ヴェーバーの未来予知?

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」でもう一つ納得出来ないこと。
P.218以下の「未来予知――「イギリス支配下の平和」の終焉と「印パ紛争」」の箇所で、ヴェーバーが現在に至る「印パ紛争」を、大筋では的確に予知-予測していた、と説明されています。
まず、未来予知というのであれば、ヴェーバーの理論を使ってこれからのインドに何が起きるかを述べるのなら意味があると思います。しかし、過去に既に起きている事象に対して、ヴェーバーがそれを予知していたというのは、単なる後付けのこじつけ的な説明に過ぎないのではないでしょうか。
そもそも、イギリスは1857~58年の「インド大反乱」(昔はセポイの乱と呼ばれていました)の後、それまでの東インド会社を使った間接統治から直接統治に切り替えます。なおかつイギリスはインドの反乱の目を抑えるために、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立を煽り、1905年にはベンガル地域をイスラム教徒の地域とヒンドゥー教徒の地域に分割しようとすらしており、そういった政策によってイギリスに直接反乱が及ばないようにしたのは周知の事実です。従って何らかの事情でイギリスの統治が無くなれば、イスラム教徒とヒンドゥー教の対立が先鋭化することは、その当時の誰もが予測出来たことであり、特にヴェーバーの理論?に拠る必要は無いと思います。今正確には思い出せませんが、E. M. フォースターの「インドへの道」(1924年)にもそれに類する記述があったように思います。なおついでに言えば、ムガル帝国が支配していた時は、ヒンドゥー教とイスラム教徒は平和裏に共存していました。(イスラム教は現在そう思われているような非寛容的な宗教では決して無く、イベリア半島でも、ムガル帝国でも、またオスマン帝国でも、人頭税さえ払えばキリスト教やユダヤ教、ヒンドゥー教他の信仰を続けることが出来ました。改宗しなければ皆殺し、ということは起きていません。)

理念型とフラット・キャラクター(加筆再掲)

私の「理念型」の理解の仕方の説明として、別のブログに書いたものを引用します。
文学におけるフラットキャラクターというものを知ったのは、作家の小林信彦がその処女作である「虚栄の市」についてある評論家が「登場人物の一部が類型的すぎる」と批判したのに対し、小林信彦が「それはフラットキャラクターだからだ」と反論したことによってです。
文学におけるフラットキャラクターの使用は、
(1)ラウンドキャラクターと差を付けることでラウンドキャラクターをより目立たせる。
(2)フラットキャラクターが常に読者の期待に応える行動・発言をすることで、読者に読みやすくさせる。
(3)作家が小説を作る上での省力化
というメリットがあります。
これに対し、私が社会科学で文学におけるフラットキャラクターと同等の位置にあると考えるのが「理念型」です。私にとっては理念型はあくまでも議論のスタートで主題を分かりやすくさせる、ということからスタートするのであり、その後論を詳しくすることでその内容をより明確化し意義を説き明かします。
これに対比されるものとしては、文学作品でのフラットキャラクターだと私は考えており、例としてはディケンズの有名な「クリスマスキャロル」のスクルージ爺さんが挙げられます。ご承知の通り、物語の前半ではスクルージ爺さんは典型的なフラットキャラクターで「吝嗇」の象徴です。(今でも英語でスクルージ爺さんみたいな人、というのはケチのことです。)しかし物語の後半でこのフラットキャラクターは三人のクリスマスのスピリットとの出会いで次第にラウンドキャラクターとなり、最後は人類愛に目覚め、「クリスマスの楽しみ方を一番知っている人」に変遷します。社会科学における理念型もこのようなプロセスを踏むのが常道ではないのでしょうか。

