折原先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」における用語法の問題点

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」について、宗教社会学についての先生のまとまった概説書は私見ではこれまで無かったので、今回それがきちんとまとめられたという意義は大きいと思います。
そういったポジティブな評価の一方で、残念ながら用語法の点においては、いくつか問題点があり非常に気になりました。

(1)「互酬」の不適切な使い方
この本の中で「互酬-循環関係」「互酬-循環構造」という用語が事項索引では8回登場します。その頻度から言ってかなり重要な用語として使われています。しかし私はこの言葉が出てくる度に強い違和感を感じて引っ掛かりました。何故ならば「互酬」という言葉の使い方が一般に社会学や人類学で使われている使い方と違うからです。(文化人類学を少しでも囓った人なら「互酬-循環」という言葉を聞いたら真っ先に連想するのはマリノフスキーの「クラ交易」でしょう。)この本での「互酬」は単なる相互に影響を及ぼし合う、という意味で使われています。例としては「プロテスタンティズムの倫理」が「資本主義の精神」を産みだし、一旦後者が成立するとその結果としてその持ち主の宗教心を弱め、いわゆる「精神無き専門人・心情無き享楽人」を産み出すものとして、「プロ倫」では描写されていることはご承知の通りです。しかしこのような関係に「互酬」という言葉を用いることは、下記の理由で不適切です。

[1]「互酬」は人間相互の関係に用いるもので、理念型のような抽象概念同士の関係に用いることは通常あり得ません。比喩としても無理があります。
[2] [1]のことから共時的な関係について言うのであり、歴史の中で長い年月が経る中で相互の要素が関係を及ぼし合って、というものには通常使いません。
[3] 互酬をこのように特殊な形で使用する一方で、P.206では互酬と同じ意味である「互恵」を今度は通常の互酬の意味(相互扶助)で使っています。
[4] 互酬は基本的には双方がポジティブな影響を及ぼすのであり(現代風に表現すればWIN-WINの関係、「互いにむくいる」関係)、折原浩先生が使われているような「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」が初期の関係から変質して前者が後者からある意味ネガティブな反作用を受ける、というものを表現するには不適切です。
[5] 「互酬」は文化人類学では「交換」や「営利」と対比される重要なタームであり、代表的な人にカール・ポランニーやマーシャル・サーリンズがいます。また贈与の互酬性を最初に説いたのはマルセル・モースで彼はデュルケームの弟子{甥}であり、社会学者でもあり、デュルケームの専門家でもある折原浩先生が知らない、ということは出来ません。
[6] ヴェーバー自身が「互酬」Reziprozitätを用いているのは「儒教と道教」にていわゆる儒教の「恕」の説明で、それは「互恵」(己の欲せざる所を人に施すなかれ)という意味でしかありません。すなわちヴェーバー自身の用語ではありません。

この問題は、2年前に書きかけの原稿をいただいた時にも「通常使われるのと別の意味での使い方であり、使いたいなら十分な説明が必要では」と私見を申し上げましたが、残念ながら私の意見はまったく考慮されずに今回の書籍が発売されています。

(2)「推転」P.245、249
私はこの単語を見たのは今回の本が初めてです。ネット検索で出てくる事例は非常に少ない上に、ほとんどがマルクス主義関係の書籍でした。(手持ちの辞書類には出てきません。)その後更に調べたら元々はヘーゲルの übergehen (あるいは名詞でÜbergang)の訳語として使われるようです。特に廣松渉氏がその書籍で使われていました。本来の意味は、「AからBへ持続的に徐々に変化していく」ということのようです。しかし「推転」という言葉からその意味を想像することはほぼ不可能で、元のドイツ語が非常に基本的な動詞であり誰でも意味を理解出来るのに比べれば非常に分りにくい訳語と言わざるを得ません。要するに英語で言うjargon(狭い範囲の専門家内での隠語)です。

上記のような問題点は有能な編集者であれば、出版前に著者に連絡して良く話し合うべきだと思います。しかし未來社の編集者がそういうことをしたという痕跡は残念ながら確認出来ませんでした。ちなみに非常に単純な誤植・誤記も数ヶ所容易に発見出来ています。