立川武蔵はインド学・仏教学のそれなりの大家だと思っていましたが、氏の「般若心経の思想史」(法蔵館文庫)を読んでいて啞然としました。何とマックス・ヴェーバーがユダヤ人であると、しかもご丁寧に2回も書いています。そしてヴェーバーがキリスト教・ユダヤ教では人は神の道具、仏教やヒンドゥー教では神の容器にした、と説明しています。(ヴェーバーが「神の道具」としているのはカルヴィニズムのような禁欲的プロテスタンティズムです。「神の容器」は瞑想的な神秘主義{エックハルトのような}です。キリスト教が全部「神の道具」だなどとは全く言っていません。)ちなみに参照しているのは青木書店のウェーバー社会学論集に入っている中間考察です。文学博士、民族博物館名誉教授だそうですが、本当に信じられないほどひどいです。そもそも般若心経の説明にヴェーバーの仮説的分類なんか持ち出す必要はない訳で、これ自体が日本で長くヴェーバーがその言っていることの正しさも検証されず盲目的に受容されて来たことの証拠の一つだと思います。
日: 2026年9月14日
折原浩訳の問題点(194)
ここも実に盛大なデコトラ。「仮象への囚われにすぎず」「預言者はこれを拒否せざるをえないからである。」なんてどこにも書いてありません。
また「人間の業」もここでは変で、「人間の作品、作ったもの」です。「これがいつかは表明される」って一体誰が表明するんですか?単に「いつかは現れて来る」ということです。
原文
Vor allem aber wirkt bei der eigentlichen Prophetie zweierlei in antiästhetischer Richtung. Einmal die ihr stets selbstverständliche Ablehnung der Orgiastik und, meist, der Magie. Die ursprünglich magisch bedingt gewesene jüdische Scheu vor dem »Bildnis und Gleichnis« deutet die Prophetie spiritualistisch aus ihrem absolut überweltlichen Gottesbegriff heraus um. Und irgendwann zeigt sich dann die Spannung der zentral ethisch religiösen Orientierung der prophetischen Religion gegen das »Menschenwerk«, die aus dessen, vom Propheten aus gesehen, Scheinerlösungsleistung folgt. Die Spannung ist um so unversöhnlicher, je überweltlicher und gleichzeitig je heiliger der prophetisch verkündete Gott vorgestellt wird.
折原訳
ところが、本来の意味における預言のもとで、反審美的な方向に作用する要因には、つぎの二種類がある。ひとつは、狂騒の拒否、たいていの場合には、魔術の拒否であり、こうした拒否は、預言にとってはつねに自明のことであろう。ユダヤ人の「形像と画像」にたいする嫌悪は、本源的には魔術によって制約されていたが、それを預言者は、彼らの絶対的に現世超越的な神観から、霊性主義的に解釈しなおしている。そのさい、預言者的宗教の中心にある倫理的宗教性への準拠関係から、「人間の業」にたいする緊張が生まれて、これがいつかは表明されることにもなるが、そうなるのも、「人間の業」に救済への寄与を認めるような見地は、預言者から見れば仮象への囚われにすぎず、預言者はこれを拒否せざるをえないからである。この緊張は、預言者の告知する神が、いっそう現世超越的な、同時にいっそう神聖な神として、表象されればされるほど、それだけいっそう非和解的となる。
丸山訳
しかし本来の預言においては、反美学的な方向に作用するのは、次の二つである。まずは預言については常に自明のことであるオルギアと、そして多くの場合魔術の拒否である。根源的には魔術的に条件付けられていたユダヤ人の「[神の]似姿」への嫌悪を、預言は聖霊主義的に、絶対的な超現世的な神の概念からそれを新たに解釈している。そして[二つ目として]いつの日にか現れて来るのは、預言的宗教の中心においての倫理的な敬虔さへの志向においての、「人間の作品」に対しての緊張関係で、それは、預言者から見た場合、「人間の作品」の見せかけだけの救済の働きから出てくるのである。そういった緊張関係は、預言として告げられた神が、より超現世的で同時により神聖なものとされればされるほど、それだけいっそう宥和することが出来ないものとなる。
折原浩訳の問題点(193)
(1)書籍宗教→Buchreligionをこう訳しているけど、このBuchは聖なる本=経典ということ。
(2)「書籍宗教への移行にともなってつねにもたらされるものである。」→これまた原文にはないナンセンスを持ち込んでいます。折原訳だと書籍宗教ではない前段階があったことになってしまいます。nach sich ziehenは直訳すれば自分の方へ引っ張るということ。つまりそういうことが結果として生じる、ということ。
原文
Die so bedingte religiöse Entwertung der Kunst geht naturgemäß im ganzen ziemlich genau parallel mit der Entwertung der magischen, orgiastischen, ekstatischen und ritualistischen Elemente der Religiosität zugunsten von asketischen und spiritualistisch-mystischen. Ferner mit dem rationalen und literarischen Charakter der Priester- und Laienbildung, wie ihn eine Buchreligion stets nach sich zu ziehen pflegt.
