今、「コムメンダ関係の地理的領域」の所を訳していますが、ここでちょっと重要な指摘をしておきたいと思います。ヴェーバーはコムメンダやソキエタス・マリスがイタリアの沿岸都市において交易における必要性からある意味自然発生したように解釈しています。これは当時のドイツの歴史学派の間ではほぼ常識的な理解と思います。しかし実はイスラム圏において、砂漠での隊商貿易において、「ムダーラバ契約」(مضاربة)というものがあり、この内容がまさにコムメンダと同じで、しかも歴史的にはこちらの方が古いとされています。であれば、イタリアの12-13世紀にこれらの制度が自然発生したと考えるより、むしろヴェーバーも言及しているように十字軍によって自然と中東地域との接点が出来、ムダーラバ契約の考え方が入ってきてそれが採用されたと考える方が自然ではないでしょうか。(コムメンダが発達したのが、ジェノヴァとヴェネツィアであるとヴェーバーは書いていますが、この2つとも当時の中東貿易の重要な拠点でしたし、十字軍にも深く関わっています。)中世においては欧州よりイスラム圏の方が学問においても文化においても産業においても上回っていたのは今日では常識と思います。しかしヴェーバーがこの論文を書いている時代には、その当時の中東やオスマントルコの状況から、それらの地域を蔑視する傾向(サイードの言う「オリエンタリズム」)があり、過去にそれらの地域の影響で新しい法的制度が出来たというのは、盲点だったのではないかと思います。
またご承知の通り、ヴェーバーは宗教社会学において、イスラム教を研究する計画を持っていましたが、それを始める前に亡くなっています。実はイスラム教でも、利子(リーバ)を取る貸付けはカトリックと同様禁止されており(現在でも)、資産家にとって、ムダーラバ契約は戒律に触れない財産運用の仕組みとして活用されたようです。(現在でもムダーラバ契約はイスラム圏では一種の信託として主流を成しています。)
また、ヴェーバーの「経済と社会」における決疑論でも、イスラム教と同様にカトリックでも利子禁止であり、それをかいくぐる裏技とてレンテンカウフ(地代請求権売買)が行われたなどいくつかの例が挙げられており、ヴェーバーがもしムダーラバ契約を知っていたら、当然著作の中で取上げていたと思います。
参考文献:
田原一彦「日本法制下のイスラーム金融取引」
Wikipedia:「ムダーラバ」