理念型とフラット・キャラクター
Posted on 2018年7月15日
今、フランスの歴史家のイヴァン・ジャブロンカが書いた「歴史は現代文学である」を読んでいます。この本は歴史を科学的に扱おうとして19世紀以降歴史と文学が切り離された物を、もう一度結びつけようとする試みでなかなか興味深いです。
それでちょっと思いついたのですが、社会学で「理念型」(ドイツ語でIdealtypus)という方法論みたいなのがあります。歴史の現象を解釈する上で、観念的に作り出された一種の純粋型のことです。昔は「理想型」と訳されていましたが、「理想」というと価値判断が伴っているようですし、また「売春宿」のIdealtypusもあり得るということで、ニュートラルな「理念型」という訳に落ち着いています。
で思ったのが、この「理念型」の元は、文学における「フラット・キャラクター」(平面的キャラクター)じゃないのかということです。この「フラット・キャラクター」はE.M.フォースターの造語で、対照にされるのは「ラウンド・キャラクター」(立体的キャラクター)です。フラット・キャラクターは、フォースターはディケンズの小説の登場人物はほとんどそうだとしていますが、ある類型的な性格や社会的地位をもっていて常に読者が期待するような行動をする人のことです。(ラウンド・キャラクターはそれとは違い、性格などが次第に変化して深まっていくようなタイプのキャラクターです。)例えば「クリスマス・キャロル」の(改心する前の)スクルージ爺さん、「ディヴィッド・コパフィールド」の悪役のユライア・ヒープ(ロックバンドのユーライア・ヒープはこの名前を借りたものです)、貧しいながらいつも何とかなると思っている楽天家の代名詞ウィルキンズ・ミコーバーなんかが、まさしくフラット・キャラクターです。
マックス・ヴェーバーは有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、「資本主義の精神」を読者にわかってもらうための「理念型」としてベンジャミン・フランクリンを使います。しかし、それは実在のフランクリンというより、キュルンベルガーという作家の書いた「アメリカにうんざりした男」という詩人レーナウのアメリカ体験を元にした小説に登場する「カリカチュア化されたフランクリン」であり、まさしくフラット・キャラクターそのものです。
もちろん、「理念型」は人間だけに使うものではないのですが、少なくとも小説におけるフラット・キャラクターの使用の方が社会科学よりはるかに先なんではないかと。

「互酬-循環構造」続き

「互酬-循環構造」(あるいは「互酬-循環関係」)の議論の続き。
結局、折原先生の言いたかったのは、ある2つの要素が相互に循環的な影響を及ぼし合い、ポジティブな影響だけでなく時にはネガティブな影響を及ぼし合い、互いに互いを変えていく、と言う意味かと思います。
しかしもしそうだとすると、これは要するに弁証法的な史観ではないのでしょうか。ヴェーバーがヘーゲルをどの程度取り入れ、どの程度批判しているかは私の現在の知識を超えていますが、少なくとも以前「ロッシャーとクニース」などを読んだ限りでは、そのような単純化・モデル化した歴史研究を批判していた筈です。そもそも折原先生の「2つの要素」とは私から見れば単なる「理念型」です。そして「理念型」というものは議論を始めるための仮置きの概念としか思っておらず、それが何か歴史的にはっきりした実体を伴っていて、別の同じような理念型と相互作用を及ぼし合うという捉え方自体、違和感を強く感じます。「経済と社会」などの議論は、理念型からスタートし、決疑論を行い、それによって元の理念型を修正していく、そういう繰り返しだと理解しています。(最初の論文である「中世合名・合資会社成立史」からして、ローマ法のソキエタースが本来はまったく想定していなかった新しい人間関係をどのように取り込んでいって変遷したか、という観点で書かれています。)また宗教社会学でのインドや中国の研究は、ご承知の通り全て欧州の学者が書いた2次文献をベースにしています。そういう研究でそのような単純な弁証法的史観を採用するというのは、一般化・理論化があまりにも性急であり、とてもそのまま受け入れることは出来ません。また、現実の社会は2つの要素どころか無数に近い要素が複雑に絡み合ったマトリックスであり、この意味でもその中から2つだけ取り出してその相互作用だけを論じるという方法論には賛成出来ません。折原先生の宗教社会学の解説は一般向けに分かりやすく論じるため、という点を考慮しても、ヴェーバーの議論を単純化しすぎているように感じます。

折原先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」における用語法の問題点

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」について、宗教社会学についての先生のまとまった概説書は私見ではこれまで無かったので、今回それがきちんとまとめられたという意義は大きいと思います。
そういったポジティブな評価の一方で、残念ながら用語法の点においては、いくつか問題点があり非常に気になりました。

