5. Die Landkommenda und die Kommanditen. P.185 – P.189 日本語訳(14)

日本語訳の第14回目です。ここにおいて、初めて合資会社が登場します。ただヴェーバーも書いている通り、非常に曖昧な形の結びつきであり、果たしてこれが本当に合資会社の最初の契機だと言い切っていいのかどうかは、まだこれから先の記述を読みながら考える必要がありそうです。
元のドイツ語はここです。
これで全体の約26%になります。
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 ”Statuta Antiqua Mercatorum Placentiae”(ピアチェンツァの古い商法)のc. 76は、多数の者から「共通のもの」とされた「債権」において、債務者から支払われたもの全ては分割されなければならず、そしてまた外部の債務者がソキエタスの中の一人の債権者に対して支払ったものであっても同様に全員で分割されなければならないと定めている。さらにc. 144はあるソキエタスの成員の誰かが、(別の)外部のソキエタスの成員から手紙を受け取った場合は、その{ソキエタスの}中で何でも外部との情報のやり取り及び(または)取引に関することは開示される(”in qua aliquid de cambio et《vel》 negociatione legatur”)ということで、その者は遅滞なくその手紙を他のソキエタスの成員に開示しなければならなかった 44)。そのソキエタスの中の誰かが私的にうまく市況を利用して儲けた場合には、その者はソキエタスの他の成員に利益を分け与えなければならなかった。c. 76に関連して更に次のような規定も存在する:ある債権者団体の一人が他の成員に、自分は債権の回収のために-それは成員の共通の利害に関わることであるが-旅に出るつもりだとこっそりと告げる場合、そして(それを聞いた)その成員がその旅の費用分担を支払いたくない場合、その旅する者は自分の債権の分だけの金額を回収するのである。もしその者が、ある他のソキエタスの成員との取り決めによって(”parabola sociorum”)いくらかの額を回収し、そしてその一部をその者の責任外の理由で失った場合、全ての損害はソキエタスの負担とされる(”totum damnum de societate sit”)。最後に、c. 145によればあるソキエタスの成員がある業務上の旅において、他の成員の知らない所で自分自身の商品や資金を(”de suo”)一緒に持っていった場合、そこから生じた利益も損失も、あたかもそれがソキエタスの財であるかのように、成員間で分けられなければならなかった。

44) ここでの関係が示すように、ただソキエタスの成員同士の関係について規定しているのであり、ラスティヒが想定しているように、外部の都市などの取引所の相場表を提出することを義務付けたり、利己的な投機を禁止しようとしているのではない。

 ここにおける事実からは次のことが想定される。つまり、あるソキエタスが存在しそれがピアチェンツァを継続して定住の場所とし、-c. 144、145、77の引用によれば-、そしてそのソキエタスにおいて一人または多数のソキエタスの成員が継続的に業務上の旅を行い、そして他の成員は資本を分担しピアチェンツァに定住している、ということである。第582、53、509章ではまさしく、家族仲間(Genossen)に適用されるのと同じ種類(species)のソキエタスについて規定しているように見える 45)。この部分については次のようなはっきりした印象を受ける。つまり、ここにおいてはある関係について述べているのであり、その関係においては単純なソキエタス・マリスにおいてはソキウス・スタンスに帰属させていた役割を、多数の成員による組合(Konsortium)がその地位を獲得しているということである。その多数の成員の中からトラクタトールが出て来て、その者はその組合に対してソキエタス・マリスの場合においてもまさにそうであったように、指導的な地位を占めるのである。複数のソキウス・スタンス達によって形成されたゲマインシャフトはここでは「企業家」、即ち使い古された言い方での業務の「支配人(Chef)」であるように見える。その形態の中で既にその基礎を見出せるのは、複数のソキウス・スタンス達は継続してソキエタスがそこで作られた土地に定住し、その時々に決められる者としてのトラクタトールは反対に旅の中に身を置くということである。この種のソキエタスによって企てられた業務が、トラクタトールの関わる現場において経営体(Betrieb)として成立した場合には、次のことが可能となっていなければならなかった。即ちこれまでに見てきたソキエタスに関する法規においての傾向に一般的に適合する形で、複数のソキウス・スタンス達はただ資本参加するだけとなり、寄り集まったソキウス・スタンス達はより一層単なる参加者の一種に成り、その過程において今や特別な同盟(Assoziation)関係が成立したのである。それは別の言葉で言えば、彼らは有限責任社員となったのである。というのは、ピサの法規についての考察においてより詳細に論じることになるが《第4章》:もしピアチェンツァの法規での不備の多い位置付けの背後に、これまで述べて来たような状況が存在するのであれば、我々はここに於いて合資会社をその非常に曖昧模糊とした発展の過程をまさに目の当たりにするのである。有限責任社員の無限責任社員(トラクタトール)に対する位置付けは、常に今日のそれと一致する訳では決して無い。より古い方の合資会社の状況は、有限責任社員(ソキウス・スタンス達)が本来の意味での企業家であり、トラクタトールは彼らの手足のような存在に過ぎない。合資会社における他の要素はようやく後の時代になって出現するのである。ここまで述べて来たようなコムメンダにおいて同一の被委任者を共有する多数の委任者達による同盟(Assoziation)からの合資会社の発生は、Casaregis《Josephi Laurentii Mariæ de Casaregis、Discursus Legales de Commercio、1740年の著者》によって明確に述べられている 46)。更にFierli 47)《Gregorio Fierli、1744 – 1807年、イタリアの法律家、”Della società chiamata accomandita e di altre materie mercantili”の著者》は、”accomandita regolare”《正規の合資会社》と “(accomandita) irregolare”《非正規の合資会社》を区別し、前の方は有限責任社員が自分達の出資の分に対しての所有者であり続けたと解釈している。彼は無限責任社員のみがソキエタスの担い手であるという形態は非正規のものと捉えている。有限責任社員達が自分が出資した金額を超える分については免責になるという根本原則もまた、彼らの置かれた立場の違いの結果であり、その時々に常に疑問が投げかけられているのはFierliが更に述べている通りである。ソキエタスの債権者のソキエタスの基金への優先権(現地では後に”sportello”《現代のイタリア語では「銀行窓口」》と呼ばれるようになった)は、Fierliの引用が明らかにしているように、同じように長い年月に渡って保持され、最終的には法的に明確な説明が与えられるようになった。ともかく、合資会社の確かな本質的要素は、個人として全ての責任を負う者と、自分の出資した分だけの責任に限定されるソキエタスの成員であり、そしてジェノヴァに見られるように、ソキエタスの特別財産形成への契機となる要素が存在していた。

45)計算をきちんと行うという義務は、特にある商人が”pecunium communem cum fratribus penes se”(その兄弟達と共同で所持している資金)を持っている場合には、厳しく要求されていた。

46)Discursus 29 No. 4、 6、 7、 19、 24-28についての、Thöl《Heinrich Thöl、Handelsrecht、1841年の著者》のHandelsrecht I、§102の注釈11における注解を参照せよ。ただ、 Thölによって、コムメンダの被委任者を識別するために使われた目印である、”institor”《今日のイタリア語で店主、行商人の意》が、会社法においての法教義学において、この”institor”の概念が意義を勝ち得たという主張は誤解を招く。

