折原浩訳の問題点(188)

まずはモーセの十戒が出てくるのですから、Ehebruchは言うまでもなく、「姦通」ではなく「姦淫」と訳すべきです。Hurereiもこちらも「姦淫」ですが、「性的放縦」といった曖昧な意味ではなく、具体的な売春とかでしょう。
それよりもっと罪が重く、とても社会学者が訳したと思えないのは、Univiraを「一夫一婦制」としていること。一夫一婦制は前に出て来ていますが、ヴェーバーはわざわざ「離婚の許されない一夫一婦制」としていますし、ギリシア人とローマ人で自由な離婚があったことも言及されていますから、単なる単婚制と厳密に区別してウニヴィラという単語を使っているのに、全く分かっていない語訳です。要するに女性が離婚した後、別の男性と結婚してもそれは「一夫一婦制」の範疇ですが、Univiraは生涯で一人の男性としか婚姻関係を持たなかった女性のことです。創文社訳が「一夫制」とまあまあ正しく訳しているのをとんでもない誤訳にしています。

原文
Der mosaische Dekalog wie die hinduistischen heiligen Rechte und die relativistischen Laienethiken der indischen Mönchsprophetien verpönen den Ehebruch, und die Prophetie Jesus geht mit der Forderung der absoluten und unlöslichen Monogamie in der Einschränkung der zulässigen legitimen Sexualität über alle anderen hinaus; Ehebruch und Hurerei gelten im frühesten Christentum fast als die einzige absolute Todsünde, die »Univira« als ein Spezifikum der Christengemeinde innerhalb der durch Hellenen und Römer zwar zur Monogamie, aber mit freier Scheidung, erzogenen mittelländischen Antike.

折原訳
モーセの十戒も、インドの聖法も、同じくインドにおける修行僧預言の相対主義的な平信徒倫理も、姦通を厳禁している。また、イエスの預言は、容認される正当な性的関係については、離別を認めない絶対的な一夫一婦制を要求する点にかけて、他の全ての預言を凌駕している。最初期のキリスト教では、姦通と性的放縦が、ほとんど唯一の絶対的死罪とみなされ、「一夫一婦制(ウニヴィラ)」が、地中海的古代の内部で、キリスト教ゲマインデに特有の、それを見分けるひとつの識別標識をなしていた。古代地中海世界のゲマインデ一般は、なるほどギリシア人とローマ人から一夫一婦制を教わってはいたが、自由な離別による抜け道もあった。

丸山訳

モーセの十戒も、同様にインドの聖なる法と、インドの修行僧の予言の相対主義的な平信徒諸倫理も、姦淫を厳禁しており、そしてイエスの預言は、絶対的で別れることを許さない単婚制[一夫一婦制、モノガミー]の要求について、容認されうる正当な性愛の制限という点において、他の全ての預言を凌駕している;姦淫と売春は最初期のキリスト教においては、ほとんど唯一の絶対的な死に値する罪とされており、「ウニヴィラ[1]」は、ギリシア人とローマ人から単婚制という制度を受け入れてはいたが、しかし自由な離婚も存在していた、古代地中海世界において、キリスト教団を他から見分ける識別手段となっていた。

[1] 古代ローマにおいて、生涯一人の夫を守り、あるいは夫と死別しても他の男と再婚しなかった女性を貞淑な妻の理想として Univira (一人の男しか持たなかった女性の意味)と呼んで称賛した。

折原浩訳の問題点(187)

ここは上野千鶴子先生が大喜びで問題にしそうな(笑)、女性差別的誤訳。
再度のweil以下の主語のsieはdie irreguläre Erotikなのに、折原センセは「婦女子の本性は」として、「君子の内面的平静を掻き乱してやまない」までも女性のせいにしています。

原文
Für die christliche und indische außerweltliche Askese versteht sich die ablehnende Stellung von selbst. Die mystischen indischen Prophetien der absoluten kontemplativen Weltflucht lehnen natürlich als Voraussetzung der vollen Erlösung jede Sexualbeziehung ab. Aber auch der konfuzianischen Ethik der absoluten Weltanpassung gilt die irreguläre Erotik als minderwertige Irrationalität, weil sie die innere Contenance des Gentleman stört und das Weib ein irrationales, schwer zu regierendes Wesen ist.

折原訳
キリスト教的およびインドの現世外的禁欲にとって、拒否のスタンスは、自明のことである。インドの絶対的な瞑想的遁世の神秘的預言は、当然ながら、十全な救済の前提条件として、いかなる性的関係も拒否する。ところが、儒教倫理の絶対的現世適応にとっても、[婚姻関係によって規制されない]非正規のエロスは、価値に乏しい非合理な所業とみなされる。それというのも、婦女子の本性は、非合理的で、制御し難く、君子の内面的平静を掻き乱してやまない、と見られるからである。

丸山訳
キリスト教とインドの現世外的禁欲にとっては、性愛を拒否する態度は自明なことである。絶対的・瞑想的な現世逃避の神秘主義的なインドの諸予言は、当然のことながら、完全な救済の前提条件として、全ての性的関係を拒絶する。しかし絶対的な現世適合の儒教倫理においても、非合法の性愛は低劣な非合理性と見なされ、その理由はそういった性愛は、士君子の内的な節度を妨げ、女性一般は非合理的で扱いにくい存在であるとされたからである[1]

[1] いわゆる「論語」陽貨第十七の「女子と小人は養い難し」をヴェ-バーが言い換えているもの。