折原浩訳の問題点(201)

200回を達成したと思ったら、すぐに201回目。
(1)「besonderen Pariavolkscharakter des Judentums und seiner Religiosität」を折原訳は「ユダヤ教とその宗教性に特有のパーリア的性格」と訳していますが、「パーリア民族的性格」と言っているんですから、ここのJudentumは「ユダヤ人、ユダヤ民族」でありユダヤ教でありません。大体「ユダヤ教とその宗教性のパーリア的性格」って意味不明です。しかも最後の文は正しく「ユダヤ人」と訳しています。まったく注意力散漫です。
(2)「固定設備への資本投下をともなう」は、原文は「固定資本を伴った」です。大体固定資本は設備だけでなく、土地や建屋も入りますから、かってに固定設備に限定するのはおかしいです。そして「資本投下」が問題になるのではなく、「固定資本」として回収に長期間が必要で、そういう負担に耐えられなかった、とヴェーバーは言っています。(金貸し業や小売業ではそういう固定資本の占める割合が非常に少なく、資産の流動性が高くなります。)大体ヴェーバーは本来は国民経済学者の教授であり、こうした基本的な経済用語をきちんと理解もせず(本当にこの訳者は変なマル経用語多用する割りには、経済の基礎知識が非常に不十分です)適当に変えて訳すのは問題です。

原文
Weder das spezifisch Neue des modernen Wirtschaftssystems noch das spezifisch Neue an der modernen Wirtschaftsgesinnung sind spezifisch jüdisch. Die letzten prinzipiellen Gründe dafür hängen wieder mit dem besonderen Pariavolkscharakter des Judentums und seiner Religiosität zusammen. Zunächst schon die rein äußeren Schwierigkeiten der Beteiligung an der Organisation der gewerblichen Arbeit: die rechtlich und faktisch prekäre Lage der Juden, die wohl der Handel, vor allem der Geldhandel, nicht aber ein rationaler gewerblicher Dauerbetrieb mit stehendem Kapital erträgt. Dann aber auch die innerliche ethische Situation. Das Judentum, als Pariavolk, bewahrte die doppelte Moral, welche im Wirtschaftsverkehr jeder Gemeinschaft urwüchsig ist.

折原訳
近代的経済システムに固有の新たなものも、近代的経済心意に固有の新たなものも、どちらもユダヤ人に特有のものではない。そうなる究極の原理的根拠は、またしてもユダヤ教とその宗教性に特有のパーリア的性格に関連している。まず、ユダヤ人が置かれている、法律上も事実上も不安定な状況では、手工業労働の組織への関与は、まったく外面的にも、困難である。そうした不安定な状況では、おそらく商取引、殊に貨幣取引に携わることはできようが、固定設備への資本投下をともなう持続的な手工業経営は担いきれない。そのうえ、内面的な倫理的状況についても同じことがいえる。ユダヤ人は、パーリア民として、いかなるゲマインシャフトの経済的取引にも原生的な二重道徳を保持していた。

丸山訳
近代的資本主義の特別に新しいことも、近代的な経済心情に特別に新しいことも、特別にユダヤ人的なことではない。そのことについての最終的な原理的な根拠が関係しているのは、再度ユダヤ人のパーリア民族としての特別な性格と、その信仰である。まず第一には、元からある純粋に外的な、事業労働の組織に関与することの困難さである:法的にも事実上も不安定なユダヤ人の社会的地位、そうした社会的地位では商業や、取り分け金融業には従事出来ても、しかし合理的な継続性を持った経営で固定資本を伴うものには耐えられない。しかしそれからまた、内面的な倫理の状況がある。パーリア民族としてのユダヤ人は、二重道徳[対外道徳と対内道徳]で、全てのゲマインシャフトの経済的な取引にも元からあったものを保持していた。

折原浩訳の問題点(200)

ここの折原訳、200回記念の大型誤訳コレクション。

(1)規模の大きい資金供給者層なのにまたも「大高利貸」
(2)「機会を搾取し尽くし」は日本語として変。「機会を利用し尽くし」ぐらい。
(3)「地獄にも漕ぎ出そう」→「地獄の中を通っていくことも辞さない」
(4)「煉獄の火で焼かれようとも」→地獄と煉獄が同じだと思っている。
(5)「またユダヤ人にも体得され」→そんなことは書いていない。大体心情を体得する、というのは変。
(6)「事態はまさに正反対である」→事態ではなく、Gesinnung、つまり儲けられるだけ儲けるというのと、合理的な経営がまったく正反対である、ということ。

しかも訳注に書いたけど、ヴェーバーのここの書き方は、典型的なユダヤ人に対する偏見に基づいたものとしか思えません。

原文
Und vor allem: jene Wirtschaftsgesinnung, welche allem urwüchsigen Händlertum, dem antiken, ostasiatischen, indischen, mittelalterlichen Händlertum, dem Krämertum im kleinen, dem Großgeldgebertum im großen, typisch war und ist: der Wille und das Verständnis, rücksichtslos jede Chance des Gewinns auszunutzen — »um Gewinnes willen durch die Hölle zu fahren, und wenn sie die Segel versengt« —, diese ist auch den Juden recht stark eigen. Aber gerade sie ist weit entfernt davon, etwas dem modernen Kapitalismus gegenüber anderen kapitalistischen Epochen Eigentümliches zu sein. Im graden Gegenteil.

折原訳
また、他方ではとりわけ、あらゆる原生的商人層――したがって、小は小売商人から大は大高利貸にいたる、古代・東アジア・インド・中世の商人――に典型的に見られ、現に見られる経済心意[志操]、すなわち、いかなる利得の機会も容赦なく搾取し尽くし、「利得のためなら地獄にも漕ぎ出そう、たとえ帆が煉獄の火で焼かれようとも」というような意欲と諒解は、これまたユダヤ人にも体得され、かなり顕著な特徴ともなっていた。ところが、まさにそうした経済心意こそ、近代資本主義に特徴的なもの、すなわち、近代資本主義以外の[前期的]資本主義時代とは対照的に異なる、近代資本主義にこそ特徴的な心意とは、およそ縁遠いものである。事態はまさに正反対である。

丸山訳
そして取り分け:全ての原生的な商人層に、古代の、東アジアの、インドの、中世の商人層に、小規模の小売商人層に、規模の大きい資金供給者層に、かつて典型的であり、今もそうである経済的な心情は:容赦なく利益を得るチャンスを利用し尽くすこと、という欲求と理解であり--「利益のためであれば地獄の業火の中もかいくぐっていく、たとえその火にこの帆が焼かれようとも[1]」--こういったことはまたユダヤ人においても非常に強く特徴として見られるものである[2]。しかしまさにそういった心情は次のものからは遠く隔たっている。つまり近代的な資本主義の何かで、他の資本主義的な時代にはなく、それ特有なものである。以上の二つの心情はまったく反対のものである。

[1] この表現は「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」では「あのオランダ人船長の」セリフとして紹介されており、つまりいわゆるさまよえるオランダ人伝説とオランダ人はケチで強欲であるというステレオタイプなイメージが結び付いたものである。

[2] こういった書き方は、ユダヤ人に対するきわめてステレオタイプな偏見にしか見えない。