折原浩訳の問題点(186)

(1) 折原センセは、Sekteについては常にゼクテとカタカナで訳していますが、訳注に書いたように、ヴェーバーは現在の宗教社会学では区別される、教派とセクトの両方にSekteを用いています。ここのロシアのフリスト派なんかは明らかにセクトです。
(2) 「舞踏狂騒の随伴結果」→こんなこと書いていません。前の文にひきずられています。
(3) 「聖域として保護される売春宿を旅商人に提供する」→「宗教的に保護された商人のための売春宿の役割を引き受ける」
(4) 何故同じBordellという単語を「売春宿」と「遊郭」に訳し分ける必要性があるのか。というか「遊郭」ってあなたいつの時代の人?(笑)

原文
So von modernen Sekten noch bei der Tanzorgiastik der Chlysten, — was, wie wir sahen, die Veranlassung zur Bildung der Skopzensekte gab, die eben diese askesefeindliche Konsequenz auszuschalten trachtete. Gewisse, viel mißdeutete Institutionen, so namentlich die Tempelprostitution, knüpfen an orgiastische Kulte an. In ihrer praktischen Funktion hat die Tempelprostitution dann sehr häufig die Rolle eines Bordells für die reisenden, sakral geschützten Kaufleute angenommen, die ja auch heute der Natur der Sache nach überall typisches Bordellpublikum sind. Die Zurückführung der sexuellen außeralltäglichen Orgiastik auf eine endogene Sippen- oder Stammes-»Promiskuität« als eigentlich primitive Institution des Alltags ist schlechthin töricht.

折原訳
近代のゼクテについて見ると、たとえばクリュスティ派 による舞踏狂騒の随伴結果が挙げられる。すでにわれわれが見たとおり 、これが契機となり、まさにそうした反禁欲的帰結の排除をめざして、去勢派(スコプティ)が形成されたのである。また、ある種の制度、とくに神殿売春は、しばしば誤って解釈されているが、本来、狂騒的礼拝と結びついている。その場合、神殿売春は、実践的機能においてはきわめてしばしば、聖域として保護される売春宿を旅商人に提供する役割を果たした。じっさい旅商人は、事柄の本性上、今日なお、遊廓の典型的な常連客である。非日常的な性的狂騒の起原を、本来原初的な日常の制度である氏族ないし部族の内部に発生する「雑婚」に求める所見 は、見当違いも甚だしい。

丸山訳

近代のセクト[1] についてでもなお、フリスト派[2] における舞踏オルギアの例がある、--既に我々が見た通り、そのセクトがスコプツィ[3][去勢派]の形成のきっかけになっており、そのスコプツィはまさにそうした禁欲の敵となるような帰結を排除しようと志したのである。ある種の、非常に誤解されている諸制度、特に神殿売春は、それはオルギア的礼拝と結び付いている。その実際の機能においては、それはそれ以外に非常にしばしば、旅行者である、宗教的に保護された商人のための売春宿の役割を引き受けるようになっており、そういった旅商人は確かに今日でもまた、事物の本性に従って、どこにおいても売春宿の典型的な顧客である。性的な非日常的オルギアの起源として、氏族や種族の内部的な、本来原初的な日常的制度としての「乱婚」に求める[4] のは、端的に馬鹿げている。

[1] ヴェーバーはSekteで、主としてプロテスタントの諸教派を意味し、時としてここの例のように現代の宗教社会学の分類では「セクト」(Sekte=教派に比べよりラジカルで排他的なもの)ものも含めている。例えばゲルト・タイセン著、廣石望訳、「イエス運動--ある価値革命の社会史」では教会-教派-セクト-カルト集団の四分類を取っている。(該当書、P.159)

[2] 1645年にロシアでダニロ・フィリポヴィッチによって創設されたセクトであり、厳格な禁欲主義を取る一方で、ラジェーニエという儀式で、激しく踊り回転しながら、自らを鞭打ってでトランス状態に入り、そのことで聖霊が自らの体に宿ると信じていた。

[3] 訳注422参照。

[4] バッハオーフェンの説。

折原浩訳の問題点(185)

ここは、まずは冒頭の文の主語、Erで男性名詞を受けていることが示されているのに、折原訳では「それは」。
次に、Saktireligiositätはシャクティ信仰なのに、折原訳では「性力崇拝的宗教性」という一体それ何ですか?という訳。ここに、religiositätと来ると何とかの一つ覚えで「宗教性」と訳す弊害が出ています。大体「性力崇拝的宗教性で性的な陶酔の機能が残っています」って当たり前でトートロジーでしかありません。シャクティ信仰の中に女性原理とか生殖力への崇拝とかありますが、「性力崇拝的宗教性」とするのはあまりにひどいです。

原文
Er behält diese Funktion auch in relativ systematisierter Religiosität gelegentlich ganz direkt und beabsichtigt. So bei der Saktireligiosität in Indien noch fast nach Art der alten Phalluskulte und Riten der die Zeugung (der Menschen, des Viehs, des Samenkorns) beherrschenden sehr verschiedenen Funktionsgottheiten. Teils und häufiger aber ist die erotische Orgie wesentlich ungewollte Folgeerscheinung der durch andere orgiastische Mittel, namentlich Tanz, erzeugten Ekstase.

