大塚久雄の「プロ倫」日本語訳に登場する「コムメンダ」

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」には「コムメンダ」が2回登場します。大塚単独訳版(岩波文庫1989年)ではP.55とP.88です。大塚は最初のページでは「コムメンダ」、2度目は「コンメンダ」とわざわざ表記を変えて訳しています。ちなみにヴェーバーの原文では最初はドイツ語式のKommenda、2度目はラテン語・イタリア語式のcommendaです。きっと偉大な大塚先生の事ですから、この2つの書き方には何かの意味の違いがあると考えて日本語のカタカナ表記も変えたのでしょうね。お偉い先生の考えることは分かりません。しかし、Kommendaとドイツ語として表記するなら、どちらかというと「コメンダ」という表記の方があっていると思います。(「株式会社発生史論」での表記はすべて「コンメンダ」。)ちなみに「コム(ン)メンダ」にも「ソキエタス・マリス」についても、何らの訳者注も付けられていません。これらの問題については大塚が日本の学者の中ではもっとも詳しい一人だと思われますので、訳者注を付けるのに何の苦労もなかったと思いますが。それともこんな単語は常識だとでも思っていたのでしょうか。
ちなみに中山元訳では、最初は「コンメンダ」でちゃんと訳者注が付いています。「素晴らしい!」と書こうと思ったら2回目の表記は「コメンダ」、そんな表記は「ゴメンダ」。(イタリアでcommendatoreという勲章がありますが、それの日本語表記は一般に「コンメンダトーレ」。)それでソキエタス・マリスなどには訳者注はまったくありません。残念ながら。
ちなみに今回の日本語訳ではすべて「コムメンダ」で統一します。「海浜幕張(かいひんまくはり)」という幕張メッセの最寄り駅のローマ字表記がKaihimmakuhariとなっているように、ドイツ語であれイタリア語であれ、nとmが連続したら、後ろのmに引っ張られ前のnは自然にmになります。ましてや元の綴りはmmというmの連続です。nの音が出て来る余地はありません。実際に発音してみればすぐ分ることです。

Die Kommenda und die Bedürfnisse des Seehandels. 日本語訳(9)P.161 – P.165

日本語訳の9回目です。コムメンダの具体的な内容が紹介されます。今日の貿易商社の原型がここにある感じです。
注釈でラテン語が出てきます。文法的にはまったく難しくないのですが、辞書に載っていない語が多くて調べるのが大変でした。
元のドイツ語はここです。
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 この段階に至るとこういった海上取引での仕組みのさらなる発展については、色々な方向があり得た。-一方では自分の従者を商品と共に送り込む代りに、次のようなやり方が利益的には好都合と考えられるようになる。つまりその度毎にその商品を販売しようとしている市場を良く知っている第三者を雇い入れ、商品と共に船に乗り込ませ、さらにその際にその第三者が自身の裁量において船を委託者から借りるとか、その者自身が輸送手段を確保する、といったことを認めるというやり方である。他方では逆にそういった第三者を雇い入れることをせずに、商品と一緒に送り込まれる代理人ではなく、船主自身が報酬をもらった上で商品の販売をも引き受けるというやり方もある。9)取引の及ぶ範囲が広大になればなるほど、次のようなやり方がより一層好都合であると考えられるようになったに違いない。つまり、自分の従者を長い船旅の後、その者にとって未知の国に送り込むより、その国での諸事情に精通した委託販売人に商品を委託するというやり方である。後者のやり方はその後自然に、ジェノヴァにおいて公正証書上に繰り返し同一の名前が現れるようになったことからも分かるように、すぐにこの種の販売委託を請け負う独立した事業の出現につながったのである。

9)ジェノヴァのGiovanni Scriba《12世紀のジェノヴァにおける最初期の公証人》の公証人証書(Historiae Patriae Monumenta《イタリアの史的文書の集成。1836年~1901年にトリノで編纂された。全22巻。以下HPMと略す。》のchartaum II)、No. 261、328、329、306他多数。1155年以降、こういった様式の全ての例が得られる。329と306では船主とコムメンダで委託を受けた者は同一人物ではない。トラニ法典とトルトサ慣習法においては、法的な代理人としての船主の代理人という者は出て来ない。Decisiones Rotae Genuae (de mercatura, et ad eam pertinentibus) (1606年)(ジェノヴァ控訴院決定集、原文のGenuensisは全集版の注によれば、Genuaeの誤り)を参照。

