「中世合名会社史」でのヴェーバーのローマ法の引用についての注意

この論文でのヴェーバーのローマ法の引用について、かなり重要と思われることが見つかったので、訳者注としてまとめる前に、取り敢えず独立の記事として上げておきます。

まず、ローマ法のテキストというのがかなりややこしくて、テキストがかなりの部分確定していないものがあります。
その理由は、まずローマ法は、紀元前450年頃に「十二表法」という形で制定されます。この名前は、法令が十二枚の板の上に書かれていた所から来ています。この木の板は、紀元前一世紀の内乱の際に永久に失われてしまいました。しかしながら、その内の1/3程度が法学書や歴史書に引用されているために、我々は今でもローマ法の姿を知ることが出来ます。

それから時代は飛んで6世紀のユスティニアヌス帝の時に、廃れた法律を削除し、新たな法律を採用した「ローマ法大全」が編まれます。同時に、過去数世紀の法学者の著作も調査し、その内容を場合によっては「改竄」して現行法に合わせるようにします。これが「学説彙纂(いさん)」です。ヴェーバーがDで始まる条文を引用しているのは、この「学説彙纂」であり、Dは学説彙纂のラテン語であるDigestaの頭文字です。この学説彙纂はローマ法がそのまま使われていた時代にはその内容のまま使われていました。しかし、ローマ法から近代法に移り変わりが始まった時代になって、ユスティニアヌス帝の法典ではなく、古典法に戻ろうという動きが発生し、ユスティニアヌス法典が行ったであろう「改竄」を元に戻そうとする傾向が生じました。このため19世紀末から20世紀初にかけていわば「改竄狩り」が発生し、当時の法学者は自分の納得出来ない法文があると、「改竄された」と決めつけてテキストを変更することが行われていました。その後第二次世界大戦後にようやくきちんとした正文批判が行われた結果、ユスティニアヌス法典での改竄はほとんどが単語をちょっと短くしたとか、言葉をより適切なものに置き換えたりという程度であったことが明らかになりました。(本当の意味での改竄がまったく無かった訳ではありませんが。)

つまりヴェーバーがこの論文を書いていた時期は、そういう過渡期の混乱期であり、引用しているローマ法については注意が必要です。実際に全集版152ページでヴェーバーがレースラー(ロエスレル、明治日本のお抱え学者で大日本帝国憲法と商法の草案を作った人)の学説として引用しているローマ法(の注釈)は以下の通りです。(Dig.21.1.44.1)

Weber

Proponitur actio ex hoc Edicto in eum, cujus maxima pars in venditione fuit, quia plerumque venaliciarii ita societatem coëunt, ul quidquid agant, in commune videantur agere; aequum enim Aedilibus visum est, vel in unum ex his, cujus major pars, aut nulla parte minor esset, acdilicias actiones competere, ne cogatur emptor cum singulis litigare.

この法文は、全集の注記によれば、Quintosの注釈書では(異同はイタリックで示す。)

Quintos

Proponitur actio ex hoc edicto in eum cuius maxima pars in venditione fuerit, quia plerumque venaliciarii ita societatem coeunt, ut quidquid agunt in commune videantur agere: aequum enim aedilibus visum est vel in unum ex his, cuius maior pars aut nulla parte minor esset, aedilicias actiones competere, ne cogeretur emptor cum multis litigare.

となっているそうです。

この法文(Quintosの方)を試訳したものが以下です。
(日本語訳は、http://www.law.kyushu-u.ac.jp/~tanaka/yaku.html を見ると出ているようですが入手していません。)

「この布告は奴隷の売買において、もっとも大きな売上を上げるものに対して提案されるものである。というのは通常奴隷の商人達はソキエタスを結成し、彼らの成すこと全ては共同の行為としてみなされるからである。按察官にとっては、ソキエタスの成員の中でもっとも大きな売上を上げている一人に対してでも、または他の成員に引けを取らない売上を上げている者に対してでも、この制度は好ましいものであり、購買者は多数の商人と訴訟沙汰になることを避けることが出来るであろう。」

問題なのは、最後のcum multis litigare (多数の商人と訴訟沙汰になる)で、ウェーバーのテキストではcum singulis litigare (一人の商人と訴訟沙汰になる)となっており、まるきり意味が違ってきてしまいます。
おそらくヴェーバーの引用は直接学説彙纂より引いたというより、レースラーのテキストをそのままコピーしただけなのではないかと思います。意味的にはQuintos版の方が正しく思えます。(買う側からしたら、ソキエタスを構成している奴隷商人全員と訴訟をするより、その中の代表者一人に対して訴訟をする方がはるかに楽ですので。)このレースラーの説は、ローマ法において合名会社的な連帯責任の萌芽があるという主張なのですから、その根拠の条文がこのように曖昧さを持っているのは問題かと思います。もちろんヴェーバーはこの章でこれらの学説の有効性を否定していますので、引用が間違っていても論旨自体に大きな影響はありませんが、ともかく今後ローマ法の引用部には注意が必要です。幸い全集の注には異同がすべて記載されています。(この間ドイツ語本文の誤植を見つけましたが、さすがにこの部分はちゃんとやってくれていると信じたいです。)

参考:ウルリッヒ・マンテ著 田中実/瀧澤栄治訳 「ローマ法の歴史」ミネルヴァ書房

Angebliche Ansätze zur Wandlung der römischrechtlichen Grundsätze pp.152-155 ドイツ語原文(6)

Angebliche Ansätze zur Wandlung der römischrechtlichen Grundsätze pp.152-155のドイツ語原文です。
この辺りから本格的にラテン語(古典ラテン語)が登場します。
========================================================
Angebliche Ansätze zur Wandlung der römischrechtlichen Grundsätze.

Im allgemeinen muß dies entschieden in Abrede gestellt werden, für das Gebiet des Privatrechts unbedingt.

1. D. 63 §5 pro socio
Man könnte in einzelnen Bestimmungen eine Überschreitung jener Grenzen finden wollen. So wenn dem socius das Recht gegeben wird – D. 63 §5 pro socio – bei Zahlungsunfähigkeit eines socius sich an diejenigen anderen socii zu halten, welche ihren Teil von demselben voll beigetrieben haben.
Diese anscheinende Überschreitung der rein quotenmäßigen Regelung des Verhältnisses ist indessen nur eine Konsequenz der Natur der actio pro socio, bei welcher – es handelt sich nur um das Verhältnis unter den socii – die bona fides gleichmäßige Teilung der Verluste fordert.

