「中世合名会社史」英訳P.74の誤訳と思われる箇所について

ヴェーバーの「中世合名会社史」の英訳の誤訳と思われる箇所を、翻訳者のLutz Kaelber教授にメールで指摘しました。(大学の紹介ページにメアドがありました。)すぐに返事が来て「多分あなたの方が正しいと思いますが、念のため全集版の原文を確認するので1-2週間待って欲しい。」とのことでした。日本の学者だとこういう非専門家からの問い合わせを無視する人も多いですが、アメリカ(ドイツ)の学者はフェアですね。

3. Geographisches Gebiet der Kommendaverhältnisse 日本語訳(11)P.170-177

日本語訳の第11回目です。お正月休みにペースを上げようと思っていましたが、ハッキング騒ぎによるこのサイトの再構築作業などもあってなかなか進みませんでした。
なお英語訳のP.74の「Genoa」の最初の行にある、”following southern French statutes”は原文では”an welches sich die südfranzösischen Statuten anlehnen “であり、まったく逆に訳した誤訳だと思います。原文の主語は”die südfranzösischen Statuten “であり、それがジェノヴァの法規に依拠していると言っているのであり、英訳では逆にジェノヴァの法規が南仏の法規に依拠していることになってしまいます。これは一例ですが、この英訳分かりやすく訳そうとしている努力は理解しますが、ニュアンスを示す不変化詞の意味をまったく訳さなかったり、また代名詞、指示代名詞を単にそのまま英語の代名詞・指示代名詞に置き換えたりしています。後者についてはドイツ語であれば少なくとも代名詞・冠詞・指示代名詞に性と格の情報があり、それをヒントに何を指しているかを確定することが容易ですが、英語の代名詞はご承知の通り人称代名詞以外は性と格が無くなっているため、情報量がドイツ語原文より落ちてしまいます。従って日本語訳でも同じですが、単に代名詞、指示代名詞として訳すのではなく、それが指している内容を可能な限り明記すべきと思います。私は今回の日本語訳では、何を指すのかがきわめて明白な場合以外は極力そうしているつもりです。
なお、この部分は別にアップした「コムメンダのイスラム起源説」を考慮して読むと興味深いと思います。
ドイツ語の原文はここです。
また、これまで訳した分を最初からまとめてご覧になりたい方はこちらを参照願います。
これで大体全体の2割が完了です。
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3.コムメンダ関係の地理的領域

 ここにおいては、膨大な文献史料に基づいてコムメンダとソキエタス・マリスの発展の経過を個々の地域共同体(都市共同体、コミューン)において追っていくことはしない。ピサについては、第4章で特別に取り扱うこととする。というのはピサの法律は我々の研究目的に対して非常に興味深いものであるからである。-個々の国々におけるコムメンダ関係に関する文献史料についての概説は、それが我々の関心に適合する場合において、かつまたこの制度の地域的ではなく国際的な意味を俯瞰するという目的においてのみここで扱うこととする。
実際の所、コムメンダ関係は地中海周辺のあちらこちらで見出すことが出来る。

スペイン

 スペインにおいてはコムメンダ関係の法的な発展は、既に引用した西ゴート法典の引用箇所や Fuero Iuzgo《Fuero Juzgoとも表記。スペインのカスティーリャ王国で1241年にフェルディナント3世により制定された法律で、内容的には654年の西ゴート法典のスペイン語への翻訳が主で他にローマ法や教会法の影響も受けている。》において確立するが、しかしながらそこで規定されているコムメンダ関係は独自性が弱く、まずは外国人が従事している商取引 20) に適用されるものだった。本質においてジェノヴァの法律がそのままコピーされており、コムメンダや海上取引法に関心の力点は置かれておらず-それはConsolato del mareでも同じであるが-海上船舶の運航に関する法規、つまり船主と乗組員他との関係に重点が置かれている。急速に浸透したローマ法においてはそれから、既に13世紀においてそれぞれの国での法的な発展の内容をほとんど変更せず 21) そのまま吸収した。ただバルセロナ 22) においてのみ、この制度の(現地の法での)規定が生き残っていた。Siete Patridas(7つの章、の意)《スペインのカスティーリャ王国で賢王(El Sabio)と呼ばれたアルフォンソ10世(在位:1252 – 1284)によって編纂された法規集。同王は他に音楽史において「聖母マリアのカンティーガ集」の編纂でも有名。》では、やはりローマ法の規定のみしか見出せない。

20) アグラムント(カタルーニャ州の地名)の議会による1118年の Fuero de Guadalajara 《アルフォンソ7世が12世紀に定めたグアダラハーラの地方法》では、商人をただ外国人としてのみ扱っており、Consolato del mare c. 172.175はジェノヴァ法の内容を含んでいる。バルセロナにおいては、1258年の規定において完全にジェノヴァの法規定の内容を取り込んでいる。Leyes de Recopilacion《1772年のスペインの法規集成》1. VII t.X1. 3では、外国人による船舶の航行業務についての規制が有り、そういう外国人に対しては特別に大規模な貿易取引の場合にのみ(コムメンダ関係を)許可しているように見える。

21) 1258年の Costums de Valencia《バレンシアで13世紀に制定された通常の法と同様の効力を持つ慣習法の集成。》では、コムメンダの被委任者について取り決められている。マヨルカ島では1433年の法規の中では純粋なローマ法が支配的である。トルトーサにおける慣習法の集成ではエンコミエンダ (1. IX r. 23) 《8世紀から15世紀までのスペインにおけるレコンキスタというキリスト教地域復活運動の中で、征服した地域の住民の労働が功績を挙げたものに委託される制度》において修正が加えられている。

22) コムメンダ等についての法規が見出せるのは、以下の文献においての1271、1283、1304、1343年の部分においてである。Jean-Marie Pardessus《1772 – 1853、フランスの法学者。商法・海事法の専門家。》の”Collection des lois maritime”、Don Antonio de Capmany《1742 – 1813、スペイン(カタルーニャ)の政治家、歴史家、ローマ法学者、辞書編纂者。》の”Memorias historicas sobre la marina, comercio y artes de la antigua ciudad de Barcelona”(マドリッド、1779年)。

シチリア島、サルディーニャ島

 シチリア島とサルディーニャ島の諸都市においては、文献史料を見た限りにおいては、独立した大規模取引の欠如により、コムメンダの制度は発達しなかった。23)

トラーニ、アンコーナ

 トラーニ法典においては 24)、独立したコムメンダの被委託人は、まだ海上取引の商品に付き添う商人の通常の代理人の代用品としてのみ言及されている。

アマルフィ

 アマルフィにおいては、Kolonna(colonna) 25) 《colonnaについては栗田和彦著『アマルフィ海法研究試論』(関西大学出版部、2003)で詳しく研究されています。ここに情報あり。》という制度において、コムメンダにおいて発展した船に商品を積み込んで海上取引を行う場合の危険の分散と利益の分割という考え方が適用されている。しかし、それはただ小規模で原始的な沿海貿易で相対的に小規模な資本が投下される場合に使われただけである。独自の、大規模な海上取引に付属するコムメンダのような制度はそこでは独立したものとしては発展しなかったように見える。26)

 これまで述べて来た全ての地中海沿岸の領域においては、バルセロナの例外を除いては、独自の継続的な大規模海上取引が存在せず、それ故にコムメンダという制度も、またその特徴的な根本原理も、存在自体は知られていたが、イタリアの大沿岸都市においてそうであったように、独自な形で、また決疑論《あらかじめ存在する理論的なカテゴリーやモデル(後のヴェーバーの用語法では理念型{Idealtypus})に個々の事例(ラテン語でcasus、ケース)がどのように当てはめられるのかあるいはられないのかを検討する学問の技法。例えば法教義学において、個々の事件にどのような法律概念を適用出来るか検討する(例:殺人だが正当防衛なので無罪)ようなこと。》的に完全な形にまで、発展することはなかった。

23) パレルモ法典《詳細不明》の第76章からは、大規模な海上取引はただ外国人の手に委ねられていたことが結論付けられる。サルディーニャ島のサッサリ(の法典)では、外国人が内国人に委託するその時々のコムメンダについての言及が見出される。スペインと南イタリアとイタリアの島々においての全体での貧弱な文献収集からは、コムメンダという制度は知られていたが、同時にそれの独自の発展はそれらの地域では見出すことが出来ない。

24) Pardessusによればトラーニ法典の成立年代は1063年であるが、周知の通り、この成立年代に関しては疑義が投げかけられている。1397年のアンコーナ法典《詳細不明》はその内容をトラーニ法典に負っている。

25) Labandの商法雑誌第7巻に収録された”Tavola de Amalfa”(正しくは”Tabula Amalfitana”、全集版の注による。)とジルバーシュミットの”Commenda in ihrer frühesten Entwicklung”(コムメンダの最初期の発展について)を比較参照せよ。

