ヴェーバーが1918年にウィーン大学で宗教社会学の講義を行った時、その題名は「唯物史観の積極的批判」でした。このことは、少なくともヴェーバー自身が自分の宗教社会学の意義(の主な一つ)は唯物史観への反証、批判であることを自覚していた、ということを示していると思います。しかしだからと言ってヴェーバーは、下部構造である経済が上部構造である宗教を規定するのではなく、その逆である、と主張したのではありません。というのも、ヴェーバーは1907年に「R・シュタムラーにおける唯物史観の『克服』」という論文を発表して、シュタムラーの主張は、いわば唯心論であって、マルクス主義の経済を宗教その他のものに置き換えただけではないかという批判をしているからです。
いわゆるヴェーバー・テーゼについて、私はラッハファールの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の間には親和関係はあるが、因果関係ではない」という主張に基本的に賛成します。統計学で言えば、「相関関係は必ずしも因果関係ではない」というのとまったく同じです。それから以前書きましたが、このラッハファールの批判を受けて、思考実験で他の要素は全て揃っていたけれど、プロテスタンティズムの倫理が欠けていた場合資本主義は発生しなかった、ということを検証するために、インドや中国他を研究したというのも、ヴェーバーが本当にそう思っていたかどうかは別にして、科学的にはナンセンスだと考えています。しかし、ヴェーバーを評価すべきなのは、仮にそうした目的があったとしても、短兵急に各文明での支配的宗教の倫理と資本主義に向かう経済発展のみに限定した研究は行っていないということです。「ヒンドゥー教と仏教」にしても「儒教と道教」にしてもきわめて回りくどいと思われるくらい、歴史や政治やその他の文明の全体像を把握することに多くのページが費やされています。ともかく私は、文明を評価・研究する上で、非常に特殊な2つの要素だけに着目してそれの相関・因果関係を研究するというのは、そもそもそうした要素が他の要素を無視してそれだけ切り出せるのか、という疑問も含めて問題があると思っています。ですが実際のヴェーバーの研究は、少なくとも視点としては総合的なものを失っていないと思います。なので私が提唱している様々な要素、パラメーターを使った比較研究というのを、ヴェーバー自身も数理的ではないですが、ある程度まではやっていたと考えています。そもそもヴェーバーの学問領域が、社会学だけでなく、国民経済学、政治学、法学、歴史学、哲学、と多岐に渡っていることもその傍証になるかと思います。