2. D. 44 § 1 de aed[ilicio] edicto.
Roesler 3) hat ferner D.44 § 1 de aed[ilicio] ed[icto] herangezogen: Proponitur actio ex hoc Edicto in eum, cujus maxima pars in venditione fuit, quia plerumque venaliciarii ita societatem coëunt, ul quidquid agant, in commune videantur agere; aequum enim Aedilibus visum est, vel in unum ex his, cujus major pars, aut nulla parte minor esset, acdilicias actiones competere, ne cogatur emptor cum singulis litigare. – In der That liegt in dieser, der Praxis des Marktgerichts entwachsenen Bestimmung eine von den Juristen durch die präsumtive Interessen-

3) Zeitschr. für Handelsr. Bd. 4.

gemeinschaft der venaliciarii als billig motivierte, juristisch nicht weiter analysierbare Singularität vor, deren Grundlage im Societätsrecht nicht zu suchen ist. Die präsumtive Societät wird nicht als rechtliches Fundament der erweiterten Klage, sondern nur als legislatorisches Motiv der Aedilen dargestellt.

3. Argemarii.
Schon eher könnte das Verhältnis der plures argentarii als eine wirkliche Modifikation der römischen Auffassung gelten. Die davon handelnden Quellenstellen4) ergeben in der That eine wohl aus Besonderheiten des Litteralkontrakts und der Buchführung („nomina simul facta“) der Bankiers hervorgehende Rechtsbildung, jedoch nicht eigentlich ein Institut des Societätsrechts. Das Bestehen einer Societät wird nicht als der Rechtsgrund hervorgehoben.

4. Lex Malacitana c. 65
Thatsächlich aus dem Rechtsgrund der Societät hervorgehende Solidarberechtigungen enthält dagegen anscheinend das Statut der latinischen Colonia Malaca5) in

4) D. 9 pr. de pactis. Si plures sint, qui eandem actionem habent, unius loco habentur.
Ut puta plures sunt rei stipulandi vel plures argentarii, quorum nomina simul facta sunt … unum debitum est, – und
D.34 pr.de recept[is arbitris] (III.8): Si duo rei sunt aut credendi aut debendi et unus compromiserit … videndum est, an si alius petat, vel ab alio petatur, poena committatur.
Idem est in duobus argentariis, quorum nomina simul eunt (erunt Hal[oander]).

5) Cf. Mommsen, Stadtrechte zu der im folgenden cit. Stelle.

der, hinsichtlich der Bedeutung des Ausdrucks „socius“ freilich nicht zweifelsfreien Bestimmung: Lex Malac[itana] c.65 (es handelt sich um den Verkauf der praedes praediaque):
… ut ei qui eos praedes cognitores ea praedia mercati erunt praedes socii heredesque eorum i[i]que ad quos ea res pertinebit de is rebus agere easque res petere persequi recte possit.

Also: der socius des Käufers hat eine direkte Klage wie der heres. Zu berücksichtigen ist, daß wir uns auf dem Boden des Verwaltungsrechts befinden und ein durch die Hand des Magistrats geschlossener Kontrakt vorliegt. Wie weit hier die besondere Natur der öffentlichrechtlichen leges contractus6) einwirkt, und daher das Privatrecht cessiert, steht dahin7).

6) Cf. Heyrovsky, Die leges contractus.
7) In der Kaiserzeit begegnet die entsprechende Bestimmung auch sonst, cf. lex Metalli Vipascensis Z. 5 (Bruns, Fontes p. 247) conductori socio actorive ejus und weiter passim. Aus republikanischer Zeit ist mir Ähnliches nicht bekannt. Die lex Julia municip[alis] Z. 49 (Bruns. Fontes p.104) spricht nur von „redemptorei, quoi e lege locationis dari oportebit, heredeive eius“ im verwandten Fall.

Negatives Ergebnis für das römische Recht.

Auf dem Boden des Privalrechts 8) finden wir jedenfalls auch im spätrömischen und im Recht der Basiliken und ihrer Scholien 9) noch keine Modifikationen der alten Grundsätze. Daß jene erwähnten Spezialrechtssätze oder daß lokale Rechtsbildungen des Vulgärrechts Anknüpfungspunkte für die spätere, dem mittelalterlichen Großverkehr angehörige Entwickelung der von uns zu behandelnden Institute geboten haben sollten, dafür fehlt zum mindesten jeder Anhalt.

Modernes Recht der offenen Handelsgesellschaft. pp.149-151 中世合名会社史日本語訳(5)

日本語訳の5回目です。
注釈部のLabandに関する議論は、Laband自身の元の説を見ていないので現時点では誤って解釈している可能性もあります。
また、Institutという単語をこれまで「機関」と訳してきましたが(「天皇機関説」の機関のような)、「共有財産」「連帯責任」というのは人間集団ではなく法的な取り決めであるため「制度」という訳に変えました。小学館の大独和にこの訳語があります。
ドイツ語原文はここです。
========================================================
商取引におけるゲゼルシャフト(会社)の捉え方という点で、商号はしかしながらそこにおいて容易にある種の人格を獲得する。人格の獲得、すなわち商号の擬人化は以下のような法的な規定を定める上での出発点となる。その規定とは、たとえばある業務が執り行われる場合に誰がそれに従事するのであるかとか、あるいはある商号に対して以前より存在している債務は一体誰が負うのかなどといったことを、現実の生の中で比較的に簡素かつ自然に記述するものである。法学的な構成という意味で、外部から観察出来る外形を持った対象物を用い実際的な規定を記述することは、まったくもって簡単なことではない。もしそれ故に法学的に商号に実際的な人格性を持たせることまでに進めることが出来ないのであれば、体系的な記述の要求に応じるという限りにおいて、「商号」「業務」「ゲゼルシャフト(会社)」にそれぞれ法学的な考察における対象物として個別に重要な機能を持たせることが出来る。

これまで述べてきたことから、こういった法学的解釈の発展の根本原理は、まずは第一に連帯責任とゲゼルシャフト(会社)の特別財産という相互に緊密に関連した二つの制度であるということが容易に導き出される。