26) 1274年の” Consuetudines civitatis Amalphiae”(アマルフィ市民慣習法)(Luigi Volpicella《詳細不明》の編集による)の第14章によれば、societas vascelli(= Colonna)に並置してソキエタス・マリスを記載している。しかしその本質的な原理の説明が欠けており、特に利益が出資分に応じて(pro rata)分けられたかということは疑わしい。ソキエタス・マリスがこの地へは外から持ち込まれたのであり、独自に発達したのではないと言うことは、事業の危険を資本家が負うという必須とみなされた特別な前提条件の記述を見ても明らかである。

ピサ

 ピサについては別途《第4章にて》考察を行う。

ヴェネツィア

 ヴェネツィアではジルバーシュミットが指摘するように10世紀において既に、collegantia という形で、入手出来る文献史料が明白に証拠立てているように、コムメンダとソキエタス・マリスの根本原理を発展させている。collegantiaの担い手が本来の企業家であるということは、コムメンダやソキエタス・マリスと同様に確からしく、それは営利目的の資本投下の一つの形態を作り出している。

27) 1081年の調停の文献史料(Archivio Veneto《1871年創刊のイタリアの史学雑誌》第6巻、P.318)を参照。そこでは、rogadia、transmissum、commendacio、collegantiaといった用語が使われている。transmissumはおそらく輸送に関する業務で船主のコムメンダに関わるものであろう。commendacioはここ以外でも多く使用されているが、供託物(Depositum)の意味であろう。colleganitaはソキエタス・マリスであり、しかしジルバーシュミットの言うようにrogadiaが一方的なコムメンダであるかどうかは疑わしい。ヴェネツィア法典の1. III c. 3では、collegantia はソキエタス・マリスの形態を内包しており、単なる一方向的なコムメンダとは違い、トラクタトールもまた資本参加するのである。rogadiaについて可能性が高いのは、固定報酬によって委任を引き受けるということであり、コムメンダの前段階と言えるだろう。roga communis《共同事業についてのコミッション、Kaeblerの英訳による》という表現がヴェネツィア法典(Promissiones maleficiiの第22章。《→全集版の注によれば、1232年のPardessusのCollection Vの第22章にある、Statut criminel de Veniceが正しく、Promissiones maleficii{虚偽の約束}という箇所は実際には存在しない。》)の中に見出されるが、なるほどそこでは communis rogam《共同事業についてのコミッション》または communis marinarium《海上取引についてのコミッション》を請け負ったものは、契約違反を犯した場合には、poena dupli(二重の罰)が課せられるという脅し文句が記載されている。Pardessusの”Collection des lois maritimes antérieures au dix-huitième siècle”(1824 – 1845、全6巻)の第5巻のP.19では communis roga を”arrhes payées au nom de la ville pour engagement sur le navire de l’état”(都市国家の名前において、都市国家の船についての契約に対して支払われた手付金)と説明している。この用語と船の航行との関連も、引用したヴェネツィア法の箇所から見て明白である。さらにヴェネツィア法の1. III c. 2を見れば(基礎的な記載追加は既に13世紀初頭に見出される)、rogadia の目的が商品の販売とされていることも明らかである。同法の1.1 c.48の箇所からは何も判断出来ない。従ってそこでの船の航行との関係も明らかではない。

28) Archivio Veneto XX《詳細不明》のP.75の1150年の例とP.76の1191年の例、さらにはP.325を参照。1403年の銀行法のv. 21. XI. によれば、collegantia はまた銀行による資本投下の手段としても使われている。

ジェノヴァ

 ジェノヴァにおいて、コムメンダやソキエタス・マリスを見出すことができる法規や文献史料の中で、それらに南仏の諸法規が依拠しているのであるが 29)、二つの制度が当然のものとして定義されていることについては、何の疑問も差し挟む余地も無く同意出来る。ジェノヴァの契約書の書式は、地中海沿岸の全ての国で、十字軍の時代 30) においてオリエントでの大規模な国際的商取引の中で、一字一句変更無しにそのまま用いられた。ジェノヴァそれ自身においても、コムメンダとソキエタス・マリスの書式は明白に海外との取引についての都市国家により定められた法書式であった。Compagna communis《1097年頃に結成された誓約共同体、自治組織であり、ジェノヴァ共和国の原型となったもの。》のメンバーでない者は、この書式を使用することが出来なかった。文献史料ではこの都市の最初の名門の家門であるドーリア(Auria)家、スピノラ家他が非常にしばしばコムメンダの委任者として登場する。同じく非常に頻繁に同じコムメンダの委任者が同時に非常に多くの異なった商品についてのソキエタス関係を結んでいる。

29) ニース(Hist. Pat. Mon. Leg. Munic.T. 1)、マルセイユ(1253年)、モンペリエ(ParadessusのCollectionに収録)。

30) アルメニアのアイアスにおけるNikolaus DensAntoniusu de Quartoの公正証書、及びArchivcs de l’Orient latin vol. 1.1. に収められた13世紀のキプロスのファマグスタにおける Lambertus de Sambuseto の公正証書を参照。地中海沿岸の全ての国が登場する。これらの文献史料はほとんど一字一句ジェノヴァの公証人であるGiovannni Scribaの書式を借りている。オリエントでの独自の表現は、ソキエタス・マリス相当語としてiatenum、von tchaten、zusammenlegen = collegantiaなどが存在する。

 これらの法規における様々な規定は、法的関心の範囲内で、ジルバーシュミットにより詳細に分析されている。それ故に、本論文ではそれらを再度細かく蒸し返すことは行わない。本質においてそれらの規定は任意法規《当事者の意思によって適用を免れることができる法規》を含んでおり、ソキエタスの成員同士の関係を規制している。しかしここでもまたそれらの規定の完全な姿は存在していない。それらの規定は、全てのイタリアの諸法規と同様に、-何が解釈において重要であるかという意味で-本質的に個々の細かい点を扱っているのであり、それらは実地においては疑義をもたらしたり、困難を引き起こすこともあったのである。そういった不完全さは、特に「一方的な労働ゲゼルシャフト」と「一方的な資本ゲゼルシャフト」(Lastigが定義した意味で)の間での経済上の意味の揺れのために、しばしば疑念を引き起こす次のような問題を生じさせる。つまり、委任された側は航海中にどの程度まで委任した側あるいはsocius stansの指示に従う必要があったのかということと、また委任された側が自らはリスクを負うこと無しに、どの程度まで予定の航路から外れることを決定する権利があったのかということ、さらには当然の懸念事項として、トラクタトールが外国で死亡した場合にその後継者をどうするか、等々の問題である。
 トラクタトールの非独立性は基本原則であり、その反対に独立性を認める場合には多くは特別事項として追加条項の中で処理され、トラクタトールが貿易のためにどこに赴くとしても(quocunque iverit)、そのトラクト-ルはソキエタス関係をそのまま維持するとされた。
 ジェノヴァの法規における規定はこれらの制度に関してはほとんど変更されることはなかった。1567年の改定においてでさえ、特記すべき変更点は無かった。ようやく1588/89年版の法規において重要な変更が加えられている。これについては後述する。 31)  当時コムメンダとソキエタス・マリスはその古い形態では商取引においてそれまで長い間保持していた重要な意義をもはや保持してなかった。商取引自体が別の方向に進み始めていたし、地中海における海上取引はもはや全世界においては上位に位置するものではなくなっていたし、その古い形態は他の形態に席を譲らざるを得なかった。もちろん他の形態といっても部分的には古い形態をベースにしていたのであるが。16世紀の判例集- Decisiones Rotae Genuensis、Rotae Lucensis、Rotae Florentinae、Rotae Romanae – においては、コムメンダとソキエタス・マリスに関する箇所では、その古い形態についてはもはや言及されていない。

31) 最終章(第7章)参照。

コムメンダはイスラム圏がオリジナル?