 ある一人のそういった代理人の報酬は、いつも決まった額で固定報酬という形で与えられることもあったが、ある場合にはしかし、12世紀のジェノヴァで普通に行われていたように、委託販売人は利益の一部の分配にも与ることが出来たのであり 10)、こうしたやり方が通常コムメンダと呼ばれる関係なのである。こうした委託販売人が自らも利益の分け前に与ることの利点は明白であるが、しかしまた次のような状況にも適合したものであった。つまり、委託を受けた代理人が根源的にただ委託した方の手足である限りにおいて、そうした手足は競争が激化して単純に商品を通常の海外市場に投入することが難しくなればなるほど、それだけいっそう需要を正しくつかみ一般論として自立した取引が必要になるという意味で変わっていかざるを得ないのである。コムメンダで委託を受けた者は一人の請負人として職務を行うのであり、その結果その働きに対する報酬はもはや雇い人のような固定した賃金の受け取りではなく、その事業全体の収益の一部を受け取ることになるのである。

10)コムメンダの標準となる史料は、先に引用したジェノヴァの公証人証書の1155年の例えば1.cのNo. 243に見られる:”Ego … profiteor me accepisse in societatem a te … lib[ras]50, quas debeo portare laboratum usque Alexandriam et de proficuo quod ibi Deus dederit debeo habere quartam et post reditum debeo mittere in tua potestate totam prescriptam societatem …”(私は…ソキエタスの関係において貴方から50リブラを受け取ったことを認め、私は自分の業務としてその商品をアレクサンドリアまで運搬しなければならない。その仕事の収益の中から神は私が1/4を受け取ることをお許しになるであろう。そして私が戻ってきた後は全てのあらかじめ決められたソキエタスの利益を貴方に渡さなければならない…)
コムメンダで委託を受けた者の通常の生計の費用は規則により委託をした側の負担となり、その他の業務遂行に必要な諸掛かりについては委託された側の負担となる。-コムメンダ契約の根底にある一方的な性質は文献史料においては領収書の形で現れ、そこからそれを読み取ることが出来る。

コムメンダのソキエタス的性格

 コムメンダにおけるソキエタス的要素は-コムメンダはその成立の最初からソキエタスと呼ばれたが-ソキエタスの形態での業務を次の限りにおいて内包している。つまり、事業におけるリスクの分担はここにおいても資金提供者が負い、それに対して航海と販売における諸掛かりは取り決められた範疇に従って(注10を参照)それぞれが一定割合を負担し、更には利益もそれぞれの持ち分に応じて分割されたのである。このソキエタスという制度の国際的な発展形態であるコムメンダは次のような形で登場する。つまり、利益の分割の仕方を決める尺度について、後に大部分がはっきりした法的規定となる任意法という形での商習慣が、委任を受けた者は純利益の内から1/4を配当として得るということを定める形である。

コムメンダの参加者の経済的位置付け

 この(コムメンダにより)業務を委託する側は、商品の生産者であるか、または後背地の商品を買い付ける仲買人かであり、一般的には輸出業者であることが多くその場合は商品を、あるいは輸入業者の場合は資金を委託するのであるが、ある場合にはこの両方を兼ねることもあり、その場合は輸出した商品を売却したその売上げを転用して別の商品を買い付けて輸入を行うのである。(ジェノヴァでは後者の場合を商売上の技法として”implicare”と呼んでいた。)

11)仲買人について:HPMのchart IIのNo.306(1156年)を参照:
”Nos M[archio dormitor] et A[lexander lngonis Naselli] profitemur nos accepisse a te W[ilielmo Ncuta] 8 pecias sagie et volgia que constant tibi lib[ras] 24. has debemus portare laboratum apud Palermum et inde quo voluerimus dum insimul erimus etc.”(我々Marchio dormitorとAlexander Ingonis Naselliは貴方Wilhelm Neutaから24リブラの価格で貴方に債務を負っている8巻きのsagieとvolgia《2つともおそらく当時の織物の種類か?欧州は元々毛織物が一般であったが、この時代に絹織物と木綿が伝わっている。ヴェーバー以外にも2、3の文献がここを引用しているが、この2つについてはそのまま引用しており訳されていない。》を受け取ったことを確認します。我々はそれをパレルモまで運搬する義務があります。そしてそこから先も我々は出来る限り一緒に行動したいと希望しています。等々)

