Angebliche Ansätze zur Wandlung der römischrechtlichen Grundsätze pp.152-155 ドイツ語原文(6)

Angebliche Ansätze zur Wandlung der römischrechtlichen Grundsätze pp.152-155のドイツ語原文です。
この辺りから本格的にラテン語(古典ラテン語)が登場します。
========================================================
Angebliche Ansätze zur Wandlung der römischrechtlichen Grundsätze.

Im allgemeinen muß dies entschieden in Abrede gestellt werden, für das Gebiet des Privatrechts unbedingt.

1. D. 63 §5 pro socio
Man könnte in einzelnen Bestimmungen eine Überschreitung jener Grenzen finden wollen. So wenn dem socius das Recht gegeben wird – D. 63 §5 pro socio – bei Zahlungsunfähigkeit eines socius sich an diejenigen anderen socii zu halten, welche ihren Teil von demselben voll beigetrieben haben.
Diese anscheinende Überschreitung der rein quotenmäßigen Regelung des Verhältnisses ist indessen nur eine Konsequenz der Natur der actio pro socio, bei welcher – es handelt sich nur um das Verhältnis unter den socii – die bona fides gleichmäßige Teilung der Verluste fordert.

2. D. 44 § 1 de aed[ilicio] edicto.
Roesler 3) hat ferner D.44 § 1 de aed[ilicio] ed[icto] herangezogen: Proponitur actio ex hoc Edicto in eum, cujus maxima pars in venditione fuit, quia plerumque venaliciarii ita societatem coëunt, ul quidquid agant, in commune videantur agere; aequum enim Aedilibus visum est, vel in unum ex his, cujus major pars, aut nulla parte minor esset, acdilicias actiones competere, ne cogatur emptor cum singulis litigare. – In der That liegt in dieser, der Praxis des Marktgerichts entwachsenen Bestimmung eine von den Juristen durch die präsumtive Interessen-

3) Zeitschr. für Handelsr. Bd. 4.

gemeinschaft der venaliciarii als billig motivierte, juristisch nicht weiter analysierbare Singularität vor, deren Grundlage im Societätsrecht nicht zu suchen ist. Die präsumtive Societät wird nicht als rechtliches Fundament der erweiterten Klage, sondern nur als legislatorisches Motiv der Aedilen dargestellt.

3. Argemarii.
Schon eher könnte das Verhältnis der plures argentarii als eine wirkliche Modifikation der römischen Auffassung gelten. Die davon handelnden Quellenstellen4) ergeben in der That eine wohl aus Besonderheiten des Litteralkontrakts und der Buchführung („nomina simul facta“) der Bankiers hervorgehende Rechtsbildung, jedoch nicht eigentlich ein Institut des Societätsrechts. Das Bestehen einer Societät wird nicht als der Rechtsgrund hervorgehoben.

4. Lex Malacitana c. 65
Thatsächlich aus dem Rechtsgrund der Societät hervorgehende Solidarberechtigungen enthält dagegen anscheinend das Statut der latinischen Colonia Malaca5) in

4) D. 9 pr. de pactis. Si plures sint, qui eandem actionem habent, unius loco habentur.
Ut puta plures sunt rei stipulandi vel plures argentarii, quorum nomina simul facta sunt … unum debitum est, – und
D.34 pr.de recept[is arbitris] (III.8): Si duo rei sunt aut credendi aut debendi et unus compromiserit … videndum est, an si alius petat, vel ab alio petatur, poena committatur.
Idem est in duobus argentariis, quorum nomina simul eunt (erunt Hal[oander]).

5) Cf. Mommsen, Stadtrechte zu der im folgenden cit. Stelle.

der, hinsichtlich der Bedeutung des Ausdrucks „socius“ freilich nicht zweifelsfreien Bestimmung: Lex Malac[itana] c.65 (es handelt sich um den Verkauf der praedes praediaque):
… ut ei qui eos praedes cognitores ea praedia mercati erunt praedes socii heredesque eorum i[i]que ad quos ea res pertinebit de is rebus agere easque res petere persequi recte possit.

