「中世合名・合資会社成立史」の日本語訳のPDF版を公開します。
まだ校正が十分ではありませんが、取り敢えず訳者注を本文から分離して脚注にしました。また人名をカタカナ表記に変更しました。
追記:2020年9月9日(校正0006版)→書式(フォントサイズ、イタリック下線部分の下線追加など)を一応終了しました。
追記:2020年9月10日(校正0012版)目次が全集版のページ数だけになっていたのを、この日本語訳でのページ数を()で追加しました。
追記:最新の校正版はここです。
日本マックス・ヴェーバー研究ポータル Max Weber study in Japan portal
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まだ校正が十分ではありませんが、取り敢えず訳者注を本文から分離して脚注にしました。また人名をカタカナ表記に変更しました。
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追記:2020年9月10日(校正0012版)目次が全集版のページ数だけになっていたのを、この日本語訳でのページ数を()で追加しました。
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ついに最後の日本語訳です!
それはいいのですが、最後の結論の所、信じられないくらい回りくどく何を言っているかを理解するのが非常に難しいです。普通は結論というと述べて来たことをまとめて、更に今後の課題を書いたりするものですが、ヴェーバーは私の印象では自分が書いた論文でゲルマニステンとロマニステンの間での不毛な論争になるのを極力避けようとしている、そんな感じを受けました。大体この論文自体が両方にいい顔をしようとしている、コウモリ的な性格を持っているように感じました。まあ、この論文についての感想はまた別の機会に行います。今後は校正に入ります。
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古い時代の一方向的なコムメンダは次の章にて扱われている。そしてその最後の部分から明らかに分ることは、そういったコムメンダは手数料ベースの委託販売になったということである。それ故に古い時代の統一された法的制度であったコムメンダは、次の二つの方向へと分かれて発展した:一方ではソキエタス・マリスを経由して合資会社に、もう一方は手数料ベースの委託販売へと 40)。
40)Lepa《第2章の注12の訳注参照》の商法雑誌の第26巻のP.438以下の記述と比較せよ。ただ私の印象では、Lepaは手数料ベースの委託販売の利用が始まったのが更にもっと古い時代と考えているように思える。古い時代のトラクタートル(Kommendatar)については手数料ベースの委託販売人とは見なすことは出来ない。トラクタートルは、先に見て来たように、委任する側(ソキウス・スタンス、Kommendanten)の非独立の器官であるか、またはそれより後の位置付けでは、自身が企業家であり、委任する側の資本を自分自身の業務においての投資としてだけ利用したのである。(コムメンダにおいてトラクタートルが取る)1/4の利益配分を手数料として理解することはまず無理であり、いずれの場合でも第2章の説明を通じて確からしく思われることは、こうした見解は当時の人々の理解とも合致していないということである。Lepaは手数料ベースの委託販売人もまたソキエタスの成員として考えていた。そしてソキエタスの業務を海外との取引きに限定していなかった。コムメンダから手数料による委託販売が分かれるのはもっと後の時代であるが、ここではそれについて立ち入るべきではない。しかしながらコムメンダと委託販売の対立ははっきりしたものでは全く無かった。
それというのも、第12章の該当する部分において、我々が仮定しているように、古い時代においてのコムメンダの場合に存在していた萌芽が発展して形作られてたゲゼルシャフトの特別財産が合名会社と合資会社において同じように利用されており、そのためここにおいては次のことが明らかになったように思える。それは前述の箇所で可能であると主張したように、コムメンダ関係における特別財産の形成が、合名会社におけるゲゼルシャフトの特別財産の発展と形成の仕方を同様に採用することで行われたということである。――ジェノヴァの法規の1598/99年版についてここでさらに詳しく述べる。まずそれは合資会社と合名会社の対立について特別に明確なやり方で並置して扱っており、それからその法規については法学の影響が明らかであるので、そこにおいては普通法の応用としての合名会社についての規定が、それが先の場所で説明されていたように、明らかに採用されているのである。その他の点については、この研究は後は次のことを確認すれば、終着点に到達したと言えるであろう。それはここで扱って来た諸制度について地方の諸法規において次の点にまで追いかけたかということである。その点とは、まずは科学の土台の上で国際的な法形成の発展が起こり、そしてその法形成が地方の諸法規の成果を取り入れ自らの手柄としたという点である。そしてその後、このような国際的な発展の成果がそれ自身として、今度は近代的なより広範囲の地域においての立法につながる端緒をどのように見出したかということは、もはやこの論文で扱う範囲を超えている。
