中野敏男氏の「ヴェーバー入門」批評の補遺。
ヴェーバーは「理解社会学のカテゴリー」の冒頭の注釈で、以下の人名(と書名)を挙げています。(後ろに?があるのは書名記載が無く、私が想像したもの)
ジンメル「歴史哲学の諸問題」
リッケルト「自然科学の概念形成の限界。歴史科学への論理的入門」(第二版)
ヤスパース「精神物理学総論」
ゴットル「言葉の支配」
ラートブルフ「法哲学」?
フッサール「厳密な学としての哲学」?
エミール・ラスク「哲学の論理学とカテゴリー論」?
テンニース「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」
フィーアカント「社会学」
シュタムラー「唯物論的歴史把握による経済と法」
最初の7人はヴェーバーが影響を受けたもの。そしてその次の2人はヴェーバーが「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」について別の説明をしているけど、2人の見解を否定しているのではない、としているもの。そしてシュタムラーはヴェーバーが批判して、このカテゴリー論文を本来はシュタムラーが書くべきだったもの、としています。
中野書でこれらの人と書について解説があるのは、ほぼジンメルだけです。その他シュモラー、クニース、ヘーゲル等ここには出て来ない人に対してかなりのページが割かれています。「理解社会学」が重要だと言うなら、何故ヴェーバーが一番最初に言及しているこれらの人々の主張とのつながりが解説されていないのでしょうか。ちなみにこれらの参照は、ほぼそのまま「社会学の根本概念」でも繰り返されています。入門書レベルで解説すべきではない、というならシュモラーやクニースやヘーゲルの説明もそうであり、一貫していません。
私は上記のものについて、入手可能な邦訳を取り寄せ中です。ゴットルについては森川剛光さんの「社会科学方法論における初期ゴットルとマックス・ヴェーバー」がここで入手可能です。これを読んだだけでも、私の理解社会学への理解はかなり深まりました。ゴットルは国民経済学の根本概念として 「財 」 「資本」 「価 値 」 「富」 「経済」などが使われているのを、国民経済学者はそれらについての意味を一般的な世間での曖昧な概念に依存していて、きちんとした学問的な定義を行うことなくそれぞれだけを個別に論じている、と批判しています。ヴェーバーがここでゴットルに言及しているのは、ヴェーバーもカテゴリー論文で、日常的に使われている「ゲマインシャフト」や「ゲゼルシャフト」を、その一般的な意味をベースにするのではなく、学問的にどう定義するかという意味で、ゲマインシャフト行為やゲゼルシャフト行為といった、実際の人間集団においてはほとんど意識されない始原的な発生契機に遡って分析して定義に使っていると理解しました。
ところで折原浩先生が、私の中野書批評で、「経済と社会」は理解社会学のカテゴリーの概念だけでは読めない、その例としてギールケのゲノッセンシャフト他を挙げたのに対し、下記のコメントをされています。
「これは別件ですが、「カテゴリー論文」で規定されるのは、まさにいくつかのeinige、もっとも一般的な基礎範疇(「シュタムラーが本来――規範学と経験科学とを混同せずに――言うべきであったこと」)にほかなりません。「家」、「近隣」、「氏族」その他、「普遍的な種類のゲマインシャフト」にかんする基礎概念ではありません。① たとえば、突然の驟雨に通行人が一斉に雨傘を広げる、相互間に「意味関係」はない、自然現象への「斉一反応」、②「無定形のゲマインシャフト行為」、③「慣習律に準拠する諒解(ゲマインシャフト)行為」、④「制定秩序に準拠するゲゼルシャフト(的ゲマインシャフト) 行為」という四基礎範疇を定立し、社会関係一般の 「合理化」尺度を「類的理念型}として設定し、「旧稿」本論における具体的適用にそなえているわけです。」
この折原先生の意見に対しては以下反論します。
(1)ギールケのゲノッセンシャフトは、歴史における個々の「普遍的な種類のゲマインシャフト」を指すものではなく、それ自体ヴェーバーのゲマインシャフトやゲゼルシャフトと同じレベルのカテゴリー概念である。(ギールケはゲルマン民族のもっとも特徴的な「精神」と捉えています。)
(2)何よりヴェーバー自身がまさに「理解社会学のカテゴリー」の中で「国家」や「ゲノッセンシャフト」(海老原・中野訳では「仲間団体」)や「封建制」の概念は、社会学にとっては一般的に言って、人間の特定の種類の共同行為のカテゴリーを表現している、と書いています。(海老原・中野訳、P.38。ついでですが、Genossenschaftは「仲間団体」などとは訳さず、「ゲノッセンシャフト」と訳すべきと思います。ギールケの「ドイツ団体法論」の訳者の庄子良男さんもそう主張され、一貫して「ゲノッセンシャフト」と訳されています。また単語としてはGenossenverband, Genossenschafstverbandというのもドイツ語にはあります。後者は海老原・中野訳式だと「仲間団体団体」になってしまいます。)
(3)ヴェーバーが「理解社会学のカテゴリー」ではフェライン、アンシュタルト等も定義しており、これらはギールケの「ドイツ団体法論」でも登場する。(ヴェーバーとは若干定義が違う。)
(1)~(3)から、ヴェーバーを(経済と社会を)理解するには「理解社会学」があればいい、といった主張はバランスを欠いていると思いますし、また最初に書いたように、そう主張するならもう少し丁寧に同時代の他の思想家・学者の主張との関連を説明して欲しかったです。(なお、「理解社会学のカテゴリー」の日本語訳にある中野氏の「解説」も参照しましたが、そこにもそういう説明はありませんでした。)