ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ3

遊牧民の神が生殖の神となる、という主張に対して再考しました。モンゴルなどの実際の遊牧民の神、例えばテングリについてそのような性格は確認出来ません。おそらくはヴェーバーの頭にあったのは元々は遊牧民であったユダヤ人の神ヤーウェの「産めよ増えよ地に満ちよ」ではないかと思います。(ついでに言っておけば中東における遊牧民ベドウィンの神はイスラム教のアッラーであり、これは名前が変わっているだけでヤーウェと同じです。)

この問題を再考すると、現実的にそんな考え方が遊牧民に生まれるというのは不自然と思います。何故なら遊牧民では、必ずしもその飼っている家畜が無限に殖えていくことを望むものではないと思うからです。管理に要する人の数、また家畜に食べさせる草を考えても、遊牧民にとっては適度な家畜の数が望ましく、それ以上の欲は彼ら自身の移動的生活を破綻させるからです。 またヤーウェにおける生殖の神的要素ですが、これも本来遊牧民の神であったならそんなものは持っていなかった筈です。それが何故ヤーウェに見られるかを考えると、要するにユダヤ人がカナンの地に住み着いて農耕を始めた結果として、農耕の神=豊穣・生殖の神であるバールの神の要素が止めようもなくユダヤ人の信仰の中に入っていってそれが翻ってヤーウェの本来の姿を歪めたということではないでしょうか。多くの聖書学者はこのヤーウェの二重性を指摘しています。