今、「コムメンダ関係の地理的領域」の所を訳していますが、ここでちょっと重要な指摘をしておきたいと思います。ヴェーバーはコムメンダやソキエタス・マリスがイタリアの沿岸都市において交易における必要性からある意味自然発生したように解釈しています。これは当時のドイツの歴史学派の間ではほぼ常識的な理解と思います。しかし実はイスラム圏において、砂漠での隊商貿易において、「ムダーラバ契約」(مضاربة‎)というものがあり、この内容がまさにコムメンダと同じで、しかも歴史的にはこちらの方が古いとされています。であれば、イタリアの12-13世紀にこれらの制度が自然発生したと考えるより、むしろヴェーバーも言及しているように十字軍によって自然と中東地域との接点が出来、ムダーラバ契約の考え方が入ってきてそれが採用されたと考える方が自然ではないでしょうか。(コムメンダが発達したのが、ジェノヴァとヴェネツィアであるとヴェーバーは書いていますが、この2つとも当時の中東貿易の重要な拠点でしたし、十字軍にも深く関わっています。)中世においては欧州よりイスラム圏の方が学問においても文化においても産業においても上回っていたのは今日では常識と思います。しかしヴェーバーがこの論文を書いている時代には、その当時の中東やオスマントルコの状況から、それらの地域を蔑視する傾向(サイードの言う「オリエンタリズム」)があり、過去にそれらの地域の影響で新しい法的制度が出来たというのは、盲点だったのではないかと思います。
またご承知の通り、ヴェーバーは宗教社会学において、イスラム教を研究する計画を持っていましたが、それを始める前に亡くなっています。実はイスラム教でも、利子(リーバ)を取る貸付けはカトリックと同様禁止されており(現在でも)、資産家にとって、ムダーラバ契約は戒律に触れない財産運用の仕組みとして活用されたようです。(現在でもムダーラバ契約はイスラム圏では一種の信託として主流を成しています。)
また、ヴェーバーの「経済と社会」における決疑論でも、イスラム教と同様にカトリックでも利子禁止であり、それをかいくぐる裏技とてレンテンカウフ(地代請求権売買)が行われたなどいくつかの例が挙げられており、ヴェーバーがもしムダーラバ契約を知っていたら、当然著作の中で取上げていたと思います。

参考文献:
田原一彦「日本法制下のイスラーム金融取引
Wikipedia:「ムダーラバ

3. Geographisches Gebiet der Kommendaverhältnisse ドイツ語原文(11)P.170-177

ドイツ語原文の11回目です。
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3. Geographisches Gebiet der Kommendaverhältnisse.

Es ist hier nicht der Ort, auf Grund des außerordentlich reichen Materials den Entwickelungsgang der Kommcnda und societas maris in den einzelenen Kommunen zu verfolgen; hinsichtlich Pisas soll eine gesonderte Betrachtung in Kapitel IV nachgeholt werden, da das dortige Recht für unsere Zwecke ein Spezialinteresse bietet. – Eine gedrängte Übersicht des Materials über die Kommendaverhältnisse in den einzelnen Ländern aber gehört insofern hierher, als es für uns von Interesse ist, die nicht lokale, sondern internationale Bedeutung dieser Institute zur Anschauung zu bringen.
In derThat finden dieselben sich rund um das Mittelmeer.

Spanien.

In Spanien knüpft die Rechtsentwickelung an die oben cit. Stellen der lex Wisigothorum und der entsprechenden des Fuero Iuzgo an, ist aber wenig selbständig, entsprechend dem zumeist in fremden Händen liegenden Handel 20). Wesentlich wird das genuesische Recht kopiert, der Schwerpunkt des Interesses liegt nicht auf der Kommenda und nicht im Seehandelsrecht, sondern – so auch im Consolato del mare – im Seeschiffahrtsrecht, den Verhältnissen der Rheder zum Schiffer &c.
Das rapide eindringende römische Recht absorbierte dann schon im 13. Jahrhundert die nationale Rechtsentwickclung bis auf wenige Modifikationen 21). Nur in Barcelona 22) hielt sich das Institut.
Die Siete Partidas kennen auch hier nur römisches Recht.

20) Die Cortes de Agramunt v. 1118. das Fuero de Guadalajara behandeln die mercatores ohne weiteres als Ausländer, der Consolato del mare c. 172.175 enthält genuesisches Recht; in Barcelona geben Bestimmungen von 1258 völlig genuesisches Recht wieder; die Leyes de Recopilacion 1. VII t. X1. 3 haben Vorschriften gegen den Schiffahrtsbetrieb von Ausländern, in deren Händen sich speziell der Großhandel befunden zu haben scheint.

21) Die Costums de Valencia von 1258 wenden die Grundsätze des receptum an; in Mallorca herrscht in den Stat[uten] v. 1433 das reine römische Recht. Die Costums de Tortosa haben bei der Encomienda (1. IX r. 23) Modifikationen.

22) Statutarische Bestimmungen darüber finden sich aus den Jahren 1271, 1283, 1304,
1343 b. Pardessus, Collection des lois maritimes und Capmany, Memorias historicas sobre la rnarina. comercio y artes de la antigua ciudad de Barcelona. Madrid 1779.

Sicilien. Sardinien.

Die sicilianischen und sardinischen Städte haben, soviel ersichtlich, mangels selbständigen Großhandels das Institut nicht entwickelt 23)
.
Trani. Ancona.

Im Seerecht von Trani 24) werden noch die selbständigen Kommendatare nur als Surrogat der gewöhnlich mitgeschickten Faktoren des Kaufmanns erwähnt.

Amalfi.

In Amalfi finden sich in der Kolonna 25) die in der Kommenda entwickelten Gedanken zu einer Risiko- und Gewinnbeteiligung der Schiffsbesatzung verwertet, wie sie nur für einen primitiven Küstenhandel mit relativ kleinen Kapitalien anwendbar ist. Das eigentliche, dem Großhandel angehörige Institut scheint dort nicht selbständig entwickelt worden zu sein 26).

23) Aus den Stat|uten] von Palermo c. 76 kann wohl geschlossen werden, daß der Großhandel in ausländischen Händen lag. In Sassari (Sardinien) werden gelegentlich Kommenden von Ausländern an Inländer erwähnt. Die gesamte dürftige Ouellcnausbeute in Spanien. Unteritalien und den Inseln läßt zwar ersehen, daß das Institut bekannt war. zugleich aber, daß eine originale Entwickelung desselben dort nicht zu suchen ist.

24) Angeblich von 1063 (nach Pardessus), das Alter ist bekanntlich bestritten. Die Stat[uten] v. Ancona v. 1397 schließen sich an Trani an.

25) Cf. Laband zu der von ihm in der Zeitschr. für Handelsr. Bd. 7 publizierten Tavola de Amalfa und Silberschrnidt in der cit. Abh.

Die sämtlichen bisher erwähnten Küstengebiete mit Ausnahme von Barcelona haben einen eigenen, dauernden Großhandel nicht besessen und deshalb das Institut oder doch seine charakteristischen Grundsätze zwar gekannt, aber nicht originell und nicht zu der kasuistischen Vollständigkeit entwickelt, wie das in den großen italienischen Seestädten der Fall war.

26) Die Consuetudines civitatis Amalphiae (ed. Volpicella) von 1274 c. 14 stellen neben die societas vascelli (= Colonna) die soc[ietas] maris, aber ohne deren eigentümliche Grundsätze; insbesondere wird der Gewinn in dubio pro rata geteilt. Daß die soc[ietas] maris hierher importiert ist, nicht originell entwickelt, wird auch durch die von dem Statut für erforderlich erachtete besondere Motivierung dafür wahrscheinlich, daß den Kapitalisten die Gefahr der Unternehmung treffe.

Pisa.

Von diesen wird hier Pisa behufs besonderer Betrachtung (Kapitel IV) ausgeschieden.

Venedig.

Venedig hat in der collegantia, welche Silberschmidt dort schon für das 10. Jahrhundert nachweist, ganz die Grundsätze der Kommenda und societas maris entwickelt, wie die erhaltenen Urkunden 27) klar ergeben. Aus diesen geht zugleich hervor, daß auch hier der Träger der collegantia der eigentliche Unternehmer sein kann; die collegantia bildet eine Form werbender Kapitalanlage 28).

27) Auseinandersetzungsurkunde von 1081 (Archivio Veneto VI p. 318); genannt werden: rogadia, transmissum, commendacio, collegantia. Davon ist transmissum wohl ein Frachtgeschäft, vielleicht mit Schifferkommenda. commendacio ist wohl, wie sonst oft, Depositum, collegantia die societas maris, ob aber, nach Silberschmidt. rogadia die einseitige Kommenda ist. bleibt zweifelhaft. Aus I. III c. 3 der venezianischen Statuten geht hervor, daß collegantia sowohl die Form der Seesocietät umfaßt, bei welcher auch der tractator eine Einlage macht, als die bloß einseitige Kommenda. Möglicherweise ist rogadia die Übernahme einer Kommission gegen festen Entgelt, also die Vorstufe der Kommenda. Die Bezeichnung „roga communis” findet sich in den venezianischen Statuten (Promissiones maleficii c. 22). und zwar wird dort demjenigen, welcher communis rogam vel marinarium acccperit. die poena dupli angedroht für den Fall der Kontraktbrüchigkeit. Pardessus (Collect[ion] V p. 19) erklärt communis roga als „arrhes payées au nom de la ville pour engagement sur le navire de l’état“. Die Beziehung auf die Seefahrt ist auch aus der cit. Statutenstelle ersichtlich. Ferner ist aus 1. III c. 2 der venezianischen Statuten (die grundlegende Redaktion fand bekanntlich zu Anfang des 13. Jahrhunderts statt) als Zweck der rogadia Vertrieb von Waren ersichtlich. Aus 1.1 c.48 ist nichts zu ersehen. Hiernach bleibt das Verhältnis unklar.