(1)「互酬」の不適切な使い方
この本の中で「互酬-循環関係」「互酬-循環構造」という用語が事項索引では8回登場します。その頻度から言ってかなり重要な用語として使われています。しかし私はこの言葉が出てくる度に強い違和感を感じて引っ掛かりました。何故ならば「互酬」という言葉の使い方が一般に社会学や人類学で使われている使い方と違うからです。(文化人類学を少しでも囓った人なら「互酬-循環」という言葉を聞いたら真っ先に連想するのはマリノフスキーの「クラ交易」でしょう。)この本での「互酬」は単なる相互に影響を及ぼし合う、という意味で使われています。例としては「プロテスタンティズムの倫理」が「資本主義の精神」を産みだし、一旦後者が成立するとその結果としてその持ち主の宗教心を弱め、いわゆる「精神無き専門人・心情無き享楽人」を産み出すものとして、「プロ倫」では描写されていることはご承知の通りです。しかしこのような関係に「互酬」という言葉を用いることは、下記の理由で不適切です。

[1]「互酬」は人間相互の関係に用いるもので、理念型のような抽象概念同士の関係に用いることは通常あり得ません。比喩としても無理があります。
[2] [1]のことから共時的な関係について言うのであり、歴史の中で長い年月が経る中で相互の要素が関係を及ぼし合って、というものには通常使いません。
[3] 互酬をこのように特殊な形で使用する一方で、P.206では互酬と同じ意味である「互恵」を今度は通常の互酬の意味(相互扶助)で使っています。
[4] 互酬は基本的には双方がポジティブな影響を及ぼすのであり(現代風に表現すればWIN-WINの関係、「互いにむくいる」関係)、折原浩先生が使われているような「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」が初期の関係から変質して前者が後者からある意味ネガティブな反作用を受ける、というものを表現するには不適切です。
[5] 「互酬」は文化人類学では「交換」や「営利」と対比される重要なタームであり、代表的な人にカール・ポランニーやマーシャル・サーリンズがいます。また贈与の互酬性を最初に説いたのはマルセル・モースで彼はデュルケームの弟子{甥}であり、社会学者でもあり、デュルケームの専門家でもある折原浩先生が知らない、ということは出来ません。
[6] ヴェーバー自身が「互酬」Reziprozitätを用いているのは「儒教と道教」にていわゆる儒教の「恕」の説明で、それは「互恵」(己の欲せざる所を人に施すなかれ)という意味でしかありません。すなわちヴェーバー自身の用語ではありません。

この問題は、2年前に書きかけの原稿をいただいた時にも「通常使われるのと別の意味での使い方であり、使いたいなら十分な説明が必要では」と私見を申し上げましたが、残念ながら私の意見はまったく考慮されずに今回の書籍が発売されています。

(2)「推転」P.245、249
私はこの単語を見たのは今回の本が初めてです。ネット検索で出てくる事例は非常に少ない上に、ほとんどがマルクス主義関係の書籍でした。(手持ちの辞書類には出てきません。)その後更に調べたら元々はヘーゲルの übergehen (あるいは名詞でÜbergang)の訳語として使われるようです。特に廣松渉氏がその書籍で使われていました。本来の意味は、「AからBへ持続的に徐々に変化していく」ということのようです。しかし「推転」という言葉からその意味を想像することはほぼ不可能で、元のドイツ語が非常に基本的な動詞であり誰でも意味を理解出来るのに比べれば非常に分りにくい訳語と言わざるを得ません。要するに英語で言うjargon(狭い範囲の専門家内での隠語)です。

上記のような問題点は有能な編集者であれば、出版前に著者に連絡して良く話し合うべきだと思います。しかし未來社の編集者がそういうことをしたという痕跡は残念ながら確認出来ませんでした。ちなみに非常に単純な誤植・誤記も数ヶ所容易に発見出来ています。

「マックス・ヴェーバー研究総括」Amazon注文分も到着

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」本日、Amazonで注文した分も届きました。 なお、書籍の奥付けによる出版は2022年10月14日、未來社のサイト上では2022年10月7日で最後の最後までサイトの情報は「蕎麦屋の出前」でした。

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」を先生より贈っていただき落手しました。9月30日に別にAmazonで予約していますが、そちらは10月14-16日出荷予定でまだ届いていません。また現時点ではAmazonの納期は「注文後1~2ヵ月で出荷」になっています。すぐに入手されたいのであれば、複数のオンライン書店をあたった方がいいかと思います。なお未來社のサイトでは10月7日発売となっていますが、例によって嘘情報です。Amazon他に出ている10月12日が本当の発売日だと思います。

