ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(54)P.292~296

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第54回です。
ついに第3章、おそらくもっとも訳が大変な部分を終了し、次回から第4章に入ります。
ローマの属州における土地所有のあり方は、本当に様々で理解が大変でした。
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動産への課税

ここまで属州においての人頭税についてそれが後の時代のカピタティオになるまで、それが財産税の性格を持っている場合に限定していたが、更に詳しくは論じて来なかった。ディオクレティアヌス帝の tributum capitis が単純に言えば属州においての人頭税であったことは疑いようがないように思われるが、それは確かに自由な日雇い労働者と小作人、奴隷と運搬用家畜の頭数に対して等しく課され 153)、夫役に相当するものであった。ディオクレティアヌス帝の改革はただ次の場合においてのみ変更を加えようとしたものであり、それは既に進行してい発展の実質に沿った形で 154)、彼が小家畜もその人頭税の対象に組み入れ、そしてこれらの対象物を全体で財産目録化して税額を見積もらせた、そういう場合である 155)。

153) 都市 Zarai ≪ダルマチアの都市≫は碑文として残されているその税額表の中で明確に、奴隷、馬、そしてらばに対して同じ条件を適用して税を徴収している。(1 Sest.)該当する税額表の断片は lex capitularis という名前であり、まさしくカピタティオに関連付けられている。

154) 前注で引用した碑文は同じ章にまたロバ、牛、豚、羊、ヤギに対しても課税している。

155) 先に引用したレスボス島における土地台帳の断片(Bull. de corr. hell. IV, p. 417f.)はこのことを示している。

ディオクレティアヌス帝の改革はまた土地税の改革であり、彼が一般的に動産に対しての税もその中に含めようとしていたかについては、確からしいとは思われない。動産への課税の取扱いについての何らかの基本原則は、いずれにせよ我々には情報が残されておらず、一般的にはこういった類いの財産については言うならば「対象物税」[Objektsteuern]として把握することが試みられていた。しかしそのことは次の可能性を排除していない。それはその土地で、ゲマインデによってそのゲマインデ全体に総額として課せられた税の全体を、個々の頭数に割当てていた場所においては、こういった類いの財産は異なったやり方で扱われていた、ということである。しかしそういった解明が困難な状況は、それを詳しく述べるためには古代社会においての労働の割り振りについての産業史的な分析が必要なのであり、土地制度史の研究の範囲には含まれない。

土地所有権の統合

我々はむしろ最後にただ良く知られた次のような事実について確認することとしたい。それはディオクレティアヌス帝による土地税の統合の試みと、土地についての所有権を大体において等しく扱うことは、相互に関係しているのであり、そしてこの所有権の平等視は本質的には、所有権の獲得のやり方と抵当権に関係するものとして、善意に基づく(ボニタリー)場所の所有権[bonitarisches locus-Eigentum]という形で発生した、ということである。またそれは時効取得の学説においては、属州において皇帝が制定した法規中の法文に依拠しており、更には奴隷制度においては、重要な点において ager privatus の分割という状況を作り出した所有権のあり方に依拠した、ということであり、そしてまたついには、ローマの所有に関する法においては、所有権についての、理論を作り出していた法律家による抽象概念の中から成長して来た、諸法規においての[所有に関する]法文の一般化が生じていた、ということである。またそれは根源的には非常に現実的な、そして帝政期には既に消え去っていた古いローマの土地法から発生して来たものである、ということである。諸税と土地税の支払い義務のある所有状態の扱いをこのような ius gentium ≪万民法、市民だけではなく、ローマ帝国全体の住民に適用される法。≫へ移すことは、一部は属州総督の布告を通じてと、また皇帝による積極的な立法によって 156)、また一部はそれに依存している司法においての判例と法学者による法解釈によって、徐々に、部分的にはようやくディオクレティアヌス帝の治世の後になって発生して来ており、また古くからのイタリア法による特権の残余物の除去は、ユスティニアヌス帝によって行われた 157)。

