Die Kommenda und die Bedürfnisse des Seehandels. 日本語訳(9)P.161 – P.165

日本語訳の9回目です。コムメンダの具体的な内容が紹介されます。今日の貿易商社の原型がここにある感じです。
注釈でラテン語が出てきます。文法的にはまったく難しくないのですが、辞書に載っていない語が多くて調べるのが大変でした。
元のドイツ語はここです。
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 この段階に至るとこういった海上取引での仕組みのさらなる発展については、色々な方向があり得た。-一方では自分の従者を商品と共に送り込む代りに、次のようなやり方が利益的には好都合と考えられるようになる。つまりその度毎にその商品を販売しようとしている市場を良く知っている第三者を雇い入れ、商品と共に船に乗り込ませ、さらにその際にその第三者が自身の裁量において船を委託者から借りるとか、その者自身が輸送手段を確保する、といったことを認めるというやり方である。他方では逆にそういった第三者を雇い入れることをせずに、商品と一緒に送り込まれる代理人ではなく、船主自身が報酬をもらった上で商品の販売をも引き受けるというやり方もある。9)取引の及ぶ範囲が広大になればなるほど、次のようなやり方がより一層好都合であると考えられるようになったに違いない。つまり、自分の従者を長い船旅の後、その者にとって未知の国に送り込むより、その国での諸事情に精通した委託販売人に商品を委託するというやり方である。後者のやり方はその後自然に、ジェノヴァにおいて公正証書上に繰り返し同一の名前が現れるようになったことからも分かるように、すぐにこの種の販売委託を請け負う独立した事業の出現につながったのである。

9)ジェノヴァのGiovanni Scriba《12世紀のジェノヴァにおける最初期の公証人》の公証人証書(Historiae Patriae Monumenta《イタリアの史的文書の集成。1836年~1901年にトリノで編纂された。全22巻。以下HPMと略す。》のchartaum II)、No. 261、328、329、306他多数。1155年以降、こういった様式の全ての例が得られる。329と306では船主とコムメンダで委託を受けた者は同一人物ではない。トラニ法典とトルトサ慣習法においては、法的な代理人としての船主の代理人という者は出て来ない。Decisiones Rotae Genuae (de mercatura, et ad eam pertinentibus) (1606年)(ジェノヴァ控訴院決定集、原文のGenuensisは全集版の注によれば、Genuaeの誤り)を参照。

 ある一人のそういった代理人の報酬は、いつも決まった額で固定報酬という形で与えられることもあったが、ある場合にはしかし、12世紀のジェノヴァで普通に行われていたように、委託販売人は利益の一部の分配にも与ることが出来たのであり 10)、こうしたやり方が通常コムメンダと呼ばれる関係なのである。こうした委託販売人が自らも利益の分け前に与ることの利点は明白であるが、しかしまた次のような状況にも適合したものであった。つまり、委託を受けた代理人が根源的にただ委託した方の手足である限りにおいて、そうした手足は競争が激化して単純に商品を通常の海外市場に投入することが難しくなればなるほど、それだけいっそう需要を正しくつかみ一般論として自立した取引が必要になるという意味で変わっていかざるを得ないのである。コムメンダで委託を受けた者は一人の請負人として職務を行うのであり、その結果その働きに対する報酬はもはや雇い人のような固定した賃金の受け取りではなく、その事業全体の収益の一部を受け取ることになるのである。

10)コムメンダの標準となる史料は、先に引用したジェノヴァの公証人証書の1155年の例えば1.cのNo. 243に見られる:”Ego … profiteor me accepisse in societatem a te … lib[ras]50, quas debeo portare laboratum usque Alexandriam et de proficuo quod ibi Deus dederit debeo habere quartam et post reditum debeo mittere in tua potestate totam prescriptam societatem …”(私は…ソキエタスの関係において貴方から50リブラを受け取ったことを認め、私は自分の業務としてその商品をアレクサンドリアまで運搬しなければならない。その仕事の収益の中から神は私が1/4を受け取ることをお許しになるであろう。そして私が戻ってきた後は全てのあらかじめ決められたソキエタスの利益を貴方に渡さなければならない…)
コムメンダで委託を受けた者の通常の生計の費用は規則により委託をした側の負担となり、その他の業務遂行に必要な諸掛かりについては委託された側の負担となる。-コムメンダ契約の根底にある一方的な性質は文献史料においては領収書の形で現れ、そこからそれを読み取ることが出来る。

コムメンダのソキエタス的性格

 コムメンダにおけるソキエタス的要素は-コムメンダはその成立の最初からソキエタスと呼ばれたが-ソキエタスの形態での業務を次の限りにおいて内包している。つまり、事業におけるリスクの分担はここにおいても資金提供者が負い、それに対して航海と販売における諸掛かりは取り決められた範疇に従って(注10を参照)それぞれが一定割合を負担し、更には利益もそれぞれの持ち分に応じて分割されたのである。このソキエタスという制度の国際的な発展形態であるコムメンダは次のような形で登場する。つまり、利益の分割の仕方を決める尺度について、後に大部分がはっきりした法的規定となる任意法という形での商習慣が、委任を受けた者は純利益の内から1/4を配当として得るということを定める形である。

コムメンダの参加者の経済的位置付け

 この(コムメンダにより)業務を委託する側は、商品の生産者であるか、または後背地の商品を買い付ける仲買人かであり、一般的には輸出業者であることが多くその場合は商品を、あるいは輸入業者の場合は資金を委託するのであるが、ある場合にはこの両方を兼ねることもあり、その場合は輸出した商品を売却したその売上げを転用して別の商品を買い付けて輸入を行うのである。(ジェノヴァでは後者の場合を商売上の技法として”implicare”と呼んでいた。)

11)仲買人について:HPMのchart IIのNo.306(1156年)を参照:
”Nos M[archio dormitor] et A[lexander lngonis Naselli] profitemur nos accepisse a te W[ilielmo Ncuta] 8 pecias sagie et volgia que constant tibi lib[ras] 24. has debemus portare laboratum apud Palermum et inde quo voluerimus dum insimul erimus etc.”(我々Marchio dormitorとAlexander Ingonis Naselliは貴方Wilhelm Neutaから24リブラの価格で貴方に債務を負っている8巻きのsagieとvolgia《2つともおそらく当時の織物の種類か?欧州は元々毛織物が一般であったが、この時代に絹織物と木綿が伝わっている。ヴェーバー以外にも2、3の文献がここを引用しているが、この2つについてはそのまま引用しており訳されていない。》を受け取ったことを確認します。我々はそれをパレルモまで運搬する義務があります。そしてそこから先も我々は出来る限り一緒に行動したいと希望しています。等々)