28) Urkunden Arch[ivio] Veneto XX p. 75 von 1150, p. 76 von 1191, auch p. 325. Das Bankgesetz v. 21. XI. 1403 zeigt, daß die collegantia auch von Banken zur Kapitalanlage benutzt wurde. Cf. auch Stat[uta] navium von 1235 (Pardessus V p. 20 f.).

Genua.

Unzweifelhaft ist in der Verfassung, in welcher die Kommcnda und societas maris uns in den Statuten und Urkunden von Genua, an welches sich die südfranzösischen Statuten anlehnen 29), entgegentritt, die normale Gestaltung beider Institute zu erblicken. Die genuesischen Vertragsformulare werden wörtlich benutzt von sämtlichen Nationen des Mittelmeers in dem großen internationalen Handelsverkehr im Orient zur Zeit der Kreuzzüge 30). In Genua selbst ist die Form der Kommenda und socictas maris anscheinend die nationale Rechtsform des Fernhandels. Kein außerhalb der compagna communis Stehender darf an dieser Form teilnehmen; in den Urkunden treten die ersten Geschlechter der Stadt, die Auria und Spinulla u. a.. vorzugsweise häufig als Kommendanten auf. Sehr oft hat derselbe Kommendant sein Kapital gleichzeitig in mehreren, auf die differentesten Artikel bezüglichen societates stecken.

29) Nizza in den Hist. Pat. Mon. Leg. Munic.T. 1, Marseille von 1253 und Montpellier b. Pardessus.

30) Notariatsakten des Nikolaus Deus und des Antoninus de Quarto in Aïas in Armenien und des Lambertus de Satnbuseto in Famagusta auf Cypern aus dem 13. Jahrhundert in Arch[ivcs| de l’Orient latin vol. 1.1. Alle Nationen des Mittelmeeres sind vertreten.
Die Urkunden lehnen sich fast wörtlich an die Formulare des Giovanni Scriba in Genua an. Ein eigener orientalischer Ausdruck findet sich für die soc[ietas| maris – iatenum, von tchaten, zusammenlegen = collegantia.

Die statutarischen Bestimmungen sind von Silberschmidt ausführlich analysiert, soweit das juristische Interesse reicht; es soll daher hier nicht abermals ausführlich darauf zurückgekommen werden. Im wesentlichen enthalten sie dispositives Recht, regeln das Verhältnis unter den socii, und auch hier geben sie kein vollständiges Bild. Sie wie alle italienischen Statuten enthalten vielmehr – was für die Interpretation von Bedeutung ist – wesentlich einzelne Punkte, welche in praxi zweifelhaft geworden waren und Schwierigkeiten machten. Solche entstanden insbesondere über die gerade wegen des Schwankens der wirtschaftlichen Bedeutung zwischen „einseitiger Arbeitsgesellschaft“ und „einseitiger Kapitalgesellschaft“ (in Lastigs Sinn) oft zweifelhafte Frage, inwieweit der Kommendatar Anweisungen des Kommendanten bezw. socius stans während der Reise nachzukommen habe, wie weit er zu Abweichungen von der vorgesehenen Route ohne eigene Gefahr befugt sei, ferner naturgemäß über die Folgen des Todes des tracta- tor im Auslande und dergl.
Die Unselbständigkeit des tractator ist die Regel, das Gegenteil wird meist besonders stipuliert durch die Klausel, er solle die Societas tragen, quocunque iverit.
Die statutarischen Bestimmungen in Genua sind bezüglich dieses Instituts ungemein stabil geblieben, noch die Redaktion von 1567 enthält nennenswerte Änderungen nicht. Erst in der Statutenausgabe von 1588/9 finden sich erhebliche Differenzen, von denen noch die Rede sein wird 31). Damals hatten die Kommcnda und die societas maris in ihrer allen Form eine größere Bedeutung im Handelsverkehr längst nicht mehr; der Handel selbst hatte andere Bahnen eingeschlagen, der Seeverkehr des Mittelmeers stand nicht mehr obenan in der Welt, und seine alten Formen mußten anderen Platz machen, welche freilich zum Teil auf deren Schultern stehen.
Die Urteilssammlungen des 16. Jahrhunderts – die Decisiones Ro- tae Genuensis, Rotae Lucensis. Rotae Florentinae, Rotae Roma- nae – erwähnen der Kommenda und societas maris in ihrer alten Form nicht mehr.
n
31) Cf. letztes Kapitel.

2. Die Societas maris. 日本語訳(10) P.165 – P.169

ソキエタス・マリスの所の日本語訳です。注釈の中ですが、ついにここでは中世アラゴン語!が登場しました。さすがにそこまではカバー出来ない(アラゴン語の現在における話者の数は1万人くらいだそうです)ので、英訳本にある英訳をそのまま日本語訳しました。
今回のテーマであるソキエタス・マリスですが、先に紹介した泉谷勝美さんの「12世紀ゼノヴァの損益計算実務」の中に、ジェノヴァの公証人であったジョヴァンニ・スクリーバの公正証書の例が出てきて、あるお金持ち(委任者)と冒険心はあるがお金が無い若者(被委任者)がコムメンダでまず貿易を行いそれなりの利益を得、2回目ではその若者が1回目で儲けた利益をそのまま出資するという、まさにコムメンダがソキエタス・マリスに変わるという例が出てきます。
元のドイツ語はこちらです。
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2.ソキエタス・マリス(海のソキエタス)

 あるもう一つのゲゼルシャフトの形態、つまり一般にソキエタス・マリス(海のソキエタス)と呼ばれるものがもたらしたのは、大きな変革であった。ソキエタス・マリスでは、資本家の視点から見た場合、まず第一に一方向的なコムメンダから、双方向での出資を伴うソキエタスへと移行を果たしたのである。
 この新しい関係を公証人の下で公正証書を作成するためのジェノヴァにおける一般的な様式は以下のようなものである:

Chart.II 293 v.J. 1165: W[ilielmus Buronus] et I[do de Rica] professi fuerunt se ad invicem societatem contraxisse 200 librarum, in qua quidem duas partes W[ilielmum Buronum] et terciam I[donem] contulisse pariter confessi fuerunt. Hanc omnem societatem nominatus I[do] laboratum debet portare Bugiam et hinc ubi voluerit. In reditu utriusque capitali extracto proficuum debet per medium dividere etc.
(HPMのChart. II 293 v.J. 1165: Wilielmus BuronusとIdo de Ricaは二人が200リブラの金額の相互的ソキエタスの契約を締結したことを認める。その契約の中でWilielmus Bonorusが全体の2/3を出資し、Ido de Ricaが1/3を出資していることも了解した。このソキエタス契約に基づいた全ての商品を、Idoはその業務としてブルギアまで、さらにそこからIdoが希望する場所まで運送しなければならない。Idoが戻ってきた場合には、それぞれ自分の出資金を差し引いた後で、利益は折半されなければならない、等々。)

歴史を遡ってコムメンダの存在を証拠付ける限りにおいて、この形のソキエタスもまた証拠付けられるのである。しかしながら、ジルバーシュミットがこの形のソキエタスをより新しいものとみなしている事については賛成せざるを得ない。14)  この場合においての、ソキエタスで委任される者の位置づけは、既に論じたようにより自立した存在にならなければならなかった。その行う業務が自分自身の勘定でも行われる限りにおいて、少なくとも共同企業人となったのである。

