ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(60)P.317~320

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第60回目です。
ここでは帝政期に入ってローマの対外拡張と内乱が止んだ結果として奴隷の供給が大幅に減り、その結果農場経営が深刻な労働者不足に陥った状況とそれに対しての対策が論じられます。
ヴェーバーはここでも2箇所(注47と48)怪しげな史料引用操作をしています。(本人は操作しているという意識はおそらく無かったのでしょうが。)これまではヴェーバーが挙げる細かい注を原典にあたって調べるということはほとんどされてなかったと思いますが、今は少なくともインターネット上にある史料は生成AIの助けを借りて簡単に調べることが出来ます。
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しかしウァッローがその農業書の1年の農業暦の中で、耕作に必要な労働力についてほんの少ししか言及していない一方で、コルメラが要求しているのは、洗濯は全て農場の中で行うことであり、そしてパラディウスは次のことを主張している。つまり農場主は自前の鍛冶屋、大工、桶屋、そして陶工を備えるべきということで、そういった作業を町の職人に依頼することを完全に無しで済ますことである 47)。

47) パラディウス 1, 60。次のことは知られている。それはアウグストゥスが自分の家で織った衣服だけを着用していたことである(スエトニウス 「ローマ皇帝伝」アウグストゥス第73章)。≪スエトニウスの書に書いてあるのは、アウグストゥスがただ家族が織った衣服だけを着用していた質素な人であったというだけで、別にアウグストゥスが自分の農場で織物を内部でやらせていたという意味ではまるでなく、無関係で余計な注釈である。≫

オイコス≪ギリシア語で「家」のことで、閉鎖的な家族経済から、大規模な家産制まで広く示す概念≫の自給自足、それをロードベルトゥスが、その他の部分では非常に才知あふれる古代の経済史の全体の過程についての議論において、基本的要素としており、彼によればそれはしかし帝政期には消滅してしまったと把握する必要があるとしているが、しかしながらそれはまた地方においての大土地所有においては、本質的な部分においてはまだ発達中であった。カトーの時代になると、次のような非常に目的合理的なことが利害関心の最前面に来るようになった。それはつまり、経営において産品の再加工・追加加工を減らすこと、分業においてそういった業務を解消すること、農園主のリスクを除去すること、そして農園主自身に定期的な現金収入を確保することである 48)。

48) コルメラにおいてもまたウァッローからの伝承として、次の農場管理人への指示を引用している、それはどんな時でも農場主の資金流動性を保ち、いつでも出金可能にしておくこと、それ故に主人のお金を何かの購入や業務のための何かに使わないということで、それ以外にもいつも前提とすべきことは “ubi aeris numeratio exigitur, res pro nummis ostenditur”(コルメラ 11, 1)。[現金が不足する場合は、物を現金の代わりに支払うことになる。]≪コルメラが言っているのは、まさしく現金が手元に無い時は現物で支払わざるを得なくなる、というだけであり、ヴェーバーの文脈から想像される「現金を支払わないようにするため、なるべく現物で支払うようにせよ」という意味ではまったく無いことに注意。≫

カトーはこういった目的がどうやったら達成されるかについて、非常に詳細に記述している。後の時代になるとこうしたこと≪何でも自給しようとすること≫は非常にはっきりと分かる形で後退し、本来の業務が前景に来るようになった。農場の組織については、この後再度手短に見ていくこととする、――いずれにせよ私には出来るだけ目的のために労働力を使い尽くすことが出来るかどうかが、大地主型経営の課題を引き受ける上での本質的な基礎であると思われ、そういった大地主型経営は先進的な分業システムによって都市部の様々な職人達を使わないで済ませたのである。しかしながら収穫時の労働力についての本来の需要は、こうした分業システムによって解決されることはなかった。というのはこの需要を満たすためには、言って見ればある種の産業の先進化が必要とされたからであり、またその需要を満たすことによって損失を出すのも許されず、手工業の技術を取得した奴隷達が、純粋に農業的な労働力需要に対して、安価な単純労働力として使用されたのである。