12)前掲書(HPM)のNo. 337 (1156年): Ego … profiteor me accepisse a te … (folgen die Waren) unde debeo tibi bizantios 100 … et eos debeo portare ad tuum resicum apud Babiloniam et implicare in lecca et brazili … et adducere ad tuum resicum etc. (私は貴方から次の商品を受領した事とそれによって貴方に100ビサンチン{金貨}の債務があることを確認します。そして私はその商品をバビロニアにある貴方の作業場まで運搬し、そしてそこでleccaとbrazili《おそらく2つとも何かの染め物の技法ないし染料の種類か?》に染めるという義務を負っています。さらにその染めた布を貴方の作業場まで持っていき…等々)-Lepa《Rudolf Lepa、1851 – 1921、ローマ法学者》の見解(商法雑誌第26巻P.448)である、”accomodare”と”implicita”が前者は委任された者が事業収益に対して分け前を持つことにより、後者は対象物の価値の1%を受け取ることにより、それぞれ報酬の受け取り方が異なっているということは、Lepaがその証拠として挙げているCasaregis 《J. L. M. de Casaregis、1670 – 1737、イタリアの法学者で手形やその裏書き、保険や海上取引などの各種商行為を研究し後代の商法の整備の基礎を作った。》の”Discursus de commercio”の29.9ではきちんと証明されていない。”Implicare”はジェノヴァの文献史料においてではなく、むしろもっと後代でLepaが説明しているような意味を持つようになった。それは当時の商慣習において、ごく普通に使われていた単語で、ドイツ語での”Anlegen”、”Investieren”(出資する、投資する)に相当する表現だったのであり、今日のイタリア語の”impiegare”(資金を用いる)に等しい。Thöl《Heinrich Thöl、1807 – 1884、ドイツの法学者でドイツ商法の整備に貢献した。》もこのCasaregisの引用の箇所について更なる根拠を示すこと無しに、Akkomendatar(コムメンダにおける委任する方)が、”Implizitar Provision”という利益配分を得ていたという見解を示している。既に述べたようにより以前の時代については、どこまで後代の概念が適用出来るかについては疑ってかからなければならない。

この最後の2つの場合においては、コムメンダで委託される方を特別に独立した者と位置付けることが不可欠になる。そういった委託される方は、その取り扱う業務を自己の勘定では扱わないために、実質的には企業家とみなすことは出来ない。一方コムメンダで委託する方は、商品を販売する市場とは一様に弱い関係でつながっているだけであり 13)、それに対して委託される方が独立して主に業務を執り行う者として、委託する方と市場の間に自らを割り込ませるのである。原則的にまずは一人の委任者に一人の被委任者が対置される。被委任者がコムメンダで委託されたもの以外の商品をその市場に持ち込む場合には委任者側の特別な許可が必要な限りにおいて、後の時代になってコムメンダによる委託外の商品についての(被委任者側からの)申告を、形式的にではあるが文献史料の中で確認することが出来る。(参照:HPM chart II、346、424,655など多数)しかしながら複数のコムメンダ契約による商品の受け入れと、さらにそれに加えて自分自身の商品の持ち込み、また多数の自分自身の船と自分の家族を従業員として使った大規模な貿易事業は、しかしながらジェノヴァの文献史料が示しているように、もはや特別の事では無くなっているのである。このことはまずもって経済的な面では重要であるが、法的な概念の把握という意味では、多数の委任者が同一の被委任者を使い、危険と利益の分担のために組合を結成し、つまりソキエタスとしてのコムメンダが成立するという後代に観察出来る関係は、まだほとんど確認することが出来ないのである。

13)HPMのchart. IIのNo. 340は、コムメンダ関係を取り結ぶことは既に銀行の業務の一つになっていたことを示している。ヴェネツィアの銀行のコムメンダ契約法(1374年9月28日、1403年11月21日)を参照せよ。(Lattes《Elia Lattes、1843 – 1925、イタリアのローマ法、法制史・経済史の研究家でエトルリア語の専門家。》により、”La libertà delle banche a Venezia“の書名で出版されている。)

インターネット上の電子化文献

今「中世合名会社史」の(9)の日本語化作業中ですが、ここに出て来るイタリアの古文書、いずれもインターネット上の電子化文献として参照可能です。

Histtoriae Patriae Monumenta
https://www.archive.org/stream/historiaepatria00unkngoog#page/n5/mode/2up

Decisiones Rotae Genuae (ヴェーバーはDecisiones Rotae Genuensisとしているが、間違い)
https://play.google.com/store/books/details/G%C3%A9nova_Rep%C3%BAblica_Rota_Genuensis_Decisiones_Rotae_G?id=rNkM026Zo3AC&hl=ja

参照出来るというのと読んで理解出来るというのはもちろん別の話ですが、少なくともヨーロッパの図書館まで出かけて行かなくても、自宅でこういう文献を参照出来る時代になっているということです。また、書籍での発表に比べ、インターネット上での日本語訳の公開が、こうしたリソースにすぐリンク出来るという点で優れていると思います。

このことを見ても、ヴェーバーが参照している各種文献は比較的良く知られたものが多く、このヴェーバーの論文で初めて登場するようなものは少なくとも今の所はありません。(ヴェーバーがゴルトシュミット教授から借りたものがもしかすると今後出てくるかもしれませんが。)
これだけのことからも、この論文が文献学を主目的としたものでないことが良く分かります。以前コメントしたどなたかの発言での「未だに邦訳がなされ得ない実証的研究」とは言い難いということを再度申し上げておきます。