マックス・ヴェーバー研究総括-Amazonで予約開始

「マックス・ヴェーバー研究総括」、ついにAmazonで予約出来るようになりました。しかし、未來社のサイトでは10月7日発売ですが(しかも発売予定日ではなく、発売日になっています)、Amazonでの発売日は10月12日、しかし配送予定(通常翌日)は14-16日になっており、本当の発売日は10月13日以降のようです。最後の最後まで嘘情報を流している未來社に再度失望しました。

未來社のサイトの問題点ー虚偽の発売告知の繰り返し

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」が出版間近になっています。
それはいいのですが、未來社のHPでの発売日告知がひどくて、これまで3回、まだ発売もされていないのに「発売中」と表示され、そればかりか「在庫有り」と表示され、更にはネット販売サイト(Amazon他)のリンクまで表示されていました。しかしながら、当然発売されていない書籍をオンライン書店で注文出来る筈もなく、リンクをクリックしても「そんなページはありません」と表示されました。そして過去3回ほどこの件について電話とメールで連絡しています。結果としてその後発売中表示はなくなり近刊予定に戻っていますが、それについて何のお詫びも改善します、という返信もありません。
おそらくはここのサイトは、Web開発業者に丸投げで、近刊予定の説明に入っている発売予定日が来ると、自動的に新刊の方に移る、という乱暴なロジックが入っているのだと思います。(最近はスクラッチでWebサイトを作ることはまずなく、何らかのCMS=Contents Management Systemを使います。ここのサイトのWordPressもそうです。そういったCMSにはまずあるコンテンツのアップ日を未来に設定しておいてその日になったら自動的にアップする、といった機能があります。)失礼ながら新刊の点数だって限られており別にこんな自動処理は不要だと思います。メールで返事が無いので社長のブログにもコメントしましたが、そちらも何の連絡もありません。また発売日が変更されたのはこれまで6~7回になると思います。遅れている事情は私もある程度は分かっていますが、いわゆる「狼が来た」の域を越えた杜撰なWebサイトです。出版業もこんな前近代的な体質(いわゆる蕎麦屋の出前)を引き摺るのはそろそろ止めて欲しいです。(以前ソフトウェア会社にいた時に、コンテンツとして辞書データなどを買う交渉に色々な出版社に行ったことがあります。しかし、名前は通っている出版社の多くについて、その規模の小ささに驚いた、という経験があります。)今は私がやっているように、Amazonで電子書籍も紙の書籍もどこの出版社も通さず販売することが出来る時代です。出版社がビジネスの基本を守れないのであれば、残念ながら英語で言う”go the way of the  dodo”ということになるでしょう。

過去のメール(一通は折原浩先生宛)

2022年9月20日のメール
未來社 ご担当者様

またも下記の書がまだ作業中の段階なのに、「発売中」「在庫有り」になっています。これで3回目です。何故こんな単純なことに対応出来ないのでしょうか?

XXXX

2022年8月23日のメール
XXXXと申します。
折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」が発売中になっており、「在庫有り」とも出ていますが、西谷社長の日記によれば事項索引のやり取りをしている段階であり、発売はあり得ないと思いますが。

オンライン書店へのリンクもありますが、当然そちらでも買えません。

2021年12月27日のメール(折原浩先生宛)
折原浩先生

「マックス・ヴェーバー研究総括」ですが、未來社のサイトで「新刊」の中に出てきて、オンライン販売サイトへのリンクもあるのですが、クリックするとどこのサイトもエラーになります。それで未來社に電話で聞いてみたら、出版が3月に遅れるとのことでした。
校正作業ぐらいでしたら、お手伝い出来ると思いますので、ご遠慮なさらずに声を掛けてください。丁度ここ1ヵ月半くらいは「中世合名・合資会社成立史」の再校正作業をやっていましたから、誤記や誤植の発見には勘が働くようになっています。

