「互酬-循環構造」続き

「互酬-循環構造」(あるいは「互酬-循環関係」)の議論の続き。
結局、折原先生の言いたかったのは、ある2つの要素が相互に循環的な影響を及ぼし合い、ポジティブな影響だけでなく時にはネガティブな影響を及ぼし合い、互いに互いを変えていく、と言う意味かと思います。
しかしもしそうだとすると、これは要するに弁証法的な史観ではないのでしょうか。ヴェーバーがヘーゲルをどの程度取り入れ、どの程度批判しているかは私の現在の知識を超えていますが、少なくとも以前「ロッシャーとクニース」などを読んだ限りでは、そのような単純化・モデル化した歴史研究を批判していた筈です。そもそも折原先生の「2つの要素」とは私から見れば単なる「理念型」です。そして「理念型」というものは議論を始めるための仮置きの概念としか思っておらず、それが何か歴史的にはっきりした実体を伴っていて、別の同じような理念型と相互作用を及ぼし合うという捉え方自体、違和感を強く感じます。「経済と社会」などの議論は、理念型からスタートし、決疑論を行い、それによって元の理念型を修正していく、そういう繰り返しだと理解しています。(最初の論文である「中世合名・合資会社成立史」からして、ローマ法のソキエタースが本来はまったく想定していなかった新しい人間関係をどのように取り込んでいって変遷したか、という観点で書かれています。)また宗教社会学でのインドや中国の研究は、ご承知の通り全て欧州の学者が書いた2次文献をベースにしています。そういう研究でそのような単純な弁証法的史観を採用するというのは、一般化・理論化があまりにも性急であり、とてもそのまま受け入れることは出来ません。また、現実の社会は2つの要素どころか無数に近い要素が複雑に絡み合ったマトリックスであり、この意味でもその中から2つだけ取り出してその相互作用だけを論じるという方法論には賛成出来ません。折原先生の宗教社会学の解説は一般向けに分かりやすく論じるため、という点を考慮しても、ヴェーバーの議論を単純化しすぎているように感じます。