中世ラテン語の辞書

中世ラテン語の辞書ソフトを入手したので一応紹介しておきます。(画像はクリックで拡大)(Lexique Latin Medieval – by J. F. Niermeyer (Author), C. Van De Kieft (Author))本格的な中世ラテン語の辞書(羅英)は書籍があるのですが、6分冊で1冊が1万円以上で高価です。それでアメリカのAmazonでもっと安いのはないかと思って見つけたのがこれ。最初書籍だと思って買ったのですが、届いてみたらCD-ROMソフトでした。価格は送料を入れて$33.50とリーズナブルです。
ただ、かなり古いソフトで対応OSがWindows 98以上となっていて、Windwos 10では最初動きませんでした。しかしプロパティーの「互換性」からWindows XP SP2のモードで動かしたら無事に起動しました。内容はどの程度のものなのかはこれから使ってみて検証します。

Die Kommenda und die Bedürfnisse des Seehandels. ドイツ語原文(9)P.161 – P.165

ドイツ語原文の9回目です。
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Nun war die Weiterentwickelung verschieden möglich. – Einerseits konnte statt der Mitsendung des Bediensteten es vorteilhaft erscheinen, ad hoc einen dritten, mit den Verhältnissen des Absatzgebietes Vertrauten, zu engagieren, welcher die Sachen auf dem Schiff geleitet und für Rechnung des Auftraggebers verkauft, wobei seinem selbständigen Handeln ein verschieden weiter Spielraum belassen, namentlich entweder das Schiff von dem Auftraggeber gemietet oder dem Beauftragten die Besorgung der Transportmittel seinerseits ganz überlassen werden konnte. Andererseits konnte dies Engagement dadurch gespart werden, daß statt des mitgesendeten factor der Schiffer selbst gegen Vergütung den Vertrieb der Waren übernahm 9). Je umfangreicher der Betrieb wurde, um so empfehlenswerter mußte es erscheinen, anstatt die Handlungsgehilfen auf lange Seereisen in ihnen unbekannte Länder zu

9) Die Notariatsurkunden des Giovanni Scriha in Genua (Histor. Patriae Monum.
Chartarum tom. II) Nr. 261, 328, 329, 306 und öfter, aus der Zeit von 1155 ff. geben für alle diese Modalitäten Beispiele. In 329 und 306 sind Schiffer und Kommendatar nicht identisch. In den Stat[uten] von Trani und Cost[ums] de Tortosa ist in Ermangelung des factor der Schiffer ex lege Kommissionär. Cf. Decis[iones] Rotae Genuensis XX.

schicken, lieber mit den Verhältnissen vertraute Kommissionäre mit dem Vertrieb zu betrauen, welch letztere dann naturgemäß, wie in Genua das konstante Wiederkehren derselben Namen in den Notariatsurkunden zeigt, bald ein selbständiges Gewerbe aus der Übernahme derartiger Aufträge machten.
Die Vergütung eines solchen Beauftragten konnte nun demselben teils in Form einer festen Remuneration gewährt (so: Hist. Pat. Mon. Chart. II Nr.261), teilweise aber – wie dies in Genua im 12. Jahrhundert die Regel war – konnte der Kommissionär am Gewinn beteiligt werden10), und dies ist das gewöhnlich Kommenda genannte Verhältnis. Die Vorzüge dieser Beteiligung des Kommissionärs als Sclbstinteressenten leuchten ein, überdies aber entsprach sie den Verhältnissen: Während der Beauftragte ursprünglich lediglich Organ des Auftraggebers ist, mußte sich dies ändern, je weniger bei steigender Konkurrenz es genügte, die Waren einfach auf den üblichen auswärtigen Markt zu werfen, je mehr vielmehr die richtige Benutzung der Nachfrage, überhaupt selbständiges Handeln erforderlich wurde. Der Kommendatar fungierte hier wie ein Unternehmer, folglich war nicht mehr eine feste Ablöhnung wie die eines Bediensteten, sondern die Beteiligung am Unternehmergewinn die seiner Leistung angemessene Gegenleistung.

10) Die Normalurkunde für die Kommenda in den cit. genuesischen Notariatsurkunden lautet z. B. 1. c. Nr. 243 (von 1155):
Ego … profiteor mc accepisse in societatem a te … Iib[ras]50, quas debeo portare laboratum usque Alexandriam et de proficuo quod ibi Deus dederit debeo habere quartam et post reditum debeo mittere in tua potestate totam prescriptam societatem …
Die Kosten des Unterhalts des Kommendatars fallen regelmäßig dem Kommendanten, andere Kosten dem Kommendatar zur Last. – Die zu Grunde liegende einseitige Natur des Kontrakts ist in der Urkunde angemessen durch die Ouittungsform zum Ausdruck gebracht.

Societätscharakler der Kommenda

Ein Societätselement – die Kommenda heißt von der Anfang an auch societas – enthält das Geschäft in dieser Gestaltung insofern, als zwar die Gefahr auch hier dem Kapitalisten blieb, dagegen die Kosten der Fahrt und des Vertriebes nach bestimmten Kategorien (cf. Anm. 10) und, wie bemerkt, der Gewinn anteilsweise verteilt wurde. Die internationale Stellung des Instituts zeigt sich darin, daß über den Verteilungsmaßstab ein später meist statutarisch als dispositives Recht fixierter Handelsgebrauch dahin sich feststellte, daß der Kommendatar von dem Reingewinn 1/4 als Tantieme erhält (cf. Anm. 10).

Wirtschaftliche Stellung der Parteien bei der Kommenda.

Der Kommendant kann bei diesem Geschäft Produzent oder Zwischenhändler der Produkte des Hinterlandes 11), er kann überhaupt Exporteur sein, also Ware, oder Importeur, also Geld, kommendieren, oder beides, so daß der Erlös der exportierten Waren zum Reimport verwendet wird (in Genua wird letzterer Fall technisch implicare 12) genannt).