XXXX

翻訳の日本語 接頭辞の「没」について

マックス・ヴェーバーの日本語訳の多くは、1950年代~1970年代に訳されていると思います。
典型的には創文社の「経済と社会」の日本語訳がまさにそうだと思います。そういった日本語訳を読んでいて気になるのが「没」という接頭辞です。例えば没価値、没意味などです。没価値(性)の元のドイツ語はご承知の通り、die Wertfreiheitです。「没」という日本語には、私だけの感覚かもしれませんが、単なる「無」や「非」より強いニュアンスがあるように思います。端的には「没」の意味を今の若い人に聞いたら、まずは「原稿や企画が却下される(ボツになる)」ことでしょうし、また当然「人が死ぬこと」の意味も連想すると思います。Wertfreiheitを「没価値性」と訳すと、何だか価値を強く否定して頭から問わない、という風に聞こえます。しかし元のドイツ語は単に「価値を最重点にしない」ぐらいの意味ではないのでしょうか。そもそも「無」「非」の意味の接頭辞としての「没」は既に廃れているように思います。ある国語辞書ははっきり「古語」と書いていました。私は「無趣味」というのは使いますが「没趣味」を使うことはありません。また「没交渉」と「無交渉」では意味が微妙に違い、「没交渉」はこちらから積極的に交渉を止めている感じがします。羽入書批判の時も「没意味的文献学」という非難が飛び交っていましたが。これも単に「意味を重視しない文献学」というニュアンスでは無く、「一番大事な意味をなおざりにする文献学」といった余計な感情が入っているように思います。世良晃志郎さんの日本語訳は、名訳として有名ですが、残念ながらこの「没」については非常に多用されていて、違和感があります。時代と世代の違いと言ってしまえばそれまでですが。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(11)P.125~130

「ローマ土地制度史」の日本語訳の11回目です。ここでは色々な植民市が出てきて分りにくいので地図を作成しました。ローマがイタリア半島を統一していく足跡が見られて興味深かったです。
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 その他イタリアにおいて、そこにおける土地の割り当てが部分的に scamna と strigae を使って行われたと、liber coloniarum [植民市の本]が注記しているのは次の場所である:

アラトリ≪Aletrim→Aletri、現在ラツィオ州フロジノーネ県のコムーネ、BC306年にローマの植民市となった。≫(ケントゥリアと strigae)30)、
アナーニ≪Anagnia→Anagni、現在ラツィオ州フロジノーネ県のコムーネ、BC306年にローマに併合された。≫(strigae)31)、
アエクイコリ≪Aeqicoli、イタリアの山岳地帯に古くから住んでいたアエクイ族の土地をBC304年のアエクイの戦いでローマが支配下に置いたもの。≫(ケントゥリアの中での strigae と scamna)32)、
アルフェデーナ≪Afidena→Alfedena、現在アブルッツォ州ラクイラ県のコムーネ、BC298年にローマに征服された。≫(ケントゥリアと scamna)33)、
トリヴェント≪Terventm→Trivento、現在モリーゼ州カンポバッソ県にあるコムーネ、BC3世紀のサマニウム戦争の結果ローマの植民市となった。≫(praecisrae [境界で分けられた土地] と strigae)34)、
ヒストニウム≪Histonim、現在のヴァストでアブルッツォ州キエーティ県のコムーネ、アドリア海に面する。シーザーの時代にローマの植民市になったとされる。≫(ケントゥリアと scamna)35)、
ボヴィアヌム――おそらくはヴェトゥス≪Bovianm Vets、ローマの植民市とされるがその時代も場所も不明、現在のピエトラッボンダンテ=モリーゼ州イゼルニア県のコムーネであるという説があるが、2022年現在では疑われている。≫(ケントゥリアと scamna)36)、
アティーナ≪Atina、現在のラツィオ州フロジノーネ県のコムーネ、サマニウム人の都市であったがローマに征服された。≫(部分的に lacineis [断片状の土地] と strigae によるもの)37)、
リエーティ≪Reate→Rieti、元々サビニ人の土地でローマに征服された。現在のラツィオ州の都市で、「塩の道」の要衝だった。≫とノルチャ≪Nrsia→Norcia、現在のウンブリア州ペルージャ県のコムーネ、元々サビニ人の都市で第2次ポエニ戦役の時のローマの同盟市。≫(ケントゥリアの中での strigae と scamna)38)
である。今挙げた全ての場所は後にムニキピウム [自治都市] ≪元老院ないしローマ皇帝から自治を許されていた都市≫となっている。それらの中の一部の都市は、証明可能なことであるが、プラエフェクトゥラ≪praefectura、ローマのいくつかの属州をまとめたものがディオエケシス=dioecesis=管区とされ、いくつかの管区をまとめたものがプラエフェクトゥラ=道{どう}とされた。≫の前段階であった行政単位の中に組み入れられた。それらの都市とは、アナーニ、リエーティ、ノルチャ、アティーナ、及びまたアエクイコリであったと思われる。ボヴィアヌム・ヴェトスについては一般に得られる情報が不足しており、詳細は不明である。また以下のことについても分っていない。つまり strigae と scamna を使った土地割り当てが最初に行われたのが、ベテラン兵への土地割り当ての時がそうだったのか、あるいはその時には既に先行してそういう割り当てのやり方が存在しておりそのやり方が引き継がれただけなのかということである。またこのような特別な土地割り当てのやり方について、何か特別な理由があったのかどうかも同様に不明である。