47)Fierliの”Della società chiamata accomandita”を参照。

陸上コムメンダの意味

 陸上のソキエタスの通常の場合は、ピアチェンツァで形作られたものではなく、それはむしろこれまで引用して来たジェノヴァの文献史料の中で記述されている。それらの史料によれば、陸上のソキエタスという制度は海上取引に関するソキエタスに対して、全くのところ副次的なものに留まっていた。陸上のソキエタスに関するある修正は一般的に危険の負担の観点で行われたと思われ、きわめて多くの場合トラクタトールに責任を負わせている。トラクタトールが全額の返還 48)という責任を免れるのは”vis major”《フランス語・英語での”force majeure”と同じ、超越した力=不可抗力》による損害発生の証明をなし得た場合のみである。これに対しソキエタス・マリスでは、トラクタトールが損失分はソキウス・スタンスの債務として負担されなければならないとか、トラクタトールの損失分はソキウス・スタンスのそれよりも少なくあるべきだとかの主張を覆そうとする場合、ソキウス・スタンスの側が立証しなければならなかった 49)。一般論として陸上のソキエタスにおいては、危険や費用の負担の定め方にしても、利益の分割の仕方の点でも、海上取引のソキエタスにおけるような確固たる慣例は形作られなかった 50)。これらの陸上でのソキエタスの形態は、良く知られているように、これ以上重要な役割を担うことは無かった。陸上ソキエタスへの参加は、内国取引の関係において様々な形で役割を担った。その中ではコムメンダ的な陸上のソキエタスは最重要なものであることは一度も無かった。この点についてはピサの例についての検討《第4章》で再度取上げることになるだろう。

48)Constitutum Ususnの第26章を参照。Consuetudines civitatis Amalfiae、1274年、の c. 14と比較せよ。”salvum in terra”(陸上における安全)という表現は、海上取引のソキエタスにおいてはトラクタトールの方により重い責任があると記述されるが(例えば、Statuta Peraeの c. 214)、ここでの責任は不可抗力の場合であっても免れ得ないように見える。(参照:ゴルトシュミットの”Festgabe für Beseler“のP.210以下。《Beseler: Georg Beseler、1809 – 1888、プロイセンの法律家、政治家》

49)マルセイユの法規(Pardessus編)のc. 24に明確に規定されている。

50)注38の文献史料を参照。

5. Die Landkommenda und die Kommanditen. P.185 – P.189 ドイツ語原文(14)

ドイツ語テキストの14回目です。今回から全集版のスキャン+OCRによるテキスト取得から、“Max Weber im Kontext”からのテキスト取得に変えました。
OCRによるテキスト化は、エラーが避けられずその修正が面倒なのと、またここでのドイツ語テキスト公開はあくまで参考用なので、割切らせていただきます。
注釈の番号と位置のみ修正して、全集版の番号に合わせています。
この部分はラテン語が少ないので多少楽そうです。
===============================================  Die Stat[uta] antiqua mercatorum Placentiae c. 76 bestimmen, daß bei einem von mehreren „communiter“ gemachten „creditum“ alles von dem Schuldner Beigetriebene verteilt werden solle, auch das, was ein auswärtiger Schuldner etwa einem der Gläubiger einzahle. Ferner c.144: Wenn jemand von einem auswärtigen socius einen Brief erhält, in qua aliquid de cambio et《vel》 negociatione legatur, muß er denselben sofort seinen socii zeigen. Macht er vorher ein Geschäft und nutzt also privatim die Konjunktur aus, so muß er den socii partem dare 44). Anschließend ferner an c.76 noch: Hat einer der in commune creditores den übrigen denunziert, daß er eine Geschäftsreise ad recuperandum creditum, also im gemeinsamen Interesse, unternehmen wolle, und wollen die übrigen zu den Kosten nicht beitragen, so behält er das Beigetriebene bis auf die Höhe seines Anteils allein; hat er „parabola sociorum“ etwas beigetrieben und hiervon einen Teil ohne Schuld verloren — „totum damnum de societate sit“. Endlich nach c.145 sollen, falls ein socius auf der Geschäftsreise ohne Wissen der anderen socii etwas „de suo“ mitführt, Gewinn und Kosten, welche darauf entfallen, geteilt werden, als wäre es Sozietätsgut.

44) Wie der Zusammenhang zeigt, handelt es sich nur um das Verhältnis unter socii, nicht, wie Lastig annimmt, um eine Pflicht, den Kurszettel auswärtiger Plätze &c der Börse bekannt zu geben, um unlautere Spekulationen zu vermeiden.

 Der Tatbestand scheint hiernach zu sein, daß eine Sozietät besteht, welche in Piacenza dauernd domiziliert ist — c. 144, 145, 77 cit. — und von welcher ein oder mehrere socii dauernd sich auf Handelsreisen befinden, die übrigen, mit Kapital beteiligten sich in Piacenza aufhalten. Cap. 582, 583, 509 eod. scheinen von derselben species von Sozietäten, angewendet auf Familiengenossen, zu sprechen 45). Hiernach gewinnt man den bestimmten Eindruck, daß es sich hier um ein Verhältnis handelt, bei welchem ein Konsortium von mehreren die Stellung einnimmt, welche bei der einfachen societas maris dem socius stans zukommt; aus ihrer Mitte geht der tractator hervor, welchem gegenüber sie jedoch, so wie dies bei der societas maris ursprünglich auch der Fall ist, eine leitende Stellung einnehmen. Die Gemeinschaft der socii stantes scheint hier der „Unternehmer“, der „Chef“ des Geschäfts in dem mehrfach gebrauchten Sinn zu sein, was schon darin seinen Grund hatte, daß die stantes dauernd am Ort der Sozietätsniederlassung sich aufhielten, der jeweilige tractator aber sich auf Reisen befand. Geschah der Betrieb des von einer derartigen Sozietät unternommenen Gewerbes an Ort und Stelle durch den tractator, so mußte es möglich sein, und, der allgemeinen, von uns beobachteten Tendenz des Sozietätsrechtes entsprechend, immer mehr zur Regel werden, daß die nur mit ihrem Kapital beteiligten, assoziierten socii stantes mehr und mehr zu einer species von Partizipanten wurden, unter denen nur eben ein besonderes Assoziationsverhältnis bestand, mit anderen Worten: zu Kommanditisten. Denn, wie sich bei Betrachtung des pisanischen Rechts noch näher ergeben wird: wenn hinter den lückenhaften Stellen der Statuten von Piacenza der geschilderte Tatbestand steckt, so haben wir hier die Anfänge der Kommanditgesellschaft, in sehr unklarer Entwicklung, vor uns. Die Stellung der Kommanditisten zum Komplementar (tractator) ist keineswegs stets entsprechend der heutigen gewesen. Die ältere Sachlage ist die, daß die Kommanditisten (socii stantes) die eigentlichen Unternehmer, der tractator ihr Organ ist. Reste finden sich noch später. Ausdrücklich wird die Herleitung der Kommandite aus diesen Assoziationen mehrerer Kommendanten desselben Kommendatars in der hier dargelegten Weise von Casaregis bezeugt 46). Noch Fierli 47) unterscheidet accomandita regolare und irregolare und versteht unter der ersteren diejenige Gesellschaft, bei welcher die Kommanditisten Eigentümer ihrer Einlagen blieben; die Form, bei welcher der Komplementar allein Träger der Sozietät ist, gilt ihm für irregulär. Auch der Grundsatz der Nichthaftung der Kommanditisten über den Betrag ihrer Einlage hinaus ist infolge der Verschiedenheit ihrer Stellung gelegentlich immer wieder in Frage gestellt worden, wie noch Fierli berichtet. Das Vorzugsrecht der Sozietätsgläubiger am Sozietätsfonds (lokal später „sportello“ genannt) hat, wie Fierlis Zitate ergeben, gleichfalls lange Zeit gebraucht, bis es zu wirklicher juristischer Klarheit gelangt war. Immerhin sind gewisse essentialia der Kommanditgesellschaft, ein persönlich voll haftender und nur mit der Einlage haftende socii, und, wie wir in Genua sehen, auch Anfänge zu einem Sondervermögen vorhanden.

