ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(53)P.288~291

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第53回です。
元々ローマの税制はシンプルで税率も決して高く無かったのですが、4世紀の衰退期では複雑化して、ディオクレティアヌス帝がそれを再び統一しようとしますが、結局利害関係が複雑にからみあってなかなか上手く行かなかったようです。また現物貢納の場合の輸送の大変さ、負担の大きさに関しての議論があります。ローマは今の日本と同じで食料自給率は低く属州から遠距離を運んでこなければならず、大変な仕事でした。後1回で第3章が終わります。
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146) テオドシウス法典 14 de censitor[ibus] 13, 11はそれ故に次のことを定めている。つまりある者でその所有地の一区画についてケンススでの税額評価の軽減を要望したものは、その者の所有する全ての土地の評価をやり直し、場合によっては税額をそれぞれの土地毎に以前とは違う形で分割することを是認しなければならなかった。

147) テオドシウス法典 10 de anno[a] et trib[utis] 11, 1(365年の):アフリカにて豊饒なケントゥリアと荒れ地のケントゥリアの両方を持っていた者は、”ad integrum professionis modum”[(豊かな方の)土地の等級に合わせた全体の面積分の]税金を支払わなければならなかった。しかしながらテオドシウス法典 31 の同じタイトルの部分は再びこのやり方を取りやめており、荒れ地の方のケントゥリアについて免税とすることを許可していた。最初の箇所は私の考えではまだ当時でも均等な、面積当たりで課された vectigal が残っていたことの証明であり、それは丁度先に述べた u.c.643年の土地改革法によって ager privatus vectigalisque に課せられたと推定されるものと同様である。

この種の制度はしかしながら全ての課税対象の所有地に対して一般に必要なものとされるようになった。課税対象のゲマインデにおいて国家が税の賦課の方法を規則によって定めていたかあるいは自らの手中において自由に出来た場合には、この方策はいずれにせよ praequatio の性格を持っていたし、またそのように表現されていた。

仮に土地所有者の努力が次のことを目的としていたら、つまり個々の土地区画への税額を近代的な土地税のやり方に従って可能な限り固定額とするということであるが、他方では juga を使った徴税の体制は次の目的を持っていたといえ、それはその時々の等倍の係数[simplum]に基づいた土地台帳に関しての必要に応じて、より少ないあるいはより多くの税を徴収するとことが出来るようにするということであるが、その結果としてこの2つの目的は両方を実現することは不可能であり、そして比較的高額の土地への税賦課においては一般にそのような土地台帳の新しい方法は、それはディオクレティアヌス帝が何とか実施しようと努めたものであるが、それが可能となったのはただ個々の土地の税額を定期的に見直すことが出来た場合だけだった。その目的のために peraequatio は使われたのであり 148)、それ故に個々の土地区画の面積を組み合わせてそれを juga ベースに変更し、その際に元々の jugum の値がある程度変更されることは許容されていたのである。しかし更には一般に次のことが古くからの ager privatus の分類の土地にも導入されたのであり、そういった土地分類は元々使用料だけを支払うべき土地として通用していたものだけに認められていたのであるが、それはまず税負担を個々の土地のそれぞれの部分に分割することがそういった土地を分離売却する場合に先行して行われるべき、ということと 149)、そして税務当局への届け出と全ての売却においての元々のカピタティオを新しい所有者の負担にするという書き換えの申請が一般的にはされるべきこととなった、ということである 150)。

148) クリアーレス≪クリアの指導者達≫はこの目的のための請願を行っている。テオドシウス法典 3 de praed[iis] senator[um] 6, 3 (396年)。

149) このことが先に引用したテオドシウス法典 2, §1 de contr[ahenda] empt[ione] 3, 1の規定の目的であった。その文献の引用済みの箇所の更に先を参照せよ。

150) テオドシウス法典 5 sine censu 11, 4

そのことと結び付いているのは先に言及した握手行為の禁止≪337年のコンスタンティヌス大帝の法による≫であり、それは土地の面積、つまり locus に応じた課税の際にはもはや準拠すべきではないとして許可されていなかったように見られた可能性がある。

ユガティオ以外の特別税

ここではディオクレティアヌス帝の税制改革についてはこれ以上深入りすることはしないが、ここまで問題として来たことはただ次のことである。それはその改革の特徴として部分的にはただ古い時代からの様々に異なった課税方法を一まとめにしたものを含んでいるということと、更にはその改革が直面した非常に異なった様々な課税に関する状況をある統一された課税制度にまとめることが出来なかった、ということであり、――それ故に全ての個々の文献史料の箇所をバランスを取ってある一つの原理に還元するという試みは、単に非常に近似的なやり方でのみ実行可能なのであり、ユガティオというやり方に対しての個々の土地と土地所有のあり方はよりむしろその地方で必要とされたやり方に従いそれぞれに異なった状態になっていたに違いない、ということである。唯一統一性を把握出来る点はかつて存在した土地所有に関しての諸状況からの論理的な帰結を引き出す、ということであり、それは特に大地主制度に向かう方向での課税傾向である。