14) 文献史料を一読すれば、ソキエタス・マリスはコムメンダと比較してみた場合、そういう風に(コムメンダとは異なったやり方で)取り決めると意図されたことが疑わしく思え、ある種の特別協定の性格を帯びているということが分かる。ソキエタス・マリスの取り決めは、しばしば貿易に持ち込んだ商品の内、ほんの一部のみをカバーしている。(Chart. II 348など多数)Consolato del mare《アラゴンのペドロ3世(1239 – 1285)によって編纂された地中海の海事法の集成、現在のアラゴン語の元になった言語で書かれている。》では、ある一人の、自身の商品に同行してそれを運搬していくソキエタスの成員の存在が、コムメンダの被委任者と同様に有効と認められることが、こうした関係の特別な正当化のために不可欠であった。その理由はそうしたソキエタスの成員が提供するより金額の大きい保証金にあった:perçó com comendataris van per lo mon mults qui en tot ço que portan ne an alguna cosa. Encora mas si aquelles comandes no eran que hom los fa, irien à onta. Encora mas si aquelles comandes se perden, ells no y en res, perço car à ells no costarà res del lur ne y perden res … è en axi lo senyor de la nau ò leny no pot ne deu esser de pijor condició que un altre comendatari.“《以上はアラゴン語の元になった言語で書かれており、日本語訳はLutz Kaelberの英訳に載っているStanley S. Jadosの”Consulate of the Sea and Related Documents”の英訳を元にしている。》(何故ならば、船の命令を承諾する者の多くは、船上において彼ら自身の個人的な貨物を所持しておらず、ただ船から許可されて持ち込んだ物のみを、世界中をその船で旅する間所持する。さらには彼らが船に対する命令権を委託されていない場合には、その存在は無に等しい。もう一つ付け加えれば、海上で貨物が紛失した場合でも彼らはその貨物に対して何らの所有権も持っていないため、失う物は何も無い。…それ故に船の所有者が、船上の他の者よりも有利に扱われるということは公平ではない。)《訳者の推定であるが、ここをもう少し意訳すると、「何故ならばコムメンダで委託された者の多くは、船上で彼ら自身が出資した商品を保持しておらず、ただ一部の被委託者が自分で買い入れた商品を少しだけ許可を得て持ち込んでおり、それを世界中をその船で旅する間所持する。さらには彼ら自身が船主ではない場合にはその存在は無に等しい。もう一つ付け加えれば、海上で貨物が損害を受けた場合でも、多くの場合それは被委託者の所有物ではないため、彼らにとっての損害は存在しない。…それ故に(被委託者が船主であっても)船主が他の船上の者より有利に扱われることは公平ではない。」》

ソキエタス・マリスの法的性格

 このソキエタス・マリスという形態の、コムメンダと対比させた上での特徴は、何よりもまず本質的には危険の共有ということである。-そして例えば利益の分割の仕方のような事ではない。コムメンダにおいては、委任される者は出資0に対して利益の1/4を得る。それに対してソキエタス・マリスでは、慣習的に 15) 総資本の内の1/3の出資に対し、残りの2/3は委任する側が出資するのであるが、その委任される者の1/3の出資の利益の1/2、つまり1/6(1/2 x 1/3)だけ出資分の配当として多くもらうのである。これは委任する側から見れば、出資分の割合である利益の2/3の内の1/4だけ(2/3 x 1/4 = 1/6)が委任される者に取られるということである。海上取引にかかった費用の分担についても、コムメンダと異なる所はまったく無かった。 16) そういった利益やコストの分担の仕方の違いではなく、ただ危険の共有のみが2つの制度の違いを生じさせているのである。旅する方のソキエタスの成員(ピサでの呼び方ではtractator{トラクタトール})の商品は、ソキウス・スタンス(socius stans、ピサでただ出資だけの成員をこう呼んだ)の商品と一緒にされて船に積み込まれ、もしある一方の商品が海上で損害(海損)を被った場合、その損害は両方に共通の損害、つまりソキエタスの財産の減少として扱われるのである。《今日の海上損害保険における「共同海損」の原理》

 商品を販売したことから得られた利益は、その商品を用意した者の利益ではなく、一種の共有財産となるのである。-ソキエタスの財産についてはもはやソキウス・スタンスの特別勘定でもなく、またトラクタトールのでもなく、ソキエタス財としてある勘定を、-ソキエタスの資本勘定とここでは名付けるが-成立させるのであり、この勘定に対して貸方に記入したり(出金したり)、借方に記入したり(入金したり)するのである。(まだ商業簿記的にではなかったが、会計上ではこの時代において既に簿記とみなすべき先例が見出されるのである。)こういった共通勘定について、どのような支出を行いあるいは収入を得るかという、特にこの勘定の利益になることについて(”venire in societatem”{ソキエタスの中に入れる}、HPMのChart. II。380、457、487、604、619、729、734,910など多数を参照)、多種多様の取り決めを証拠付ける文献史料が残されている。多くのそういった勘定は、お互いに様々に異なった精算関係を持つことが可能になる。

 このようなソキエタス・マリスの発展においては、それが新しい制度だといってもコムメンダとの根本的な違いは共通の基金の形成という点を無視すれば、おそらくはっきりと認識されることはなかった。-しかしながら何らかの形で重要な相違が存在しているということは、(共通基金の形成という明確な区別が存在する故に)Lastigによっても否定はされていなかった。まさに通常の場合コムメンダを特徴付ける要素、つまり危険が委任する者だけによって負担されるとういうやり方は、ソキエタス・マリスにおいては変更が加えられているのである。ソキエタス・マリスが通常のコムメンダである度合いが薄いほど、新たな現象として危険が委託を受ける側でも負担される場合において、法的に見ればより一層次のことが重要になる。つまり、ソキエタス・マリスにおいては最初から最後まで、もはやある一人のソキエタスの成員が自分の勘定で海上取引という業務を執り行ない、そのことによりその者が業務の責任者となり、トラクタトール(委任を受ける者)にはただその労働力を提供させるというのではなくなり、-ソキエタス・マリスにおいては参加する委任者と被委任者の双方が相手の出資に対する危険をも分担するのである。

17) Chart. II 576を参照(陸上コムメンダの場合、後記。)

経済的な意味

 経済的な意味においても二つの制度の違いは顕著である。既にコムメンダ、特に資金委託の形のコムメンダの場合において、委託を受ける者が委託する者と販売市場の間に入る存在となっていく傾向があったが、ソキエタス・マリスにおいては更に、トラクタトール自身が自己資本を海上取引に投入しており、それもとりわけ多くのソキウス・スタンスが一人のトラクタトールと投資において関係を結ぶ場合において、コムメンダとの違いは明白であった。トラクタトールの活動が次第に困難さを増していく市場との関係において重要性が増せば増すほど、それだけ経済的には一層トラクタトールが企業家として、逆にソキウス・スタンスは単なる参加者に見えてくるというのが必然の成り行きだった。その場合にはソキウス・スタンスはもはや外部の労働力を自分の事業に組み入れる者ではなくなり、自分の海上取引における役割が単なる投資家に留まることを認めるようになる。後者の自己認識は紛れもなく、トラクタトールと取り結んだ種々の契約をソキエタス・マリスへの投資、つまり特別な形に統合された信託投資とかあるいはそれに似た短期利益を目的とした投資としてみなす、となっていくのである。18)いまやソキエタス・マリスが経済的にはこのような新しい意味を持つことが可能になるか、あるいは事実上しばしばなったにも関わらず、ソキエタス・マリスはその法的な構成という意味では、新しい影響をまったく及ぼさなかった。二つの制度の間に法的な差異は存在せず、経済的に旅するソキエタスの成員(トラクタトール)の労働またはソキウス・スタンスの資本を別の他の団体の業務であるかのようにみなすことになる。この最後のケースにおいては、ソキウス・スタンスの位置付けを自分の資本を外部の者による業務による利益または損失に関連付ける者とみなすことや、またその関係を経済的に「参加」と描写することを誰ももはや正当とは思わないであろう。-そこからソキエタス・マリスの曖昧さをしばしば批判し、その曖昧さがコムメンダ関係というものをそれに「参加する」者と捉えることに起因するというLastigのソキエタス・マリスの把握の仕方には反駁せざるを得ない。コムメンダについてはまさに参加という形で機能しているとも言えるのである。19)

18) Constit[utum] legis Pisanae civitatis (Francesco Bonaini《1806 – 1874、イタリアの文献・古文書学者》編の、 Statuti inediti della città di Pisa 《https://archive.org/details/statutiineditid00tusgoog/page/n9》 Vol. II) c. 21. Stat[uten] v. Pera c. 108.を参照。これをジェノヴァ市民の誓約ゲノッセンシャフト(コミューン)であるCompagna communis《11世紀の終わりにジェノヴァの市民によって結成された自治組織で後の共和国のベースとなった。》のソキエタスにおいて誰にも帰属しないお金を受け取ることについての誓約と比較せよ。(Breve della comagna v.1157)