45) Die Pflicht zur Rechnungslegung wird eingeschärft für den Fall, daß ein mercator „pecunium communem cum fratribus penes se“ hat.

46) Disc[ursus] 29 Nr. 4, 6, 7, 19, 24-28, erläutert bei Thöl, H[andels]R[echt] (1879) I § 102 Anm.11. Nur ist die von Thöl für den Kommendatar gebrauchte Bezeichnung institor bei der Bedeutung, die dieser Begriff in der Dogmatik des Gesellschaftsrechts gewonnen hat, irreführend.

47) Fierli, Della società chiamata Accomandita.

Bedeutung der Landkommenda.

 Der Normalfall der societas terrae ist die Gestaltung in Piacenza nicht, derselbe liegt vielmehr in den zitierten genuesischen Urkunden vorgezeichnet; hiernach ist das Institut gegenüber den Seesozietäten durchaus sekundär geblieben. Eine Modifikation scheint im allgemeinen hinsichtlich der Tragung der Gefahr stattgefunden zu haben, welche in höherem Maße dem tractator zur Last fällt, nach dem constit. usus befreit ihn nur der Nachweis von vis major von voller Rückerstattung 48), während bei der societas maris den socius stans die Beweislast dafür trifft, daß der tractator durch seine Schuld Verluste herbeigeführt resp. daß er weniger verloren habe, als dieser behauptet 49). Im allgemeinen scheint sich für die societas terrae weder für die Art der Tragung der Gefahr und der Kosten, noch für die Gewinnverteilung eine so feste Usance gebildet zu haben, wie bei den Seesozietäten 50). Diese Sozietätsform hat denn auch, soviel bekannt, eine erhebliche Rolle nicht mehr zu spielen gehabt; die Partizipation hat sich in den Binnenlandsverhältnissen verschiedener Formen bedient, unter welchen die kommendaartige societas terrae wohl keine der erheblichsten gewesen ist. Wir werden in Pisa noch einmal auf sie zu sprechen kommen.

48) Constit[utum] us[us] rubr. XXVI. Vgl. Consuetud[ines] civ[itatis] Amalfiae a. 1274 c. 14. Die Wendung „salvum in terra“, welche bei der Seesozietät eine gesteigerte Haftung des tractator bezeichnet (z.B. Stat[uta] Perae c. 214), scheint die Haftung bis auf vis major zu bedeuten (cf. Goldschmidt, Festgabe für Beseler S.210ff.).

49) Ausdrücklich bestimmt in den Stat. von Marseille (b. Pardessus) c. 24.

50) Vgl. die Urkunde in Anm. 2 S.339.

4. Vermögensrecht der Seesocietäten. / 5. Die Landkommenda und die Kommanditen. P.181 – P.185 日本語訳(13)

日本語訳の第13回目です。この部分も既存の英訳が存在しない中世ラテン語が含まれていて、それなりに時間がかかりました。
英訳者のLutz Kaelberのラテン語の訳も、今一つ信用しきれない部分があり、その検証に時間を要しています。
ただ、次第に本論の部分に近づいてきて、なかなか興味深い内容になっています。
ドイツ語原文はここです。またこれまで訳した分全部をまとめて参照する場合はここです。
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成果

 ソキエタスによる営業活動として執り行われた業務によって形成された権利と義務の複合体に、ある種の特別財産として《その後合名会社に発展していくという》特別な運命を歩ませるということについてのいくつかの契機が《これまで考察してきたコムメンダとソキエタス・マリスという制度の中に》実際の所存在していたということは、どうあっても認めざるを得ないだろう。しかしながら、実際の所、それらはまさしく単なる契機に過ぎず、ソキエタスの基金に対しての債権者の地位を特別に完全なものにすることは行われなかった。債権者とソキエタスの基金の関係は、コムメンダやソキエタス・マリスという制度の発展の過程において、今日委託販売人《トラクタトール》の破産の際に販売委託人《ソキウス・スタンス》の権利を保護する目的でのある種の法的な制度の構築という点では、ほとんど進展が見られなかった。《コムメンダやソキエタス・マリスと称されるには》購入された商品の存在が前提となっている。

 ソキエタスの基金の特別財産としての位置づけは、ここでは 37)せいぜいのところ断片的なものでしかない。しかしながら若干の理論上の修正は考えられるものの、ラスティヒがこれらのソキエタスの法的な構成について述べていることは正しい。つまり本質においては、対外的にはトラクタトールが、対内的にはソキウス・スタンスが有資格者であったということである。後者についてはもちろん、ソキウス・スタンスが個々のケースで自身が企業家であった場合においての話であるが。

 完全に明白なことは、連帯責任の原理が、ここにおいてはまだその第一歩を踏み出すことが出来ていないということである。ソキウス・スタンス自身が、当該のソキエタスに投資した分以外の財産について、ソキエタスに属する商品についてトラクタトールと契約した債権者達と関係を持つことにはならないということは、ソキウス・スタンスのトラクタトールの債権者達との関係が、トラクタトールの財産についてそれが破産した際に優先権という形で現れること以上に、はっきりと表現出来るものは他に存在しない。このことはジェノヴァの1567年の法規においても、また13世紀のものについても同様である。

37)ピサではこのことはもはや当てはまらない。

5.陸上コムメンダと合資会社

陸上コムメンダ

 コムメンダはこれまで見てきたように海事法上の制度であり、これより以前の時代においては内陸の諸都市では知られている限りでは全く存在していなかった。非常な遠方との取引という困難を克服する必要があり、ソキエタスの成員の間の意思疎通と相互の監視が不可能であった場合に、コムメンダが登場した。陸上での取引は、これ以前の時代においては、市場から市場への往来に結びついていたし、コムメンダの必要が無かった。またその外的な活動においては危険の分散という考え方を海上取引においける特色のようには十分に考慮することが無かった。
 それにも関わらず「陸上のソキエタス」つまり”compagnia di terra”と呼ばれた制度においては、海上取引に関するソキエタスの根本原理が利用されているのを見出すことが出来る。それについて少し述べてみたい。
 陸上における業務の遂行について、利益の分け前を得ることを目的とした資本の引き渡しに対しては、海上取引におけるソキエタスの書式がほとんどそのままの形で使用された 38)。