結論。得られた成果の法教義学的利用の可能性。
これまで行って来た考察の成果の法教義学的かつ法実務的な意義を問われた場合には、まず次のことが確認されなければならない。それはこのような考察についてそのような意義をある程度はっきりした形で切り出すことは出来ないということである。このことはもしかすると次の場合にはまた違った対応になるであろう。つまり、もしこの考察から次の問いへの答えが得られるとしたら、その問いについてはここでは提示されるだけで今すぐ答えを出すべき筋合いのものではないが、その問いとは合手制度とこの考察で合名会社の発生の基礎としてつきとめられた諸制度との関係はどうなっているのか、ということである。この問いは提示自体はされなければならない。何故ならば、周知のように、顕著な特徴から 41)合手制度は合名会社が成立する上での基礎として扱われるし、その場合さらに、つまり問いは事実においてはまず次のように言い換えられねばならないとされるからである: 合名会社は歴史的かつ法教義学的に合手関係なのか、あるいは何か別のものなのか?それからさらに問われるかもしれない、(もしそうだとしたら)それは一体何なのか?この問いについてはここでは種々の理由から答えを保留とせねばならない。まずは、この問いは何よりも用語論的なものであり、そこでは合手の概念を債務関係に適用する場合には、周知のように全くの所ただ契約する者の communi manu (共通の手=合手)だけに限定されていない。《ドイツ民法では合手の概念は組合、夫婦財産共同性、共同相続関係などの「共有」の場合において使われている。》――このドイツ法におけるある制度に関しての用語法の問題をローマ法の領域に持ち込んで結着を付けることは出来ない。同じ制度がしかし次の場合では問題無く扱うことが出来、今の問いに対しては満足な答えが与えられるであろう。それは更に新たに抽出される問いとしてであり、つまりここにおいて法制史上の合名会社の先祖というものを、イタリアのおいて見出し得ていた色々な制度について、その概念の中に当てはめて見て問題が無いかという問いである。この最後の問いは完全にゲルマン法上の問題であり、そしてもし我々が次のことについての研究の工程の中で、つまり我々が追究した法的制度の発展についてゲルマン法の考え方がその程度まで影響力を持っていたのか、それともまた何か別の起源を受け入れるべきなのかという研究の過程において、決して些末ではない何かの手がかりを得ていたとしたら、そうだとしたら次のことは是認されないであろう。それは純粋にドイツ法の土台の上において、何か(合名会社に)平行して発展したものが無かったかどうかという確認を行うこと無しに、ここでの問いに対して何か確固たる判断を行うことである。どの程度までドイツ法が関与していたかを確認していない場合はしかしながら、ここで扱っている諸制度のドイツ法の合手の考え方との関係についての論述は暗中模索の状態に陥ってしまうであろう。というのもこのドイツ法の関与の程度という問題は対象としている法制度の法教義学的な詳細な議論に入った瞬間に、直ちに燃え上がってしまうであろう。そのためそういった詳細な議論はドイツ法の領域に属する同種の制度についての調査と分析を行うまでは差し控えることになる。――そのような同種の制度が存在していることは、第3章の注14aで引用したザクセンシュピーゲルの箇所が示している。こうした調査と分析はしかしながら、また別の観察として留保しなければならない。
41)ギールケ、ゾーム、そして何よりもKuntzeの商法雑誌の第6巻収録の論文を参照せよ。
その研究を留保する代わりに、別の方向においての成果を確認することが出来るかもしれない。(この論文で行った)歴史的な観察により、合名会社と合資会社については二つの別のものとするのではなく、原則的には同じ土台の上に構築されたものであり、単に会社形態の分類において別のものと扱うことが出来ると言える。特別財産は二つの制度に共通しており、しかしその発展の仕方については二つは全く異なった出発点から始まってそれぞれの状態に至っているのであり、そして更に述べれば財産処分能力を持っているということは、ただこの二つの形態にのみ備わっているのではなく、確かに非常に本質的な特徴ではあっても決してまず第一に他からの判別に使われるべきような特徴ではない。財産処分能力はただゲゼルシャフト(会社)形成の基礎の法学的な性質として見られるものであり、それはこの二つの形態でそれぞれ根本的に異なっているのである。合資会社は合名会社と比べた場合、その発展の経過はまったく異なっていた。合資会社の有限責任社員においてのいわゆる「責任」は合名会社の(無限責任社員の)それと並置することはまったく出来ず、合名会社のそれの緩和と制限として理解される。というのみ歴史的な発展に従って考察する限り、「有限責任社員の(無限)責任」について語ることは全くもって正当化され得ない 42)。
