他方では暗黒を、それ自体としていっそう粗野なあらゆる誘惑をそなえた質料的なもの、つまり身体的なものと同一視することが、ほとんど避けがたいのである。

丸山訳
光の神々の新たに発生した戦いにおいての最終的な勝利は多くの場合--それは厳密な意味での二元論を破壊することになるが--確定していた。苦しみに満ちた、しかし避け難い世界における過程は、光を継続して不純さから分離し浄化することである。最後の戦いという概念は自明のこととして、強い終末論的な熱情を発展させる。こういった概念の一般的な結果は、心の清い人々と選ばれた人々の貴族的な威信感情であるに違いない。悪人というものの把握は、それは単なる全能の神という前提の元では常に純粋に倫理的な尺度に基づく表現になりがちであるが、二元論においては強く霊的な性格を取るのであり、何故ならば人は被造物としてある全能者に対置されるのではなく、光の領国において持ち分を確保しているからであり、さらには光と人間の一体化は人間の内でもっとも清澄なもの、つまり霊的なものにおいて起こり、それに対して闇は全ての非常に粗野な欲望をそれ自身に担っている物質的なもの、肉体的なものと一体化するのは、ほとんど避け難いことである。

折原浩訳の問題点(47)

ここは、折原センセがグノーシス主義についてまるで理解していないことを示しています。ちなみに創文社訳もデミウルゴスについてギリシア語の原義しか説明しておらず、こちらも同様に分かっていません。ヴェーバーが100年以上前に、ほぼ正確に書いていることを、日本の訳者が理解していないとは嘆かわしいです。(ちなみにグノーシス主義のナグ・ハマディ文書は1945年に発見されたもので、ヴェーバーの時代にはその内容はまったく知られていません。)大体折原センセは日本におけるグノーシス主義研究のパイオニアである荒井献先生と同時期に駒場キャンパスで教えていたので、その気があれば聞けたと思うんですが。ヴェーバー自身が、アーダルベルト・メルクス、アドルフ・ダイスマン、エルンスト・トレルチなどから自分にはないキリスト教関係の知識を得ていたのに比べるとかなり劣ります。そもそも折原訳は単にドイツ語を日本語に置き換えているだけで、背景にある知識を自分で調べようとする姿勢がまるで感じられません。

(1)「一従属的な世界創造者(ヤハウェまたは「デミウルゴス」)の価値が劣っていることから発生する。」→従属的ではなく、「下位の」世界創造者、「価値が劣っている」ではなくその神自体が低劣であるということ。下記の私の訳注を参照してください。
(2)「触発される」ではなく、もっとダイレクトに「接触する」である。
(3)「不浄な質料」→変な哲学用語ではなく「不浄な物質」

私は訳注に書いた本だけでなく、荒井献先生の「トマス福音書」も読んでいます。

原文
Ungerechtigkeit, Unrecht, Sünde, alles also was das Problem der Theodizee entstehen läßt, sind Folgen der Trübung der lichten Reinheit der großen und guten Götter durch Berührung mit der ihnen gegenüber selbständigen Macht der Finsternis und, was damit identifiziert wird, der unreinen Materie, welche einer satanischen Macht Gewalt über die Welt gibt und die durch einen Urfrevel von Menschen oder Engeln oder — so bei manchen Gnostikern — durch die Minderwertigkeit eines subalternen Weltschöpfers (Jehovas oder des »Demiurgos«) entstanden ist.

折原訳
不義・不正・罪など、およそ神義論の問題を発生させる全てのことは、偉大にして善良な神々の清浄な光が、神々に対して自立している闇の力や、それと同一視される不浄な質料の力に触発されて生ずる、混濁の結果である。この不浄な質料が、悪魔的な力に、世界支配の権能を与えるのであるが、それはもともと、人間や天使の原罪や、――数多のグノーシスが説くところでは――一従属的な世界創造者(ヤハウェまたは「デミウルゴス」)の価値が劣っていることから発生する。

丸山訳
不正・過失・罪といった神義論の問題を発生させる全てのものはそれ故、偉大で良き神々の光に満ちた純粋さが、神に対して独立している闇の力と、それと同一視される、サタンの力に世界に影響を及ぼす権能を与える不純な物質、の双方と接触して混濁した結果であり、そして人間または天使の原罪によって、または--多くのグノーシス主義者においては--下位の世界創造者(ヤハウェまたは「デミウルゴス」[1])の劣等さによって生じたのである。