38)Chart. II 545: I[terius] magistcr de antelamo (? arte lane?) et G[uido] mag[ister] de antelamo (arte lane?) contraxerunt societatcm in quam I|terius] l[ibras| 10 et G[uido] contulit l[ibras] 30. Ex his usque 5 annos debet facere pred[ictus] G[uido] calcionarios … et de proficuo … IVam habere debet I[terius] et 3/4 G[uido| pro fideli tamen cura … ab ipso G[uidone] adhibenda vel sol.20 de proficuo primum habere debet ante divisionem vel sol. 5 de parte ipsius I[terii] …
(antelamo{?羊毛職工?}のマスターであるイテリウスと、同じくantelamo{?羊毛職工?}のマスターであるグイドはソキエタスの契約を締結し、その中でイテリウスは10リブラを、そしてグイドはそこに30リブラを拠出した。この契約によって前述のグイドは、calcionaria《詳細不明。英訳は羊毛の靴下としている。あるいは石灰でなめした革製品?》を5年の間作り続けなければならない。…その利益からイテリウスは1/4を受け取ることになり、それに対してグイドはその忠実な労働の対価として3/4を受け取る。…その利益からグイドはまたは20ソリドゥス(金貨)を利益の中からそれを分割する前にまず受け取ることになる。または5ソリドゥス(金貨)をイテリウス自身の取り分から…(ちなみにこの部分は、利益の分割ではなく、危険の分散を目的とするゲマインシャフトの形成をもくろんだソキエタスの取り決めをしていることの明白な証拠である。)
 325: L[anfrancus Piper] dedit in societatcm B[ernardo Porcello] lib[ras] 50 quas idem se accepisse confessus est. has idem B[ernardus] debet tenerc usque 5 annos expletos et laborare cum eis in Ianua unde cas removere non debet sine licencia ipsius L[anfranci]. De omni proficuo quod deus in eis dederit L[anfrancus] duas partes et B[ernardus] terciam habere debet …
(ランフランクス・ピペルはソキエタスの契約においてベルナルドゥス・ポルセルスに50リブラを支払った。そしてベルナルドゥス・ポルセルスは同じ額を自身が受け取ったことを確認している。このお金をベルナルドゥスは5年が終了するまで保持しなければならない。そしてベルナルドゥスはジェノヴァでこのお金で仕事を行い、ランフランクスの許可無しにはこのお金をソキエタスから引き出すことは出来ない。全ての利益から神が次の分け前をお与えになる。つまりランフランクスが2/3をそしてベルナルドゥスが1/3を取ることになる。…ランフランクスは”stacio”を業務が行われる場所にしている。)
 576: Ego … accepi a te … lib[ras] 8 《denariorum ianuensium》in societatem de quibus debeo facere laborare in confeccione nepotem meum … et de proficuo quod inde consequitur medictatem tibi debeo . capitale tuum super me salvum erit et illud tibi restituam … usque prox[imum] fest[um] S. Michaël….
(私は貴方からソキエタスの契約において8リブラをジェノヴァのデナリウス金貨で受け取った。その契約によって、私は私の孫{または甥}を製造に従事させなければならない。…利益の中から半分を貴方に渡さなければならない。あなたの出資分については、私に関しては安全でしょうし、それを次の聖ミカエル祭までにはあなたに返します。)

 重要な違いとしては、ここではソキエタスの契約が個人の一回きりの事業として取り交わされているのではなく、ある一定の期間の継続を見込んだ業務として契約されているということが、本質的に目に付く。資本家はここではある一回の事業の危険と利益の両方に関与している。他の場合として、ここでも個々のケースにおいては、業務を執り行う者がかなりの程度資本家に従属する場合と 39)、資本家が業務を執り行う者の事業執行にただ参加するだけと解釈される場合との両方が見出される40)。

39)前注38の文献史料325番ではそうなっている。

40)注38の文献資料576番ではそうなっている。

 ジェノヴァの法規においては、陸上取引のソキエタスに関しては、言及する価値のあるものは含まれていない。海上取引への資本投下は無条件により利益が上がるものであったし、また競争において圧倒的に比較優位に立ったものだった。それに対し、陸上ソキエタスの場合は概して本質的に陸上取引とは無縁な海事法における根本原理を内陸におけるビジネスの世界に転用しているだけである。他の、歴史的に見てはるかに重要な例としては、ピアチェンツァの商業法規 41)の中に見出すことが出来る。ピアチェンツァは、(法規のc. 72、 89、 155、 131、 132、 133、 165、 560が示しているように)その自分の法律を、ピアチェンツァという都市そのものをその隣接した後背地として位置付けているジェノヴァとの主要な取引においてカスタマイズしたのである。

41) 13世紀の初めより。

合資会社の始まり。ピアチェンツァ。

 既に海上取引において、同一のトラクタトールと多数のソキウス・スタンスが組んでいる例において、-疑いもなくいっそうしばしば出現して来るようになった-自己裁量で行動するソキエタスの成立が可能になったことを確認出来る。

 しかしながら、そういった関係が成立していない場合においても、まさに明白に本来の関係に対置されるような関係の成立を規制することが不可欠だった。

 というのはその例としてジェノヴァの諸法規 42)が、ソキエタスに所属する商品でトラクタトールが送り返したものの分割、それらの現金化、そしてトラクタトールが死亡した場合について事実上の規制を行っているからである。その場合ソキウス・スタンス達が関与を余儀なくされる海上取引の航海上で遭遇する様々な状況の中から、ある一定の危険と利益の共通性が成立するという傾向があった。そしてまたこの時代に限らず中世初期に既に知られていたものとして、ロード海法における投荷の法原理を、ローマ法の当該部分の有効領域を超えて利用することが一定程度有効であったという傾向が存在していた。ピアチェンツァにおいては、そこの法規に基づけば、次のような状況が生じていた:

42)ペラの法規、c.211を参照。

43)ゴルトシュミットの”Lex Rhodia und Agermanament”(ロード海法と姉妹都市)についての引用済みの論考における詳論を参照。

イスラム教と経済倫理

ご承知の通り、ヴェーバーは宗教社会学で、プロテスタント、古代ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教まで取上げましたが、出版社の刊行予告によると、その後「タルムードのユダヤ教」、「原始キリスト教」、「東方教会のキリスト教」「イスラム教」および「西洋のキリスト教」まで研究を進める予定があったようですが、ご承知の通り1920年にヴェーバーがスペイン風邪から肺炎を併発して亡くなったことにより、この研究は実現しませんでした。
(この点に関しては折原浩先生の記述を参照しました。)
では、現在において誰かがヴェーバー的な経済倫理という視点でイスラム教を評価した研究が無いのかを調べたら、次の論考を見つけました。
小田淑子「Ⅲ イスラームにおける経済倫理」
まだ読んでいませんが、まさにヴェーバー的視点を踏まえつつイスラム教を評価したもののようです。

 