その他次のことは言うまでもないことであるが、ここでの考察は土地に課された義務について、それを完全に汲み尽くすようなものでは全くない。

自然物の納付
Adaeratio≪現物納から同等の価値の金銭による納税に変えること≫

ここでは特に難解でかつ包括的な自然物貢納のシステムについてはごくわずかに言及することを試みるに留めた。ディオクレティアヌス帝による改革においては自然物貢納義務の土地を(金銭による)土地税の義務というやり方に組み入れようとする試みがなされたが、しかしそれはすぐに断念され、それによって一定割合(%)による財産税の一般原則を免除する事例が数多く作りだされた。他方では(新しい方式の)税負担義務は他の共通の賦課の免除につながった場合もあり、それは例えば10人組長の所有物への税やあるいは新兵徴収の義務の免除さえも行われた 151)。

151) テオドシウス法典 1 qui a praeb[itione] tiron[um] 11. 18 (412年の)。

ここで見て取れるのは、こういったディオクレティアヌス帝の改革がしかしどのようにして至る所で個々の所有者の分類において特別な地位を認めなければならなかったかである。共和国の属州の一部においては古くからの穀物購入のやり方での自然物貢納がユガティオによる税への付加税とされた。しかし確かなこととして自然物貢納は部分的にはまた古くからの収穫物の一定割合を納める、という形で存続した。一般論として次のことを主張するのはおそらく間違っているであろう。つまり自然物貢納が金銭納と比較してより軽い税負担の形態である、ということである。この主張はより小規模な自営農民である土地所有者一般には当てはまるであろうし、そのために時々に地主またはゲマインデによって課されていた現物貢納を金銭納付に変更すること(adaeratio)は禁止されており、その理由はこの場合にはそこに居住する者達が等しく現金支払いを強制されるのであり、そのことはその者達から非常に困難なことと受け止められていたであろうからである。これに対して大土地所有者達の努力はそれとは逆にその者達に課されていた様々な義務を一つにまとめて固定額の現金による定期支払金[rente]にしておらう方向に向かっており、そうすることはその者達にとっては実質的にほとんど義務の軽減と同じことだったのである 152)。

152) それ故にテオドシウス法典 1 [de] erogat[ione] 7, 4(325年)の adaeratio は義務を課しているもののように見えるが、それに対してテオドシウス法典(新)の23(最後の所)とテオドシウス法典 4 tributa in ipsis spec[ibus] inf[erri] 11, 2(384年)と同法典 2 de eq[uorum] coll[atione] 11, 17(367年)においては義務の軽減のようであり、同法典 6 de coll[atione] don[atatrum … possessionum]11, 20(430年)では税負担においての特典のようである。同法典(新)の 23 はrelevatio[何かの控除]、adaeratio[現金納税]、donatio[贈与の控除]、translatio[所有権移転の控除]による税の軽減措置を終了させようとしていた。

次のことについては既に主張してきた。つまり元老院議員及びその他のカテゴリーに属する占有者達が、新兵の徴集義務ですれその者達にとって金銭払いで置き換え可能にする、ということを徹底して推進していた、ということである。

自然物貢納を非常な程度までに強要するということは本質的には、そういった穀物が消費される場所までの現物の輸送の義務化ということであった。特記すべきことは、”vectigal”という名称は元は文法的には vehi から来ている――”Fuhren”[運搬する]とモムゼンは訳している――ということであるが、目下の所の仮説ではその表現は取るに足らない程の距離ということを言っている考えられる。それに対して、金銭にて見積もれば、自然物のその消費地にまで届ける輸送のコストは、帝政期においては間違いなく、その輸送距離が相当程度あった場合には、元々の自然物自体のコストを大幅に超えるものになっていた。行政当局がもはや投機の介入や税としての賃借料の大規模な引受人を利用することを止め、その代わりに自然物輸送に関わる全ての業務を国有化し、それによって変動する収穫高と商況への適応が困難になった時に、輸送に関連した困難さと摩擦は至る所で高まっていた。しかし更に無統制の状況と数の多い役人達を経由して業務を引き受けた大規模な業者の側からの、その業務負担を割り当てられた者への耐えがたい圧迫により、しかしながら個々の官庁とその属官の何重にもなった管轄の下においては、巨視的で統一的な業務遂行上の視点を持つことなく、そしてそれはその事業を引き受けた大規模業者いにおいても同じであったが、この業務をともかくも実施することが取り決められたのである。というのもテオドシウス法典の自然物輸送を扱っている表題の部分は、十分にはっきりと輸送の賦課が如何に過酷なものとして受け取られていたかを示している。そういった類の現物経済というものは、その当時のローマのような世界的国家において、また当時の交通手段をもってしてはほとんど不可能だったのであるが、――しかしながらまた新兵徴収においても、その手続きについて地方における兵の徴集というやり方を使わざるを得なかったのであり、それはハドリアヌス帝の時代まで続いたのであるが、――古代国家ローマはザクセン王ハインリヒ4世≪ザクセン公ハインリヒ、ハインリヒ敬虔公、1473~1541年、フリースラントの領主となったがフリース人の反抗によって結局その支配権を兄に譲ることになった。≫がそれが原因で失敗したのと同じ困難に直面していたのであり、その解決はただ特別な領土を解体させることにしか見出せなかったのである。