[1] 本来はギリシア語で「職人」「製作者」「造物主」の意。グノーシス主義では、至高神とは別の下位の世界創造者を指すことが多い。グノーシス主義のナグ・ハマディ文書の一つである「ヨハネのアポクリフォン」に書かれた神話では、ソフィアと呼ばれた知恵の女神が、自分だけで新たな神を生み出そうとし、それに失敗して不完全な神を流産して生み出してしまう。その神は蛇とライオンの外見を持つ奇怪なもので、ソフィアはその子を他の神に知られるのを恐れ神々の世界(プレーローマ界)の外へ投げ捨てる。この捨てられた神は「ヤルダバオート」という名前を付けられ、そして自分で世界を創造し、自分だけが唯一の神だと思い込む。つまり「ヤルダバオート」は旧約聖書のヤハウェのことであり、グノーシス主義ではヤハウェは無知と傲慢に満ちた神とされている。グノーシス主義ではデミウルゴスは、このヤルダバオートと同一視された。参考文献:大田俊寛「グノーシス主義の思想 <父>というフィクション、春秋社」

折原浩訳の問題点(46)

今日の所は、ヴェーバーの言っていることがおかしいのと、例によって折原訳がおかしいのと両方。
1.マンダ教、グノーシス主義、マニ教は元々ユダヤ教やキリスト教から発祥していると考えられており、例えばマニ教においてのゾロアスター教の影響は後の話です。(更に言うならゾロアスター教の二元論と、グノーシス主義やマニ教の二元論はかなり性格が違い、一緒にまとめるのは粗すぎる。)ちなみにマンダ教もグノーシス主義の一派です。

2.折原訳の「キリスト教と世界制覇を争う寸前にあったように見える、マニ教の壮大な概念構想」の「キリスト教と」は原文にない。またauch in der mittelländischen Antikeとあるように「古代地中海世界『でも』」であり、マニ教は遠く中国までも伝わった世界宗教であり、キリスト教とだけ覇を争っていた訳ではありません。ゾロアスター教や仏教とも勢力争いをし、その教義を中に取り込んでいます。ちなみに全集の注もキリスト教との関係にしか触れていません。この全集の編集者は知識が西洋中心に偏っていると感じます。

原文
Zunächst der Dualismus, wie ihn die spätere Entwicklung der zarathustrischen Religion und zahlreiche, meist von ihr beeinflußte vorderasiatische Glaubensformen mehr oder minder konsequent enthielten, namentlich die Endformen der babylonischen (jüdisch und christlich beeinflußten) Religion im Mandäertum und in der Gnosis, bis zu den großen Konzeptionen des Manichäismus, der um die Wende des 3. Jahrhunderts auch in der mittelländischen Antike dicht vor dem Kampf um die Weltherrschaft zu stehen schien.

折原訳
そのうちには、まず二元論があり、これは、ゾロアスター教の後期の発展段階や、おおかたゾロアスター教の影響を受けた西アジアの信仰諸形態に、多かれ少なかれ首尾一貫して含まれていた。後者の主要な事例としては、バビロニアの宗教が(ユダヤ教およびキリスト教の影響を受けて)行き着いた、マンダ教やグノーシスの最終的諸形態、また、紀元三世紀の終わりには、古代地中海世界においても、キリスト教と世界制覇を争う寸前にあったように見える、マニ教の壮大な概念構想、などが挙げられよう。

丸山訳
まず挙げられるのは二元論であり、それはゾロアスター教の後期の発展に見られるのと、数多い、多くはゾロアスター教に影響された近東の信仰の諸形態に多かれ少なかれ一貫して含まれているが、その中でも特にバビロニア宗教(ユダヤ教とキリスト教に影響された)の最終形態である、マンダ教と、グノーシス主義が挙げられ、更にはマニ教においての大構想までがそうであり、マニ教は3世紀の終わりから4世紀初めにかけて、古代地中海世界においても支配的な宗教の地位に就く寸前の状態にあったように見える。

折原浩訳の問題点(45)