英訳者のLutz Kaelber氏からの回答

英訳の誤訳と思われる箇所について、訳者のLutz Kaelber氏から回答がありました。

1.P.74の「Genoa」の最初の行にある、”following southern French statutes”
原文では”an welches sich die südfranzösischen Statuten anlehnen “であり、これは逆ではないかと指摘しましたが、二度目の回答で私の指摘が正しく、南仏の法がジェノヴァの法規の書式を借りている、というのが正しい意味と認めました。

2.ex/X kal. Januarias
これは私の勘違いでした。私はex/Xの部分は単に”from”だと思っていたのですが、この斜線は改行を示しているものでexかXのどちらかという意味ではありません。つまりex X kal. Januarisであり、より正確にはex ante diem decimum Kalendas Januarisになり、1月1日を1日目として、遡って10日目は12月23日になります。日本語訳は修正しました。

4. Vermögensrecht der Seesocietäten. / 5. Die Landkommenda und die Kommanditen. P.181 – P.185 ドイツ語原文(13)

ドイツ語原文の13回目です。陸上のコムメンダが登場します。イタリアの場合貿易でのコムメンダがまず広まり、そしてそれが陸上での取引の場合にも適用されたようですが、元々は中東では、砂漠を旅する隊商の商取引から始まったことを考えると、むしろ本質的には陸上取引だったということになります。
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Ergebnis.

 Es wird nach alledem zugegebenenwerden müssen, daß in der That einige Anfänge dazu da waren, den Komplex von Rechten und Verbindlichkeiten, welcher durch die im Betriebe der societas geschlossenen Geschäfte gebildet wurde, nach Art eines Sondervermögens besonderen Schicksalen zu unterwerfen. Aber in der Thal nur Anfänge; namentlich ist die Stellung der Gläubiger zum Societätsfonds nicht durchgebildet; das Verhältnis ist in der Entwickelung auch in dieser Beziehung wenig weiter gelangt, als über eine Art der Konstruktion, wie sie heute für den Konkurs des Kommissionärs benutzt wird, um den Verkaufskommittenten zu schützen. Das Vorhandensein der gekauften Sachen ist die Voraussetzung.

 Die Vermögenstellung des Societätsfonds ist eine höchst fragmentarische; trotz der gedachten Modifikationen trifft hier 37) noch zu, was Lastig über die juristische Struktur dieser Societäten sagt: daß wesentlich nach außen der tractator, nach innen der socius stans der Berechtigte war – letzteres natürlich nur. sofern der stans im einzelnen Fall der Unternehmer war.

 Vollends ist klar, daß das Prinzip der solidarischen Haftung hier seine Grundlage nicht haben kann. Schärfer als dadurch, daß das Verhältnis des socius stans zu den Gläubigern des tractator in Konkursvorrechten am Vermögen des letzteren zur Erscheinung gelangt, konnte kaum zum Ausdruck gebracht werden, daß der stans selbst, mit seinem nicht in der societas steckenden Vermögen, zu den Gläubigern des tractator, auch soweit sie mit letzterem mit Bezug auf zur Societät gehörige Sachen kontrahiert hatten, nicht in Beziehung trat. Dies ist in Genua nach den Statuten von 1567 noch ebenso wie im 13. Jahrhundert.

37) Nicht mehr für Pisa.

5. Die Landkommenda und die Kommanditen.

Die Landkommenda

 Die Kommenda ist, wie wir im bisherigen sahen, ein seehandelsrechtliches Institut, sie findet sich in älterer Zeit in den Binnenstädten, soweit bekannt, gar nicht. Wo enorme Entfernungen zu überwinden waren, Verständigung der socii und Kontrolle nicht möglich war, fand sich die Kommenda am Platz. Der Landhandel, in älterer Zeit an den Verkehr von Markt zu Markt gebunden, bedurfte ihrer nicht, auch legte der äußere Gang des Landverkehrs den Gedanken der Risikoteilung nicht so nahe wie die Besonderheit des Schiffsverkehrs.

 Trotzdem findet sich in dem „societas terrae“, „compagnia di terra“ genannten Institut eine Verwertung der Grundsätze der Seesocietäten, auf welche kurz einzugehen ist.

 Für die Hingabe von Kapital gegen Gewinnanteil zum Geschäftsbetrieb auf dem Lande finden sich den Seesocietäten fast gleichartige Formulare verwendet 38).

38) Chart. II 545: I[terius] magistcr de antelamo (? arte lane?) et G[uido] mag[ister] de antelamo (arte lane?) contraxerunt societatcm in quam I|terius] l[ibras| 10 et G[uido] contulit l[ibras] 30. Ex his usque 5 annos debet facere pred[ictus] G[uido] calcionarios … et de proficuo … IVam habere debet I[terius] et 3/4 G[uido| pro fideli tamen cura … ab ipso G[uidone] adhibenda vel sol.20 de proficuo primum habere debet ante divisionem vel sol. 5 de parte ipsius I[terii] … (beiläufig ein deutlicher Beweis dafür, daß nicht die Gewinnteilung, sondern die Risikogemeinschaft die Societät ausmacht).
 325: L[anfrancus Piper] dedit in societatcm B[ernardo Porcello] lib[ras] 50 quas idem se accepisse confessus est. has idem B[ernardus] debet tenerc usque 5 annos expletos et laborare cum eis in Ianua unde cas removere non debet sine licencia ipsius L[anfranci]. De omni proficuo quod deus in eis dederit L[anfrancus] duas partes et B[ernardus] terciam habere debet … L[anfrancus] stellt die stacio zum Betriebe.
 576: Ego … accepi a te … lib[ras] 8 in societatem de quibus debeo facere laborare in confeccione nepotem meum … et de proficuo quod inde consequitur medictatem tibi debeo . capitale tuum super me salvum erit et illud tibi restituam … usque prox[imum] fest[um] S. Michaël….

 Als materielle Differenz fällt zunächst wesentlich auf, daß hier die Societät nicht auf ein individualisiertes Unternehmen abgeschlossen, sondern auf eine bestimmte zeitliche Dauer des Betriebes eingegangen wird. Der Kapitalist beteiligt sich hier an dem Risiko und Gewinn eines Gewerbebetriebes. Im übrigen kann auch hier im einzelnen Fall sowohl der Gewerbetreibende sich in großer Abhängigkeit vom Kapitalisten befinden 39), als der letztere nur als ein Partizipant an dem Gewerbebetriebe des ersteren aufzufassen sein 40).

 Die Statuten von Genua enthalten über die societas terrae nichts Erwähnenswertes. Die Kapitalanlage zur See war wohl unbedingt lukrativer und ein übermächtiger Konkurrent. Es handelt sich hier ja überhaupt wesentlich um eine Übertragung seehandelsrechtlicher Grundsätze auf Binnenlandsverhältnisse, denen sie ursprünglich fremd waren. Ein anderes, historisch weit erheblicheres Beispiel hierfür finden wir in den Statuta mercatorum 41) von Piacenza, einer Stadt, welche (wie c.72, 89, 155, 131, 132, 133, 165, 560 der Statuten zeigen) ihr eigenes Recht ganz auf den vorwiegenden Verkehr mit Genua, dessen nächstes Hinterland sie bildete, zugeschnitten hatte.

39) So in der Urkunde Nr. 325 der vorigen Note.

40) So in Nr. 576 der Note 38.

41) Aus dem Anfänge des 13. Jahrhunderts.

