1.以前、「宗教ゲマインシャフテン」の全集の注が、
(1)本来前後参照ではないものを間違ってそう解釈し
(2)そしてその参照先がまったく的外れ
だったという例を紹介しました。
そして新たに2つほど、参照先の注がおかしいのが出て来ています。
2.全集のP.420の訳注93、原文がWas »unter Brüdern« perhorresziert ist, ist dem Fremden gegenüber erlaubt. Den Mitjuden gegenüber ist die jüdische Ethik durchaus unbezweifelbar traditionalistisch, vom Standpunkt der »Nahrung« ausgehend, und soweit auch — worauf Sombart gewiß mit Recht hinweist — die Rabbinen dabei Konzessionen,
の所で、全集の訳注は参照先をゾンバルトの「ユダヤ人と経済生活」のP.289としています。ヴェーバーの言及元は私の日本語訳では「ユダヤの同胞に対しては、ユダヤ人の倫理は全くのところ疑いの余地なく伝統主義的であり、それは「生計維持」の立場から出てくるのであり、そしてまた次の限りで--それについてはゾンバルトが確かに正当に言及しているが --ラビ達がその際に認可し、」であり、要するにユダヤ人が対内倫理についてもラビ達が緩和した、という内容ですが、P.289は単に対内倫理と対外倫理の二重性について述べている箇所なのでまったく該当しません。私が調べた限りで正しいのは、講談社学術文庫の日本語訳(金森誠也訳)の第11章のP.228、「しかし、老練な事業家のように、ときにはきわめて困難な経済問題について論争し、さらに熱心な利益獲得の生活を激励する言葉に他ならない様々な根本原則を打ち出す多くのラビたちの発言は、われわれには奇妙に思われる。近代的な利益獲得の原則が、ラビたちによって表明されている箇所をタルムードから取りだしても、まことに興味深いものがあろう(そればかりではない、ラビたちは実際にはしばしば自ら大実業家でもあった)。」です。こちらは確かにラビ達が経済倫理を緩めたことが書いてあります。(この後に実際にラビ達が言ったことの引用が続きます。)
3.全集のP.422、訳注95。私の訳で「つまり、ヤハウェの諸約束によって、既に見て来たように 、創り出されたパーリアの地位と、そこから生じる部外者の側からの不断の蔑視という状態に対して」の「既に見て来たように」の参照先ですが、全集が言っているのは以下の箇所です。「事実上はバビロン捕囚以降、そしてまた形の上ではエルサレムの神殿の[最初の]破壊 以降はユダヤ人は「パーリア民族[賤民]」であり、つまりそれはここでの意味であり(その意味はインドの「パーリアカースト 」の位置付けと同じである部分は少なく、それは例えば「カーディ による裁判」の概念が実際のカーディーによる裁判での適用されている諸原理に必ずしも一致していないのと同じであるが):それは一方では(元々は)魔術的な、タブー的な、そして儀式的な理由による、食卓を共にすることによるのと通婚による対外的ゲマインシャフト関係形成の制限によって、また他方では政治的・経済的にマイナスの特権を与えられることによって更に経済的に特別な業務に結び付けられ、自律的な政治団体無しに世襲である特別なゲマインシャフトに統合された諸グループのことである。」しかしここは単に「パーリア民族」という単語が出てくるだけの箇所です。私は日本語訳だとP.35ぐらいになりますが、以下の箇所と考えます。「少なくとも、普遍的一神教への先駆けをなす単神崇拝が生まれたのは、まさに宗教史上もっとも重要なヤハウェ礼拝の場合、ごく具体的な歴史的事件、すなわち誓約ゲノッセンシャフト[1] が結成された帰結であった。この場合には、普遍主義が、国際政治の所産であった。それというのも、ヤハウェ礼拝とヤハウェに由来する道徳との利害関係人であった預言者たちが、国際政治の実践的解釈者[国際政治の動因をヤハウェの意思に求め、もっぱらそれを規準とする態度決定を説く者]として立ち現れ、その結果、イスラエルの死活の利害にかかわる強大な異民族の行為も、じつはヤハウェの行為なのだ、と解釈され始めたのである。ここで明瞭に看取されるとおり、ユダヤの預言者の思弁には、特異かつ顕著に、歴史[に準拠する動]的性格がそなわっており、この点で、インドやバビロンの祭司層の自然にかんする[静的]思弁と、このうえなく鋭い対照をなしている[2]。また [同じく明瞭に看取されるとおり]、そういう予言者の思弁においては、諸民族の国際政治に巻き込まれた自民族の運命の、かくも陰惨で、ヤハウェの約束に照らしてかくも不可解な展開さえをも、なおかつ総体としては「ヤハウェの行為」したがってひとつの「世界史」として捉える、という課題が、ヤハウェの約束から避けがたく生じ、この事情が、エルサレムというポリスの局地神に変貌を遂げていた、古い誓約連合仲間の戦争神[ヤハウェ]に、預言者流の普遍主義的な特徴、すなわち世界を超越する神聖な全能と測り難い威厳とを付与することにもなった。」ヴェーバーが述べている内容にはるかに近いのは明らかにこちらです。
以上の3つの例から見る限り、全集の注釈の参照先はおそらくは何らかのテキスト検索でヒットした箇所を、そのまま十分な検討もせずに参照先としているものと判断します。まるで出来の悪い生成AIのハルシネーションです。信じられませんが事実です。