11) Zwischenhändler: Chart. II Nr. 306 (1156): Nos M[archio dormitor] et A[lexander lngonis Naselli] profitemur nos accepisse a te W[ilielmo Ncuta] 8 pecias sagie et volgia que constant tibi lib[ras] 24. has debemus portare laboratum apud Palermum et inde quo voluerimus dum insimul erimus etc.
12) L.c. Nr. 337 (1156): Ego … profiteor me accepisse a te … (folgen die Waren) unde debeo tibi bizantios 100 … et eos debeo portare ad tuum resicum apud Babiloniam et implicare in lecca et brazili … et adducere ad tuum resicum etc. – Die Ansicht von Lepa. Ztschr. f. Handelsr. Bd. 26 S. 448, daß accommenda und implicita sich dadurch unterschieden hätten, daß bei ersterer der Kommendatar durch „Anteil am Geschäftsgewinn”, bei letzterer durch einen Prozentsatz des Werts des Objekts entschädigt worden sei, wird durch die dafür citierte Stelle aus Casaregis (Disc[ursus| 29. 9) wohl nicht dargethan. Implicare dürfte vielmehr wenigstens nach den genuesischen Urkunden in älterer Zeit die im Text angegebene Bedeutung gehabt haben, ein im Geschäftsgebrauch üblicher, unserm „Anlegen, Investieren” entsprechender Ausdruck gewesen sein gleich dem heutigen impiegare. Auch Thöl ist. ohne weiteren Beleg als die cit. Stelle aus Casaregis. der Ansicht, der Akkommendatar habe Gewinnanteil, der Implizitar Provision erhalten. Für die ältere Zeit muß dies, wie gesagt, bis auf weiteres bezweifelt werden.

In den beiden letzten Fällen ist notwendig die Stellung des Kommendatars besonders selbständig, er kann hier nur deshalb nicht materiell als der Unternehmer gelten, weil das Geschäft nicht auf seine Rechnung geht. Der Kommendant steht hier regelmäßig zum Markt nur noch in loser Beziehung 13), der Kommendatar hat sich als selbständige Instanz dazwischen geschoben. Während grundsätzlich zunächst ein Kommendant einem Kommendatar gegenübersteht und zur Mitnahme von Waren außer dem kommendierten Gut es der besondern Erlaubnis des Kommendanten bedarf, wird später die Deklaration der außer der Kommenda noch mitgeführten Waren (cf. Hist. Pat. Mon. Chart. II 346,424,655 und oft) formell zwar in den Urkunden festgehalten, aber die Übernahme

13) L. c. Nr. 340 zeigt, daß das Kommendieren schon zum Bankiergeschäft geworden war.
Cf. die venezianischen Gesetze gegen das Kommendieren der Banken vom 28. IX. 1374 und vom 21. XI. 1403 (abgedruckt bei Lattes. La libertà delle banche a Venezia).

mehrerer Kommenden und außerdem eigenen Gutes und ein Geschäftsbetrieb in großem Maßstabe mit mehreren eigenen Schiffen und gemeinsam mit seinen Familienmitgliedern seitens des Kommendatars ist doch, wie die genuesischen Urkunden zeigen, nichts Ungewöhnliches mehr. Es ist dies zunächst nur wirtschaftlich erheblich und ändert für die juristische Auffassung ebensowenig etwas, als dies an und für sich durch das später zu betrachtende Verhältnis geschieht, daß mehrere Kommendanten desselben Kom- mendatars sich behufs Teilung des Risikos und Gewinns associie- ren und so eine Societätskommcnda entsteht.

余談:ドイツ語の日本語表記における拗音について

私が卒業したドイツ科で教えられていた先生に千石喬という方がいらっしゃいます。直接授業を受けたことはありません。
私の記憶が正しければ、この千石先生がある時(1980年代の中頃)短い論文を書かれて、「Heidegger」は「ハイデッガー」ではなく「ハイデガー」と日本語表記すべきであることを主張されたことがあります。この主張自体は発音からすれば正しく、どちらがドイツ語の発音に近いかと言われれば「ハイデガー」です。(実際の発音はたとえばここを参照。)なので現在はまともな辞書・事典なら「ハイデガー」を採用しています。(日本語Wikipediaは未だに「ハイデッガー」です。さらにその発音例として参照しているのが、ドイツ人ではなくオーストリア人の発音したものです。)
それはいいのですが、こういうことを聞くと、それを闇雲に何でもかんでも適用する人がいて、最近はIchを「イヒ」などと表記している場合があります。実際に発音してみれば分かりますが、「イヒ」などという発音はほぼ不可能で、伝統的な「イッヒ」と書くしかありません。千石先生の論文は読んでいませんが、当然ながらドイツ語に日本語の拗音に相当する発音が無いなどとは一言も言っていないと思います。拗音がなければ”Stuttgart”(シュトゥットガルト)を一体どうやって発音するのか。
Heideggerが「ハイデッガー」と表記された理由の一つとしては、イタリア語では子音が2つ重なる場合にはbellaが「ベッラ」、sessanta「セッサンタ」、spiagga「スピアッジャ」のように、発音自体が詰まりますし、その結果日本語表記にも拗音が使われますが、これがそのままドイツ語にも適用されてggだから拗音で「ハイデッガー」となったのだと思います。
ところが「ハイデガー」という表記が広まると、今度は逆の現象が出て、イタリア語の発音も詰まる音を抜いて表記する人が出てきます。中山元訳の「プロ倫」でcommendaを「コメンダ」と表記するのが典型例です。(ちなみにcommendaはラテン語ですが。)
こういう例は沢山あって、以前別の所に書きましたが、「ポーランド語には長音表記がない」というのを「ポーランド語には長音がない」と同一視するというおかしな解釈をする方がいて、その結果、シマノフスキ、パデレフスキといったようにスラブ諸語では共通の「長母音」語尾を、何故か伸ばさないで表記する、という変なことが一部(主として岩波書店系の書物)にて行われていました。ご興味ある方はここを参照願います。
以前、ソフトウェアメーカーで、日本語変換用辞書の開発に関わっていたので、外国語をどう日本語表記するかという問題はいつも頭を悩ます問題でした。一般論として日本で出ている辞書・事典類は非常に当てにならないものが多いことだけをここでは申し上げておきます。

Die Kommenda und die Bedürfnisse des Seehandels. pp.157-161 日本語訳(8)

P.157 – P161の3行目までの日本語訳です。
「何とか法典」が沢山出てきて調べるのが大変でした。(日本語Wikipediaには西ゴート法典の項目すらありません。)
しかしながら、長く貿易をやってきた者にとっては、こんな古い時代から今日の貿易における慣行が存在していたというのはちょっとした驚きでした。
元のドイツ語はここです。
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Ⅱ. 海上取引法における諸ソキエタス