30)liber coloniarum 230, 8: Alatrium, muro ducta colonia. populs deduxit. iter populo non debetur. ager eius per centurias et strigas est adsignatus.
[アラトリという町は、(ある)植民市において壁によって区切られていた(区画にあった)。(ローマの)人々がそれを拓いた。そこでは道路は個人の所有にはなっていなかった。そこの土地はケントゥリアとstrigaeによって分割割り当てされた。]

31)上掲書、P.230、17行目
32)P.255、17行目
33)P.259、19行目
34)P.238、10行目(正しくは14行目、全集の注による)
35)P.260、10行目
36)P.231、8行目
37)P.230、5行目
38)P.257,6~26行

こうした特別な土地の分割割り当ては、例えば売却禁止の土地を与える場合に使われたのかも知れない――そしてこのような割り当てはアウグストゥス帝によっては行われなかった、という仮説は、考慮の余地がなく誤りである。その理由は、周知のこととして、この種の土地の売却が禁止されていたということが、その土地に課せられることになっていた税金に対する [皇帝の] 承認によって法的に明確に示されていたからである。アエクイコリの耕地は更に、[アエクイ族の] 鎮圧がされた後にいずれにせよ [ローマの新たな土地として] 公にされたのであるが、しかし多数の文献情報によればそれは個々人には割り当てられず、おそらくは [小作地として] 賃貸しされたのであり、だからこそ scamna [と strigae] を使って土地が分割されたのである。プラエフェクトゥラにおいては、少なくとも部分的には同様の事情が存在していた。そういった場所は多くの場合同様に戦争に勝利した結果として得られたものであり、その理由から [元々の] 土地所有者の立場としては、おそらくはその土地に対する権利がいつでも取り消されることがある、という前提に置かれていた。ボヴィアヌム・ヴェトスについては、そこが別名として Bovianum Undecimanorum [1/10税が免除のボヴィアヌム] と呼ばれていたことから推定して、十分確からしいと考えられることとしては、それは元々の土地の所有者に対して、その土地の使用料を徴収する権利が与えられた、そうした人々が集まった自治組織であったと解釈することが出来る。リエーティについてシクラス・フラッカス≪2世紀に生きたと推定される古代ローマの測量人・著述家≫が言及している内容によれば――P.136、20行目――多数の agri vectigalis [課税対象の土地] が存在しており、ピケナム≪Picenum、現在のマルケ州の南部、元はガリア人の土地だったのをローマ人が入植を進めた。アウグストゥス帝が定めた行政区分であるRegio Vとなった。≫についても同様であり、ヒストニウム≪Histonium、現在のアブルッツォ州キェーティ県のヴァスト、元々フレンターノ人の土地で、植民市ではなくムニキピウム [自治都市]。≫においての scamna で分割された土地ももしかするとピケナムの土地と同様に扱われたのかもしれない。≪ピケナムとヒストニウムはかなり離れており、原文直訳の「ヒストニウムの土地がピケナムに属していた」、という記述の真意は不明。ここでは同様のやり方が適用された、と解釈した。≫最後に残った可能性は、ある特定の場所のある部分において、つまり liber coloniarum の中でケントゥリア及び strigae と scamna によるよる土地の分割として言及されているような [ある土地のある] 部分は、単純に以前(全集版原文のP.111)ここで述べたベテラン兵への3分割した土地の割り当てとして行われたというものである。そしてそれは次のようなやり方で行われていた。つまり、測量人が一つのケントゥリアを2つの [原文は3つの ] 平行線で3つに分割し、そしてそれぞれの [長方形の] 部分を縦が長い場合に strigae、あるいは [横が長い場合に] scamna と名付けられたのである。これが行われた理由はおそらく次のことによる。つまり、ハイジンの時代において新しい方法として言及されているものが39)、つまり分割したそれぞれの土地の境界線を、ager centurias [ケントゥリアによる分割地] であった土地についても測量地図上に記載するということが、既に一般化していたということによる。

