「ローマ土地制度史」の日本語訳の8回目です。ここの特にラテン語部分の解読には時間がかかりました。scamna と strigae を組み合わせた複雑な区画のイメージを掴むのが難しかったのですが、ヴェーバー自身が付けてくれた添付図2を見てようやく分かりました。しかしヴェーバーらしくマニアックで、ここまで変則的なケースを詳細に記述する必要はなく、単に例外でこういうものもあった、ぐらいでいいような気がします。
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しかしながら更に、割り当てのための土地区画は、たとえその各々が等しい価値でなければならなかったとしても、しかし同時にそれらが必ずしも同じ面積に分けられている必要は無かった。それよりもそれぞれの面積は事前に行われていた土地の価値査定の結果と整合している必要があったし、その平野における該当の部分の土地の質によって[価値査定額が]異なっていても構わなかった。そういった土地の価値査定は、それはかなり大雑把なものであったかもしれないが、ただ既に開墾済みの土地が割り当てに使われたので、それほど困難なものではなかった。実際の所、土地測量人達は、割り当てに使われる土地の面積については、その土地の価値査定に合わせて加減していたと記録に残している。(ラハマン、p.156, 15行、参照:p.222の13行;p.224の12行)19)
19)そういった割り当てられる土地の面積が様々であった証拠として、U.C.643の公有地配分法(第60章)のある箇所が注目に値するが、以下のように規定されている:
neive unius hominis (nomine quoi . .. colono eive [sive] quei in coloneinu)mero scriptus est, agrum quei in Africa est, dare oportuit licuitve, amplius jugera CC in (singulos homines data adsignata esse fuisseve judicato . ..)[.]
[ある一人の者の(名前に対して、その者が植民者であるか、あるいは植民者の資格があると登録済みの場合、その者に対しアフリカの土地を割り当てることが明確に要求される。その土地の面積は200ユゲラより大きく、一人の者に割り当てられるか、あるいは既に割り当てられているかである。)]
モムゼンは(C.I.Lのad h.l.->Lex agraria, P.97)次のことを確実視している。つまり、土地の所有に関して様々なやり方が存在しており、例えば一人あたり200ユゲラだったり、或いはそれより少なかった場合もあった。実際の例では、ポンペイでの例が示すように(参照:ニッセン≪1839~1912年、Heinrich Nissen、ドイツの古代史家。≫のPompeianische Studien, 1877年、P.5881)、割り当てられる土地の等級はその都市においてあらかじめ決められていた。しかしそれに関連する法は、割り当てられる土地の面積の最大値だけを定めており、200ユゲラという面積がある特定のカテゴリーの植民市における、規定された標準面積と見なすべきだとは一言も言っていない。私はむしろ次のように考えたい。割り当て用の土地の面積はその土地の価値査定に応じて異なっていたのであり、ただ1ケントゥリア以上の土地を一個人が所有することのみが原則的に禁止されており、例外的なケースとしてそれ以上の面積の土地を所有する場合には、法技術の上でそれは latus fundus [広大な土地資産、の意味。後に生じた大土地所有制は ラティフンディウム [latifundium] と呼ばれた。](ラハマン)、157、5)というカテゴリーで扱われたのである。
ここで植民市における土地の割り当てにおいての籤による accepta [10人組に割り当てられた土地] の決定を通常のこととして考える場合、しかしそのやり方はより古い時代の均等割り当てにおいては明らかに例外的なやり方であったのであるが、そうではあっても次のことは疑いようが無い。つまり手間のかかる土地の価値査定と accepta の面積測量を行って、その結果定まったその土地の価額で調整するような割り当て方の代わりに、機械的に同一面積の土地区画を分割するやり方の方が一貫して普通のやり方だったということである。というのは、我々は均等割り当ての際に、「一人一人に同じ面積の土地が供与されねばならない。」という原則が規則的に付け加えられていたことを既に知っているからである。この土地の分割割り当てにおいてはまた、各植民市のそれぞれ異なる事情にも合わせる形で調整されていた。各植民市においては、そこに入植する十分な数の志願兵を集めることが出来ない場合には、強制徴集もされており、その徴集された人員は強制的に形の上だけでもある新規のゲマインデ [地方共同体] の構成員とされた。より古い時代においては、住む場所も強制的に決められていたが、時代が下るといくつかの異なるゲマインデの中から一つを選ぶという形での、住む場所の [限定的な] 選択権が与えられた。その強制徴集の代償としてそれぞれに均等に分割された土地区画を提示された者は、その者の自由意志でそれを受領するかしないかを決めることが出来た。もし受領した場合は、それはその者が adsiduus という名前の土地所有者に成ったことのみを意味し、それ以外の何らかの新たな義務を負わされることは無かった。
ベテラン兵≪ローマの軍団兵は45歳になると退役したが、その退役前5年以内の40~45歳の兵士のこと≫による植民は、それに対する土地の割り当ては測量人達にとって、実務上もっとも重要な仕事であったが、その [全てのベテラン兵を対等に扱うという] 原則に従って、均等割り当てが採用された。20)