1.コムメンダと海上取引における諸要求

貿易というものを中世において相当な規模で見出すことが出来るのは、まず第一に地中海の複数の沿岸都市においてであるということは、少し考えただけでも歴史的にも確かなことである。特に地中海の西側の水域《イタリアの西岸とスペインに囲まれた水域》に面している沿岸諸都市においては、貿易は今日でもまだ完全には消滅してはいない。というのもここにおいて本質的に海上取引による商品の取引や販売に使われる一つの事業形態が発生したのは、特にイタリア西岸の諸都市とスペインの海岸地域 1)の間の交易においてでである。

この地中海沿岸諸都市間の海上取引は、既にかなり古い時代において、債権法において独特の諸原則を発達させていた。

既にローマ法においてfoenus nauticam《foenusはfaenus(利息)で「海事利息」の意味。海事契約利息とも言う。ある貸主が貿易を行うものに資金を貸し付けるが、借主は船が無事に戻って来た時のみに返済義務を負い、海難事故で船が全損した場合は返済不要という内容のもの。返済の際には借りた金額より多い金額を返すため、一種の海上損害保険の先駆けともみなせるが、教会の利子禁止の裏をくぐるような利息付き貸し付けともみなせるため、1236年に法王庁から非難されたことがある。参考:Palgrave Macmillan, A. B. Leonard編, “Marine Insurance Origins and Institution, 1300 – 1850 (Palgrave Studies in the History of Finance)” 》やlex Rhodia《ロード海法、紀元前3世紀にロードス島で編纂されたと信じられていた海上取引に関する慣習法。原本は今日でも未発見。ユスティニアヌス法典の勅法彙纂の中に”lex Rhodia de iactu”(「投荷 (共同海損) に関するロード法」)という一章が含まれている。(「共同海損」は船の事故の時に損害を船主や用船者と荷主全員で平等に負担する仕組みで、今日の海上保険でも存在する概念。)参考:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典》において特別な規定が設けられており、それは海上取引で考慮に入れるべき特別な種類の危険を斟酌するものだった。まさしくそういった諸制度は民族大移動の時期を通じて完全に廃れることは一度もなかった。我々はそういった制度を、一般的に知られている通り、中世初期の法的文献史料において再び見出すことになる。2)しかし中世においては、古代の法に比べて、法的な分析に基づいて危険分担を決めるという程度が弱く、そうした危険分担を概して自明の規則に従って定めていた。

海上取引においてその債権者や参加者になった者は-まずそういった順番で考えてみると-そのどちらの者もある継続的な事業経営に関わった訳ではなく、むしろある特別の航海という個々の事業に対して債権者は資金を貸付け参加者はその取引に参加するのであるが、-とはいっても海上取引は単純な統一された事業ではなく、それぞれが個別の危険(リスク)を持っている個々の事業の連続体なのである。

1)西ゴート法典《西ゴート王国のChindasuinth王が642年から643年にかけて最初に編纂し、その息子のRecesswinth王が654年により大規模にまとめた法典。ローマ法とゲルマンの慣習法及びキリスト教会法を融合しようとしたもの。》、1.XII t. IIIの”transmarini negotiatores”(海上取引)を参照。
2)ゴルトシュミットの商法雑誌第35巻に掲載されている”Lex Rhodia und Agermanament”(ロード海法と姉妹都市)を参照。

西ゴート法典と海上取引

この危険については、当時の交易関係に対応する上では、飛び抜けて重要な要素であり、交易を行う上で計算に入れておかなければならないものであったが、海上取引に何らかの形で関与した者によって分割して担われる必要があった。-このことは立法上で最大の問題であり、それ故取り敢えず法学的には関係者の関与の仕方を細々と分類することは行われず、そういった分類はここでは相対的に重要度が低い。西ゴート法典においては最初に
“commendare”(委任する)、”commodare”(貸し与える)という動詞が、各々の参加者の返還のための何かの引き渡し、つまり”in specie”(現物で)または”in genere”({お金を借りていた自分の}一族に対して)といった形態や、委託(Deposit)から貸付け(Darlehen)まで、-各々の参加者の功利的な意図での引き渡しは、後にローマ法においては当該の業務がどの法的カテゴリーに属するかという点で重要ではなくなるのであるが-を意味するようになる。まさに西ゴート法典においては、債権者の債務者に対する、参加者の事業発案者に対する、あるいは委託者の委任者に対するそれぞれの関係がはっきりとは分離されていないように見えるところが特徴である。3)これら全ての者の経済的な目的は、ここにおいて本質的にまさに同一であった。つまり、海を越えた先の市場に対して何かを輸出し、そして逆にその市場から何かをあらためて輸入するということである。これらの目的のための経済的な必要な事は常に本質的に同一のものであった。まず一方では、商品の購入のための労働力の投入、次に海を越えて商品を送るための輸送手段、そして最後に運んだ商品を外国の市場で販売するための特別な販売技術による労働力の投入である。他方では輸出する商品を購入しまた輸送手段を確保するための資金である。投入すべき労働力と資金、場合によっては借り入れによる、という意味での必要物の調達は、それぞれの輸出事業で必ず行わなければならない事である。既に西ゴート法典においても、危険と利益を参加者間でどのように分担するかということが法形成においてまさに本質的な問題であった。

3)(商品の)委託と販売の委託は西ゴート法典では同一の章:”de rebus praestitis 1. Vt. Vc. III.”(貸付けられたものについて)で扱われている。委託することと貸付けることは、c.VIII において相互に入り交じった形で規定されている。そこでは本質的には海上取引が想定されていることは、c. V の同一場所の表題部(verbo naufragium: 「海難事故に関する規定」)から分かる。その規定の中に含まれているものは、直接に後の時代においてのコムメンダに関する法的な規定を我々に思い起こさせる。-ランゴバルド法《ゲルマン民族であるランゴバルド族の部族法。643年に編纂されたロタリ王法典(Edictum Rothari)などいくつかの法典の総称。》においては、国内部族について定められたものでは、信用を受けた者に危険負担責任が課せられ、つまりその者は貸付けの規定に従って、信用を供与した企業者の利益を考慮すること無く、返済を行う義務があった。まずは海上取引を考慮する西ゴート法典においては、既に商品の委託と販売の委託において独特のやり方で危険負担責任を分割しており、ローマ法の根本原則 (I. V tit. V c. III)とは相違しており、むしろより独創的に利子付きの貸付けにおいても (同一場所の c. IV: “de pecunia perdita et usuris ejus” {失われたお金とその利子について}) 投機の目的で ( “sub condicione receperit”{ある条件下での将来の受け取り}、つまりどの事業に、受け取った資金が使われるのか、を規定している)危険負担責任を分割している。供託者、委託販売人、信用供与者については常に、まさにそれぞれの相手方と同様に、企業者の危険負担責任の一部を分担するのである。