42)Endemann《下線は訳者が追加》のハンドブック第1巻中のラスティヒの論文とも比較せよ。
有限責任社員は「責任を負う」のではなく、その資本を用いて利益及び損失(の機会に)参加するのであり――それこそがイタリアの文献史料においての理解であるが――その利益と損失はその有限責任社員にとっては他人の行った業務の結果であり、それ故にその者が投資した資金は(会社が)第三者への支払いを済ませた後で(deduct aere alieno)のみ返還請求出来るのであり、更に会社の債務の返済の原資として使われてしまう性質のものであった。合名会社はソキエタスの成員の総体としての財産権上の人格性を保持しているが、有限責任社員の(全体としての)財産権的な人格性というものは、合資会社におていは認められていなかった。合資会社の信用の基礎は合名会社のそれとは根本的に異なっていた。合名会社を総体としての人格性を持ったゲマインシャフトと表現する一方で、合資会社は(有限責任社員)の参加の関係として構成することが出来る。
ドイツ語原文の第46回目です。ついに最後まで到達しました。
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Die alte einseitige Kommenda ist im folgenden Kapitel behandelt und es ist aus den am Schlusse gegebenen Definitionen ersichtlich, daß sie zum Kommissionsgeschäft geworden ist. Es hat sich also das alte einheitliche Rechtsinstitut der Kommenda nach zwei Richtungen entwickelt: nach der einen Seite durch die societas maris hindurch zur Kommandite, nach der anderen zum Kommissionsgeschäft 40).
40) Vergl. Lepa in der Zeitschr. f. Handelsr. Bd. 26 S.438f. Nur datiert Lepa, wie mir scheint, die Ausmünzung des Kommissionsgeschäftes als solchen wohl zu weit zurück. Den alten Kommendatar kann man nicht als Kommissionär bezeichnen. Er ist, wie früher gezeigt, entweder unselbständiges Organ des Kommendanten, oder, in seiner späteren Stellung selbst Unternehmer, welcher nur das Kapital des Kommendanten in seinem Geschäft als Einlage vernutzt. Die quarta proficui als Provision zu fassen, ist doch wohl nicht angängig, jedenfalls, wie mir durch die Darstellung in Kap. II dargetan erscheint, nicht der Auffassung der Zeitgenossen entsprechend. Diese faßte ihn als socius; er schloß die Geschäfte nicht ausschließlich für fremde Rechnung. Die Loslösung des Kommissionsgeschäfts liegt später, doch ist hier nicht der Ort darauf einzugehen. Scharf ist der Gegensatz allerdings nicht.
