折原浩訳の問題点(190)

(1)若い夫→若いって一体いくつまで?ここは元の申命記の記述を見れば、すぐに「新婚の夫」「結婚したばかりの夫」であることは自明です。
(2)「性交中絶」→ほとんどラテン語の直訳ですが、いわゆる「膣外射精」です。オナンが兄嫁と交わって、精液を大地に流した、ということ。
(3)「意味づけから合理的に [自己目的として意識的に] 解き放たれ、分離された」→良く分からない訳と補足です。要するに、性愛というのは宗教的には好ましくないんだけれど、子孫を作るという合理的な目的のためには許容されており、しかしながらその目的を逸脱する行為にはまったく譲歩していない、ということです。
(4)「若い夫は愛妻を悦ばせるべきだ」→元の聖書が「めとった妻を喜ばせねばならない」なのに比べると、妙にエロチックです。(笑)しかもヴェーバーの原文は「その者がその新婚の愛を享受すべきだ」ですので、原文にないことを勝手に想像して書いています。

原文
Die altjüdische Motivierung der Freiheit des jungen Ehemanns von politischen Pflichten: daß er seiner jungen Liebe froh werden solle, steht sehr vereinsamt. Der alttestamentliche Fluch über die Sünde Onans (coitus interruptus), den die katholische Perhorreszierung der sterilisierten Begattung als Todsünde übernahm, zeigt, daß auch im Judentum keine Konzessionen an die in bezug auf die Folgen rational von jenem Sinn losgelöste Erotik gemacht wurden.

折原訳
古代ユダヤには、若い夫は愛妻を悦ばせるべきだという理由で、政治的 [従軍]義務から解放する考え も見受けられるが、これは、その箇所にしか出てこない純然たる孤立例である。旧約聖書はオナンの罪 (性交中絶) を呪詛し、このスタンスは、避妊性交を死罪として忌避するカトリック教会にも継承されているが、そうした呪詛には、ユダヤ教もまた、[性交の] 結果にかんする上記の [労働力および祖先崇拝の担い手の養育のためという] 意味づけから合理的に [自己目的として意識的に] 解き放たれ、分離された [純然たる]エロスに、なんら譲歩してはいない、という事情が示されている。

丸山訳
古代ユダヤの新婚の夫が政治的義務[兵役]から自由にされるという動機付け:つまりその者がその新婚の愛を享受すべき[1] というのは、それ自体は非常に孤立したものである。旧約聖書でのオナンの罪[2](膣外射精による避妊)への呪詛は、カトリック教会がそれを性行為での避妊を死に値する罪として忌み嫌うという形で受け継いでいるが、それが示しているのは、ユダヤ教においてもまた、先ほど言及した理由から合理的に緩められた性愛[に関しての制限]について、その結果に関してはまったく何の譲歩もしていなかった、ということである。

[1] 旧約聖書、申命記 24:5「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。」

[2] 旧約聖書、創世記 38:9。

折原浩訳の問題点(189)

Weibは成人女性のことなので、前の箇所も含めて折原訳の「婦女子」はおかしいです。大体「婦女子」は成人男性から見て弱い保護すべき存在という言い方であって、その意味でも適当ではないです。
それから例によって折原訳には訳注がありませんが、ここでヴェーバーが挙げている例は色々怪しいです。私の訳注を参照してください。

原文
Das individuelle Weib ist dann »heilig«, die Gattung Gefäß der Sünde. Immerhin: fast alle orgiastische und Mystagogenpropaganda einschließlich der des Dionysos hat wenigstens temporär und relativ eine »Emanzipation« der Frauen befördert, wo nicht andere Religionstendenzen und die Ablehnung hysterischer Frauenprophetie sie überdeckten, wie bei den Jüngern Buddhas, ebenso wie im Christentum schon bei Paulus, oder mönchische Weiberfurcht, wie am extremsten bei Sexualneurasthenikern z.B. Alfons von Liguori.