本質的な意味において、これらの二つの制度は以下の論述では次の点で法制史的に考察されなければならない。つまり一体どのような目的でゲゼルシャフト(会社)形態の発展一般に関与したのかということと、またこうした発展がこの二つの対立関係の確立無しには起き得なかったのかどうかということである。2)

中世におけるソキエタスの発展の根本原理の解明に入る前に、たとえ非常に手短にではあっても、ここにおいて始めて提起されたのではない問題について詳しく述べるべきであろう。つまりローマ法において、ソキエタスの純粋に義務的な性質と、その義務的な性質がソキエタスの成員間に働くことへの制限とを克服するような少なくとも何かの契機が存在していたのかどうかということである。

2) 合名会社の方についてのここでの概略説明は、Laband《Paul Laband、1838~1918、ドイツの法学者》の商法雑誌第30・31巻のものとは原理的に異なり、少なくとも彼のゲゼルシャフト(会社)の基金の財産としての機能の説明は破綻していると思われる。-それは彼の理論的展開において、合名会社の関係においての「内的なもの」と「外的なもの」の慣習的な区別を認めたがらないことから生じているが-二つの対立を説明の中で利用することを第30巻の51ページのCにおいて彼自身がまったく無しで済ますことは出来ていないのであるが-Labandは合名会社の特質をただ外部への責任だけとしている。ゲゼルシャフト(会社)の基金を特別財産として別扱いにすることについては、強制的な共同の所有権において、ソキエタスの一方の成員の権利が他方の成員の権利を、それぞれの財産への完全な支配をお互いに制限することが、ただ問題になる。-その証明としては、Labandはゲゼルシャフト(会社)の財産の金額は、第三者の、とりわけ債権者の権利の対象ではないと述べている。

その論法を仮に認めるとしても、なるほどゲゼルシャフト(会社)の財産の金額は第三者の債権の対象では無いとしても、その「存在」は第三者に対しても法的な権利の対象である。ゲゼルシャフト(会社)の財産というものは、経済的には無に等しい場合もあり得るかもしれないが、法的にはそれは存在し、経済状態という意味では重要な帰結は無くとも、ソキエタスの成員達はそれが確かに存在しまたその存在によってそれを法的に取り扱うことが開始されるということを、どうやっても隠し通すことは出来ないのである。

Labandはゲゼルシャフト(会社)の財産に対する個人の債権者を除外する理由として以下を挙げている。つまり、個々のソキエタスの成員に対する債権者は、その成員に対する債権者として以上の(ゲゼルシャフト{会社}に対する)権利を持つことは出来ず、それはラテン語では”nemo plus juris transferre potest quam habet ipse”《誰も自分自身が持っている以上の権利を他人に渡すことは出来ない》と表現されるが、そして確かに個々のソキエタスの成員は他のソキエタスの成員の義務的な請求権そのものによって制限を受けている。ある個人債権者のみをとってみてもまた、もし仮にその債権者が全ソキエタス成員に対する連帯的な債権を持つ者であったとしても、それは直ちにゲゼルシャフト(会社)の債権者ではあり得ないであろうし、かつまた他のソキエタス成員の義務的な権利がどのように、それぞれのソキエタスの成員が会社の所有物に対して保持している分け前から債権者を排除するという上述の物権的な作用を及ぼすのかということについても疑わしい。仮に個々の他のソキエタスの成員の権利が個人の債権者と対立しているとしたら、これらの権利を単に無効にするということが同時にその個人債権者をゲゼルシャフト(会社)の債権者にし、またゲゼルシャフト(会社)の財産の占有を可能にすることになるが、そういう事は実際には起きていない。

ローマ法でのソキエタスの場合は、複数のソキエタスの成員が個々の場合において、例えば保証人として連帯して責任を負う場合でも、未だゲゼルシャフト(会社)の財産というものは成立していないし、また銀行家についても、その責任は法律上義務付けられてはいるものの、この種の財産を共有するような制度については何も知られていない。

法制史においてもまた、ゲゼルシャフト(会社)の共有の財産という考え方が発展していく過程において合名会社が果たした大きな役割について今後この論文で追究していくことになるであろう。

重要なのは唯、既知の通り合名会社が共有財産という特性を特定の他のゲゼルシャフト(会社)形態と分け合ったということであり、また常にその種の共有財産の概念の設定は、ゲゼルシャフト(会社)内部の責任関係と非常に密接な関連を持っている。

参照:Labandについては、Gierke《Otto Friedlich von Gierke、1841~1921、ドイツの法学者、特に団体法の研究で有名》のDie Genossenschaftstheorie und ide deutsche Rechtspruchung (ゲノッセンシャフトの理論とドイツの判例)の438ページを参照。

Modernes Recht der offenen Handelsgesellschaft. pp.149-151 中世合名会社史ドイツ語原文(5)

“Modernes Recht der offenen Handelsgesellschaft.”の残りのドイツ語原文です。注釈が長い…
=============================================================================================================
 In der Anschauungsweise des Geschäftsverkehrs aber gewinnt die Firma eben dadurch leicht eine Art von Persönlichkeit, d. h. die Personifikation derselben ist die Handhabe, um Sätze, welche zwar im praktischen Leben sich relativ einfach und natürlich geben, – wie z. B. den: daß wer in ein bestehendes Geschäft eintritt, für dessen ältere Schulden haftet u.a., – welche aber in ihrer juristischen Konstruktion keineswegs einfach sind, durch ein plastisches Bild anschaulich und damit praktikabel zu machen. Wenn es daher auch juristisch zu einer wirklichen Personifikation der Firma nicht kommt, so wird doch, soweit das systematische Bedürfnis reicht, es ermöglicht, daß die „Firma“, – das „Geschäft“, – die „Gesellschaft“, – einzelne wichtige Funktionen eines Rechtssubjektes erfüllt.
 Es ergibt sich leicht aus dem bisher Gesagten, daß die Grundlage dieser Entwickelungen mit in erster Linie die beiden eng miteinander zusammenhängenden Institute der solidarischen Haftung und des gesellschaftlichen Sondervermögens sind.
 Wesentlich diese beiden Institute sollen im folgenden einer historischen Betrachtung unterzogen werden, zu welchem Behuf allerdings ein Eingehen auf die Entwickelung der Gesellschaftsformen überhaupt, schon der Gewinnung des Gegensatzes wegen, nicht entbehrt werden kann 2).
 Bevor wir auf die Grundlagen der mittelalterlichen Societätsentwickclung kommen, ist wenigstens in aller Kürze die hier nicht zum erstenmal aufgeworfene Frage zu erörtern, ob nicht etwa schon im römischen Recht wenigstens Ansätze zu einer Überwindung der rein obligatorischen Natur der societas und ihrer Beschränkung auf Wirkungen inter socios sich finden.