Da nun in cap. 12 l. c. die, wie wir annehmen, aus den alten, bei der Kommenda vorhanden gewesenen Ansätzen entwickelte Konstruktion des gesellschaftlichen Sondervermögens für offene und Kommanditgesellschaft gleichmäßig verwertet wird, so erscheint hiermit wahrscheinlich gemacht, daß, wie oben als möglich hingestellt wurde, die Sondervermögensbildung bei den Kommendaverhältnissen von Einfluß auf die Art der Entwicklung und Konstruktion des Gesellschaftsvermögens bei der offenen Handelsgesellschaft gewesen ist. — Die Statuten von Genua von 1588/9 sind hier noch erörtert worden, einmal, weil sie den Gegensatz der Kommandite und der offenen Gesellschaft in besonders klarer Nebeneinanderstellung enthalten, dann, weil an ihnen der Einfluß der Jurisprudenz ersichtlich ist, indem die Bestimmungen über die offene Gesellschaft der gemeinrechtlichen Praxis, wie sie vorstehend geschildert wurde, offenbar entnommen sind. Im übrigen war diese Untersuchung an ihrem Ende angelangt, nachdem wir die behandelten Institute in den Lokalstatuten bis zu dem Punkte verfolgt hatten, wo, zunächst auf dem Boden der Wissenschaft, die internationale Entwicklung einsetzt und den lokalen Gewohnheitsrechten die Rechtsbildung aus der Hand nimmt. Wie dann das Produkt dieser internationalen Entwicklung seinerseits wieder Eingang in die moderne Territoriallegislation gefunden hat, gehört nicht mehr hierher.
Schluß. Möglichkeit dogmatischer Verwertung der gewonnenen Ergebnisse.
Fragt man nun nach der dogmatischen und praktischen Bedeutung der Ergebnisse vorstehender Untersuchungen, so muß konstatiert werden, daß eine solche ihnen in ihrer Vereinzelung nicht in irgend beträchtlichem Maße zukommt. Dies wäre vielleicht anders, wenn aus denselben die Antwort auf eine Frage hervorginge, welche hier nur aufgeworfen, nicht beantwortet werden soll, nämlich die nach dem Verhältnis des Instituts der gesamten Hand zu den als Grundlagen der offenen Handelsgesellschaft ermittelten Instituten. Aufgeworfen muß diese Frage werden, weil, wie bekannt, von hervorragenden Seiten 41) die gesamte Hand als Grundlage der offenen Handelsgesellschaft vertreten worden ist, und zwar so entschieden, daß die Frage in der Tat zunächst so gestellt werden müßte: Ist die offene Handelsgesellschaft historisch und dogmatisch Gesamthandsverhältnis oder etwas anderes? und alsdann erst eventuell: was? Unbeantwortet muß die Frage hier aus verschiedenen Gründen bleiben. Einmal, weil sie zunächst eine terminologische ist, indem der Begriff der gesamten Hand in seiner Anwendung auf Schuldverhältnisse bekanntlich keineswegs allseitig auf das Kontrahieren communi manu beschränkt wird; — diese Frage der Terminologie hinsichtlich eines deutschrechtlichen Instituts kann aber nicht auf dem Boden des romanischen Rechtsgebiets ausgefochten werden.
41) Gierke, Sohm und zuerst Kuntze in der Zeitschr. f. Handelsr. Bd. 6.