帝政開始期に起きた農業危機

しかしながらこうした農業での危機は、ローマにおいての元首制の確立の結果として起きた様々なことによって、緊急に解決が必要な急性のものとなった。この状態は次の条件が満たされる限りは持ちこたえ得るものであった。その条件とは、侵略戦争と内乱の結果として奴隷市場に継続して労働力が供給されることである。アウグストゥスとティベリウスの下でのローマ帝国の国境の更なる拡張の断念は、こうした奴隷の供給を著しく減少させた。それはある時急に起きたことではないにせよ、一定の時間をかけて徐々に起きていた。その状況の結果として起きたことは、農業にとって耐えがたい状況であったに違いない。既にアウグストゥス帝の治下において、土地の占有者達が労働力を暴力(拉致)によって確保している、という訴えが成されている。アウグストゥスはそれに対してイタリア半島での罪人の名簿を作らせそれを調査している 49)。

49) スエトニウス「ローマ皇帝伝」アウグストゥス 32:rapti per agros viatores sine discrimine liberi servique ergastulis possessorem opprimebantur. Infolgedessen: ergastula recognovit. [農地を通行する者が自由人・奴隷の区別なく土地占有者によって捕らえられて奴隷収容所に入れられた。その結果として:罪人名簿が作られ調査された。]

ティベリウスの治下でも同じ訴えが繰り返された:旅行者や、更には軍隊への応召義務に応えないで逃亡している者が待ち伏せられ、――馬に乗ったならず者が、財産を盗もうとするのではなく労働力を確保しようとし、その者達はおそらく土地所有者達が街道に派遣したのであるが――そしてティベリウスは全てのイタリア半島の罪人名簿を、そのための臨時の官吏を任命することによって調査しその内容を改訂した、――それはほとんど農場調査官という言葉を使ってもいいようなものだった 50)。

50) スエトニウス「ローマ皇帝伝」ティベリウス 8:curam administravit … repurgandorum tota Italia ergastulorum, quorum domini in invidiam venerant, quasi exceptos opprimerent, non solum viatores sed et quos sacramenti metus ad ejus modi latebras compulisset. [(ティベリウス帝は)責任を持って監督した…イタリア半島全土の奴隷部屋について粛正を実施した。それらの奴隷部屋の主人達は、その者達が捕らえた者達を抑圧していたと非難されていた、。その捕らえられた者達は単に旅人だけでなく、また兵役への応召を拒否して逃亡していた者達までも含まれており、このような拘束部屋に強制的に監禁されていた。]

大規模な奴隷の反乱が≪再度≫起きることが懸念されていたが≪BC73~71に古代ローマでの最大の奴隷反乱であるスパルタクスの乱が起きている。≫、それは実際に起きる前に抑圧された(タキトゥス、年代記IV、27)。ティベリウスは全体としては大規模な奴隷を使った農場経営の規制を目論んでいたが、しかしながら元老院からの消極的抵抗により、その規制を土地所有者達に対して実際に行うことは敢えてしなかったのであり、またティベリウスは積極的な是正を行うことは不可能であると感じていたので、元老院に対して当時の土地制度の問題点を指摘する布告を出すことに留めた 51)。

51) タキトゥス、年代記II、33;III、53。

当時のイタリア半島においてはおそらく不動産価格は大幅に下落し、また信用需要は大であったであろう。というのは元老院はティベリウス帝の治下で貸金業者に対しその資本の内の1/3を不動産に投資するように命じているからである 52)。

52) タキトゥス、年代記、IV、23。アウグストゥス帝の治下ではアレキサンドリアの占領の後≪正しくはアエギュプトス{=エジプトの旧名}全体の私領化の後≫、金がそこからローマに流入し、それが≪豊富な資金によって≫一般的な不動産価格の上昇を引き起こしていた(スエトニウス、「ローマ皇帝記」、アウグストゥス、41)。