Anfänge der Kommandite. Piacenza.

 Schon für den Seehandel war davon die Rede, daß unter mehreren, demselben socius tractans gegenüberstehenden socii stantes – ein zweifellos immer häufiger werdendes Verhältnis – das Bestehen einer gewillkürten Societät möglich war.

 Aber auch für den Fall, daß eine solche nicht bestand, und gerade für diesen war augenscheinlich eine Regulierung ihres gegenseitigen Verhältnisses unentbehrlich.

 So regeln denn auch in der That die genuesischen Statuten 42) die Teilung von Societätssachen, welche der Kommendatar zurückschickt, die Liquidation unter ihnen, falls er stirbt: die Tendenz liegt vor, eine gewisse Gemeinsamkeit des Risikos und Gewinns aus bestimmten die Reise betreffenden Umständen, unter den stantes herbeizuführen, eine Tendenz, welche bekanntlich im früheren Mittelalter auch sonst, besonders in der Art wirksam war, wie die Grundsätze der lex Rhodia de jactu über ihren römischrechtlichen Geltungsbereich hinaus verwertet wurden 43). In Piacenza ergibt sich auf Grund der Statuten folgendes:

42) Stal[uta] Perae c. 211.

43) Cf. die Ausführungen von Goldschmidt in der cit. Abhandlung über lex Rhodia und Agermanament.

4. Vermögensrecht der Seesocietäten. P.177 – P.181 日本語訳(12)

かなり前回のアップから日数が経ってしまいまいたが、12回目です。時間がかかった理由は、19日にTOEICのS&Wを受けるのでその準備があったのと、また注釈に出てくるラテン語の訳が大変だったからです。特にラテン語金石碑文大成のラテン語は、欠損が多いものを推定で補ってあり、また全部で18万もの文があるため、さすがに英訳はほんの一部のものにしかなく今回の950のもありません。それで英訳者のLutz Kaelberもおそらく自分で訳しているのでしょうが、その内容がちょっと引っ掛かるのが多くて調べるのに時間がかかりました。日本語訳の中にも書きましたが、1月1日を何故か12月23日と解釈したり、人名でFrontinusとすべきをFrontiusとしていたりで、少なくとも注意深い翻訳者とは言えないように思いました。ここのラテン語の訳は識者のご意見を俟ちたいです。
元のドイツ語はここです。
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4. 海上取引に関係するソキエタスの財産権法上の扱い

 それではここまで歴史的及び地理的に追跡して来た《コムメンダとソキエタス・マリスという》制度が、この論考で取り扱っている問題《ローマ法のソキエタスが歴史的にどのように合名会社へと発展していくか》に対してどのような意味を持つのであろうか?

 我々がこれまでに見て来たように、これらのソキエタスのある一定のやり方の資本投下は最初からその本質的な要素であったし、その資本投下がさらにはその名称としても「ソキエタス」として表現され、あたかもそれがソキエタスの本来の代表例であったかのように扱われていたのである。それではこれらの資本投下の結果としての基金は、ソキエタスの成員の他の財産に対し、また対外的にどのような地位を占めるのであろうか?

ソキエタスの基金

ソキエタスに投下された資本は、まず何より単純に法的な客体(オブジェクト)の複合体である基金であり、その複合体すなわちソキエタスの基金は精算の目的で次のような特別の計算を必要とする。つまり、何が利益としてこの基金に組み入れられるか、そして何が損失としてこの基金から差し引かれるのかということである。というのは、複合体すなわちソキエタスの基金はリスクと特別な計算による利益の分割に関して、その土台を提供しているのである。そのためその複合体すなわちソキエタスの基金は、トラクタトールによって持ち込まれた商品や資本とは区別されなければならず、複合体=基金はある特別の勘定を形作る。そして今日の簿記が複数の勘定がそれぞれ法的な主体であり、それぞれがお互いに債権と債務を持ち合っているという具体的なイメージを用いているように、ジェノヴァの文献史料においてもまた、そこでのソキエタスで何がその収入となり、何が支払うべきものになるのかという点において、あたかもある種の法的な主体であるかのように取り扱われているのである。しかしながらそういった基金はそのことによってまた、ソキエタスの成員同士の関係においてのみ、ある種の特別財産の地位を獲得したのであろうか?今日の簿記上の勘定がそうであるような、同時に第三者に対しても特別財産の地位を獲得することがまだ起きていないのは確からしいことである。コムメンダとソキエタス・マリスという二つの関係は、それら自体が完全なものであり、ローマ法による根拠付けによって成立が可能になっているであるが、これらに関する文献史料は我々がローマ法のソキエタスとして知っているものをまさにその記述の中で思い起こさせるのである 32)。ソキエタスの成員同士の関係の全体像は、ソキエタスの成員同士の間での相互債権として法的に説明することが完全に可能である。