20)既に古代のベテラン兵の植民の場合の土地割り当ても均等割り当てであったし、ハンニバル戦争 [第二次ポエニ戦争] 時のベテラン兵(リヴィウス、Ab urbe condita、31、4)への土地割り当てにおいても同じであった。その他、より古い時代での均等割り当ては、また一種の戦利品の分配の形態を取っていた。
というのは同様のやり方で、acceptae についても、それは前述したようにハイジンが(De limitibus constituendis、p.200)”Conternationsverfahren” [3つで1組の処理、土地の3等分割処理]と呼んでいるものであるが、1ケントゥリアを3分割するやり方、つまり1/3ケントゥリアずつの割り当てで進められたが、その一区画の面積はケントゥリア自身の面積が3種類あったため、66 2/3、70、または80ユゲラであった。――あるいは全く逆に、1ケントゥリアの面積が、3つの均等割りされた土地区画の合計として、200、210、または240ユゲラと定められたのである。それに対してハイジンの上述の箇所で述べられた別のやり方、つまり10人組に土地を割り当てる方法を述べている箇所で、――ハイジン、(De limitibus constituendis と De condicionibus agrorum、p.113)――次のようなことが起きていたらしい。つまり、その際に、それぞれの10人組に分配された modus agri (16、17行目参照)[その土地の面積] がそれぞれに異なっていたということである。更には次のことも間違いないと思われる。つまり、均等割りされた土地区画は、その全面積がいつもある一つのケントゥリア内に規則的に含まれている訳では全くなく、その結果として、[ケントゥリアの境界線を成す] limites [小路] も各区画の境界線と規則的に一致したりはまるでしていなかったということである。私はこれらのベテラン兵への土地配分について次のことを仮説として提示したい――というのはここではまたそのようなことに言及されているからであるが――古代での均等土地配分の実施方法(modus procedendi)が、それより古い時代の植民市における土地配分でのやり方と混ぜ合わされていると。そのことは次の現象によって示されている。つまり後者の根源的かつ固有である acceptae の籤による配分の方式が、そこにおいてはより本来のやり方と見なされているということである。後者の籤による土地配分はさらに、「事物の本性」≪die Natur der Sache、法律が完全には規定出来ていない部分を補完する一般的道理のこと≫にも合致していた。というのはそのようなある意味力ずくの大規模土地配分においては、ベテラン兵は元々のその選定方式の疑わしさや自分達への劣悪な取り扱いについて苦情を申し立てる権利を留保していたのであり、そしてまたその者達の不平不満は場合によっては [その植民市にとって反乱などの] 危険なものになる可能性があったからである。更にはまた、そういった理由から違法性の明白な証拠となることも避ける必要性もあったからである。これらのベテラン兵に割り与えられた土地区画はそれ以外にも、単純な均等割り当てとはまた違う、長年の兵役経験者に対する恩給的なある決まった価額 [の土地] の給付という意味もあった。それ故に個々に割り当てられた土地区画の価額は同じでなければならなかったし、現実的にそれが無理な場合でも最低限ほぼ同額である必要があった。それらの理由から、この割り当て方式は本来の均等割り方式とは違い、測量の方法もその土地の価値査定に基づくやり方が採用されていた。しかしながらいずれにせよ、私は次のことは確からしいと考える。つまり、1ケントゥリアを3分割して3人のベテラン兵に割り当てるというやり方は、10人組にそれぞれ土地を割り当てる古代の均等割り当てのやり方や、またそれより古い時代での植民市における土地配分のやり方に倣ったものである [まったく新しいやり方ではない] ということである。
ケントゥリアをベースにした土地配分と scamna と strigae をベースにした土地配分の違い
これまで取り上げて来た土地配分の二つの方法――ケントゥリア[正方形]をベースにする方法と scamna と strigae [長方形]をベースにする方法――の違いについては、ここまではただ前者に対してのみ境界線として limites [小路]というものが使われていた、ということを確認して来た:ただ limites が [境界線として] 使われている場合のみ、本来は測量された土地区画がケントゥリアと呼ばれた。しかしながら当時の測量人達が残した著述を見ると、そこには二つの方法を混合したやり方も見出せるのである。それはつまり[scamna と strigae を使った] ager scamnatus であるにも関わらず limites によって区切られており、[scamna と stirgae の組み合わせで構成された長方形の] ケントゥリアを単位として測量されているのである。このやり方がより後代の二つが混合されたやり方であるというのは自明であるが、しかしながらその混合方式が採用された理由については、測量技術の観点でもう少し詳しく見てみる必要がある。M. ユニウス・ニプサス≪Marcus Iunius Nipsus、生没年2世紀、ローマの測量人兼著述家≫の注釈(p.293)によれば、ager scamnatus においての1ケントゥリアは、[200ユゲラではなく] 240ユゲラだったと述べられている。それはハイジンが(De limitibus constituendis のp.206で)この混合方式による土地分割についての、非常に理解が困難な箇所についての一つの解釈として述べている詳細な説明によれば、同じ面積の土地区画を作り出すための一つの方法について述べているのであり、そこから解釈出来ることは、この240ユゲラという総面積は80ユゲラの土地区画が3つ、という形で構成されているということである。ハイジンは当該の箇所に先行する箇所で次のように述べている。この方法は、ager arcifinius pro vincialis ≪地方にて不規則な境界線、例えば片側が河川で区切られているなど、を持っている土地≫の測量方法を説明しているのであると。それに続けて、まず論拠を説明してから、その論拠については後述するが、通常のケントゥリアをベースにした測量方法以外の方法を採用する必要性があったのだと推論している:
“Mensuram per strigas et scamna agemus. Sicut antiqui latitudines dabimus decimano maximo et k[ardini] pedes viginti, eis limitibus transversis inter quos bina scamna et singulae strigae interveniunt pedes duodenos itemque prorsis limitibus inter quos scamna quattuor et quattuor strigae cluduntur pedes duodenos, reliquis rigoribus lineariis ped[es] octonos. Omnem mensurae hujus quadraturam dimidio longiorem sive latiorem facere debebimus: et quod in latitudinem longius fuerit, scamnum est, quod in longitudinem, striga.”
「我々は strigae と scamna を使った土地測量を [以下のように] 行う。古人達がそうしたように、まずある広がりを持った土地に対し、それぞれ20ローマ・フィート [約5.92m] 幅の decumanus maximus [東西の基幹道路] と cardo maximus [南北の基幹道路] を [その土地の中央で交差するように] 設置する。そして外周の境界線をそれぞれに直角になるように設置する。その境界線の内側が、2つの scamna [東西に長い長方形] と1つの strigae [南北に長い長方形]を組み合わせた形状を一単位として、それと幅12ローマ・フィート [約3.55m]の街路によって区切られる。同様に我々は直線で囲まれその中に4つの scamna と4つの strigae を含んでいて幅12ローマ・フィートの街路で囲まれた単位区画を設定する。残った部分については8ローマ・フィート [約2.32m]の幅の街路で囲まれる。全ての測量された土地は、縦長の長方形または横長の長方形によって分割されねばならない:横長の長方形が scamna であり、縦長の長方形は strigae である。 」
ここにおける [変則的な] ケントゥリアは――それは長方形として記述されているので――それ故に縦が横の1.5倍の長さとなっているかあるいはその逆であり、つまりはそれぞれの辺の長さは20 [約710.4m]と30 actus [約1,065.6m]であり、その面積は [1ユゲラは2平方 actusなので 20 x 30 / 2 で] 300ユゲラ [約75.6ヘクタール、228,690坪=東京ドーム敷地の16個分] であり、それを3等分した時の一つ分の面積は100ユゲラ [約25.2ヘクタール、76,230坪] である。しかしもしかするとそこには思い違いがあり、ハイジンはニプサスの著述におけるケントゥリアを20 actus x 24 actus [240ユゲラ]と見ているのかもしれない。その場合の考え方は以下のようになる。つまり、ここでのケントゥリアが1つの土地区画が3つの区画要素の組み合わせにより構成されると述べられており、それ故1つの strigae と 2つの scamna からなる [長方形の]ケントゥリア(あるいは逆に2つの strigae と1つの scamna からなる [長方形の] ケントゥリア)を単位としてより広い土地がその複合体として構成されているのであると。そこにおいては saltus [5 x 5 または 4 x 4 ケントゥリアの広さの土地単位]の代わりに通常の ager centuriatus [ケントゥリアによって区画された土地] が出現しているのである。その [変則ケントゥリアをベースにしたより広い土地単位の] 一つの辺は decumanus maximus に平行であり、ハイジンによれば4つの strigae と3つの scamna から出来ており、もう一方の辺については cardo maximus に平行であり、2つの scamna と 1つの strigae の組み合わせを単位として構成されており、この二つの辺 [x 2]で境界線が作られていた。[添付図2を参照] このような前提から検討し、土地が不規則な場合について私は次のように仮定したい。つまり、206ページの第10行と第12行に出て来る prosis [縦の] と traversis [横の] は入れ替えて読むべきであると。その場合ハイジンが想定している耕地図としては、添付図2の2つの地図の内の一つに該当すると考えられる。添付図2の下の地図は、ハイジンが述べている 20 actus x 30 actus のケントゥリアに該当し、上の地図はニプサスが述べている 20 actus x 24 actus のケントゥリアに相当すると考えることが出来よう。