19) Lastigはむしろコムメンダ関係を「一方向的な労働ゲゼルシャフト」として、彼が”participatio”(参加する)と名付ける「一方向的資本ゲゼルシャフト」とははっきりと区別しようとしている。ただ委任者と被委任者の関係において存在する要素のみが、ソキエタス・マリスにおいても経済的には問題であり、それについての解答は誰が海上取引業務の「主人」であり、つまり企業家であるとみなすことが出来るかということであり、-それは可能性として二者の内のどちらでもないことがあり得、それは結局二者のどちらもが等しくそうであると言うことになる。LastigEndemann《Samuel Wilhelm Endemann、1825 – 1899、ドイツの法学者・ドイツ帝国議会議員》の”societas pecunia-opera”《”in qua alter imposuit pecuniam, alter operam”、つまりソキエタスの一方の成員はお金だけを出し、他方の成員は労働だけを提供するもの。》等の理論(Endemannの„Studien in der romanistisch-kanonistischen Wirtschafts- und Rechtslehre.“《第1巻:1874年、第2巻:1883》の中の)に対して、経済的な見地を法的な観察に混ぜ込ませているとして、効果的かつ正当に反駁しているが、しかしLastig自身もまた彼が作成した(法的な)カテゴリーの中に経済的なものも混ぜてしまっているのである。(Lastigの言う)「参加」も、法的にはとりわけ多種多様な形態を取りうるのであり、ソキエタス・マリスを対象にしない技術的・法的な意味付けが、私の知る限りの出版されている文献史料には見出すことが出来ないのである。Lastig自身も曖昧さを後に認めているが、我々は後でピサにおいて特に次のことを観察するであろう。つまりソキエタス・マリスがそれが最初に花開いた時期から既にコムメンダと異なっていたこと、そしてまた参加というモードで見た場合にも機能しており、そこ(ピサ)においてこれらの原因によって特別な、他のものには欠けている法的な定義をすることが出来るということである。「参加」はそれ自身が本来法学的ではなく経済的な概念である。

泉谷勝美氏の「12世紀ゼノヴァの損益計算実務」

泉谷勝美という方の「12世紀ゼノヴァの損益計算実務」という論文がここで参照出来ます。
ヴェーバーの論文にも出て来る公証人のJovanni Scribaとか、コムメンダやソキエタス・マリスの具体的内容が出てきて、参考になると思います。
この方は簿記の専門家のようです。

2. Die Societas maris. ドイツ語原文(10) P.165 – P.169

ドイツ語原文の第10回目です。コムメンダに続いて、ソキエタス・マリスが登場します。
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2. Die Societas maris.

Eingreifendere Neuerungen sind die Konsequenz einer anderen Gesellschaftsform, der sogenannten societas maris, in welcher die zunächst, vom kapitalistischen Standpunkt aus betrachtet, einseitige Kommenda den Übergang in eine Societät mit zweiseitiger Kapitaleinlage vollzieht.
 Die für Beurkundung dieses Verhältnisses in Genua gewöhnliche Form ist folgende:

Chart.II 293 v.J. 1165: W[ilielmus Buronus] et I[do de Rica] professi fuerunt se ad invicem societatem contraxisse 200 librarum, in qua quidem duas partes W[ilielmum Buronum] et terciam I[donem] contulisse pariter confessi fuerunt. Hanc omnem societatem nominatus I[do] laboratum debet portare Bugiam et hinc ubi voluerit. In reditu utriusque capitali extracto proficuum debet per medium dividere etc.

Soweit rückwärts uns die Kommenda bezeugt ist, ebensoweit auch diese Societät; trotzdem ist Silberschmidt beizustimmen, welcher sie für die jüngere Form hält. 14) Der Kommendatar, dessen Stellung, wie bemerkt, eine selbständigere werden mußte, war nunmehr auch materiell, seitdem das Geschäft mit auf seine Rechnung ging, zum mindesten zum Mitunternehmer geworden.

14) Ein Blick in die Urkunden lehrt, daß die societas maris gegenüber der Kommenda, welche als im Zweifel gewollt gilt, den Charakter einer Spezialberedung hat; oft ergreift sie nur einen Teil der mitgeführten Waren (Chart. II 348 z. B. und oft). Der Consolato del mare hält es für der besonderen Rechtfertigung bedürftig, daß ein eigene Waren mitführender socius ebenso günstig gestellt sei wie ein Kommendatar. Der Grund liege in der größeren Garantie, die er biete: „perçó com comendataris van per lo mon mults qui en tot ço que portan ne an alguna cosa. Encora mas si aquelles comandes no eran que hom los fa, irien à onta. Encora mas si aquelles comandes se perden, ells no y en res, perço car à ells no costarà res del lur ne y perden res … è en axi lo senyor de la nau ò leny no pot ne deu esser de pijor condició que un altre comendatari.“

Rechtlicher charakter der societas maris

Das dieser Form im Gegensatz zur Kommenda Charakteristische ist nun wesentlich die Gemeinsamkeit der Gefahr. – Nicht etwa die Art der Gewinnverteilung. Erhielt bei der Kommenda der Kommendatar bei einer Einlage von 0 1/4 des Gewinns, so erhält er hier usancemäßig 15) bei einer Einlage von 1/3 des Gesamtkapitals, von welchem der Kommendant 2/3 aufbringt, 1/2 des Gesamtgewinns, also 1/6 mehr, als pro rata auf ihn entfallen würde, also von den pro rata auf den Kommendatar entfallenden 2/3, des Gewinns 1/4. Auch die Verteilung der Kosten ist keine andere als bei der Kommenda.16) – Sondern allein die Gemeinschaft des Risikos ergibt den Unterschied. Die Waren des reisenden socius (tractator nach der Terminologie in Pisa) werden mit denen des socius stans (so heißt in Pisa der nur mit Einlage Beteiligte) in einen Topf geworfen, eine Beschädigung der Waren eines von beiden trifft beide gemeinsam, ist eine Minderung des Societätsgutes.

15) Chart. II 428: A. wirft 200, B. 100 und seine Arbeitskraft ein, der Gewinn wird à 1/2 geteilt und bemerkt: „cum ista societas nominatur.” Verhalten sich die Gütermengen beider Teile nicht wie 2/3 zu 1/3, so gilt die societas nur als für zwei in diesem Verhältnis stehende Beträge geschlossen; was überschießt, gilt als Kommenda und wird besonders berechnet (Chart. II 348 und oft).

16) Meist als selbstverständlich vorausgesetzt, gelegentlich erwähnt: Chart. II 340.

 Der Gewinn aus den Waren ist nicht Gewinn desjenigen, der sie eingeworfen hat, sondern fällt in die Teilungsmasse. – Es gibt einfach über das Societätsgut nicht mehr gesonderte Konti des stans und des tractator, sondern es wird für das Societätsgut ein Konto – Kapitalkonto der Societät, würden wir sagen – eröffnet und diesem zu- und abgeschrieben (wenn auch nicht buchmäßig, so ist doch rechnerisch der Vorgang schon für die damalige Zeit so zu denken). Mit diesem Konto wird nun operiert, die Urkunden enthalten mannigfache Abreden darüber, welche Ausgaben und Einnahmen dies Konto belasten, bezw. ihm zu gute kommen („venire in societatem“, cf. Chart. II 380,457,487, 604, 619, 729, 734,910 und oft); mehrere solche Konti können in den verschiedensten Abrechnungsverhältnissen untereinander stehen.
 In dieser Entwickelung ist nun zwar ein prinzipieller Unterschied von der Kommenda an sich vielleicht nicht zu erkennen, abgesehen von jener Bildung eines gemeinsamen Fonds, – allein die Existenz irgend welcher erheblicher Differenzen kann deshalb nicht mit Lastig in Abrede gestellt werden. Gerade in dem normalerweise die Kommenda Charakterisierenden, der Tragung der Gefahr durch den Kommendanten, ist eine Änderung eingetreten. Sowenig es eine normale Kommenda ist, wenn, was vorkommt, die Gefahr dem Kommendatar zur Last gelegt wird 17), so wenig ist es juristisch unerheblich, wenn durchweg bei der societas maris das Unternehmen nicht mehr auf Rechnung nur des einen socius geht, welcher dadurch „Chef“ des Geschäfts wird, dem der tractator seine Arbeitskraft zur Verfügung stellt, – sondern daß hier jeder auch die Gefahr der Einlage des anderen trägt.

17) Chart. II 576 (ein Fall der Landkommenda. s. u.).

Wirtschaftliche Bedeutung.