32)上記にて引用した(イタリア中世都市での)文献史料の記述を、以下のローマ法におけるソキエタスの文献史料、つまりルーマニアのトランシルヴァニア《ドイツ語でSiebenbürger》の歴史博物館収蔵の《ヴェーバーがこの論考を書いていた時、既に当該史料はベルリンの博物館に移送されている。今日でも同じ。》紀元167年のトリプチカ《木板の表面に蝋を塗って先の尖った鉄筆類で文字を書けるようにしたのが蝋板本だが、トリプチカはその板を3つ重ねてつなぎ合わせたもの。しかしここで言及されているラテン語金石碑文大成の950は2枚しか無い。》(Corpus Inscriptionum Latinarum《ラテン語金石碑文大成。CILと略記する。1847年にテオドール・モムゼンが主宰した解読のための委員会が発足し、2020年1月現在全17巻が刊行され、18万種類にも及ぶラテン語の金石碑文の解読結果が収録されている。》の、Voluminis Tertii Pars Posteriorの950。「Dociusの蝋板本」)と比較せよ。:
Inter Cassium Frontinum et Julium / Alexandrum societas dani(st)ariae (= 銀行業務) ex/X kal. Januarias q[uae] p[roximae] f[uerunt] Pudente e(t) Polione cos. in prid(i)e idus Apriles proximas venturas ita conve/n(i)t, ut quidq(ui)d in ea societati arre/natum fuerit lucrum damnumve acciderit/ aequis portionibus s(uscip)ere debebunt./ In qua societate intuli(t Juli)us Alexander nume/ratos sive in fructo X (qu)ingentos, et Secundus Cassi Palumbi servus a(ctor) intulit X ducentos/sexaginta septem ‘pr … tiu … ssum Alburno … d(ebe)bit)./ In qua societ(ate) siquis d(olo ma)lo fraudem fec(isse de/)prehensus fue(rit) in a(sse) uno X unum …/(denarium) unum X XX … alio inferre deb(ebit)/et tempore perac(t)o de(ducto) aere alieno sive/ summam s(upra) s(criptam) s(ibi recipere sive), si quod superfucrit,/dividere d(ebebunt) pp.
(Cassius Frontinus《英訳はFrontiusとしているが誤りと思われる。》とJulius Alexanderの間で、銀行取引に関するソキエタスの契約を締結した。その有効日は紀元165年の1月1日の10日前《紀元164年の12月23日。kal.(月の初日)の何日前、という時は実際の日数差に2日を足す。》から翌年の4月13日の1日前《紀元166年4月12日。ローマでは月中の日はいくつかの起点の日の何日前という風に表現された。》までであり、L. Arrius PudensとL. Fufidius Pollioが執政官(コンスル)であった年である。《ローマの執政官は任期は1月1日から1年間であり、ある年を言う場合は誰それが執政官であった年、と表現される。》その契約の中で次のことを合意した。すなわち、そのソキエタスにおいて、「相互が供託した資金において」《arrenatumという語のBrunsの解釈による》どちらのソキエタスの成員も、将来における利益または損害に対しては、その持ち分に応じて分担する義務を負う。そのソキエタスにおいて、Julius Alexanderは500デナリウスを現金で、かつ利益を得ることを目的として(?)支払い、Cassius Palmbusの代理人である奴隷のSecundusは《ローマでは奴隷が主人に代わって利殖を行うのが通常だった。》前もって267デナリウスを支払い、Alburoはそれについて債務を負うことになる。このソキエタスにおいて、その成員の誰かがソキエタスの資産について虚偽の手段を用いて詐欺を行ったことが明らかになった場合は、罰金として(だまし取ったお金)1デナリウスに対して20《ヴェーバーのテキストではXXの上に横線があり、これは1000倍を意味するので20,000になるが、数字が大きすぎるし、インターネット上で確認出来るこの部分の原典では横線は付いていない。Kaelberの英訳ではその左の解読出来ない文字も含めて30としている。》デナリウスをソキエタスの他の成員に支払わなければならない。そしてソキエタスの契約が終了した時には、負債を差し引いた上で、元々のそれぞれの拠出額を回復させなければならない。そしてもし剰余金が存在する場合は、それは成員間で分けられなければならない。)
”arrenatum”という単語は文法的に意味がはっきりしない。モムゼンは、Georgius Bruns《詳細不明だが、おそらくこの950についての注釈を作成した学者。》の”Fontes iuris romani antiqui in usum prae lectionem”の第5版のp.269に準拠し、ここの意味を”sub arrha mutuo datum”(誓約された相互の供託金?)としている。《この部分については全集版の注90を参照。モムゼンがBrunsの脚注を見落として間違った解釈をし、ヴェーバーがそれをそのまま引用した可能性が指摘されている。》より蓋然性の高い仮説としては、卑俗的表現である”ad-re-nasci”(そこに向かって生まれ出でる)という、ある資本投下の結果として生じてくる(”hinzu-er-wächst”)利益または損失の全てを表現しているとも考えられる。この考え方はコムメンダにおける通常の考え方にも適合するであろう。特徴的なのは-これについては後で《第4章》ピサでの金銭価値の見積り(aestimatio)についての議論の所で述べることになるが-更に現金以外の形でソキエタスに持ち込まれた有価物の価額評価がまた、中世の、特にピサにおけるソキエタス・マリスの本質的な目印であるということである。入手しうる文献史料は全て、海上取引に関する諸ソキエタスが、ローマ法の中の市民法によって根拠付けられていることの、蓋然性の証明の役目をここでも果たしているのである。

固有財産形成への萌芽

 ジェノヴァの法についてのこれらの原理的な立脚点は、しかしながらまだ完全に確立されたものとは言えなかった。そこには後代での大きな発展の始まりとなるような萌芽のみが見出される。そういった発展の始まりは特に次の事において見出される。つまり法の規定がソキウス・スタンスに対して、ソキエタスの所有物について、即ちソキエタスの中に持ち込まれ、ソキエタスの資金によって購われた物についての、-そういう言い方が出来るとするならば-「返済からの分離」(別除)への権利(別除権《破産の際に優先的に弁済を受ける権利》)を付与する場合である 33)。

33)同じ内容の規定がジェノヴァの法規の様々な版の中に見出される:
Pietro Datta《Regia deputatione di storia patria(1833年に設立された王立のイタリアの歴史史料の蒐集・編纂を行う団体)のメンバー》の”Frammento Di Breve Genovese”《1858年》IVの de pccunia ad statutum terminum accepta(法規によって決められた期日に受領した金銭について), 及びペラの法規 I. V c. 211:
… der socius hat den Vorzug, „et praesumatur… pecuniam vel rem illam quae inventa fuerit in ejus (scil, des reisenden socius) mobili a tempore quo pecuniam illam acceperit … processisse vel comparata esse de pccunia illa vel societate aut accomendacione accepta “
(ソキエタスは資産を保有する。「そしてあらかじめ次のことが想定されている。…旅するソキエタスの成員(トラクタトール)が、その(貿易の)旅の途上にて受け取ることになるお金や物品は、その成員が(ソキウス・スタンスの)出資金を受け取った時以降…ソキエタスからかあるいはコムメンダ関係による出資金に起因して、発生したかあるいは獲得された(とみなされる)。」)
故に次のような基本原則が確立する。金額は物の(販売された)場所によって決定される、逆もまた同様。Statuta et Decreta Communis Genuae、1567年 I. IV c.43. にも同じ規定が存在する。
このことは花嫁の持参金についての”utilis rei vindicatio”(所有権に関する返還請求権)を想起させる。この持参金というものも、女性の財産に至る法的な発展が途中で止まってしまっている制度である。《花嫁の持参金はローマでは通常の慣習だった。》

そういったソキウス・スタンスへの別除権の付与によって、事実上ソキウス・スタンスの出資金に属していたり、その資金に対する収入であったり、あるいはその出資金によって購われた財産のある部分については、旅する側のソキエタスの成員(トラクタトール)の個人的債権者の(トラクタトールの)破産の際の差し押さえから免除されることになり、トラクタトールの(ソキエタスの)全体の利益の中での分け前のみが、破産の際には破産財団に組み入れられる。他方では、ソキウス・スタンスの個人債権者は資金提供型のコムメンダにおいてはどのような場合であっても直接的にはソキエタスの基金に手を付けることが出来ないということであり、それは当然の帰結として、個人債権者はトラクタトールからソキウス・スタンスの出資分と利益(の分け前)を返してもらうよう要求出来るだけである。それ故に、ソキエタスの基金については、どのような場合であっても特別の取り決めがなされる必要があった。

ソキエタスの責務

 しかしながら旅するソキエタスの成員(トラクタトール)がその業務の執行において、債務を負ったり、債権を得る場合はどう扱われるのであろうか?