ここはなかなか面倒な箇所ですが、
(1)「[瞑想ではなく]能動的な「行為」」の[]内の注釈は明らかに変。神は瞑想なんかしません。行為と瞑想が対立的になるのは人間の方。
(2)「神的なものの本質を、...徹底して置き換え」って一体何を置き換えるのか?ここは単に「置いた」ということ。
(3)1~4とも全て動詞は接続法二式で、ヴェーバーは自分の意見として断定しては書いていないのに、折原訳は全て断定で訳している。
(4)(44)と同じですが「即人的な摂理」、一体何ですかそれ。(笑)

原文
Es kann keinerlei Auffassung der religiösen Beziehung geben,
die 1. so radikal aller Magie entgegengesetzt wäre, theoretisch wie praktisch, wie dieser, die großen theistischen Religionen Vorderasiens und des Okzidents beherrschende Glaube, keine auch,
die 2. das Wesen des Göttlichen so stark in ein aktives »Tun«, in die persönliche providentielle Regierung der Welt verlegte und dann keine,
für welche 3. die göttliche, frei geschenkte Gnade und die Gnadenbedürftigkeit der Kreaturen, der ungeheure Abstand alles Kreatürlichen gegen Gott
und daher 4. die Verwerflichkeit der »Kreaturvergötterung« als eines Majestätsfrevels an Gott so feststünde.
Gerade weil dieser Glaube keine rationale Lösung des praktischen Theodizeeproblems enthält, birgt er die größten Spannungen zwischen Welt und Gott, Sollen und Sein.

折原訳
宗教的関係にかんするなんらかの捉え方のうちで、西アジアおよび西洋の有神論的な大宗教を支配した、この摂理信仰ほど、つぎの諸特徴を顕著にそなえたものはない。すなわち、1. 理論上も実践上も、あらゆる魔術に根本的に敵対し、2. 神的なものの本質を、[瞑想ではなく]能動的な「行為」つまり即人的な摂理にもとづく世界統治に、徹底して置き換え、3. 神の自由な贈り物としての恩恵を、被造物が切実に必要としながらも、その神に対しては全被造物が途方もない深淵によって隔てられている、と説き、それゆえ4. [被造物がその隔たりを抹消しようとする]「被造物神格化」を、神にたいする最大の冒涜 [不法行為]として非難したこと、――この四特徴である。この信仰は、実践的な神義論問題の合理的な解決をなんら含んでいないのであるが、まさにそれゆえに、世界と神、当為と存在との最大の緊張を内包している。

丸山訳
宗教上の神と人の関係の把握において、近東及び西洋での規模の大きな人格神的諸宗教を支配したこの摂理信仰ほど、以下の点にまで達したものは存在していない:
1.これほど徹底してあらゆる魔術に対して、理論的も実践的にも対立するものはないであろうこと。
2.神的なものの本質を非常に強く能動的な「行為」に、つまり人格神的な摂理による世界の支配という点に置いていると思われること。
3.この摂理信仰にとって、神が自由に贈った恵み、被造物の恵みへの欲求、そして全ての被造物的な事柄と神との間の距離が途方もない隔たりが、これほど確固たるものとなっているであろうこと。
4.そしてそれ故に、「被造物神化」を神の威厳への冒涜として排斥されるべきものとしてこれほどはっきりと決まっていたであろうこと。
そしてまさにこういった信仰が実際的な神義論問題の解決をまったく含んでいなかったために、それは世界と神、当為と存在の間の非常に強い緊張関係を孕んだままなのである。

折原浩訳の問題点(44)

ここ数ページぐらい何故か誤訳が減ったので、おそらくは授業で使って学生から指摘されたことを反映したのかと思ったら、また変なのが。久し振りに「即人的」が登場しましたが、もっとも使ってはいけない所で使っています。「神の即人的な介入」って一体何ですか?なんか神様が人間一人一人のニーズに「即して」サービスしてくれるみたいな変なイメージになってしまいます。(笑)

原文
Mit der Neigung zur Auffassung Gottes als des schrankenlosen Herrn über seine Kreaturen geht daher die Neigung parallel, überall seine »Vorsehung«, sein ganz persönliches Eingreifen in den Lauf der Welt zu sehen und zu deuten.