4)ゴルトシュミット、”De societate en commandite”(委託に関わるソキエタスについて)、1851年;ジルバーシュミット、”Die Kommenda in ihrer frühesten Entwickelung.”(コムメンダの最初期の発展について)

コムメンダの経済的な基礎

上記で述べたような参加者にとって等しく必要なことは、今や同一の法的な制度の確立をもたらすのであり、それはコムメンダという名前である特別な法的な形態と成り、既に歴史的にかなり初期の段階で完全に確立した法形態となり、海上取引はそれを利用したのである。

コムメンダがある者が別の者の商品を売却することをその者自身のリスクにおいて行い、そして利益を得るというある種の業務であることは周知の事である。ゴルトシュミットが推測しているように、コムメンダが既にローマの世俗法に含まれていたかどうかは、取り敢えずここでは保留とし、我々はそれをただ中世において追究する。

もっとも原始的な海上取引の内容は以下のようなものである:商品の生産者あるいはその生産者から商品を買い付けた商人が個人として船に乗り込み、この船に輸出用または輸入用の物品を積み込むというものであるが、コムメンダの制度が見出されるような時代においては、既にそのような原始的な形態は乗り越えられていた。既に最古の法的史料においてpatronus navis(船の所有者)は、商人達に対して船を提供し、その商人達は自分達の貨物と一緒に船に乗り込む、という形で登場する。さらにそれを越えて、労働の分担も進んでいた。つまり卸し商人は自分自身の代わりに継続的に使役する関係であるfattore(イタリア語、代理指図人)、messatge (カタルーニャ語、メッセンジャー)を、船に乗り込ませる。船主、それはスペインでは主にRhederei 《スペインのアラゴン王ペドロ3世(1239 – 1285)により編纂された地中海における海事法である concolato del mare に出て来る初期の海運業者》であったが、そちらはそちらなりに patronus navis として自分達の使役人を仕立てるのである。

5)ゴルトシュミットの前掲論文、商法雑誌第35巻、P.80、107を参照。この見解についての個々の事例においての確認は、後に適当な場所で言及する。
6)ジルバーシュミットの10世紀のヴェネツィアでの collegantia 《合資会社の原初形態》についての見解は、ゴルトシュミットの前掲書 Z. XXXV P. 80、 81によれば、偽ロード海法《8世紀にビザンチン帝国において私人の手により編纂され、ロード海法を偽装したもの》のχρεωκοινωνία (χρεως+κοινωνία、信用ソキエタス)にもっと古い例があるとされている。
7)トラニ法典《イタリアの港湾都市トラニで1063年に編纂された中世地中海での最初の海商法典》 ( Pardessus《Jean Marie Pardessus、1772年~1853年、フランスの法学者》編, Collection des lois maritimes)とトルトサ慣習法《1149年にスペインのバルセロナで編纂された慣習法の集成》 (Oliver《Bienvenido Oliver、1836~1912年、スペインの法律家・歴史学者》編のEl derecho de Cataluña)と比較せよ。前者の編纂年代は諸説あり確定していない。しかし我々が研究の対象にしている制度はかなり早期に成立している。
8)consolato del mar を参照。Archive de L’Orient Latin I P.431も、Rhedereiの存在を前提にしている。
Archives de L’Orient Latin, Tome I, Paris Ernest Leroux, 1881)

Die Kommenda und die Bedürfnisse des Seehandels. pp.157-161 ドイツ語原文(8)

いよいよコムメンダの登場です。
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II. Die seehandelsrechtlichen Societäten.

1. Die Kommenda und die Bedürfnisse des Seehandels.

Daß der Handel in größerem Maßstabe im Mittelalter zuerst in den mittelländischen Seestädten anzutreffen ist, ist ebenso begreiflich wie historisch sicher. Speziell in den am westlichen Mittelmeerbecken liegenden Seestädten ist er schwerlich je ganz erloschen. Hier hat denn auch ein wesentlich dem Um- und Absatz von Gütern durch Seehandel dienendes Geschäft, die Kommenda, seine Heimat, insbesondere wohl im Verkehr der westitalienischen mit der spanischen Küste 1).
 Dieser mittelländische Seeverkehr hat schon in alter Zeit im Obligationenrecht eigenartige Grundsätze entwickelt.
 Schon das römische Recht hatte im foenus nauticum und der lex Rhodia besondere Rechtssätze aufgestellt unter Rücksichtnahme auf die besondere Art des Risikos, welches der Seehandel zu tragen hat. Gerade diese Institute sind durch die Zeit der Völkerwanderung hindurch nie ganz obsolet geworden, wir treffen sie bekanntlich in den frühesten mittelalterlichen Rechtsquellen wieder an2). Aber das Mittelalter, weniger als das antike Recht sich bindend an die Konsequenzen der juristischen Analyse, hat die Tragung der Gefahr auf diesem Gebiet überhaupt selbständigen Regeln zu unterstellen versucht. –
 Wer im Seehandel Gläubiger oder Partizipant geworden ist, der – so etwa ist der Gedankengang – ist beides nicht für einen resp. an einem kontinuierlichen Gewerbebetrieb geworden, er kreditiert resp. partizipiert vielmehr zum Behuf resp. an der einzelnen Unter-

1) Cf. I[ex] Wisig[othorum] 1.XII t. III von den „transmarini negotiatores”.
2) Cf. jetzt Goldschmidt, Lex Rhodia und Agermanament, Zeitschr. für Handelsr. Bd.35.

nehmung der speziellen Seefahrt, – denn der Seehandel ist kein einheitlicher Betrieb, sondern eine Serie einzelner Unternehmungen, deren jede ihr individuelles Risiko hat.

Die lex Wisigothorum und der Seehandel.