 いずれにせよ以上見て来たような実例が示していることは、特にスエッサ・アウルンカの例は、ager privatus として strigae と scamna を用いて土地を割り当てることも十分に可能であったにも関わらず、別のやり方が採用されており、その大部分の場合で、それぞれ何か特別な理由があってそうされたのであろうということは、かなりの程度間違いが無いということである。

39)P.121(全集注によれば正しくはP.119f)、前掲書

課税可能な植民市の土地の測量

 他方、scamna と strigae を使って、その土地の権利を制限された形で [ager privatus としてではなく] 割り当てられたのは、必ずしも [土地割り当て対象者の] 全員ではない、ということもまた確かである。課税可能な属州の土地の後の時代における割り当てについて、ハイジンは先に引用した箇所で、ハイジン自身はそれに反対していた立場だったようであるが、はっきりと次のように証言している。それはつまり、scamna と strigae を使った割り当てが、通常のケントゥリアと limitesを使った方法において [併用する形で] しばしば行われていた、ということである。そのことの実例におそらくなるのは、添付図1の中の銘文であり、そこに書かれていることによれば、明確にそれは測量図のコピーの一部であると述べられている。

 土地の分割がケントゥリアによって行われたということは、その測量図の断片上の表示から明らかである。≪以下の文の原文中のMaaßeはMaßeとして解釈した。≫ここでのケントゥリアの各辺の寸法は次の比率となっている。[ハイジンが引用している] ニプサスの書に出ている scamna によって分割された耕地は、240ユゲラの面積のケントゥリアにおいて分割が行われたのに違いなく、その場合の辺の比率は(6:5)[24 actus : 20 actus] となる。ニプサスはここでは明らかに、scamna によって分割された土地を課税対象の耕地として捉えている。というのもアラウシオにおいての scamna による分割地においては、そこの地図 [添付図1] が示しているように、単純な均等割り当てが行われたのではなく、明らかに個々の土地所有者 [割り当て対象者] に対し、様々なケントゥリアにおける様々に異なった土地面積の実質的価値に応じた割り当てが行われたからである。それは課税されることがなかった植民市における土地分割のやり方とまったく同じであった。モムゼンによる信頼性の高い原文修復の結果によれば、それぞれのケントゥリアでこのやり方は繰り返し行われている:”ex trib(utario) [tributario = 課税対象の、課税対象の土地から] ――その部分に対して数字が記載されている――red(actus) in col(onicum) [植民市において非課税の土地として与えられた]”――こちらについてもまた数字が記載されている。ハイジンがP.121で描出している箇所は、まさにこういった場合についてであり、そこでの描写は次の通りである:それまで測量がされておらず、割り当てもされていない(arcifinisches)[新たに占領した敵地など] 課税対象となるべき属州の土地が測量され、そして(免税とならない)アラウシオの植民市における境界線で分けられた耕地において、(新たに課税対象地としての)土地割り当てが行われた。アラウシオは [ガリア遠征による] シーザーが征服した土地における植民市である;そこでの全ての耕地がその当時分割され割り当てられたかは不明である。しかし碑文が刻まれた石自体が元の測量図と同じくらい古いものである必要はない。何故ならばそれは単なるコピーに過ぎないからである。