折原訳
芸術にたいする宗教的貶価は、以上のような制約のもとにあるので、それは当然のことながら、宗教性における魔術的・狂騒的・エクスタシー的・また儀礼主義的な要素の貶価、それゆえ、禁欲的また霊性主義的-神秘的要素の優越と、全体としてはかなり正確に比例して進展する。さらにはまた、祭司教育と平信徒教育の合理的また文献的性格が強まるのにも並行して進展するが、この性格は通例、書籍宗教への移行にともなってつねにもたらされるものである。
丸山訳
以上のような形で条件付けられた宗教の芸術に対する低い価値評価は、自然なこととして、禁欲的な、霊的・神秘主義的な要素を優先し、魔術的、オルギア的、エクスタシー的、そして儀式主義的な要素を低く見ることと、全体でかなりの程度までほぼ平行した現象となっている。さらには祭司・平信徒への教育の合理的で文献重視的な性格にも平行しており、そういった性格は経典宗教において常に傾向として見られるものである。
折原浩訳の問題点(192)
ここはデコトラと、また原文の順番を勝手に変えて読んでまったく理解出来ない日本語訳にしている例。
(1)Inappellabilitätは裁判用語で確かに「控訴不可能性」という意味ですが、それを「なにか高次の法廷に訴えて、理念や規範に照らして議論する、ということができない。」とまで勝手に解釈する必要はまったくありません。要するに共通の何かに基づいて反駁することが出来ない、という比喩に過ぎません。
(2)元々一つの文が折原訳では5文に変えられ、しかも順番が入れ換えられています。しかも「宗教性の側からはおそらく、臆病さと結びついた特別の非情さのもっとも深刻な一形式と見なされるにちがいない。」という結論部が説明もなく先に呈示され、その後から間の説明が追加される、という意味不明の翻訳です。
(3)「当の所作の帰結と正当性」はその規範の帰結と正当性です。
原文
Aber die subjektivistische Inappellabilität jedes Geschmacksurteils über menschliche Beziehungen, wie es in der Tat der Kultus des Ästhetentums anzuerziehen pflegt, kann gegenüber der religiös-ethischen Norm, der sich der Einzelne, ethisch ablehnend, aber im Wissen von der eigenen Kreatürlichkeit menschlich miterlebend, für sich selbst ebenso unterstellt wie denjenigen, dessen Tun er im Einzelfall beurteilt und deren Konsequenzen und Berechtigung vor allem dem Prinzip nach diskussionsfähig erscheinen, von der Religiosität sehr wohl als eine tiefste Form von spezifischer Lieblosigkeit, verbunden mit Feigheit, angesehen werden.
折原訳
人間の諸関係にかんする趣味判断は、およそいかなるものであれ、なにか高次の法廷に訴えて、理念や規範に照らして議論する、ということができない。そのかぎりで主観主義的な性格をそなえている。この性格は、じっさいには通例、審美家の流儀を崇め立てることによって育成されるが、宗教性の側からはおそらく、臆病さと結びついた特別の非情さのもっとも深刻な一形式と見なされるにちがいない。宗教的-倫理的な規範に対しては、個々人は、たとえそれを倫理的に拒否する場合にも、人間としての自分の被造物性をわきまえれば、それを、他人と共に体験し、自分自身にとっても、他人にとっても、まったく同様に服すべき規範と感得する。かれが、他人の所作につき、個々の場合に判断をくだすとしても、当の所作の帰結と正当性については、とくに原則に照らして議論することが可能と思われている。
丸山訳
しかし全ての人間の諸関係についての趣味的判断が、主観的に[何か共通の土台の上で]論駁することが不可能であるということは、それは唯美主義崇拝において実際にしばしば教え込まれることになりがちであるが、宗教的・倫理的規範に対しては、個々の者が倫理的に拒否的であるとしても、しかし自身の被造物性について知ることによって[それを語る人と]共に体験することで、自分自身については同様にそういった規範に服するのであり、それは個々人がその行為を個々の事例で判断する者達がそうするのと同様であり、かつその結果と正当化がまずは原理原則に従って議論可能であるように見えるのであり、信仰の立場からは、まさしく臆病さと結び付いた特別な冷酷さのもっとも深刻な形態と見なされるのである。