12)前掲書(HPM)のNo. 337 (1156年): Ego … profiteor me accepisse a te … (folgen die Waren) unde debeo tibi bizantios 100 … et eos debeo portare ad tuum resicum apud Babiloniam et implicare in lecca et brazili … et adducere ad tuum resicum etc. (私は貴方から次の商品を受領した事とそれによって貴方に100ビサンチン{金貨}の債務があることを確認します。そして私はその商品をバビロニアにある貴方の作業場まで運搬し、そしてそこでleccaとbrazili《おそらく2つとも何かの染め物の技法ないし染料の種類か?》に染めるという義務を負っています。さらにその染めた布を貴方の作業場まで持っていき…等々)-Lepa《Rudolf Lepa、1851 – 1921、ローマ法学者》の見解(商法雑誌第26巻P.448)である、”accomodare”と”implicita”が前者は委任された者が事業収益に対して分け前を持つことにより、後者は対象物の価値の1%を受け取ることにより、それぞれ報酬の受け取り方が異なっているということは、Lepaがその証拠として挙げているCasaregis 《J. L. M. de Casaregis、1670 – 1737、イタリアの法学者で手形やその裏書き、保険や海上取引などの各種商行為を研究し後代の商法の整備の基礎を作った。》の”Discursus de commercio”の29.9ではきちんと証明されていない。”Implicare”はジェノヴァの文献史料においてではなく、むしろもっと後代でLepaが説明しているような意味を持つようになった。それは当時の商慣習において、ごく普通に使われていた単語で、ドイツ語での”Anlegen”、”Investieren”(出資する、投資する)に相当する表現だったのであり、今日のイタリア語の”impiegare”(資金を用いる)に等しい。Thöl《Heinrich Thöl、1807 – 1884、ドイツの法学者でドイツ商法の整備に貢献した。》もこのCasaregisの引用の箇所について更なる根拠を示すこと無しに、Akkomendatar(コムメンダにおける委任する方)が、”Implizitar Provision”という利益配分を得ていたという見解を示している。既に述べたようにより以前の時代については、どこまで後代の概念が適用出来るかについては疑ってかからなければならない。

この最後の2つの場合においては、コムメンダで委託される方を特別に独立した者と位置付けることが不可欠になる。そういった委託される方は、その取り扱う業務を自己の勘定では扱わないために、実質的には企業家とみなすことは出来ない。一方コムメンダで委託する方は、商品を販売する市場とは一様に弱い関係でつながっているだけであり 13)、それに対して委託される方が独立して主に業務を執り行う者として、委託する方と市場の間に自らを割り込ませるのである。原則的にまずは一人の委任者に一人の被委任者が対置される。被委任者がコムメンダで委託されたもの以外の商品をその市場に持ち込む場合には委任者側の特別な許可が必要な限りにおいて、後の時代になってコムメンダによる委託外の商品についての(被委任者側からの)申告を、形式的にではあるが文献史料の中で確認することが出来る。(参照:HPM chart II、346、424,655など多数)しかしながら複数のコムメンダ契約による商品の受け入れと、さらにそれに加えて自分自身の商品の持ち込み、また多数の自分自身の船と自分の家族を従業員として使った大規模な貿易事業は、しかしながらジェノヴァの文献史料が示しているように、もはや特別の事では無くなっているのである。このことはまずもって経済的な面では重要であるが、法的な概念の把握という意味では、多数の委任者が同一の被委任者を使い、危険と利益の分担のために組合を結成し、つまりソキエタスとしてのコムメンダが成立するという後代に観察出来る関係は、まだほとんど確認することが出来ないのである。

13)HPMのchart. IIのNo. 340は、コムメンダ関係を取り結ぶことは既に銀行の業務の一つになっていたことを示している。ヴェネツィアの銀行のコムメンダ契約法(1374年9月28日、1403年11月21日)を参照せよ。(Lattes《Elia Lattes、1843 – 1925、イタリアのローマ法、法制史・経済史の研究家でエトルリア語の専門家。》により、”La libertà delle banche a Venezia“の書名で出版されている。)