 ”redactus in colonicum” [植民市において与えられた] という表現は次のことを示している。つまり、その領土のある部分は、植民市の土地としてようやく後の時代になってから [土地割り当てなどの用途に] 転用されたのであると。アラウシオにおける耕地の分割は、常に、何度も考察して来た [実際にはこの論文では初めての言及、おそらくローマの測量人達が何度も言及している、という意味か。]マミリア法 ≪Lex Mamilia Roccia Peducaea Alliena Fabia、Corpus Agrimensorum Romanorum の中に3つほど断片が収録されている、割り当ての際の土地の最大の面積を定めている法。≫ の中のシーザーによる命令に従って行われている。シーザーは良く知られているように、海を渡った土地の植民市について、最初にそれを大規模に切り開いたが、 そのことから明らかなこととして推測出来るのは、このマミリア法における彼の命令が、属州の土地に対しても適用されたということは、ケントゥリアによる土地の割り当てが非課税の土地についてだけでなく、課税対象となる土地についても適用されたということの、まさに証拠であった。この形の土地割り当ては、植民市における平地の測量においても、次の理由から不可欠なものであった。つまり、測量人達は規則に従いながら異なった面積の土地を、それぞれの価額に応じて分割せねばならなかったのであり、それを scamna を使ってやると多大な労力が必要だったのに対し、他方ケントゥリアを使えば単純にあるケントゥリアではXユゲラ、別のケントゥリアではYユゲラが、それぞれ等しい価値を持つものと設定出来た、そういう理由からである。

ager quaestorius [財務官{クワエストル}が収入のため売却した公有地] における測量とその法的な性格

 それにも関わらず、以上見て来たようなある意味原則からの逸脱とも考え得る現象から更に見て取ることが出来ることとしては、通常 [の私有地として] よりも権利が制限された耕地が存在したということである。そういう耕地は scamna をベースにした土地割り当てが行われていなかった。これらは ager quaestorius であり、つまり次のような土地であった。それは定期的な土地使用料の支払い ≪Rente≫ を条件にして国家から与えられるのではなく、一回だけのお金(資本)の支払い [購入] を条件として与えられた土地である。

 この ager quaestorius の場合の土地分割については次のやり方が知られている。つまり、limites を用いて四角形の土地(laterculi または plinthides)を切り出し、それは一辺が10 actus の正方形=面積50ユゲラ [10×10÷2] の平面、として作られ、これらの土地区画が――規則に則って、オークションのようなやり方で――購買希望者に対し公開され、それからその測量地図が作られ、その地図の上にその土地を買った(受け取った)者の名前が、その者に売却された土地の面積と一緒に記載されたのである。40)

40)上掲書のP.115、P.110の8行目、P.125の下部、P.136の15行目、P.152、P.153の3行目、P.154。

この ager quaestorius と ager centuriatus の本質的な違いは、laterculi の面積がケントゥリアとは違うという点にあるのではなく、limites がここでは小路 [道路] ではなく、その文字通りの意味の通り単なる境界線 [リミット] となり、事実上は単に decumani の線を「分割するもの」となっており――それはこの名称が東西と南北の方向に関係なく使われていることからも分る。ここにおいての limites は [ケントゥリアの場合そうだったような] 公的な道路システムの意味で使われているのでは全くなく、ただ Raine [境界] の意味で使われており、それはそこにおいて土地の売却が行われた、個々の土地区画の境界を形作るものであった。それは scamna における rigores [直線] と同じ意味であり、その証拠としてシクラス・フラッカスは”limites, id est rigores” [limites 、それは直線である。] と書いている。ここでの limites は一番最初の土地分割の際の境界設定という意味しか持っていなかったので、その他の場合においてはその土地の継続的な権利保持の保証にも根拠にもならなかった。それ故に所有者が変わった場合には、limites 自体は消滅してしまっていた。そのために(フロンティン、P.154、5行目)次のような記述が残されている:”emendo vendendoque aliquas particulas ita confuderunt possessores, ut ad occupatoriam condicionem reciderint” [私はある土地区画の境界線を修正した上で売却する。そのように土地の所有者達は個々の土地区画を合筆し、新たな{売却のための}占有契約のために新しい境界線を設定する。]。

 様々な種類の土地の法律上の性質については後で更に詳しく述べるが、次のことを理解することが不可欠であると思われる。つまり、ager quaestorius については、土地と法律の関係という問題を先取りしていたということである。というのはこの制度において本質として理解すべきことは、事実上分割の方法と分割された土地の法律上の価値との意識的な関連付けが行われていたことである。