Dies Risiko, welches, den damaligen Verkehrsverhältnissen entsprechend, weitaus der wichtigste Faktor war, mit welchem man rechnen mußte, soll nun auf die an der Unternehmung irgendwie Beteiligten verteilt werden, – dies ist das legislatorisch wichtigste Problem, deshalb ist zunächst die Art der Beteiligung juristisch wenig differenziert, sie erscheint hier relativ irrelevant; „commendare“ und „commodare“ bezeichnet in der lex Wisigothorum zuerst jedes Hingeben auf Rückgabe, in specie oder in genere, vom Depositum bis zum Darlehen,-später jedes Hingeben in lukrativer Absicht, gleichgültig in welche römischrechtliche Kategorie das betreffende Geschäft fallen würde. Gerade das ist charakteristisch, daß der lex Wisigothorum Verhältnisse wie die eines Gläubigers zum Schuldner, eines Partizipanten zum Unternehmer, eines Kommittenten zum Kommissionär, im Seehandel nicht disparat erscheinen 3). Der wirt-

3) Vom Depositum und der Verkaufskommission spricht die l[ex| Wisig[othorum| unter derselben Rubrik: de rebus praestitis 1. Vt. Vc. III. Deponieren und Darleihen geht c.VIII eod. ineinander über. Daß wesentlich an Seehandcl gedacht ist, zeigt die Überschrift (v[erbo] naufragium) zu c. V eod., in weichem Bestimmungen enthalten sind, die direkt an spätere statutarische Festsetzungen betr. die Komraenda erinnern. – Die lex Langobardorum, für ein Binnenvolk berechnet, legt dem Kreditnehmer die Gefahr auf. d. h. er hat nach den Regeln des Darlehens ohne Rücksicht auf das Prosperieren des Unternehmens, zu welchem kreditiert ist. zu restituieren (l[ex] Long[obardorum] Liutpr[andi] 131), die zunächst an den Seehandel denkende l[ex] Wisig[othorum] teilt

schaftliche Zweck aller ist eben hier wesentlich gleichartig: Export und Reimport nach und von überseeischen Märkten; die ökonomischen Requisiten für diesen Zweck sind stets wesentlich dieselben: einerseits Arbeitsleistung beim Einkauf von Waren, dann zum Behuf des Transports über See, endlich die spezifisch handelstechnische Leistung des Absatzes der Waren auf fremden Märkten, – andererseits Kapital zur Anschaffung der Waren und der Transportmittel. Die Beschaffung dieser Erfordernisse im Wege der Arbeitsteilung und des Kapitaleinschusses, event. Kredits, ist das Bedürfnis, welchem hier alle jene Geschäfte zu dienen haben; Regelung des Risikos und Gewinns unter den Beteiligten ist das wesentliche Problem für die Rechtsbildung schon in der lex Wisigothorum.

Wirtschaftliche Grundlagen der Kommenda.

Diesen selben Bedürfnissen soll nun auch dasjenige Rechtsinstitut dienen, welches unter dem Namen Kommenda eine spezielle juristische Ausgestaltung erfahren hat und schon in älterer Zeit ganz vorzugsweise die Rechtsform geworden war, deren sich der überseeische Handel bediente.
Es ist bekannt 4), daß die Kommenda ein Geschäft ist, durch welches jemand die Verwertung von Waren eines andern, auf dessen Gefahr, gegen Gewinnanteil übernimmt. Ob sie, nach Gold

schon beim Depositum und der Verkaufskommission die Gefahr eigenartig und abweichend von den römischen Grundsätzen (I. V tit. V c. III), noch origineller beim zinsbaren Darlehen (eod. c. IV: de pecunia perdita et usuris ejus) zu Spekulationszwecken (vv. „sub condicione receperit”, d. h. es ist stipuliert, zu welcher Unternehmung das aufgenommene Geld verwendet werden soll). Immer ist der Deponent, Verkaufskommissionär. Kreditgeber ebenso wie der Gegenteil an dem Risiko des Unternehmens beteiligt.
4) Goldschmidt, De societate en commandite 1851; Silberschmidt. Die Kommenda in ihrer frühesten Entwickelung.

Schmidts Vermutung, schon dem römischen Vulgarrecht angehört, bleibt hier dahingestellt 5), wir verfolgen sie nur für das Mittelalter.
 Der primitivste Zustand des Seehandels: daß der Produzent resp. der von ihm kaufende Händler persönlich ein Schiff ausrüstet und auf diesem die Tauschobjekte aus- und einführt, ist zu der Zeit, wo uns dies Institut entgegentritt 6), schon überwunden. Bereits in den ältesten Rechtsquellen steht der patronus navis als derjenige, welcher die Schiffe stellt, den Kaufleuten gegenüber, welche auf ihnen ihre Güter persönlich geleiten; auch darüber hinaus ist die Arbeitsteilung schon fortgeschritten: der Großkaufmann schickt statt seiner einen fattore (italienisch), messatged (catalonisch) 7), der zu ihm

5) Goldschmidt in der cit. Abh. Zeitschr. für Handelsr. Bd. 35 S.80 inkl. 107. Bestätigungen dieser Ansicht in Einzelheiten werden an geeigneter Stelle erwähnt werden.
6) Nach Silberschmidts Nachweisungen in der venezianischen collegantia im 10. Jahrhundert, nach Goldschmidt in der cit. Abh. Z. XXXV S. 80, 81, noch früher in der χρεωκοινωνία des pseudorhodischen Seerechts.
7) Cf. die Statuten] von Trani (b. Pardessus, Collection des lois maritimes) und die Costums de Tortosa (b. Oliver, El derecho de Cataluña). Das Alter der ersteren ist allerdings bekanntlich nicht unbestritten, die Entwickelungsstufc unseres Instituts aber eine frühe.

in dauerndem Dienstverhältnis steht, mit; der Schiffseigner, in Spanien meist eine Rhederei8), bestellt seinerseits einen Bediensteten als patronus navis.

8) So im Consolato del mare. Auch die Urk[unde] in Arch[uves] de L’Orient latin I p.431 setzt eine Rhederei voraus.