折原訳
それゆえ、神をその被造物にたいする無制限の主として把握する傾向と並んで、かれの「摂理」、すなわち世界の経過にたいするかれの即人的な介入を、いたるところに検出し、解釈しようとする傾向が、発現してくる。

丸山訳
神を、その被造物に対する無制限の主であると把握する傾向と、至る所で神の「摂理」を、つまり神の世界の成り行きに対してのまったく神自身の判断による干渉を見て取り、それを解釈するという傾向が平行して発生することになる。

折原浩訳の問題点(43)

今日も折原訳の「鑑賞」投稿。(笑)

(1)ゾロアスター教の「中間国」には何も訳注がないのに、何故か「煉獄」には[罪を焼却する浄火]という不要と思われる注釈が。
(2)時間が無限である劫罰という帰結(結果)を和らげようとしたとしても、を「矛盾を緩和する」などと後の神義論を先取りしたような余計な解釈を追加している。
(3)Existenzをなぜ「実存」と訳す必要があるのか。

原文
Mochten nun aber »Zwischenreiche« (Zarathustra) oder »Fegefeuer« die Konsequenz zeitlich unbegrenzter ewiger »Strafen« für eine zeitlich begrenzte Existenz abschwächen, so blieb doch stets die Schwierigkeit bestehen, überhaupt eine »Bestrafung« von Handlungen der Menschen mit einem ethischen und zugleich allmächtigen, also schließlich für diese Handlungen allein verantwortlichen Schöpfer der Welt zu vereinbaren.

折原訳
ところで、「中間の国」(ゾロアスター教) や「煉獄 [罪を焼却する浄火]」といった観念が、時間的に有限の実存にたいする時間的に無限の「劫罰」という帰結 [の矛盾] を緩和しようとする措置だったとしても、なお、およそ人間の行動の「罪責」を、倫理的であると同時に全能な、まさにそれゆえ、そうした [被造物の]行動に対しても究極的にはひとり責任を負うべき世界創造者と、いったいぜんたいどうすれば和解させることができるか、という難問が残らざるをえなかった。

丸山訳
さてしかしながら「中間国 注)」(ザラスシュトラ)または「煉獄」が時間的に終わりがない永遠の「劫罰」という結果を時間的に有限な存在である人間に対して弱めようとしたのだとしても、その場合でもしかし常に次のような困難さが存在したのである。それは人間の行為に対する「処罰」一般を、倫理的でかつ同時に全能である、つまり結局はそうした人間の行為について責任がある世界の創造主と結びつけることである。

注)
ゾロアスター教でハムスタガーンという天国と地獄の間にある国のこと。罪も功績もどちらが多いとも言えない死者がここに行く。なお、ヴェーバーは挙げていないが、キリスト教にはlimbo(辺獄)というのもあり、キリスト教成立前に生まれた聖人や、幼児洗礼を受ける前に死んだ赤ん坊などが行くとされていた。

折原浩訳の問題点(42)

いつものように折原誤訳。おそらくこの人GottheitをGodのhateだとでも思いこんでいるのではないか。die Gottheit milde stimmeは神と穏やかに調和・融和すること。「怒りを鎮める」なんて一言も言っていない。また彼岸のシャンスって何?(シャンスはChanceのフランス語読み)また「英雄禁欲の肝試し」って訳している本人は意味が分かるんですかね?

原文
Aber es hat z.B. in der alten jüdischen Ethik eine große Rolle gespielt und die Annahme, daß Leiden, vor allem auch freiwilliges Leiden, die Gottheit milde stimme und die Jenseitschancen bessere, findet sich unter sehr verschiedenen Motiven, zum Teil vielleicht auch aus den Mutproben der Heldenaskese und der magischen Mortifikationspraxis heraus, entwickelt, in viele Jenseitshoffnungen eingesprengt.

折原訳
しかしそれは、たとえば古代ユダヤ教の倫理において、重要な役割を演じている。苦難、とくに自発的に引き受けられた苦難も、神の怒りを鎮め、彼岸のシャンスを改善する、という想定は、きわめて多種多様な動機に発すると見られるが、一部はおそらく、英雄禁欲の肝試しや魔術的な苦行実践が発端となり、これが発展して数多の彼岸希求のなかに取り込まれたのであろう。

丸山訳
しかしそういった来世把握に関しての反転の首尾一貫した進行は、例えば古代ユダヤ教の倫理では重要な役割を演じており、苦難が、取り分けまた自発的に引き受けた苦難が、神と平穏の内に融和し、そして来世における[救済の]チャンスを改善し、そういったことは非常に異なった諸動機に基づいているが、部分的にはひょっとするとまた英雄が禁欲[的苦行]によってその勇猛さを示すことや、魔術的な苦行の実践から生じて発展したのかもしれず、そういったものが多くの来世希望の中に浸透したのであろう。

