ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ

今、折原浩先生のヴェーバーの「宗教社会学」私家版訳を全面的に見直しています。改めてじっくり読むと、マックス・ヴェーバーが宗教について言っていることはほとんどが非常に少ない事例をそれが世界全体で広く行われているかのように粉飾した虚構の理念型ばかりです。要するにその当時欧州で知られていた限られた事例を性急に一般化している訳です:
1.「天の神が、事情次第では、光と熱の主として、特に牧畜民のもとではしばしば生殖の主として把握されることになるのである。」(ここは折原訳から改訳)
→牧畜民の天の神が生殖の神となる事例は旧約聖書の「産めよ増えよ地に満ちよ」のヤーウェくらい。モンゴルなどの宗教にそういう神は存在しない。
2.「英雄の霊魂は、死後きわめてしばしば天に移されるが」
→そういうのは北欧神話のヴァルハラの例と、ギリシア神話でヘラクレスが例外的に死後昇天したくらい。多くの神話では英雄といえども死後は地下の死者の国へ行っている。
3.「母権制をともなう氏族秩序」
→そんなものが歴史的に広く存在した証拠はどこにもない。この頃は「母権制」と「母系制」が混同されていた。(バッハオーフェンの影響)
4.「すなわち、下界の神々は、収穫を支配し、それゆえ富を恵与してくれると同時に、地下に埋葬された死者たちの支配者でもある。」
→これも両方兼ねているのはローマ神話のディス・パテルぐらいで、大多数の神話では豊穣の神と死者の神は別である。例えばギリシアでのデーメーテール(穀物)とハーデース(冥界)、日本神話での豊穣神(大国主や稲荷)と黄泉の支配者(イザナミ)など。