Also: der socius des Käufers hat eine direkte Klage wie der heres. Zu berücksichtigen ist, daß wir uns auf dem Boden des Verwaltungsrechts befinden und ein durch die Hand des Magistrats geschlossener Kontrakt vorliegt. Wie weit hier die besondere Natur der öffentlichrechtlichen leges contractus6) einwirkt, und daher das Privatrecht cessiert, steht dahin7).

6) Cf. Heyrovsky, Die leges contractus.
7) In der Kaiserzeit begegnet die entsprechende Bestimmung auch sonst, cf. lex Metalli Vipascensis Z. 5 (Bruns, Fontes p. 247) conductori socio actorive ejus und weiter passim. Aus republikanischer Zeit ist mir Ähnliches nicht bekannt. Die lex Julia municip[alis] Z. 49 (Bruns. Fontes p.104) spricht nur von „redemptorei, quoi e lege locationis dari oportebit, heredeive eius“ im verwandten Fall.

Negatives Ergebnis für das römische Recht.

Auf dem Boden des Privalrechts 8) finden wir jedenfalls auch im spätrömischen und im Recht der Basiliken und ihrer Scholien 9) noch keine Modifikationen der alten Grundsätze. Daß jene erwähnten Spezialrechtssätze oder daß lokale Rechtsbildungen des Vulgärrechts Anknüpfungspunkte für die spätere, dem mittelalterlichen Großverkehr angehörige Entwickelung der von uns zu behandelnden Institute geboten haben sollten, dafür fehlt zum mindesten jeder Anhalt.

Modernes Recht der offenen Handelsgesellschaft. pp.149-151 中世合名会社史日本語訳(5)

日本語訳の5回目です。
注釈部のLabandに関する議論は、Laband自身の元の説を見ていないので現時点では誤って解釈している可能性もあります。
また、Institutという単語をこれまで「機関」と訳してきましたが(「天皇機関説」の機関のような)、「共有財産」「連帯責任」というのは人間集団ではなく法的な取り決めであるため「制度」という訳に変えました。小学館の大独和にこの訳語があります。
ドイツ語原文はここです。
========================================================
商取引におけるゲゼルシャフト(会社)の捉え方という点で、商号はしかしながらそこにおいて容易にある種の人格を獲得する。人格の獲得、すなわち商号の擬人化は以下のような法的な規定を定める上での出発点となる。その規定とは、たとえばある業務が執り行われる場合に誰がそれに従事するのであるかとか、あるいはある商号に対して以前より存在している債務は一体誰が負うのかなどといったことを、現実の生の中で比較的に簡素かつ自然に記述するものである。法学的な構成という意味で、外部から観察出来る外形を持った対象物を用い実際的な規定を記述することは、まったくもって簡単なことではない。もしそれ故に法学的に商号に実際的な人格性を持たせることまでに進めることが出来ないのであれば、体系的な記述の要求に応じるという限りにおいて、「商号」「業務」「ゲゼルシャフト(会社)」にそれぞれ法学的な考察における対象物として個別に重要な機能を持たせることが出来る。

これまで述べてきたことから、こういった法学的解釈の発展の根本原理は、まずは第一に連帯責任とゲゼルシャフト(会社)の特別財産という相互に緊密に関連した二つの制度であるということが容易に導き出される。

本質的な意味において、これらの二つの制度は以下の論述では次の点で法制史的に考察されなければならない。つまり一体どのような目的でゲゼルシャフト(会社)形態の発展一般に関与したのかということと、またこうした発展がこの二つの対立関係の確立無しには起き得なかったのかどうかということである。2)

中世におけるソキエタスの発展の根本原理の解明に入る前に、たとえ非常に手短にではあっても、ここにおいて始めて提起されたのではない問題について詳しく述べるべきであろう。つまりローマ法において、ソキエタスの純粋に義務的な性質と、その義務的な性質がソキエタスの成員間に働くことへの制限とを克服するような少なくとも何かの契機が存在していたのかどうかということである。