既にアウグストゥスが、アレキサンドリアの例では、地主に対しての無利子の貸し付けを認可しており 53)、そしてトラヤヌス帝による子弟養育支援制度≪地主に資金を融資し、その利子を貧しい人の子弟への義援金とした制度≫も、利率が低い状態に留まっていた
54) 状況において、同様の目的を持っていたと認め得る。

53) スエトニウス、前掲箇所。

54) Veleja においては 5%、もしかしたら更に低い 2.5% の可能性もあるが、確からしいのは 5%。

こうした共和制から帝政への移行期に起きた農業危機は深刻なものであった。しかしながら更に別の契機も影響を及ぼしていたのであり、農場経営を担った組織の重心の移動ということを検討する必要がある。

続き。夫役義務を負った農民を使用した農場経営の発展

ローマ帝国における平和の到来と元老院(貴族)支配が取り除かれたことにより、こうしたローマにおける障害に対してそれまでに水面下にあった政治的な利害関心が表面化することになった。大地主の純粋に経済的な利害関心が再びより前面に登場したに違いなく、それはドイツにおいての「永久ラント平和令」≪Ewige Landfriede。1495年に神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世が、ウォルムスの帝国議会において、フェーデと呼ばれる私的復讐行為を全面的に禁止したもの。≫の後の状況と類似している。その時と同様にこのローマの時でも結果として起きたことは、大土地経営[Gutswirtschaften]が基礎付けられたことで、この表現はクナップ≪Georg Friedrich Knapp、1842~1926年、ドイツの経済学者、貨幣国定説で有名≫が使っている意味でのものであり、それはつまり労働者を使って経営する大農場と夫役義務を負った農民達が結合したものである。コロヌス≪完全な農奴ではなく、自由農民としての性格も持っていた小作人≫達は農場に隷属する農民と同様、収穫期における労働力の不足を補うために、手作業の、及び牛馬を使った夫役へと召集された。ある程度まで確からしいこととして、このことはほぼ常に起きていたことであった。古代ローマでのプレカリスト[Precarist]≪地主から恩恵として土地を借りて耕作している農民≫は、我々の意味での小作人では全くなく、農業労働者であって、地主からいつでも契約を取り消されることがある形で土地を借りている者で、――少なくとも私としてはこの制度について他の統一的な経済上の目的を考えることが出来ず、そしてその制度が隷属やそれに類したものと必ずしも関連したものではないということは、それがなお古典法学の時代にあっても存続していたことの理由となっている 55)。

55) D. 10 a[dquirenda] p[ossessione] 41, 2(ウルピアヌス)に次のような事例が詳しく述べられている。それは、まず誰かが小作人となって土地を借り、それから≪その期限が切れる時に≫プレカリストになることを要請した、ということである。≪rogiert はラテン語の rogo{依頼する}をドイツ語風にしたヴェーバーの造語。≫そこで扱われているのはまさに、小規模地主が、まず賃借料を払って土地を≪別に≫借り、そしてその契約が切れる時に、その地位の代わりにいつでも契約を打ち切られることがあり得る労働者の地位に留まる、ということである。それと適合するケースとしては、契約上地主がコロヌスに地代を請求してはならない(D. 56 de pact[is])≪地代の代わりに労働力を提供させるので≫、というものがある。

またここで重要なのは、この制度はコロヌスの労働の成果次第である、ということで、それ以外でそういった仕事がどういった意味を持っていたのかは、私には良く分からない。このプレカリストというものは、まさしくローマ的な純小作人の最初の形態である。共和制期にはコロヌスは一定の労働の成果に縛られていたということは、その者の地位はそのまま≪帝政期に≫持ち越されたのではなく、事実上はコロヌス達はいずれにせよ、子供達やあるいはその者自身が、場合によっては大地主のための単なる労働者となってしまう可能性を計算していた。