2) Von der vorstehend skizzierten Darstellung des Rechts der offenen Handelsgesellschaft weicht Laband – in der Zeitschr. für Handelsr. Bd. 30, 31 – prinzipiell insofern ab, als bei ihm die Vermögensfunktion des Gesellschaftsfonds wohl zu kurz kommen dürfte.
– Aus Abneigung gegen die in der Doktrin übliche Unterscheidung der „inneren” und „äußeren” Seite des Verhältnisses – ein Gegensatz, dessen Verwertung er selbst Bd. 30 S. 5 1. c. doch nicht ganz entraten kann – behandelt er als das der offene Handelsgesellschaft Charakteristische nur die Haftung nach außen. Bei der Absonderung des Gesellschaftsfonds als Sondergut handle es sich nur uni ein Rechtsverhältnis intcr socios, das obligatorische Mitrecht des einen beschränke den anderen in der vollständigen Herrschaft über sein Vermögen. – Beweis: die Größe des Gesellschaftsvermögens sei nicht Gegenstand eines Rechtes dritter, insbesondere der Gläubiger.
 Dies zugegeben, ist dagegen zu sagen, daß zwar nicht die Größe, aber allerdings die Existenz eines Gesellschaftsvermögens Gegenstand des Rechts auch dritter ist. Das Gesellschaftsvermögen kann ökonomisch gleich Null sein, juristisch besteht es, und zwar nicht ohne wichtige Konsequenzen auch für die ökonomische Sachlage, und die socii können auf keine Weise hindern, daß es besteht und daß die Rechtsfolgen dieses Bestehens eintreten.
 Laband will den Ausschluß der Privatgläubiger vom Gesellschaftsvermögen dadurch motivieren, daß die Gläubiger des einzelnen socius nicht mehr Rechte haben könnten als dieser selbst, nemo plus juris transferre potest quam habet ipse, – und der socius werde ja eben durch die obligatorischen Ansprüche der anderen socii beschränkt; allein auch ein Privatgläubiger, welcher solidarischer Privatgläubiger aller einzelnen socii wäre, würde nicht Gesellschaftsgläubiger sein, und überdies bleibt problematisch, wie obligatorische Rechte der anderen socii die besagte dingliche Wirkung des Ausschlusses der Gläubiger von den dem socius zustehenden Anteilen an den Gesellschaftssachen erzeugen sollten. Ständen dem Privatgläubiger nur Rechte der einzelnen anderen socii entgegen, so müßte die bloße Nichtgeltendmachung dieser Rechte ihn zum Gesellschaftsgläubiger machen und ihm den Zugriff ermöglichen, was nicht der Fall ist.
 Bei einer römischen societas entsteht dadurch, daß die socii im einzelnen Fall, als Bürgen z. B., solidarisch haften, noch kein Gesellschaftsvermögen, auch bezüglich der argentarii. bei welchen die Haftung eine gesetzliche ist, ist von einem derartigen Institut nichts bekannt.
 Auch historisch werden wir die große Rolle, welche gerade das Bestehen eines gemeinsamen Vermögens in der Entwickelung gespielt hat, zu verfolgen Gelegenheit haben.
 Richtig ist nur, daß die offene Handelsgesellschaft das Charakteristikum des Sondervermögens mit bestimmten anderen Gesellschaftsformen, wie bekannt, teilt, und daß stets die Stellung derartiger Sondervermögen mit den Haftungsverhältnissen auf das innigste zusammenhängt.

Cf. gegen Laband: Gierke, Die Genossenschaftstheorie und die deutsche Rechtsprechung S.438.

Modernes Recht der offenen Handelsgesellschaft. pp.147-149 中世合名会社史日本語訳(4)

日本語訳の続きです。ここはかなり苦労しました。一度逐語訳に近い形で日本語にし、その日本語訳と原文を突き合わせ、再度こなれた日本語に書き直そうとしているため、非常に時間がかかります。今のペースで計算してみたら、完訳までおそらく2年近くかかりそうです。
ドイツ語原文はここです。
=========================================================
これに対し、合名会社の(法的な)構成は、ソキエタスに対してはっきりした違いを見せる:《この行再掲》
そのような合名会社の存在は、まずその作用をソキエタスの成員同士の関係に限定して及ぼすのではまったく無く、むしろそれは第三者にとって無視することが出来ない一つの事実となるのである。ゲゼルシャフト(会社)の契約が、ある決められた割合でソキエタスのある成員に権利を与え、かつその成員を「ゲゼルシャフト(会社)の」名前で行う業務に従事させる場合、全ての社員(Gesellschafter)はその業務に直ちに拘束されるのである。第三者であって、そういったゲゼルシャフト(会社)の業務において契約しその結果債務を負う者は、また(直接契約に関わった成員以外の)他のソキエタスの成員をも契約の当事者として認め、その成員が「ゲゼルシャフト(会社)の名において」債権全額を保持していることを認めなくてはならない。逆にその第三者が(そのゲゼルシャフト{会社}に対して)債権を持つ場合、直接の契約相手に対してだけでなく、他のソキエタスの成員も全額の債務を負っているとみなすことが出来、さらに「ゲゼルシャフト(会社)」そのものについても、会社資産における債務としてそれを負っているとみなすことが出来る。こうしたゲゼルシャフト(会社)の財産は、本質的で特徴的な要素として、あるソキエタスの成員の法的な取扱いの効果の点で、債権者(借方)としても債務者(貸方)としても契約の当事者であるソキエタスの成員個人を超えて影響力を持つということと密接に関係している。そしてそういったソキエタスの成員個人を超えた法的取扱いの効果については、ある一人のソキエタスの成員が執り行った全ての業務について及ぶのではなく、ただ「ゲゼルシャフト(会社)の名において」執り行った業務のみに対してのみ及ぶのであるから、あるソキエタスの成員が執り行った業務の結果としての義務的な関係は、その成員がただ自分の名前で執り行ったのか、また「ゲゼルシャフト(会社)の名において」執り行ったかによって全く違った意味を持つのである。その一方で全ての「ゲゼルシャフト(会社)の名において」執り行われた業務は、それがどのソキエタスの成員によって執り行われたかどうかに関わらず、すべてのソキエタスの成員相互に全く同等の意味を持つのである。

