「ローマ土地制度史」の日本語訳(14)P.136~138

「ローマ土地制度史」の日本語訳の14回目です。ここの部分は意味が把握しにくいラテン語句、ギリシア語句が登場し、別に書いたように生成AIを使いました。結果は十分期待以上でした。しかしこの Ager per extremitatem mensus comprehensus に関する議論は、例外的なものだけに難解で苦労しました。
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Ager per extremitatem mensus comprehensus [全面積が測量済みであるがまだ区分けされていない土地]について

我々は次にグローマで測量された土地の第三のジャンルである ager per extremitatem mensus comprehensus を取上げる。それはその名前[外周を取り囲む境界線のみが測量された土地]が示す通り、耕作地の地図において、ただ外側の境界線のみが描かれていて、[scamna/strigae またはケントゥリアによる]個々の区画割りが行われていない土地のことである 44)。ここにおいて、この分類名で測量された領域についてその法的な意味を説明出来るとすれば、次のことが確からしいであろう。つまり第一に[何らかの理由で]ローマの領土から外されたか、あるいは敵の降伏によってローマの領土となったものの一部分の領域が特別扱いされた場合に適用されたということである 45)。一方ではその領域は ager privatus [私有地]としては扱われず、他方では特別扱いされたといっても依然としてローマの行政管理下にあったものであり、しかし結局のところは個々の土地区画の所有者のローマの国家に対する納税義務のある土地とはならなかった、そういう領域である。このことを裏付けるのは、この分類の土地がまず第一に神殿[教会]付属の土地について適用されたということである。(Hyg., de cond, agr. p.117, 5; Sic. Flacc. 162, 28; Hyg., de lim. 198):その土地は非課税ではあったが、しかし[本来は課税される] ager publics [公有地]のままとされ、国家は疑いようもなく、[行政管理上]その領地の[場所や面積の]確認とその領域を確定させることの可能性について関心を持っていた。しかしこの種の測量は更に言えば、その領域に依存することになる神殿[教会]の占有に先立って行われ、その後その神殿[教会]はその領域を一定の支払いを代価として、譲渡されるかあるいは占有を認められた。神殿[教会]はその土地をそのような性質のものとして受け取り、また今度は神殿[教会]自身が[その構成員に対して]割当てを行ったのである。そう言える根拠はフロンティヌスがはっきりと次のように述べているからである。Ager per extremitatem mensus comprehensus は測量された[分割されていない]土地の全体がローマの市民[=ローマの国家]または[神殿や教会に]従属する人民に割り当てられた場合に適用されたのであると。

44) フロンティヌス、p. 4
45) Per extremitatem として測量された非課税の土地及び山林、そして土地の範囲とそれらとのローマの行政組織との関連については、第4章の関連箇所にて論ぜられる。

フロンティヌスはこの測量方法が実際に行われた例として、ルシタニア≪現在のポルトガルおよびスペイン西部≫のサルマンティカ≪現在スペイン北西部レオン地方のサラマンカ県の県都サラマンカ。第二次ポエニ戦争の時にローマの属州となった。≫及びスペイン方面に派遣されたパラティーニ≪Palatini。ローマ皇帝の護衛を勤める精鋭部隊。≫について述べている。[しかしながら]サラマンカ・パレンシア≪現在スペインのパレンシア県の県都。属州の中でのローマ軍が駐屯した都市。≫で発見されている碑文の内容は、これまでの我々の議論をほぼ完全に破綻させてしまう。何故なら Aggenius Urbicus≪4世紀後半に生きたと推定されるローマの技術書の著者。Corpus Agrimensorum Romanorum の中でフロンティヌスが彼の著作についてコメントを加えて紹介しているものがある。綴りは何種類か有り確定していない。≫は最初のゲマインデ[サラマンカの地方共同体]を vicus [ローマの村落]と呼んでおり、そして[サラマンカとパレンシアの]2つ共が課税された自治都市であった。しかしながら更にフロンティヌスが注記しているのは――こちらの方がより重要なのであるが――次のものである:”compluribus provinciis [tributarium] solum per universitatem populi est definitum.”[いくつかの属州においては、課税対象となる土地は、ただ住民の総意によってのみ決められた。]≪オリジナルのテキストでは”tributarium”が入っているがヴェーバーの引用では抜けている。≫ここについてはただ[その属州の]種族で、まだローマの都市法が適用されていなかった者達に関連付けられるであろう。実際にこの表現に適合する文献史料が存在している。それはサルデーニャ島にいた種族である Patulcenser と Galilenser ≪どちらも詳細は不明であるがサルデーニャ島のエステルツィーリ近辺にいたと推定される。なお後者の綴りは正しくは Galillenses。≫についてのものであり(C. J. L. X, 7852)、その耕地は a.u.c. 640-643年の間[BC114-111年の間]において、M. Marcellus [M. Caecilius Metellus、BC115年のローマの執政官。]によるその属州の一部への新法の適用の際に測量が実施されている。二つの種族間の境界を巡っての争いは――測量人達の間で controversia de territorio [領土を巡る争い]と呼ばれているその意味で 46)――[ローマによって測量が行われ作成された]測量地図を巡って行われた。それは三部作成され、一部がローマ市において保管された。そしてそれがローマにおいての測量地図の基準を満たしている場合には、それに関する争いはローマの地方総督≪Proconsul、執政官は1年任期であるが、それを辞めた後執政官の代理として1~3年間ぐらい属州に派遣された。≫によって裁かれた。この場合各種族の土地の区分けと個々の割当てについてが問題となったのではないであろうから、むしろ特徴的なことは、それぞれのゲマインデ[地域集団、ここでは二つの種族のこと。]がそれぞれの種族の[自分達が自領と考える]全部を一まとめにしてこのような訴訟を進めたのであり、それ故にこの場合争いの対象になっている土地は、ただ Ager per extremitatem mensus comprehensus であったと考えられる。