Dasselbe gilt aber, mag die Antwort auf jene Frage ausfallen wie sie will, für die weiter entstehende, ob die hier als rechtshistorische Vorfahren der offenen Handelsgesellschaft in Italien angesehenen Institute unter jenen Begriff fallen. Der letztere ist ein rein germanischer und, wenn wir auch im Laufe der Untersuchung darüber, wie weit germanische Rechtsgedanken für die von uns verfolgte Entwicklung bestimmend waren oder eine anderweite Provenienz anzunehmen ist, nicht unerhebliche Anhaltspunkte gewonnen haben, so wäre es doch ungerechtfertigt, ohne Feststellung dessen, was auf dem Boden des reinen deutschen Rechts an Parallelen vorhanden ist, darüber eine definitive Entscheidung treffen zu wollen; ohne Feststellung aber, wie weit das deutsche Recht beteiligt ist, geht eine Erörterung über das Verhältnis der hier behandelten Institute zu den deutschen Rechtsgedanken der gesamten Hand im Dunkeln. Und da diese Frage bei Eintritt in eine dogmatische Erörterung des Instituts sofort brennend wird, so muß eben eine solche suspendiert werden bis zur Ermittlung und Analyse der dem deutschen Rechtsgebiet angehörigen gleichartigen Institute, — daß es solche gibt, zeigt die in Kap. III Anm. 14 zitierte Sachsenspiegelstelle. Diese Untersuchung muß aber einer gesonderten Betrachtung vorbehalten bleiben.
Nach einer anderen Richtung dürfte dagegen immerhin ein Ergebnis zu konstatieren sein. Die historische Betrachtung kann die offene Handelsgesellschaft und die Kommanditgesellschaft nicht als zwei, auf prinzipiell gleicher Grundlage ruhende, nur dem Grade nach verschiedene Gesellschaftsformen behandeln. Das Sondervermögen ist ihnen gemeinsam, aber zu dessen Ent|wicklung sind sie von gänzlich verschiedenen Ausgangspunkten aus gelangt, und ferner ist die Vermögensfähigkeit nicht eine nur diesen Gemeinschaftsformen zukommende, also zwar eine sehr wesentliche, aber nicht ihre in erster Linie charakteristische Eigenschaft. Die letztere kann nur in der juristischen Natur der Basis der Vergesellschaftung liegen und diese ist eine bei beiden grundverschiedene. Die Kommanditgesellschaft hat eine von derjenigen der offenen Handelsgesellschaft weit abliegende Vergangenheit. Die sogenannte „Haftung” des Kommanditisten kann in keiner Beziehung neben diejenige des offenen Handelsgesellschafters gestellt, als eine Abschwächung und Beschränkung der letzteren gefaßt werden. Denn dem geschichtlichen Werdegang nach ist es überhaupt nicht gerechtfertigt, von einer „Haftung des Kommanditisten” zu sprechen 42). Er „haftet” nicht, sondern er partizipiert mit seinem Kapital an Gewinn und Verlust — das ist die Auffassung der italienischen Quellen — eines fremden Geschäftsbetriebs und kann deshalb seine Einlage nur deducto aere alieno zurückverlangen bzw. muß sie zur Deckung der Schulden einzahlen. Die offene Gesellschaft ergreift die gesamte vermögensrechtliche Persönlichkeit der socii, die vermögensrechtliche Persönlichkeit der Kommanditisten bleibt von der Kommanditgesellschaft unberührt. Die Kreditbasis ist eine grundverschiedene. Während die offene Gesellschaft eine Personengemeinschaft darstellt, ist die Kommanditgesellschaft als Partizipationsverhältnis zu konstruieren.
42) Vergl. auch Lastig in Endemanns Handbuch Bd. 1.
日本語訳の第45回目です。ここはなかなかドイツ語本文がタフでした。
その反面、注39のラテン語は長いですが、割ときちんとした学識者が書いたラテン語らしく、意味を取るのにそれほどは苦労しませんでした。
ともかく後1回になりました!