Gang der Untersuchung P.155-156 日本語訳(7)

日本語訳の第7回目です。なるほどラテン語は今回は登場しないのですが、ヴェーバーがここで言っていることは分かりにくいです。ただ、法的見地と経済見地の具体例では、この論文で後で、「家計」とか「家ゲマインシャフト」のような、一般的な「市場経済」の対象外とされるようなものから、合名会社における「連帯責任」「共通の特別財産」といった法制度における新しい原則が産み出されたのだ、というヴェーバーの主張のことを言っているのだとして読めば理解出来ます。
なお、この部分のKaelberの英訳は、それだけ読むと分かりやすいのですが、かなりの部分はしょった翻訳で、ヴェーバーの原文のニュアンスをかなり無視しているように感じました。
元のドイツ語はここです。
ともかくも最初の章の日本語訳が一通り終わりました。もちろんこれからも手直しを続けますが。
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研究の工程。経済的な見地と法的な見地の関係

ローマ法においても、またさらに中世において、つまりイタリアの文献史料の中においても、「ソキエタス」という表現は個別に形成された権利関係ではなく、人間同士の様々な関係を表現する一般的なカテゴリーの一つとして登場する。そういった諸関係に共通して他から区別される標識は、もっとも高度に細分化された法的構成においては、利益の獲得、リスクテイク、あるいは何かに投じた費用の中の一つまたは複数の事において、それらが複数の人間の共通の勘定において行われるとされている場合に見出される。そういった様々に異なったゲゼルシャフト形成の諸関係において、どのような標識から、今日の合名会社の原理が発生するのかということこそが、本質的に我々がこの論文で取り扱う問題である。

その問題の解明という目的において、次のようなことを単純に行うことは出来ない。つまり、今日の合名会社が有形資産と労働の成果を結合させているという外面的な形態だけを見て、歴史を遡って中世の諸法規の中に経済的に見て良く似た機能を持っている形象を切り出したり、さらにそういった形象の中に合名会社に類似していて歴史的に合名会社に発展していくであろうような制度を見出すとか、さらにそういった形象だけの観察に限定して研究を進めるといったことである。というのは我々はこの研究を課題の経済的側面に注目して行うのではなく、法的な根本原理の創世記の記述という観点で行うのであり、研究の最初から、法的な差異と経済的な差異をまぜこぜにするという前提条件を仮にも設定することは正当化され得ない。むしろより可能性が高いのは、法的には決定的な根本原則がその発生の最初においては、一般的な経済的な概念からまったくかけ離れた領域において成立したということと、そういった法的な根本原則に規制される実際の人間同士の諸関係が、その発生当初に比べると完全に元の姿を変えてしまったということである。

それ故に我々がやらなければならないことは-さらにまた法的要素と経済要素の対比を可能にするための境界設定により-観察の対象を法制史において登場してくるゲゼルシャフト(会社)の諸形態の中の主要な集団へと拡げることである。

法においては、経済の立場から見るとまったくその外側にあるような性質の標識がしばしば決定的に重要なものとされることがある。このような法形成の固有の性質からはまさに次のようなことが導き出される。経済的に見た差異の結果として外から見てはっきりした法的な構成要件上の区別が立ち現われる場合にはしかし、法的にもまた差異が生じ、従ってまた他から区別される法形態が発生の段階に達しているということを推定することは正当である。これから行う観察において、どの程度まで経済的見地から評価することが出来るのか、あるいは評価すべきなのかということにより経済的見地の重要度が決まるのであり、そしてさらにこれから詳しく述べていく議論の中の一部では、研究の対象物の性質そのものによってその対象物自身が生成される場合も示される。

Gang der Untersuchung P.155-156 ドイツ語原文(7)

ドイツ語の原文の7回目です。ここはドイツ語だけなので楽そうです。
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Gang der Untersuchung. Verhältnis der wirtschaftlichen und rechtlichen Gesichtspunkte.

Wie im römischen Recht, so bezeichnet nun auch im Mittelalter, namentlich in den italienischen Quellen, der Ausdruck „societas” nicht sowohl ein individuell gestaltetes Rechtsverhältnis, als vielmehr eine allgemeine Kategorie von Verhältnissen, deren gemeinsames Merkmal, bei höchst differenter rechtlicher Struktur, darin besteht, daß, sei es der Gewinn, sei es die Gefahr, oder die Kosten einer Unternehmung, oder mehrere dieser Eventualitäten, auf gemeinsame Rechnung mehrerer gehen sollen. Aus welchem der verschiedenen Vergesellschaftungsverhältnisse die Prinzipien der heutigen offenen Handelsgesellschaft stammen, ist im wesentlichen unsere Frage.
 Wir können behufs Lösung derselben nicht einfach von der Form aus, in welcher bei der heutigen offenen Handelsgesellschaft Sachgüter und Arbeitsleistungen kombiniert sind, rückschließend, die wirtschaftlich ähnliche Funktionen versehenden Gebilde des mittelalterlichen Rechts abgrenzen und dann konstatieren, wann unter denselben ein der offenen Handelsgesellschaft ähnliches, historisch auf sie hinabführendes Institut erscheint und uns auf dessen Betrachtung beschränken. Denn wir haben es nicht mit der wirtschaftlichen Seite der Frage zu thun, sondern mit der Genesis von Rechtsgrundsätzen und sind a priori nicht berechtigt zu der Annahme, daß im vorliegenden Fall rechtliche und wirtschaftliche Differenzen von Anfang an annähernd koinzidierten. Es ist vielmehr möglich, daß die maßgebenden Rechtsgrundsätze ursprünglich auf wirtschaftlich weit abliegenden Gebieten entstanden sind und daß die thatsächlichen Verhältnisse, welche durch sie reguliert wurden, sich völlig verändert haben.
 Wir müssen daher – übrigens auch der durch den Gegensatz zu gewinnenden Begrenzung wegen – unsere Betrachtung auf die Hauptgruppen der uns rechtshistorisch entgegentretenden Gesellschaftsformen ausdehnen.
 Für das Recht sind besonders geartete, vom wirtschaftlichen Standpunkt aus oft äußerliche Merkmale maßgebend. Gerade diese Eigentümlichkeit der Rechtsbildung ergibt aber, daß da, wo infolge wirtschaftlicher Differenzen äußerlich markante Unterschiede des Thatbestandes hervortreten, wir zu der Vermutung berechtigt sind, daß auch verschiedene und somit gesondert zu betrachtende Rechtsformen zur Entstehung gelangt sein werden. Hiernach bestimmt sich dasjenige Maß wirtschaftlicher Gesichtspunkte, welches in einer Betrachtung wie der folgenden Platz finden darf und soll, und ferner ergeben sich hiernach die Abschnitte der folgenden Erörterung, wie sich zeigen wird, aus der Natur des Gegenstandes von selbst.