156) 例えば Vat. Fragm. 283、285、286、293、313、315、326。

157) Tit. Cod. VII, 31, 40。

ユスティニアヌス帝の法規の集成においては、そうした古くからの法律による相違の残存物は細心の注意をもって除去されている。

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我々はここではそうした発展について追いかけることはしない。何故なら文献史料の不足のためにどの時代に個々の所有状態のカテゴリーが万民法の一般的規則の中に吸収されたかを決定することは不可能だからである。ウェスパシアヌス帝による土地に対する課税の継続という事情下での、スペイン(の都市)に対してのラテン市民権賦与の布告は、ローマのボニタリー所有権(物権)の原則の一般適用という結果になったが、植民市と他の都市ゲマインデにおいての段階的なアフリカの組織化は、それが進行した場所においては、またこれらの属州に対してと同じ結果となったが、このことは統一された方法による訴訟についての許可を通じて、属州総督の布告の中で明記されていた。この布告のその他の点については良く知られていないが、レネル≪Otto Lenel、既出≫がそう主張しているように、ハドリアヌス帝の治下では、その中に全ての農場税[praedia stipendiaria]と税一般[tributaria]についての統一された様式が含まれていたかもしれない。そこではそれぞれの法的な性格は異なっていた:考慮すべきこととしては、次の全ての種類の土地が並立していたということである。それはアフリカにおいては、自由市民の耕地、ペリグリヌス≪非ローマ市民の帝国民≫に与えられた権利に基づく耕地、ローマの個人の権利としてカルタゴにおいて割当てられた領域、国家当局の恣意に左右される大土地所有法に基づく課税対象の土地としての大地主の領地、個人の権利と行政権的な規則の結合である ager privatus vectigalisque、純粋に行政権上の規則に基づくものとして扱うべき賃貸借された耕地である。属州総督各人において起きたことは、行政のもっとも高次の部分と司法的な管轄を一つにまとめた、ということであり、そのため実務においてはこの二つを区別することは困難だったのであり、実際はまた布告においてもこれら二つが等しいことと把握されていたのである。以上見てきたような様々に異なった所有状況について、唯一の共通点と言えるのは、それらが “possessiones” [占有物、資産]であったということである。全ての possessiones はしかし、元々は民法上は、その場所に対してのみ、特定の性質の侵害から保護された。そのことに符合するのはその場所の測量が strigae と scamna を用いて行われた、ということである:訴訟に対して判決を下す担当官はその指示を明確に固定された[certi rigores]土地区画に対して出したのであり、それは面積だけで分割された土地に対しては行うことが出来なかった。そのことに合わせてローマ人民に対しての、時効取得の認められていない個々のカテゴリーの耕地において、民法上の「場所の」保護が最初から行われていたかどうかについては、何も知られていない――確からしいこととしてはほとんどのケースはその答えは「否」である。というのはムニピキウムのager vectigalis に対しての訴訟は、その本質的な特徴は次の点にあるからである。それはそういった訴訟においてムニキピウム自身が訴えられることが可能であったということであり、それ故にそういった土地の保護は必須のこととなった。それに対して国家に対して納税義務を負っている者は、その者の最重要の権利関係において、その権利関係とは国家に対してあるいはその他の税徴収の権利者に対してのものであるが、単なる行政当局による審理か、あるいは最も恵まれたケースでは所有権回復手続きを期待することが出来た:一定のカテゴリー、例えばアフリカにおける stipendiarii [貢納]は、特別な行政手続きとしての controversia de territorio [領土に関しての訴訟]によって審理された。他方では少なくとも、次のような試みが行われていた。それは公有地の所有状態について、部分的にもっとも強い権利を持つ耕地と同じ測量原則を適用して取り扱うことである。ager privatus vectigalisque はケントゥリアを単位として測量され、その売却は面積単位で行われ、確からしいことは賃借料の賦課もそうであり、――そして測量人達は controversia de modo を ager quaestrius と ager vectigalis に適用することについて言及しており、――その際にはもちろん、まさに行政管理上の手続きについて語っていたのである。しかしながらこのやり方の課税も更に広範囲で行われるようにはなっておらず、そしてその理由は私有地における面積原則自体が衰退していっていたからである。既にアウグストゥス帝とティベリウス帝が、先に述べたように、所有地の境界の(有効性の)有期限化の指令によって ager assignatus の古い性質の除去ということを強調していたが、そこで判明するのは、帝政期が更に進行するにつれて面積原理が除去されていった、ということである。属州においての期限の無い所有状態については、その他ハドリアヌス帝の時代から 158) ローマの万民法の応急的な適用が確定したものとなっており、つまりはそれは場所原則に起因する、正当事由に基づく所有権の放棄という形での所有権移転という、応急的な適用であった。スカエウォラはボニタリー所有権に基づく抵当権を、賃借料支払い義務のある大地主の所領となっている土地区画の上に適用しており 159)、そしてウルピアーヌスとパーピニアーヌスにおいて見出されるのは、明確に民法上の制度が問題にされているのではない場合には、ローマ法が課税される(属州の)土地区画に直ちに適用されている、ということである。ディオクレティアヌス帝はこうした税制の統合をシステマチックに更に推進したように思われるが、少なくとも諸制度で、貢納義務のある属州の土地を取扱い、またほとんど全ての属州において、数は多いがなお疑問の多い個々の観点においての、ただそういった土地とイタリアの土地との同一視に関するものは、主としてディオクレティアヌス帝によって作り出された。

この章で我々にとって重要なのは、結果として生じたことより、むしろその結果を生み出した状況であり、それについては私が考えるところでは次のように正確に規定されなければならない:量的に圧倒的大部分のローマ帝国での所有状態は、行政法的な規則によって統制されていたのであり、そして私法に基づく部分はただ行政上の実践としてのみその作用を受け入れることが出来る、ということである。そこから導かれることとしては、私法的な観点から全ての諸制度を構成することは、たとえば土地に対する権利の概念から封土の権利を構成するのと同様に、不可能なことである 160)。

160) ここで試みているのは本質的には次のことである。つまりペルニーチェ(ローマ法制史雑誌 V)の注釈に関連して、こういった諸状況についての純粋に行政の実践に関連する規則を十分に把握する、ということである。その際に純粋に関連する法学的な理論構成が伴っていないということは、次のことに起因するのではない。それはそういったことが不可能だということではなく、私見では不当である、ということである。事実上ここで扱っているのは行政上の原則であり、そしてそういったものの論理的帰結としては、様々なやり方で市民法的に構成可能なものであるが、しかしそれは何らかの包括的な、全ての諸状況をカバーする法理論的な構成には至らないものである。