折原浩訳の問題点(41)

まさかと思いましたが、この訳者はje mehr …, desto mehr …(~すればする程一層~する)の初級構文(英語のthe more…, the more …)を理解していないようです。これで2回目ですので間違いないでしょう。この文章ではJe mehrで始まる文が3回出て来るのに、単なる並列のようにしか訳していません。「それだけ」は訳していますが、前のJe mehrと関連していることが分かっていません。この文章は、Aという状況で、Bとなればなるほど、Cとなればなるほど、Dとなればなるほど、それだけEとなる、という構文でそれを外すとヴェーバーが強調したかった点がぼけてしまいます。

原文
Mit wachsender Macht der Jenseitshoffnungen, je mehr also das Leben in der diesseitigen Welt als eine nur provisorische Existenzform gegenüber der jenseitigen angesehen, je mehr jene als von Gott aus dem Nichts geschaffen und ebenso wieder vergänglich und der Schöpfer selbst als den jenseitigen Zwecken und Werten unterstellt gedacht und je mehr also das diesseitige Handeln auf das jenseitige Schicksal hin ausgerichtet wurde, desto mehr drängte sich auch das Problem des prinzipiellen Verhältnisses Gottes zur Welt und ihren Unvollkommenheiten in den Vordergrund des Denkens.

折原訳
彼岸希求の力が増大してきて、此岸の世界における生活が、彼岸の生存に比してたんに一時的な生存形式にすぎないとみなされ、此岸の世界が神によって無から創造され、[生と]まったく同様に移ろい行くものと見られ、創造者自身も、彼岸的な目的と価値に従属していると考えられて、此岸における行為も、彼岸における運命に照準を合わせておこなわれるようになると、世界とその不完全性にたいする神の原理的関係という問題もまた、それだけ思考の前景に押し出されてくる。

丸山訳
来世に対する希望の強さが増していくに合わせ、つまりは現世での生がただ来世に対してただの仮の存在の形と見なされれば見なされる程、またその現世が神によって無から創造されたものであり、また同じく再び移ろいゆくもので、創造主自身がそれを来世の目的と価値の下に置いたと考えられればられる程、そしてそれ故に現世での行為が来世での運命を考慮して遂行されればされる程、それだけ一層神と世界及び世界の不完全さとの原理的な諸関係が思考の前景に押し出されて来るのである。

何度も繰り返される折原浩の間違ったゲマインデ論

折原センセへのシノドスのインタビューを読み直していたら、そこでも以下の発言がありました。
これ、何度も書いていますが、全部誤読の産物です。
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ところが、それでは、ヴェーバーのゲマインデを、かれ自身の理論展開に即して的確に捉えようとすると、まずは『経済と社会』(旧稿)中の用語法を網羅的に検索して、たとえば、(1)ペルシャ帝国の「大衆馴致政策」により、ネヘミアの監督下、祭司長エズラに率いられて「バビロン捕囚」からエルサレムに帰還したユダヤ教「教団」、(2)「家産制」的支配者が「区画して『ライトゥルギー(賦役-貢納義務)』を課しoktroyieren」、「連帯責任」を負わせた農村の「近隣団体」、(3)政治的「自首・自律」(注26)を達成した「地域団体」としての「西洋都市」など、各所に分散して出てくる適用例を拾い集めて、比較照合し、それらに共通の「ゲゼルシャフト結成に媒介された近隣ゲマインシャフト(群)」という一般的規定を突き止めなければなりません。

(注26)団体の「首長Herr」を、外部から指定されるのではなく、内部から選出するのが「自首Auto-kephalie」。団体の「秩序Ordnung」を、内部で制定するのが「自律Auto-nomie」。

ところが、そうするとこんどは、「ゲゼルシャフト結成に媒介されたゲマインシャフト」とは、一体全体どういうことか――「ゲゼルシャフト」と「ゲマインシャフト」というふたつの基礎範疇が、(どうやら、「利益社会」と「共同社会」と機械的に訳出される学界通念とは異なり、「対概念」ではなさそうなのだけれども、では厳密には)どう概念規定され、どういう関係に置かれているのか――と問わざるをえません。