 Auch wirtschaftlich ist der Unterschied erheblich. Wenn schon bei der Kommenda, besonders der Geldkommenda, die Tendenz dahin geht, den Kommendatar zu einer selbständigen Zwischeninstanz zwischen Kommendant und Absatzgebiet zu gestalten, so noch mehr hier, wo der tractator selbst sein Kapital im Unternehmen stecken hat, und ganz besonders, wenn ihm mehrere socii stantes mit Geldeinlagen gegenüberstehen. Je mehr die Thätigkeit des tractator unter schwieriger werdenden Marktverhältnissen an Wichtigkeit steigt, um so mehr mußte wirtschaftlich er als der Unternehmer, die stantes als Partizipanten erscheinen. Nicht mehr der stans ist es dann, welcher fremde Arbeitskraft in seinen Dienst nimmt, sondern der tractator nimmt das Kapital der stantes in seinen Dienst, gewährt ihnen Gelegenheit zu lukrativer Anlage. Unzweideutig drückt sich letztere Auffassung darin aus, daß die Statuten die Einlage in eine societas maris als besonders geeignete Art der Anlage von Mündelgeldern und ähnlichen zeitweilig werbend anzulegenden Kapitalien behandeln 18). Trotzdem nun die societas maris wirtschaftlich diese Bedeutung annehmen konnte und thatsächlich oft annahm, ist dies auf ihre juristische Struktur ohne Einfluß geblieben. Eine juristische Differenz ist nicht vorhanden, mag wirtschaftlich in casu die Arbeit des reisenden socius oder das Kapital des stans als im Dienste der anderen Partei stehend aufzufassen sein. Im letzteren Fall wird niemand anstehen, die Stellung des socius stans als die eines an Gewinn und Verlust eines fremden Geschäfts mit seinem Kapital Partizipierenden, das Verhältnis wirtschaftlich als „Partizipation“ zu bezeichnen, – und es muß daher der Auffassung von Lastig widersprochen werden, welcher lebhaft gegen die Unklarheit protestiert, welche darin liege, daß man die Kommendaverhältnisse mit der participatio in Beziehung setze. Erstere können sehr wohl auch als Partizipation fungieren 19).

18) Constit[utum] legis Pisanae civitatis (bei Bonaini, Statuti inediti della città di Pisa Vol. II) c. 21. Stat[uten] v. Pera c. 108. Vergl. den Eid der Mitglieder der genuesischen bürgerlichen Eidgenossenschaft, Compagna communis, von keinem nicht Zugehörigen Geld in societatem zu nehmen (Breve della compagna v. 1157).

19). Lastig will vielmehr die Kommendaverhältnisse als „einseitige Arbeitsgesellschaft“ von den „einseitigen Kapitalgesellschaften”, welche er participatio nennt, scharf trennen. Allein welches von beiden Verhältnissen vorliegt, ist auch bei der soc[ietas] maris eine wirtschaftliche Frage, deren Beantwortung davon abhängt, wer wirtschaftlich als „Chef“ des Geschäfts, als Unternehmer, anzusehen ist – möglicherweise keiner von beiden, d. h. beide zugleich. Lastig polemisiert scharf und wohl mit Recht gegen Endemanns Theorien von der societas pecunia-opera etc. (in Endemanns Studien zur roma-nisch-canonischen Wirtschafts- und Rechtslehre), als Hineintragen wirtschaftlicher Gesichtspunkte in juristische Betrachtungen, allein auch Lastigs Kategorien sind inklusive der wirtschaftliche. Die Partizipation insbesondere kann mannigfache Rechtsformen annehmen, eine technische juristische Bedeutung, welche die societas maris ausschlösse, ist aus dem gedruckten Quellenmaterial meines Wissens nicht ersichtlich. Lastig selbst gesteht für die spätere Zeit eine „Verwischung“ zu; wir werden noch in Pisa speziell sehen, daß die societas maris gerade in ihrer Blütezeit verschieden, auch als Partizipationsmodus, funktionieren kann und dort (in Pisa) zu diesem Behufe auch speziellere, sonst fehlende, juristische Distinktionen afugestellet sind. „Partizipation“ ist an und für sich kein juristischer, sondern ein wirtschaftlicher Begriff.

大塚久雄の「プロ倫」日本語訳に登場する「コムメンダ」

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」には「コムメンダ」が2回登場します。大塚単独訳版(岩波文庫1989年)ではP.55とP.88です。大塚は最初のページでは「コムメンダ」、2度目は「コンメンダ」とわざわざ表記を変えて訳しています。ちなみにヴェーバーの原文では最初はドイツ語式のKommenda、2度目はラテン語・イタリア語式のcommendaです。きっと偉大な大塚先生の事ですから、この2つの書き方には何かの意味の違いがあると考えて日本語のカタカナ表記も変えたのでしょうね。お偉い先生の考えることは分かりません。しかし、Kommendaとドイツ語として表記するなら、どちらかというと「コメンダ」という表記の方があっていると思います。(「株式会社発生史論」での表記はすべて「コンメンダ」。)ちなみに「コム(ン)メンダ」にも「ソキエタス・マリス」についても、何らの訳者注も付けられていません。これらの問題については大塚が日本の学者の中ではもっとも詳しい一人だと思われますので、訳者注を付けるのに何の苦労もなかったと思いますが。それともこんな単語は常識だとでも思っていたのでしょうか。
ちなみに中山元訳では、最初は「コンメンダ」でちゃんと訳者注が付いています。「素晴らしい!」と書こうと思ったら2回目の表記は「コメンダ」、そんな表記は「ゴメンダ」。(イタリアでcommendatoreという勲章がありますが、それの日本語表記は一般に「コンメンダトーレ」。)それでソキエタス・マリスなどには訳者注はまったくありません。残念ながら。
ちなみに今回の日本語訳ではすべて「コムメンダ」で統一します。「海浜幕張(かいひんまくはり)」という幕張メッセの最寄り駅のローマ字表記がKaihimmakuhariとなっているように、ドイツ語であれイタリア語であれ、nとmが連続したら、後ろのmに引っ張られ前のnは自然にmになります。ましてや元の綴りはmmというmの連続です。nの音が出て来る余地はありません。実際に発音してみればすぐ分ることです。

Die Kommenda und die Bedürfnisse des Seehandels. 日本語訳(9)P.161 – P.165

日本語訳の9回目です。コムメンダの具体的な内容が紹介されます。今日の貿易商社の原型がここにある感じです。
注釈でラテン語が出てきます。文法的にはまったく難しくないのですが、辞書に載っていない語が多くて調べるのが大変でした。
元のドイツ語はここです。
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 この段階に至るとこういった海上取引での仕組みのさらなる発展については、色々な方向があり得た。-一方では自分の従者を商品と共に送り込む代りに、次のようなやり方が利益的には好都合と考えられるようになる。つまりその度毎にその商品を販売しようとしている市場を良く知っている第三者を雇い入れ、商品と共に船に乗り込ませ、さらにその際にその第三者が自身の裁量において船を委託者から借りるとか、その者自身が輸送手段を確保する、といったことを認めるというやり方である。他方では逆にそういった第三者を雇い入れることをせずに、商品と一緒に送り込まれる代理人ではなく、船主自身が報酬をもらった上で商品の販売をも引き受けるというやり方もある。9)取引の及ぶ範囲が広大になればなるほど、次のようなやり方がより一層好都合であると考えられるようになったに違いない。つまり、自分の従者を長い船旅の後、その者にとって未知の国に送り込むより、その国での諸事情に精通した委託販売人に商品を委託するというやり方である。後者のやり方はその後自然に、ジェノヴァにおいて公正証書上に繰り返し同一の名前が現れるようになったことからも分かるように、すぐにこの種の販売委託を請け負う独立した事業の出現につながったのである。

9)ジェノヴァのGiovanni Scriba《12世紀のジェノヴァにおける最初期の公証人》の公証人証書(Historiae Patriae Monumenta《イタリアの史的文書の集成。1836年~1901年にトリノで編纂された。全22巻。以下HPMと略す。》のchartaum II)、No. 261、328、329、306他多数。1155年以降、こういった様式の全ての例が得られる。329と306では船主とコムメンダで委託を受けた者は同一人物ではない。トラニ法典とトルトサ慣習法においては、法的な代理人としての船主の代理人という者は出て来ない。Decisiones Rotae Genuae (de mercatura, et ad eam pertinentibus) (1606年)(ジェノヴァ控訴院決定集、原文のGenuensisは全集版の注によれば、Genuaeの誤り)を参照。

 ある一人のそういった代理人の報酬は、いつも決まった額で固定報酬という形で与えられることもあったが、ある場合にはしかし、12世紀のジェノヴァで普通に行われていたように、委託販売人は利益の一部の分配にも与ることが出来たのであり 10)、こうしたやり方が通常コムメンダと呼ばれる関係なのである。こうした委託販売人が自らも利益の分け前に与ることの利点は明白であるが、しかしまた次のような状況にも適合したものであった。つまり、委託を受けた代理人が根源的にただ委託した方の手足である限りにおいて、そうした手足は競争が激化して単純に商品を通常の海外市場に投入することが難しくなればなるほど、それだけいっそう需要を正しくつかみ一般論として自立した取引が必要になるという意味で変わっていかざるを得ないのである。コムメンダで委託を受けた者は一人の請負人として職務を行うのであり、その結果その働きに対する報酬はもはや雇い人のような固定した賃金の受け取りではなく、その事業全体の収益の一部を受け取ることになるのである。

