折原浩訳の問題点(204)

ここは再登場の誤訳:Bibelfestigkeit × 聖書堅持 ○ 聖書に精通していること から引き摺られて他も誤訳しているもので、jüdische Gesetzeskenntnisは「律法認識」ではなく「律法の知識」です。最初のイエスのもそうです。
また、笑えるのが前回聖書の引用に勝手に追加していたんですが、今回はヴェーバーが聖書の2つの引用を混ぜて「羊が井戸に落ちた」としているのを、片方にだけ合わせて「羊が穴の中に落ちた」と変えていることです。聖書との距離感が一定ではありません、というかもう一箇所あるのに気付いてなかったんでしょうが。

それから、全集の訳注チェックのおかげで今ゾンバルトの「ユダヤ人と経済生活」を読んでいるんですが、それを読んでいるとここでのヴェーバーが書いていることまったく難しくなくてそのまま理解出来ます。

原文
Seine Art der Gesetzeserfüllung und Gesetzeskenntnis ist jener Durchschnitt, welchen der praktisch arbeitende Mann, der auch am Sabbat nicht sein Schaf im Brunnen liegen lassen kann, wirklich leistet. Die für den eigentlich Frommen obligatorische jüdische Gesetzeskenntnis dagegen geht, schon in der Art der Jugenderziehung, nicht nur quantitativ, sondern qualitativ weit über die Bibelfestigkeit des Puritaners hinaus und ist nur allenfalls mit den Ritualgesetzen der Inder und Perser zu vergleichen, nur daß sie eben in weit größerem Umfang neben bloßen rituellen und Tabunormen auch sittliche Gebote enthält.

折原訳
イエスの律法遵守と律法認識の仕方は、安息日にも穴に落ちた羊を放っておくわけにはいかない 、じっさいに働いて生活している人々が、現実に達成できる平均水準にひとしい。それに対して、ユダヤ教において本来の敬虔な信徒に義務として課されている律法認識は、すでに青少年教育のやり方についてみても、量的にばかりか、質的にも、ピューリタンにおける聖書堅持をはるかに凌駕している。ユダヤ教の律法と [戒律の総量において] どうにか比肩できるのは、インド人やペルシア人の儀礼戒律のみであるが、ただ、ユダヤ教の律法認識は、たんなる儀礼規範やタブー規範とならび、道徳上の命令をも [インド人やペルシア人の場合に比べて] はるかに広範囲に含んでいるにすぎない。

丸山訳

イエスのやり方での律法遵守と律法知識は、実際に働いている人で、また安息日にその羊が井戸の中に落ちたのをそのままにすることは出来ない[1] 人、そういった平均的な人が実際に達成出来るものである。それに対して、本来は敬虔な者のための義務的なユダヤ人の律法についての知識は、既に若者への教育の仕方において、単に量的にだけではなく、質的にもピューリタンの聖書に対する精通のレベルをはるかに超えるものであり、そしてただ何とかそれに比肩するのは、インド人とペルシア人の儀式の戒律ぐらいであり、ただ違うのはユダヤ人の律法の知識はまさしく、単なる儀式上のそしてタブーとしての規範以外にはるかに広範囲の倫理上の命令を含んでいるということである。

[1] マタイによる福音書 12:11-12「そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」 また、ルカによる福音書 14:5「そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」」ヴェーバーはこの2つを混ぜ合わせて引用している。