それ故に、(ゲゼルシャフトに対して)強制的に権利を与えることと義務を負わせることの両方が生じるが、その二つはそれぞれのゲゼルシャフト(会社)の資産において貸借対照表の借方や貸方へ記載された他の資産や負債とは本質的にその意味を異にしているが、その二つを他から区別する目印は二つにおいて同じなのである。同様に、「ゲゼルシャフト(会社)の名において」獲得された可視物(species = 外観をもったもの)への物権もそこに見出すことが出来るが、それはローマ法の共有財産の規定に対する個々のソキエタスの成員の取り分に応じた処分権に基づいているのではなく、むしろそのソキエタスの成員はゲゼルシャフト(会社)契約またはソキエタス法によってのみ、またただその範囲を限度として権利を与えられ処分権を持つのである。またこの法的な客体は、あるソキエタスの成員の(私有)財産における他の対象物とは異なっており、その双方を区別する目印によりそれらの他の対象物に対してまさに区別されるのである。このゲゼルシャフト(会社)というカテゴリーにおいて、義務的なものと並んでまた物権においても、これまで言及してきた違いというのは、ゲゼルシャフト(会社)の目的との関係の違いによる結果である。その結果ローマ法における共通勘定(arca communis)は、それをここで議論してきたようなゲゼルシャフト(会社)の財産物件として包括的に考える時は別の意味を持つようになる。その共通勘定の財産物件の権利は、ソキエタスの成員の他の(個人)財産物件とははっきりと区別されるのであり、その処分についても他の財産物件の処分方法とは区別され、個々のソキエタス成員の共通財産への部分的処分権はゲゼルシャフト(会社)が存続する限り直接的には無効であり、ゲゼルシャフト(会社)法に従って取り決められた処分権の方が優先される。個々のソキエタス成員の部分的処分権は、会社法による処分権に対しては劣位の権利に過ぎず、それ故にこのソキエタスの成員への債権者は、これらの客体ないしは部分的分け前に対しては直接強制執行の対象物に入れることは出来ないし、またその成員の破産財産中に個別かつ直接それらを入れることも出来ない。同様に、他方ではその(共通勘定という財産の)複合体の貸方に記載される負債は、個々のソキエタス成員の債務とは次のことにより明確に区別される。それは、その負債が、ただその負債が、共通勘定(arca communis)を上記の意味(会社の財産としての処分権が個々のソキエタス成員の部分的処分権より優先するという意味)で直接に貸借対照表の借方に記入出来るようにし、そしてその共通勘定への直接的な財産の追加の獲得を正当化する。それ故に、何かの処分権が会社とソキエタス成員個人との間で対立する場合には、まず(会社資産への)財産に組み入れられた後、それでもなおその成員の個人財産として残留する部分のみが、そのソキエタス成員の財産または破産財産に算入される。

すべてがある特定の(ゲゼルシャフト{会社}の)目的に役立つための諸権利の複合体が、その権利については他の権利とは区別され特別に規定された方法で行使され、またそれに対して特別な責任が課せられるのであるが、ここではそれを「財産」と名付けたい。そしてこの名称は何らの根拠のある疑いもなく正当であるが、故にこうした特性は、またこれまで述べてきた権利関係の総体に帰属するものである。共通勘定(arca communis)からある種の特別財産という考え方が生じ結局「ゲゼルシャフト(会社)財産」に成るのであるが、そのゲゼルシャフト(会社)財産は今や強制執行や破産の対象になり得る一つのまとまった対象物であるが、またそれは同時にこのゲゼルシャフト(会社)財産と個々のソキエタスの成員との間での権利と義務の成立を概念的には排除しない。1)

今や(ゲゼルシャフト{会社}の資産という)客体の側に(ここで定義した意味での会社)財産であるという目印が存在するとしたら、その法教義学的な必要性は明白であり、その客体は法規において精確に記述しようとする利害関心において不可欠のものであり、そのためにまた(その客体を所有する者である)主体も、または主体に相当する何か別のものでも、その財産の機能を(法的に)規定するために不可欠となるのである。その目的での一つの契機となるのは商号(Firma)の使用である。商号はただ実際的な簡約表現のための技法であり、というのもその用語の使用は上述してきたような「ゲゼルシャフト(会社)の」名前において行なわれる財産関係を簡易的に記述するのに役立つからである。

1)  ドイツ帝国上級商事裁判所 民事判決第5巻206頁。

合名会社(die offene Gesellschaft)の”offene”(公開の、オープンな)とは何か

die offene Handelsesellschaft (合名会社、OHG)の”offene”(=公開された、オープンな)が何を意味するかについての注記です。わざわさ”offene”が前に付いていることは、それに対立する概念として公開されていない、オープンでは無い会社形態があったということになります。私は以前はこの”offene”は「登記されて外部に公開されている」という意味に解釈していましたが、合名会社の場合登記自体は必須ではない(但し契約などで第三者に対抗するには登記が必要)ので違いました。
それが匿名組合= die stille Gesellschaft です。つまり合名会社ではその会社に対し誰が出資しているのか、まず名称に出資者全員の名前が入っている(=合名)のであり、公開されています。これに対し匿名組合では一部の出資者の名前は外部に対して秘密になっています。要するに貴族や聖職者、あるいは各地を渡り歩く商人などが自分の名前を出さずに他人のビジネスに参加する時に都合の良い会社形態だったわけです。コムメンダも元々はこの匿名組合です。この匿名の出資者が業務執行権も持つ場合には、内部組合= die Innengesellschaft と呼ばれました。合名会社はこの内部組合に直接対比されるものです。匿名組合として始まったコムメンダは結局合資会社へと発展しますが、そうであるならば、ヴェーバーが言っているように合名会社と合資会社は共通の起源に基づくというのは正しいのでしょう。
参考文献:ハインリッヒ・ミッタイス、ドイツ私法概説、P.91

Modernes Recht der offenen Handelsgesellschaft. pp.147-149 中世合名会社史ドイツ語原文(4)

「現在の法における合名会社」の所のドイツ語原文です。P.149の途中まで。
====================================================

Modernes Recht der offenen Handelsgesellschaft.