折原訳
そういう場合、個々の婦女子は「神聖」でも、類としての婦女子は「罪の器」である。とはいえ、ほとんど全ての狂騒的布教や、ディオニュソスの密儀も含む密儀師の布教は、少なくとも一時的かつ相対的には、婦人の「解放」を促進している。この点、別の宗教的傾向性、とりわけ特有のヒステリー症候をともなう女性の預言にたいする拒否の姿勢が、前景に出て、背後の事実を覆い隠していることも、しばしば見受けられる。たとえば、ブッダの弟子や、キリスト教ではすでにパウロの場合、あるいは修道士的な女人恐怖症、とりわけ極端な場合には、アルフォンス・フォン・リグオーリに見られるような、性神経症の域にも達する女人恐怖症など、事例に事欠かない。

丸山訳

個々の女性がそういった場合で「聖なる」者であったとしても、人間の種別としての女性は罪の器である。ともかくも:ほとんど全てのオルギア的・秘教司祭としての宣教は、ディオニューソスのそれを含めて、少なくとも一時的かつ相対的には、婦人達の「解放」を促進していたし、それは他の宗教の諸傾向と女性によるヒステリー的な予言への拒絶がそれを覆い隠していない場合そうであり、そういった覆い隠しの例としてはブッダの弟子達があり[1]、また同様にキリスト教でも既にパウロの時にそうであり[2]、あるいは修道士の女性恐怖症、もっとも極端な例として例えばアルフォンソ・デ・リゴリ[3]の性的な神経衰弱[4] がある。

[1] ここは前の箇所の「ブッダが宗教的資質に富んだ女性を足元にひれ伏させるのを好んだ」という箇所を合わせて、ブッダ自身が女性拒否ではなくその弟子達が女性を拒否したと読めるが、実際はブッダ自身が女性の出家に対して否定的であり、ブッダの養母であるマハーパジャーパティが多くの女性を連れて出家を願った時に、ブッダは三度これを拒絶している。

[2] ここについても、パウロは1コリント11:5で条件は付けているものの女性の預言自体は認めているので例としては不適切。おそらくは1コリント14:34–35の「女性は集会では黙っていろ」の部分を誇張しているように見える。

[3] Alfonso Maria de’ Liguori、1696~1787年、イタリアの司教でカトリックの聖人。

[4] アルフォンソ・デ・リゴリは、極端な女性嫌いで、顔を合わせることも(実の母親を含めて)、握手などの身体的接触も避けた。しかしこれは性的神経衰弱ではなく、現代では「強迫観念(良心の呵責 / Scrupulosity)」、一種の強迫性障害と解釈されている。

ヴェーバー当時(1890年代)の「ゲマインデ」の実態資料

加藤房雄先生の本に、「ゲマインデ事典」というのが出て来て、ヴェーバーが土地問題・農業問題を扱う時に参照した統計資料のようです。原題は”Gemeindelexikon für das Königreich Preußen”です。インターネット上で現物を見られます。例えば、https://www.digitale-sammlungen.de/de/view/bsb11480933?page=12,13

これの中身の分類が、今日でいう地方自治体だけではなく、
Stadtgemeinden(都市型ゲマインデ)
Landgemeinden(農村型ゲマインデ)
Gutsbezirke(大土地所有領域)
となっています。都市ゲマインデがおそらく地方都市など、農村ゲマインデは多くは名前の通り、村でしょうが、その中には、昔のマルク共同体が単に名前を変えただけのものも多く含まれていて、旧マルク共同体の権利者集団が Realgemeinde / Altgemeindeとして新しいゲマインデの中でも依然として権利をそのまま保持した構成員として残っている例があります。
これだけを見ても、折原浩の間違った説明「ゲマインデは地域ゲマインシャフトでゲゼルシャフト化を契機としたもの」という説明がおかしいことは明らかです。ヴェーバーはゲマインデについて何か新しい定義を与えたりはしておらず、当時の歴史的実体としてのゲマインデを使っていることに再度注意すべきです。また、地方自治体とはまったく関係のない大地主の所領も含めて全体でゲマインデとしていることにも注意すべきです。
ただStadtgemeindenのここでの使い方を見て、「宗教ゲマインシャフテン」に出てくるのはやっぱり「都市ゲマインデ」でいいんだ、と勝手に勘違いされると困りますが。(笑)宗教ゲマインシャフテンに出てくるStadtgemeindeは明らかに一つの都市がある教団の拠点化することですから。(そもそもヴェーバーの原文は以下で、Stadtgemeindeという言い方すらしていません。
Und in beiden Fällen hemmten jene Momente sogar, sahen wir, die Entwicklung der Stadt zu einer »Gemeinde« weit stärker als die des Dorfes.)