Wikipediaという暗黒空間

Wikipedia(日本語)については、以前は色々書いていて、私が初めて立てた項目もいくつかあります。マックス・ヴェーバーについては、これはさすがに元からありましたが、それでも現行のものの6割くらいは私が書いたものです。その内、通称「Wikipedia自警団」と呼ばれる連中とのトラブルがあり、Wikipedia(日本語版)から手を引きました。しかし、先日、Wikipediaで久し振りにヴェーバーの項を見たら、次のようなトンデモ記事が書かれていました。

「1882年にはハイデルベルク大学(ハイデルベルク大学法学部)で法律学を、ベルリン大学(Volks-Betriebswirtschaftswissenschaftliche Fakultät-人民経営学部)で経済史を学ぶ[注釈 2]結局、経済史の学士(経済学)と修士(経済学)の学位を取得した。1883年にはシュトラスブルク[注釈 3]にて予備役将校制度の志願兵として1年間の軍隊生活を送る[注釈 4]。将校任官試験を最優等の成績で合格し、予備役将校の資格を持つ下士官に昇進した[18]。
 
1889年、ベルリン大学で「中世合名・合資会社史」の博士(経済学)の学位を取得、テオドール・モムゼンより、「わが子よ、汝我にかわりてこの槍を持て」という祝辞を送られ経済学者と認められた。」
 

Volksを人民と訳すセンスは置いておいても(というかこの学部名はおそらく東ドイツ時代のベルリン大学の学部名でしょう)、ヴェーバーが法律を学んだのはハイデルベルク大学での間だけで、ベルリン大学では経済学(経済史)を学び「中世合名・合資会社成立史」で経済学博士の学位を得たそうです。Wikipediaの自警団は人の書いた物に「要出典」とか「独自研究」とかの変なタグを嫌みに貼り付けるのが好きな癖にまさにそういうタグを付けるべき記事は放置です。

言うまでもなく
(1)ヴェーバーが「後に」歴史学派の経済学者と認められるのは事実ですが、少なくとも大学で経済学に関する学位を取ったなどというのは、マリアンネの伝記にも青年時代の手紙にもどこにも出てきません。
(2)学士はともかく、修士であれば最低限論文審査がある筈ですが、ヴェーバー全集にもそんな論文は載っていません。
(3)そもそもヴェーバーの当時のドイツに、経済学士とか経済学博士などという学位は存在していません。経済学は法学部の中で片手間に研究や教育が行われていただけです。現在のドイツでも経済学博士という学位は無く、英語で言えばDoctor of scienceの中にまとめられています。
(4)ヴェーバーは1886年に司法官試補の試験に合格していますが、兵役の1年を除いたわずか3年間で、法学の他に経済学の修士を取るなど、いくらヴェーバーが天才といえどもあり得ません。
(5)経済学の博士号を得たことで、テオドール・モムゼンが祝辞を送るなどあり得ません。

結局、この項目の記事を多く書いている私としては放置できかね、結局修正して今は以下のようになっています。
「1882年からハイデルベルク大学法学部で法律学、ローマ法、国民経済学、哲学、歴史などを3セメスター(=一年半)学び、その後シュトラスブルク大学、ベルリン大学(当時の名称でFriedrich-Wilhelms-Universität zu Berlin)、ゲッティンゲン大学でローマ法や商法、法制史、ドイツ国法・行政法、ドイツ団体法、農業経済史などを学んだ。[16][注釈 2]1883年にはシュトラスブルク[注釈 3]にて予備役将校制度の志願兵として1年間の軍隊生活を送る[注釈 4]。将校任官試験を最優等の成績で合格し、予備役将校の資格を持つ下士官に昇進した[19]。1986年には司法試験に合格して司法官試補の資格を得、1887年から1991年まで裁判所に勤務しながらベルリン大学で学究生活を続けた。[20]

1889年、ベルリン大学で「イタリアの諸都市における合名会社の連帯責任原則と特別財産の家計ゲマインシャフト及び家業ゲマインシャフトからの発展」という論文(後に合資会社についての考察も追加されて「中世商事会社(合名・合資会社)史」という論文になった)[21]で法学博士の学位を取得、論文の審査を傍聴しヴェーバに質問して議論したテオドール・モムゼンより、「<息子よ、私の槍を持て、私の腕にはもうそれは重すぎる>と誰にもまして私が言いたいのは、私の高く評価するマックス・ヴェーバーに向かってであろう。」という祝辞を送られた。