 ”nomina”《物に対比される債権》は諸規定での明確な記述によれば、ソキエタスの成員(ソキウス・スタンス)の優先権と別除権に関係づけられた客体に付随している。ペラ《イタリアの都市名》の法規定によれば、ソキウス・スタンスはそれらの客体を、あたかも自分自身の所有物であるかのように 34)、直接的に訴求することが出来る

 ソキエタスの業務の執行の中で契約された債務については、それ自身が当然のこととして-そこには何らの疑いもないが-単純にトラクタトールの債務である。文献史料を見ても、ソキウス・スタンスがまたその債務によって拘束されるということについては、どこにもそのように読み取れる箇所は無い。しかしながら、もしかしたらソキエタスの勘定についてトラクタトールに信用を供与している債権者は、ソキエタスの基金に何らかの関係を持つのであろうか?それについても文献史料の中には何らの明示的な規定も見出せない。ともかくここで注意しておくべきおことは、ソキエタスの成員の破産の際のソキエタスの仮想的な所有物に対する無条件の優先権を定めている規定を収録している法規は、同時にそれに対する制限も明示的に付け加えていることである:
”nisi sit res illa, de qua venditor nondum sit pretium consecutus”(もしまだ売りに出されておらず従って価格未定の物件が存在しない場合においては)(ペラの法規定、前述、C.211、1567年のC43)。また14世紀のアルベンガ《イタリア共和国リグーリア州サヴォーナ県の都市》の法規もジェノヴァの法規の影響を受けて、特別に明瞭に、破産の場合に売主に対し”rei vindicatio utilis”(自分の所有物に対する返還請求権)を定めている。

 トラクタトールは本質においてソキエタスのために購買や販売という業務を執り行うため、ソキエタスに対する主要な債権者は、ソキエタスの成員よりも強い優先権によって、ソキエタスの成員に対する自己の権利が保護されるのである。

34)前述の通り、”possil petere totum debitum de quanto sibi contigerit per quantitatem sue societalis vel accomendacionis”(その者は全ての債務を、その債務がその者のソキエタスまたはコムメンダ関係の範囲内で課されている限度内で認めることが出来る。)この規定は多数のコムメンダ契約が一人の同一の被委任者と締結されている場合についてのものであろう。ペラの規定の216も同様の意味を持っていると思われる。
 こうした法的な取扱いからは、被委任者(トラクタトール)の破産において委任者(ソキウス・スタンス)の勘定から返済を受けようとする請求の仕方を思い起こさせるが、こうした請求についてはドイツ帝国破産法の第38条の別除権によって保護されるのである。最終章(第6章)を参照。そこでは後代におけるコムメンダから委託業務への移行について言及される。

35)ピサの場合については、前述の通りここでは取り扱わない。

36)アルベンガの法規:”et tunc presumam et habebo pecuniam et rem illam in ejus bonis … processisse et comparatam esse de pecunia illa vel societatis vel accomendacionis excepta re illa, de qua venditor nondum sit pretium consecutus. in qua venditor habeat vendicationem rei venditac donec sibi de pretio fuerit satisfactum.”(そしてそれから私は以下のことを当然のことと想定する。つまり私が資金及び彼の所有物の中のある物を入手するようになるだろうということと…ソキエタスまたはコムメンダ関係によって投入された金銭について{購買対象として}現れ購われたその物について、売り手がまだ売価を入手していない商品を除いて、それらの売りに出されている商品に対しては、売り手は満足する価格を入手するまでは、その商品に対する所有権を保持し続ける。)

複式簿記もイスラム圏起源?

コムメンダがイスラム圏起源ではないかという説を紹介しましたが、いわゆる複式簿記は、こうしたコムメンダやソキエタス・マリスにおいて、その時々の貿易事業の精算を行う目的でイタリアにて発明されたという説が一般的です。(複数の出資者{一方はトラクタトールで航海を自分で行っている}による貿易の成果を借方と貸方という形で対照することにより、利益の分配を公平にしようとしたのが最初の契機のようです。)しかし、コムメンダがイスラム圏起源なら、複式簿記もそうではないか、という仮説は当然考えられる所です。
この点で、きちんとした根拠を示すことなく、「複式簿記の起源は諸説あるが、ローマ説、12世紀頃のアッバース朝のイスラム商人説がある。その後、複式簿記の仕組みはヴェネツィアやジェノヴァの商人を経てヨーロッパにもたらされた。」としているのが日本語のWikipediaです。そこで根拠として示されているのは宮崎正勝の「知っておきたい「お金(マネー)」の世界史」、角川学芸出版、2009年だけです。しかしこの本を入手してチェックすると、「簿記」についてはイスラム圏からイタリアに伝わったとありますが、「複式簿記」が伝わったとはどこにも書いていません。(その辺りの書き方が紛らわしいのは事実ですが。)言うまでもなく、「簿記」(単式簿記)と「複式簿記」ではまったく意味が違います、単式簿記は世界各地で行われていました。単式から複式に飛躍するには大きな発想の転換が必要です。
この「知っておきたい「お金(マネー)」の世界史」はタイトルからも明らかなように学術書ではなく一般向けの啓蒙書ですが、他に「最近よく使われる「リスク(予測できない危険)」の語源が海図のない航海を意味するアラビア語にあることでもわかるように」とも書いています。しかしOEDをチェックした限りでは、定説となっているriskの語源はラテン語→フランス語→英語のルートです。確かに”It has also been argued that post-classical Latin resicum , risicum , etc. is derived < the specific senses ‘fortune, luck, destiny, chance’ of Arabic rizq “という「説がある(been argued)」とは紹介されていますが、そこで示されている意味は「予測できない危険」でもなく「海図のない航海」でもなく、「幸運、運命、チャンス」としており、まったく意味が違います。この本の参考文献リストでのイスラム圏に関する本は著者本人の本だけであるため、まったく論拠にはなりません。(このように信用出来るかどうかも分からない本についても、ともかく何かの出版された本に書いてあれば根拠として採用してOK、というのが日本語Wikipediaのきわめておかしな記事作成ルールになっています。この手の馬鹿げたルールを振りかざすWikipedia自警団というのが跋扈しているため、私は半年ほど前にWikipediaの記事を編集するのを止めました。)
簿記研究者の片岡泰彦氏は、複式簿記の起源について「古代ローマ説」と「イタリア説」を並記して紹介しています
英語版Wikipediaは、複式簿記の起源について、”Double-entry bookkeeping was firstly pioneered by the Romans and in the Jewish community of the early-medieval Middle East.”としており、古代ローマと、中世初期における中東の「ユダヤ人コミュニティ」を挙げています。しかしこれもL. M. Parkerという人の仮説に過ぎず、仮にユダヤ人コミュニティで複式簿記の萌芽があったとしても、それがイタリアでの複式簿記の採用にどう影響したのかというのは現時点でも不明のようです。(ここを参照。)

p.s. 
橋本寿哉氏の「中世イタリア複式簿記生成史」(2009年3月出版、白桃書房)のP.52に以下の文章があります。
「これまでにも、複式簿記はアラブ・イスラム世界の強い影響によって生成したとする指摘がたびたびなされてきた。(中略)複式簿記という計算機構そのものの生成に当たって、アラブ・イスラム世界からの具体的な影響があったことを証拠付けるものは存在していない。」
これがまっとうな学問の分野では普通の考え方と思います。呉々もWikipediaの記述を信用しないでください。

P.178 注32のラテン語の原文(CIL: Corpus Inscriptionum Latinarum)

P.178の原注32(ドイツ語原文(11)中)に出て来る”Corpus Inscript. Lat. III 950″のオリジナルを探したら、こういうものでした。(画像はクリックで原サイズになります。)古典期のローマ法関係の、木板または石板の上に書かれたものをモムゼンが解読したもののようです。Xが何を意味しているのか分からなかったのですが、おそらく解読できなかった部分をこの記号にしているのかな、と思います。
入手元はここです。