Das Bestehen einer solchen beschränkt zunächst seine Wirkungen keineswegs auf das Verhältnis zwischen den socii, es ist vielmehr eine Thatsache, welche auch von dritten nicht ignoriert werden kann. Diejenigen Geschäfte, welche ein nach Maßgabe des Gesellschaftsvertrages dazu berechtigter socius für Rechnung „der Gesellschaft“ abschließt, ergreifen alle Gesellschafter ohne weiteres in gleicher Weise. Ein dritter, wenn aus solchen Geschäften verpflichtet, muß sich gefallen lassen, daß auch ein anderer socius, als sein Kontrahent, sie „für die Gesellschaft“ gegen ihn auf den vollen Betrag geltend macht, er kann umgekehrt als Berechtigter sie außer gegen seinen Kontrahenten auch gegen die anderen socii in solidum und daneben auch gegen „die Gesellschaft“, d. h. zu Lasten des Gesellschaftsvermögens, geltend machen. Dies Gesellschaftsvermögen, als wesentlich charakteristisches Moment, steht im engen Zusammenhang mit jener aktiv und passiv über die Person des Kontrahenten hinausreichenden Wirkung von Rechtshandlungen eines socius. Denn da diese letztere nicht hinsichtlich aller von einem socius geschlossenen Geschäfte, sondern nur hinsichtlich der „für die Gesellschaft“ geschlossenen Platz greift, so folgt, daß die obligatorischen Beziehungen, in welche ein socius tritt, ganz verschiedene Bedeutung gewinnen, je nachdem er dies nur auf eigenen Namen oder „für die Gesellschaft“ thut, während andererseits alle „für die Gesellschaft“ geschlossenen Geschäfte, gleichgültig von welchem socius sie geschlossen sind, untereinander gleichmäßige Bedeutung haben.
Es entstehen also obligatorische Berechtigungen und Verpflichtungen, welche sich von den übrigen Aktiven und Passiven im Vermögen jedes Gesellschafters in ihrer Bedeutung wesentlich unterschieden, untereinander aber sich gerade in dem unterscheidenden Merkmal gleichen. Ebenso finden sich dingliche Rechte, – an den „für die Gesellschaft“ erworbenen species, – welche der quotenmäßigen Verfügung der einzelnen socii nach den Regeln des römischen Miteigentums nicht unterliegen, über welche der socius vielmehr nur so und insoweit, als er nach dem Gesellschaftsvertrage bezw. nach Societätsrecht dazu berechtigt ist, verfügen kann. Auch diese Rechtsobjekte also unterscheiden sich in ihren rechtlichen Beziehungen sehr wesentlich von allen anderen Gegenständen in dem Vermögen eines der socii und sind gerade in dem unterscheidenden Merkmale untereinander gleichgestellt. Wenn nun sowohl bei den obligatorischen, als bei den dinglichen Rechten dieser Kategorie die erwähnten Unterschiede Folge der Beziehung auf den Gesellschaftszweck sind, so gewinnt damit die arca communis des römischen Rechts, wenn wir sie als diese Vermögensstücke umfassend denken, eine andere Bedeutung. Die Rechte, welche zu ihr gehören, scheiden sich scharf von den übrigen Vermögensstücken der socii, die Verfügung darüber ist gleichmäßig geregelt, die Teilrechte der einzelnen sind, solange die Gesellschaft dauert, nicht unmittelbar wirksam, weichen vielmehr den in Gemäßheit des Gesellschaftsrechts darüber getroffenen Verfügungen; sie sind diesen gegenüber das schwächere Recht, so daß weder die Privatgläubiger des socius im Exekutionswege unmittelbar diese Objekte, resp. die Quotenanteile daran angreifen können, noch dieselben als einzelne unmittelbar in den Konkurs des socius fallen. Ebenso scheiden sich andererseits die jenem Komplex als Passiva zugehörigen Verbindlichkeiten scharf dadurch von den Verpflichtungen eines einzelnen socius. daß sie, und nur sie, die arca communis im obigen Sinne unmittelbar belasten und zum direkten Zugriff auf sie berechtigen, derart, daß bei einer Auseinandersetzung nur das nach ihrem Abzug Verbleibende dem Vermögen des socius, bezw. seiner Konkursmasse, zufällt.
Sofern man nun einen Komplex von Rechten, welche alle einem bestimmten Zweck dienen, über welche gleichmäßig in besonders geregelter Art verfügt wird und auf welchen besondere Lasten ruhen, ein „Vermögen“ nennen will, – und die Berechtigung dieser Bezeichnung unterliegt keinem begründeten Zweifel, – so kommt dieser Charakter auch der Gesamtheit jener oben geschilderten rechtlichen Beziehungen zu. Aus der arca communis ist ein Sondervermögen. das „Gesellschaftsvermögen“, geworden, es ist nun ein geeignetes Objekt für Zwangsvollstreckung und Konkurs, überhaupt eine Grundlage für alle sonstigen, von einem Vermögen versehenen rechtlichen Funktionen vorhanden, und es ist das Bestehen von Rechten und Verbindlichkeiten zwischen diesem Vermögen und den einzelnen socii begrifflich nicht ausgeschlossen1).
Sind nun hier auf seiten des Objekts die Merkmale des Vermögens vorhanden, so liegt das dogmatische Bedürfnis nahe, ja es ist im Interesse der Präzision des Ausdrucks fast unumgänglich, dafür auch ein Subjekt, oder doch etwas einem Subjekt Entsprechendes, dessen Funktionen Versehendes zu finden. Eine Handhabe hierfür bietet die Verwendung der Firma. Prinzipiell ist sie nur eine Art praktischer Breviloquenz, denn sie dient nur zur Zusammenfassung der auf Rechnung „der Gesellschaft“ im obigen Sinne laufenden Vermögensbeziehungen.