折原訳
それは、相対的には体系化された宗教性においても、ときとしてまったく直接的また意図的に、この機能を維持している。インドの性力崇拝的宗教性においては、いまなお、古い男根崇拝や、生殖 (人間、家畜、穀物の種) を支配する多種多様な機能神崇拝の儀礼という流儀で、そうした機能が維持されている。ところが、性愛的な狂騒は、別の狂騒手段とくに舞踏によって生み出される陶酔の、もともとは意図されない随伴結果である場合もあり、むしろこのほうがいっそう頻繁である。

丸山訳
こうした性的な陶酔は、相対的に体系化された信仰においてもまた、時としては全く直接的にかつ意図的にこうした働きを保っている。インドのシャクティ信仰においては、未だにほとんど古代の男根崇拝と、生殖(人間の、家畜の、穀種の)を司る非常に多様の機能神の儀式のやり方に従ったそういった働きが残っている。しかしながら部分的には、そしてよりしばしば性愛的なオルギアは、他のオルギア的手段の本質的に望んではいなかった随伴現象であり、その手段とは特に舞踏によって引き起こされたエクスタシーである。

折原浩訳の問題点(184)

ここも間違い探しのようなひどい訳。
(1)「世俗内的禁欲のみである。」→「ただ現世内禁欲の職業倫理のみである。」
(2)「それ相応の問題機制が潜んではいる。」→「そういった留保事項にはそれ相応の問題がある」
(3)[世俗内的禁欲による内面的適合の方向ばかりではなく]→そんなことは書いていない。
(4)Zu….,…, gehört という構文を理解していない。暴力行使の合理化の事実上の諸結果に非合理性への逃避が随伴する、と言っているのにそういう訳にまるでなっていない。
(5)「いたるところで通例、脱政治的感情の非合理性への逃避が強められる。」→「そういった暴力行使の合理化の諸結果はwo以下の場合は至る所で通例出てくるものであるが」であり、最後の文にかかっているのではない。
(6)国民「国家」→合理的国家
(7)[そういう英雄が自分たちで秩序を定立・制定し、互いに準拠し合うという]→これもそんなことは書いていない。
(8)「即人主義」→繰り返しになるけど「人格主義」。

原文
Wirklich innerlich adäquat ist der Versachlichung der Gewaltherrschaft — mit ihren rationalen ethischen Vorbehalten, in welchen die Problematik steckt — nur die Berufsethik der innerweltlichen Askese. Zu den tatsächlichen Folgen der Gewaltsamkeitsrationalisierung aber, die, in verschieden starkem Grade und auch in der Art unterschiedlich sich äußernd, überall da aufzutreten pflegten, wo jene Hinwegentwicklung der Gewaltsamkeit von der personalistischen Helden- und Gesellschaftsgesinnung zum rationalen »Staat« sich entfaltete, gehört die gesteigerte Flucht in die Irrationalitäten des apolitischen Gefühls.

折原訳
さて、暴力支配の即物化に真に内面的に適合できるのは、世俗内的禁欲のみである。しかしそれも、合理的かつ倫理的な留保をともなっており、そうした留保には、それ相応の問題機制が潜んではいる。とはいえ、暴力機構の合理化から生まれる諸結果は、事実上[世俗内的禁欲による内面的適合の方向ばかりではなく]、さまざまな強度で、さまざまに異なる性質を帯びて現れてくる。そして、そうした事実上の諸結果のひとつとして、暴力支配が、即人主義的な英雄の心意と [そういう英雄が自分たちで秩序を定立・制定し、互いに準拠し合うという]ゲゼルシャフト的な心意とから離れて、国民「国家」に発展を遂げるところでは、いたるところで通例、脱政治的感情の非合理性への逃避が強められる。

丸山訳
実際に権力的支配の物化に内面で適合するのは--その支配の合理的・倫理的な留保事項についての適合であり、そういった留保事項にはそれ相応の問題があるが--ただ現世内禁欲の職業倫理のみである。暴力行使の合理化の事実上の諸結果についてはしかし、それらは様々な強さで、そしてまた様々な形で出て来る、人格主義的な英雄の心情とゲゼルシャフトの心情においての暴力性が、合理的な「国家」にまで進むというあの発展が起きたところでは、どこでもしばしば登場してくるものであるが、その暴力行使の諸結果には、非政治的感情の非合理性への逃避ということが随伴してくるのである。