46) モムゼンは(C. J. L. 1.c.)において、この判決を決定通告[Schiedspruch]と呼んでいる。私はこれに反対である。何故ならば和解のケースは言及されておらず、逆にまず明らかに一方的な訴えが先立って行われており、そしてそれに対する相手方の異議申し立てと[判決の結果としての]強制執行がそれに続いているからである。[つまり通常の裁判形式そのものである。]少なくとも私はそれが課税対象の[ゲマインデの]共通の財産[である土地]を問題にしているが故に、それが通常の法的な訴訟であるとう考え方は、もちろん特別法の形態ではあるが(更に現物執行も行われているし)、まったく無理がないと考える。

しかしながらこの[Ager per extremitatem mensus comprehensusという]測量方式は、また都市部の諸ゲマインデにおいても使われたに違いない。S. C. de Thisbaeis (Ephem. egigr. I p. 278f)によれば地方総督は[執政官から]5人の男達に対して土地の割当てを委託することを命じられている。その目的は、[第三次マケドニア戦争の結果マケドニア属州の一部となっていた]ティスバイ≪Θίσβη 後にまた Θίσβαι。ギリシアのボイオティアの都市、ヘリコン山の南の麓≫との関係を整理することであった。(οις τα καθ’ αυτους πραγματα εξηγησονται[誰であっても、自分自身に関係することについて説明されるであろう])それから地方総督は5人それぞれに委託した土地の割当てについて、どのような[法]原則に基づいてそれを行わせるかについての指示を与えられた。ティスバイの人々は、碑文に示されている通り、元々[旧来の支配者によって]課税されていたのであり、それはそのまま維持されねばならなかった。その耕地についてはローマに降伏したことにより、ager publics [公有地]となったのであるが、それがこの場合意味するのはそれらの耕地はティスバイの人達にとっては、”ημων ενεκα εχειν εξειναι”[私達が所有することを許された]ものであった。そのことによって[改めて]土地の割当ては行われず、その代わりに外周の境界線が[正規のローマの土地という意味で]設定され、そして次にその土地の測量地図を作成することが決定された。その理由はその領土がその土地の人々に改めて返還されるのはただ行政行為、つまりローマの公法に基づいた請願という形でのみ行われるためである。次に周囲の境界線の確定は、その土地に対して将来何か別の処理(例えば場合によっては植民市化など)を行うケースを留保するという意味で、国家にとって本質的に利害関心があることだったからである 47)。中でもまさにこの目的のために行われたのが、次の委託命令であったことは明らかである。それはカエサル[皇帝]が行った5人の男達への[行政事務の]委託であり、その委託[に基づく土地のAger per extremitatem mensus comprehensusによる測量]によって、法律が定める一般的な方法に適合した形で、[ティスバイの]土地が[合法的にローマに]譲渡された。その方法とは、[様々な文献で]何度も引用されている lex Mamilia Roscia Peducaea Alliena Fabia [マミリア法]で規定されているものである。Ager per extremitatem mensus comprehensus 以外のさらに別な[例外的な]測量方法については、これ以上ここでは述べることはしない。

47) また別の例として、lex agraria (a.u.c. 433年=BC111年、土地改革法)はまた、アフリカの土地[第三次ポエニ戦役で完全に滅亡したカルタゴの土地がローマの属州になったもの]について規定しており、それは課税地としてローマに譲渡されており。これもまた公共の測量地図の中に記載されねばならなかった。しかしそのことは属州としての法的地位の決定の際と、またグラックス兄弟の兄による土地配分の際に、概念の混同によって、結局行われなかった。我々はここで、カルタゴでは一体誰に結局土地が割り当てられたのかいう疑問について、第三章でまた取上げる。