I. Römisches und heutiges Recht. Gang der Untersuchung. – 中世合名会社史 日本語訳(3)

Ⅰ. ローマ法と今日の法。研究の工程。 144
ソキエタスと合名会社 144
ローマ法におけるソキエタス 145
の所の日本語訳です。
「破産宣告」がどうのという後半の部分は、もっとこなれた日本語にすべきかと思いますが、取り敢えずは試訳としてアップし、またこれから先を訳した後で振り返って修正していくことにしたいと思います。(→11月6日18時、書き直しました。)
なお、原文のイタリック(斜体)は下線にしています。

ドイツ語原文はここです。
=================================================
ローマ法と今日の法
研究の工程

ソキエタスと合名会社

以下の研究において、まず第一にどの法規を取上げるべきかという問題は、ローマ法のソキエタスと現代法の合名会社の本質的な対比を思い浮かべるならば、容易に明らかになる。

二つの概念の対置には、それによって二つの実際的な比較を行うことが出来るように、二つの概念間の境界をより詳細に解明することがまず必要である。

合名会社とローマ法のソキエタスとは一般には決して簡単に対比させることが出来ない。何故ならば合名会社はソキエタスに対してはまずはその特別な場合を意味するからである。それ故に合名会社とソキエタスは対比ではなく前者が後者のある一つの場合としてのみ比較され得るのであり、その特定の場合のソキエタスは今日の合名会社と同様の諸目的を達成しようとするのである。-こういうことを断るのは、ローマのソキエタスの概念の一つの特徴はまさに、様々に異なる現実の諸形態に対してそれぞれに異なる法規程を適用するのではなく、汎用的に適用出来るある概念上の法的なテンプレートを意味せんとするからである。

故に合名会社は本質的にはまず第一に商業上の営利の目的のために存在するのであり、さらには(ドイツ)商法典第85条に規定されているように《訳者注①》、いずれの社員も出資財産に対する責任を制限されず、結局は「当座(的な)組合」に対比されるものとして、つまりはその目的を継続的な共通の営業活動を行うことに置き、個々のその時々の業務についてのみ共同作業を行うのではない形態として、-そういった理由からこの論考では合名会社をローマ法のソキエタスの特別な形態に相当するものとして、ソキエタスと同一の尺度で評価出来るように概念化するであろう。
続けて、ソキエタスと同名会社の違いは本質的には例えば次のように定式化される:

ローマ法におけるソキエタス
ローマ法によれば、この種のソキエタスは、当事者間での契約の締結により、相互にそのソキエタスの目的の遂行に必要な行為を強制するという義務を生じさせる。その義務の個別の内容は、我々の考察対象においては以下のようなものである:《列挙の番号は訳者追加》
1. ソキエタスの各成員が労働力を、また必要に応じてソキエタスの目的の遂行に必要な資金を提供するということ。
2.あるソキエタスの成員に対して、契約によりその成員がソキエタスの目的に適合するべく負わされた責任の程度に応じて、ソキエタスを精算する際にはその程度割合に応じた分け前を与えること。
3.契約に従ってソキエタスの各成員が立て替えた金銭が、同じくその成員に返金されること。
4.ソキエタスの目的に沿った業務を遂行していく上で、ソキエタスの成員全員に対して生じた債権については、それぞれにその出資割合に比例して(pro rata)配分すること。
5.利益を各成員に配分すること。
6.当該の業務により獲得した物権を特定のソキエタス成員に与えること。

処分可能な現金をソキエタスの共通の勘定(arca commnis)に入れておくこと、つまりソキエタスの目的のために行われた業務などから発生した所得を、取り敢えずはその勘定に入れておくようにすることは、望ましいと言えるであろう。次にあるソキエタスの成員で、当該業務の必要から何らかの支払いをしなければならなくなった場合、その勘定から現金を引き出し支払いに充てることが、その成員の権利でありかつ義務とされる。その勘定の実際の中身は、その成員のソキエタスへの出資分に比例した財産として成立し、単に精算方法を簡略化するということと、その都度それぞれのソキエタスの成員が出資分に比例した支払をする手間を簡略化するのに役立っている。その勘定の中に見出される現金準備においてのその成員の割り当て分については、他の成員の分についても同様にその成員の個人財産の一部なのであって、その成員に対しての債権者は直ちに合法的に差し押さえすることが出来る性質の財産である。第三者は、ただお互いに義務を持った成員間の関係の複合体としてのソキエタスにはまったく接点を持たない。-あるソキエタスの成員がある業務をソキエタスの名前で第三者と行う場合、それは個人の名前で行われる業務と、その法的効果についてはまったく何らの差もないのである。もしソキエタスの名前で行われる業務で損失が発生した場合には、外部に対してはその損失はただその損失と直接関わった特定の業務を執り行ったソキエタスの成員の損失とみなされ、その損失について、ソキエタスに対しての当該成員の取り分への賠償請求権は、よって確かにその担当の成員の個人財産に対して有効なのであり、このような請求権は個人へのものとして破産財団の借方勘定に入れられる。その場合の破産債権はただ個々のソキエタス成員の財産に対して、その個人と契約した債権者という関係でのみ成立し、その債権者が時には同じソキエタスの他の成員という関係である場合もある。特に例えばこの「ソキエタス財産」に対して宣告された特定の破産の管理可能な財産になり得るような共通勘定(arca communis)やソキエタス契約に沿った形で作り出された物権といったものは存在しないのである。そういった破産というのはナンセンスであろうし、その破産が(管理の)対象とすることが出来るものは存在し得ないであろう。というのも、この「ソキエタス財産」に帰属するすべての財産は、比例配分により分割された共有財産の個々の対象物をまとめた全体とまったく等しいのであり、それらの個々の対象物はまた同時に個々のソキエタスの成員のソキエタス財産とは別の個人財産の一部でもある。-それ故にそういった破産は単に破産請求権を持つ主体についてだけではなく、同時にまた自分が占有しようとしている破産財団の財産という客体=対象物についても、いたずらに存在しないものを追い求めているのと同じであるからである。
これに対し合名会社の構成は、ソキエタスに対してはっきりとした違いを見せる:

訳者注① Das Allgemeine Deutsche Handelsgesetzbuch (ADHGB)
1869年制定、第85条の規程は以下の通り。”Eine offene Handelsgesellschaft ist vorhanden, wenn
zwei oder mehrere Personen ein Handelsgewerbe unter gemeinschaftlicher
Firma betreiben und bei keinem der Gesellschafter die Betheiligung auf
Vermögenseinlagen beschränkt ist.
Zur Gültigkeit des Gesellschaftsvertrages bedarf es der schriftlichen
Abfassung oder anderer Förmlichkeiten nicht.”