2) 合名会社の方についてのここでの概略説明は、Laband《Paul Laband、1838~1918、ドイツの法学者》の商法雑誌第30・31巻のものとは原理的に異なり、少なくとも彼のゲゼルシャフト(会社)の基金の財産としての機能の説明は破綻していると思われる。-それは彼の理論的展開において、合名会社の関係においての「内的なもの」と「外的なもの」の慣習的な区別を認めたがらないことから生じているが-二つの対立を説明の中で利用することを第30巻の51ページのCにおいて彼自身がまったく無しで済ますことは出来ていないのであるが-Labandは合名会社の特質をただ外部への責任だけとしている。ゲゼルシャフト(会社)の基金を特別財産として別扱いにすることについては、強制的な共同の所有権において、ソキエタスの一方の成員の権利が他方の成員の権利を、それぞれの財産への完全な支配をお互いに制限することが、ただ問題になる。-その証明としては、Labandはゲゼルシャフト(会社)の財産の金額は、第三者の、とりわけ債権者の権利の対象ではないと述べている。

その論法を仮に認めるとしても、なるほどゲゼルシャフト(会社)の財産の金額は第三者の債権の対象では無いとしても、その「存在」は第三者に対しても法的な権利の対象である。ゲゼルシャフト(会社)の財産というものは、経済的には無に等しい場合もあり得るかもしれないが、法的にはそれは存在し、経済状態という意味では重要な帰結は無くとも、ソキエタスの成員達はそれが確かに存在しまたその存在によってそれを法的に取り扱うことが開始されるということを、どうやっても隠し通すことは出来ないのである。

Labandはゲゼルシャフト(会社)の財産に対する個人の債権者を除外する理由として以下を挙げている。つまり、個々のソキエタスの成員に対する債権者は、その成員に対する債権者として以上の(ゲゼルシャフト{会社}に対する)権利を持つことは出来ず、それはラテン語では”nemo plus juris transferre potest quam habet ipse”《誰も自分自身が持っている以上の権利を他人に渡すことは出来ない》と表現されるが、そして確かに個々のソキエタスの成員は他のソキエタスの成員の義務的な請求権そのものによって制限を受けている。ある個人債権者のみをとってみてもまた、もし仮にその債権者が全ソキエタス成員に対する連帯的な債権を持つ者であったとしても、それは直ちにゲゼルシャフト(会社)の債権者ではあり得ないであろうし、かつまた他のソキエタス成員の義務的な権利がどのように、それぞれのソキエタスの成員が会社の所有物に対して保持している分け前から債権者を排除するという上述の物権的な作用を及ぼすのかということについても疑わしい。仮に個々の他のソキエタスの成員の権利が個人の債権者と対立しているとしたら、これらの権利を単に無効にするということが同時にその個人債権者をゲゼルシャフト(会社)の債権者にし、またゲゼルシャフト(会社)の財産の占有を可能にすることになるが、そういう事は実際には起きていない。

ローマ法でのソキエタスの場合は、複数のソキエタスの成員が個々の場合において、例えば保証人として連帯して責任を負う場合でも、未だゲゼルシャフト(会社)の財産というものは成立していないし、また銀行家についても、その責任は法律上義務付けられてはいるものの、この種の財産を共有するような制度については何も知られていない。

法制史においてもまた、ゲゼルシャフト(会社)の共有の財産という考え方が発展していく過程において合名会社が果たした大きな役割について今後この論文で追究していくことになるであろう。

重要なのは唯、既知の通り合名会社が共有財産という特性を特定の他のゲゼルシャフト(会社)形態と分け合ったということであり、また常にその種の共有財産の概念の設定は、ゲゼルシャフト(会社)内部の責任関係と非常に密接な関連を持っている。

参照:Labandについては、Gierke《Otto Friedlich von Gierke、1841~1921、ドイツの法学者、特に団体法の研究で有名》のDie Genossenschaftstheorie und ide deutsche Rechtspruchung (ゲノッセンシャフトの理論とドイツの判例)の438ページを参照。