10)コムメンダの標準となる史料は、先に引用したジェノヴァの公証人証書の1155年の例えば1.cのNo. 243に見られる:”Ego … profiteor me accepisse in societatem a te … lib[ras]50, quas debeo portare laboratum usque Alexandriam et de proficuo quod ibi Deus dederit debeo habere quartam et post reditum debeo mittere in tua potestate totam prescriptam societatem …”(私は…ソキエタスの関係において貴方から50リブラを受け取ったことを認め、私は自分の業務としてその商品をアレクサンドリアまで運搬しなければならない。その仕事の収益の中から神は私が1/4を受け取ることをお許しになるであろう。そして私が戻ってきた後は全てのあらかじめ決められたソキエタスの利益を貴方に渡さなければならない…)
コムメンダで委託を受けた者の通常の生計の費用は規則により委託をした側の負担となり、その他の業務遂行に必要な諸掛かりについては委託された側の負担となる。-コムメンダ契約の根底にある一方的な性質は文献史料においては領収書の形で現れ、そこからそれを読み取ることが出来る。

コムメンダのソキエタス的性格

 コムメンダにおけるソキエタス的要素は-コムメンダはその成立の最初からソキエタスと呼ばれたが-ソキエタスの形態での業務を次の限りにおいて内包している。つまり、事業におけるリスクの分担はここにおいても資金提供者が負い、それに対して航海と販売における諸掛かりは取り決められた範疇に従って(注10を参照)それぞれが一定割合を負担し、更には利益もそれぞれの持ち分に応じて分割されたのである。このソキエタスという制度の国際的な発展形態であるコムメンダは次のような形で登場する。つまり、利益の分割の仕方を決める尺度について、後に大部分がはっきりした法的規定となる任意法という形での商習慣が、委任を受けた者は純利益の内から1/4を配当として得るということを定める形である。

コムメンダの参加者の経済的位置付け

 この(コムメンダにより)業務を委託する側は、商品の生産者であるか、または後背地の商品を買い付ける仲買人かであり、一般的には輸出業者であることが多くその場合は商品を、あるいは輸入業者の場合は資金を委託するのであるが、ある場合にはこの両方を兼ねることもあり、その場合は輸出した商品を売却したその売上げを転用して別の商品を買い付けて輸入を行うのである。(ジェノヴァでは後者の場合を商売上の技法として”implicare”と呼んでいた。)

11)仲買人について:HPMのchart IIのNo.306(1156年)を参照:
”Nos M[archio dormitor] et A[lexander lngonis Naselli] profitemur nos accepisse a te W[ilielmo Ncuta] 8 pecias sagie et volgia que constant tibi lib[ras] 24. has debemus portare laboratum apud Palermum et inde quo voluerimus dum insimul erimus etc.”(我々Marchio dormitorとAlexander Ingonis Naselliは貴方Wilhelm Neutaから24リブラの価格で貴方に債務を負っている8巻きのsagieとvolgia《2つともおそらく当時の織物の種類か?欧州は元々毛織物が一般であったが、この時代に絹織物と木綿が伝わっている。ヴェーバー以外にも2、3の文献がここを引用しているが、この2つについてはそのまま引用しており訳されていない。》を受け取ったことを確認します。我々はそれをパレルモまで運搬する義務があります。そしてそこから先も我々は出来る限り一緒に行動したいと希望しています。等々)

12)前掲書(HPM)のNo. 337 (1156年): Ego … profiteor me accepisse a te … (folgen die Waren) unde debeo tibi bizantios 100 … et eos debeo portare ad tuum resicum apud Babiloniam et implicare in lecca et brazili … et adducere ad tuum resicum etc. (私は貴方から次の商品を受領した事とそれによって貴方に100ビサンチン{金貨}の債務があることを確認します。そして私はその商品をバビロニアにある貴方の作業場まで運搬し、そしてそこでleccaとbrazili《おそらく2つとも何かの染め物の技法ないし染料の種類か?》に染めるという義務を負っています。さらにその染めた布を貴方の作業場まで持っていき…等々)-Lepa《Rudolf Lepa、1851 – 1921、ローマ法学者》の見解(商法雑誌第26巻P.448)である、”accomodare”と”implicita”が前者は委任された者が事業収益に対して分け前を持つことにより、後者は対象物の価値の1%を受け取ることにより、それぞれ報酬の受け取り方が異なっているということは、Lepaがその証拠として挙げているCasaregis 《J. L. M. de Casaregis、1670 – 1737、イタリアの法学者で手形やその裏書き、保険や海上取引などの各種商行為を研究し後代の商法の整備の基礎を作った。》の”Discursus de commercio”の29.9ではきちんと証明されていない。”Implicare”はジェノヴァの文献史料においてではなく、むしろもっと後代でLepaが説明しているような意味を持つようになった。それは当時の商慣習において、ごく普通に使われていた単語で、ドイツ語での”Anlegen”、”Investieren”(出資する、投資する)に相当する表現だったのであり、今日のイタリア語の”impiegare”(資金を用いる)に等しい。Thöl《Heinrich Thöl、1807 – 1884、ドイツの法学者でドイツ商法の整備に貢献した。》もこのCasaregisの引用の箇所について更なる根拠を示すこと無しに、Akkomendatar(コムメンダにおける委任する方)が、”Implizitar Provision”という利益配分を得ていたという見解を示している。既に述べたようにより以前の時代については、どこまで後代の概念が適用出来るかについては疑ってかからなければならない。

この最後の2つの場合においては、コムメンダで委託される方を特別に独立した者と位置付けることが不可欠になる。そういった委託される方は、その取り扱う業務を自己の勘定では扱わないために、実質的には企業家とみなすことは出来ない。一方コムメンダで委託する方は、商品を販売する市場とは一様に弱い関係でつながっているだけであり 13)、それに対して委託される方が独立して主に業務を執り行う者として、委託する方と市場の間に自らを割り込ませるのである。原則的にまずは一人の委任者に一人の被委任者が対置される。被委任者がコムメンダで委託されたもの以外の商品をその市場に持ち込む場合には委任者側の特別な許可が必要な限りにおいて、後の時代になってコムメンダによる委託外の商品についての(被委任者側からの)申告を、形式的にではあるが文献史料の中で確認することが出来る。(参照:HPM chart II、346、424,655など多数)しかしながら複数のコムメンダ契約による商品の受け入れと、さらにそれに加えて自分自身の商品の持ち込み、また多数の自分自身の船と自分の家族を従業員として使った大規模な貿易事業は、しかしながらジェノヴァの文献史料が示しているように、もはや特別の事では無くなっているのである。このことはまずもって経済的な面では重要であるが、法的な概念の把握という意味では、多数の委任者が同一の被委任者を使い、危険と利益の分担のために組合を結成し、つまりソキエタスとしてのコムメンダが成立するという後代に観察出来る関係は、まだほとんど確認することが出来ないのである。

13)HPMのchart. IIのNo. 340は、コムメンダ関係を取り結ぶことは既に銀行の業務の一つになっていたことを示している。ヴェネツィアの銀行のコムメンダ契約法(1374年9月28日、1403年11月21日)を参照せよ。(Lattes《Elia Lattes、1843 – 1925、イタリアのローマ法、法制史・経済史の研究家でエトルリア語の専門家。》により、”La libertà delle banche a Venezia“の書名で出版されている。)

インターネット上の電子化文献

今「中世合名会社史」の(9)の日本語化作業中ですが、ここに出て来るイタリアの古文書、いずれもインターネット上の電子化文献として参照可能です。

Histtoriae Patriae Monumenta
https://www.archive.org/stream/historiaepatria00unkngoog#page/n5/mode/2up

Decisiones Rotae Genuae (ヴェーバーはDecisiones Rotae Genuensisとしているが、間違い)
https://play.google.com/store/books/details/G%C3%A9nova_Rep%C3%BAblica_Rota_Genuensis_Decisiones_Rotae_G?id=rNkM026Zo3AC&hl=ja

参照出来るというのと読んで理解出来るというのはもちろん別の話ですが、少なくともヨーロッパの図書館まで出かけて行かなくても、自宅でこういう文献を参照出来る時代になっているということです。また、書籍での発表に比べ、インターネット上での日本語訳の公開が、こうしたリソースにすぐリンク出来るという点で優れていると思います。

このことを見ても、ヴェーバーが参照している各種文献は比較的良く知られたものが多く、このヴェーバーの論文で初めて登場するようなものは少なくとも今の所はありません。(ヴェーバーがゴルトシュミット教授から借りたものがもしかすると今後出てくるかもしれませんが。)
これだけのことからも、この論文が文献学を主目的としたものでないことが良く分かります。以前コメントしたどなたかの発言での「未だに邦訳がなされ得ない実証的研究」とは言い難いということを再度申し上げておきます。