(Moritz訳)
合名会社とは以下の場合に成立する。
2人ないしそれ以上の人員が共通の商号の下で商業を営み、その際にいずれの社員も出資財産に対する責任を制限されない。
会社としての契約を有効にするために、書面や他の形式を必要としない。
《その契約を第三者に対抗出来るようにするには合名会社の商業登記が必要である。》

モーア・ジーベックの全集版の「中世合名会社史」誤植

P.205のAugangspunktはAusgangspunkt(出発点)の誤植です。日本円で3万円以上も取る書籍で、こんな初歩的な誤植を残しているのはちょっと信じられません。
Max Weber im KontextのCD-ROM版は正しい表記でした。大体、このCD-ROMに結構誤植があると聞いたので全集版を校正のため買ったのですが、これでは逆です。

「中世合名会社史」がこれまで日本語訳されてこなかった理由についての私見

ヴェーバーのこの「中世合名会社史」が翻訳されてない理由について、Webを検索していて出てきたのが下記の文章。このtono-taniさんがどういう方なのかはまったく存じませんし、ブログにも情報はありません。
=========================================================
tono-tani

2011-02-04
特集「ウェーバーの超え方」(『季報唯物論研究』113,2010/8)について

https://tono-tani.hatenadiary.org/entry/20110204/1296781899


「ウェーバーの超え方」というのなら、ウェーバーの学問の方法を把握しなければならない。周知のように、ウェーバーの学位論文『中世商事会社史』は、翻訳されていない。というより、未だ翻訳が出来ないのである。論文で引用されている史料が、読み切れないのである。つまり、ウェーバーの理念型は、しゃれではなく、単なるアイデアではない。未だに邦訳がなされ得ない実証的研究などに基づいて構築されたものであるということを言いたいのである。
=========================================================

私はこのコメントに対して色々と疑問を持ちました。

(1)「論文で引用されている史料が、読み切れない」
通常ある論文を翻訳するのに、その文献表に載っている参考文献に全部目を通し理解する必要性は、何か翻訳上の問題とか疑問が出て来ない限りありません。ヴェーバーが本文中で引用している各種ラテン語または俗ラテン語、一部イタリア語・スペイン語の文献の量は元の文献全体に比べるときわめて限られており断片的な引用に過ぎません。確かに俗ラテン語は古典ラテン語に比較すれば色々と破格で読むのが大変なのでしょうが、「読み切れない」というレベルのものとは思えません。また参考文献として橋本寿哉著の「中世イタリア複式簿記生成史」とか、ヨーゼフ・クーリッシェル著、伊藤栄訳、諸田実訳の「ヨーロッパ中世経済史」といった書籍を取り寄せ中ですが、そうした書籍も当然同様の史料を取り扱っている筈であり、ヴェーバーのこの著作だけ著しく翻訳が困難、ということはあり得ないと思います。そもそも欧州の歴史を学ぶのであれば、ラテン語の知識は最低限古典ラテン語だけでも必須だと思います。(写真は「中世イタリア複式簿記生成史」のP.304にある1460年のミラノ・メディチ銀行の借方残高表。手書きのイタリア語です。{クリックで拡大}ヴェーバーもイタリアのある家の遺産の分割協議の書類を解読していますが、それがヴェーバーだけの高度な文献調査とは思いません。)

また、私も参照している英訳は既に2003年に出版されています。その中で引用部はすべて英訳されていますから、これを利用して日本語訳をすることは、まさに今私がそうしようとしているように、出来ないことは無い筈です。またこの英訳の中のラテン語の訳は、多くが既に英訳された別の出版物からの引用で、訳者のLutz Kaelberが自分で訳している箇所はそう多くないと思われます。また、ラテン語が出てきたら訳せない、というのであれば、「古代社会経済史」なども訳せないということになり、おかしな議論だと思います。

(2)「ウェーバーの理念型は、しゃれではなく、単なるアイデアではない。未だに邦訳がなされ得ない実証的研究などに基づいて構築された」
これはある意味買いかぶりが過ぎると思います。序文でヴェーバーが述べているように、この論文でヴェーバーが準拠しているのは、直接の1次文献ではなく、大半が既に誰かの手により編集された印刷物であり、いわば1.5次史料のレベルです。また少なくともその多くは英訳が存在していることがKaelberの英訳を見れば分かります。ヴェーバーが序文で言及しているラスティヒの著作のように、手書きの本当の意味での1次史料も横断的に調査し、30年近い年月をかけて調査したものなら「実証研究」と堂々と言えるでしょうが、ヴェーバーの研究は当時の歴史学派の研究の中で「実証性」という意味ではレベルは決して高くないと思います。(博士号論文という時間的な制約の中ではそうなるのはある意味仕方がないと思いますが。)いわゆるテキスト・クリティークもまったくやっていないと本人が断っていますし。私はこの論文の価値は実証性よりも、むしろ歴史的素材に対するヴェーバーの解釈だと思います。

これは私のまだ思いつきレベルですが、この論文が日本語訳されていない最大の理由は、ラテン語文献のせいなどではなく、大塚久雄がこの論文に対して、おそらく十分に読むことなく否定的な評価をくだしており、それが大塚の後継者にも拡がったからではないかと想像します。また、大塚久雄はドイツの歴史学派全体を否定的に見ていたようです。大塚がこの論文をきちんと読みこんでいないのでは、と推定した理由ですが、「株式会社発生史」には、「ソキエタス(合名会社)」という、ソキエタスを合名会社と同じものとする記述が多く出てきます。ヴェーバーの論文はそもそもソキエタスから合名会社が発生する過程を解明しその違いがどうやって生じたかを記述したものであり、それをきちんと読んでいたら「ソキエタス(合名会社)」のような乱暴な表現はしないと思うからです。一般に現在百科事典等でもソキエタスを「合名会社」と訳している例は見つかりません。訳すのであれば「組合」です。