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その意義においては次のような原則が採用されていた。つまり、ソキエタスの勘定に算入される業務だけがソキエタスの成員達に関係付けられるのであり、法的な構成を行う場合には、そういった業務はさらにソキエタスの全員を一つにまとめた集合体として、つまり一つの corpus (身体)として擬人化し、最終的には次のような慣習法が確立するに至った。その慣習法とはつまり、その種の業務の契約の際には、全てのソキエタスの成員の個別の勘定に関係する形で契約するのだということが特別に強調され、そしてそれ故に当該のソキエタスは外部に対しては全てのソキエタスの成員の名前を包含する集合的表現 30)としての一つの総体として、つまり本来の意味の商号(Firma)として立ち現われることとなった、――というものであり、――そしてそういう業務は今度は次のような論理的な帰結を導き出していた。つまりある業務の関係者はある集合的な名称を受け入れ、そしてその名前において契約を締結する。ある者がいて、その名前が集合的な商号の中に包含されていると見なされる者は――”cujus nomen expenditur”(その者の名前が載っている)――連帯して責任を負うソキエタスの成員とされるのである。集合的な商号の名前を使って締結された契約こそがソキエタスの契約であるとされたのである。
30)”Corpus mysticum ex pluribus nominibus conflatum”(複数の名前が融合している神秘的な体)、先に引用した Dezision der Rota Genuensis を参照せよ。
31)商号については Dietzel《Gustav Dietzel、1827~1864年、ドイツの法学者》の論文、一般法年鑑の第4巻と、本論文の第3章の注70を参照せよ。
以上のような原則についてと、それによって合名会社と合資的関係を明確に区別するということは、実際の所(法制史から)商法の領域に足を踏み入れてしまっており、それについてはここで見て来た通りである。そしてこれらの考え方が実際に行われるようになったということは、私見ではあるが、やはりまた法学の貢献の一つであり、その貢献の中で法学は同時代の既にあった法との関係において、この章の冒頭で見て来たようなこうした新しい会社形態の法的把握についてある種の制限を含めていたのである。法学はこの論文で取り扱って来た法的制度(会社)の経済的意義と歴史的な発展に対してはほとんど関与していなかったが――しかしそういった法的な把握は間違いなく存在していた――従ってこの部分についてのボローニャやパドヴァの大学で法学の予備教育に従事していた法学者《バルドゥスのことと思われる、原文は「予備教育を受けていた」であるが、バルドゥスはこの2つの大学で教えていたのであり、学生として学んではいない。》の評価については、正当なものとしては、控えめにしておくべきものであろう。――しかしながらローマ法の法的思考の新しいものを解明する能力は、法とはある意味まったく異質な領域でもまたその真価を発揮したのである。以上のようなことを明らかにすることが、先に描写して来た法学文献の概観の目的であったが、これらの文献についてほぼ完全にそう出来たかという点と、あるいは法教義の歴史的発展について全体で明らかにすることが出来たかと言う点については 32)、残念ながらまったくそうとは言えない。
32)これについてはEndemannによる研究によって、より包括的に行われている。ただバルドゥスのConsiliaの扱いは彼の研究した法教義の意義との関係においては上手く行っていない――この研究では、特にConsiliaの傍注とそれに関係した部分が無視されている。
ジェノヴァ控訴院判例集とジェノヴァの1588/9年法
発展の結着
こういった法科学《法制史の分野では、法教義学中心の伝統的な法学と、法科学は区別される》の仕事の成果としてもっとも完全な形で表に現れて来たのはジェノヴァの控訴院判例集であり、それは学識経験者による判事で占められた裁判所 33)によるものであり、その判例集はその当時疑い無く国際的な価値を認められていた。
33)Statuten v. Genua v. 1588/9 1. I c. 7によれば: constans ex tribus doctoribus exeris. (常に3人の外部から招聘された博士から成る)を参照。《exerisをexterisとして解釈。この綴りの変更は全集の注による。》
ジェノヴァにおいては、そこは合資会社の発祥の地の一つであるが、既に見て来たように、会社法の実務において焦眉の急の問題であったのは、合名会社を合資会社関係から、つまりは個人的に(無限)責任を負うソキエタスの成員(社員)を有限責任社員から区別することが不可欠だったということである。実際の所この区別は厳密に行われていたのである。特にパラヴィチーニ家とグリマルディ家《共にジェノヴァの名門28家の一つ、特にグリマルディ家はモナコの支配者として有名》の間で何百万リラという巨額の金額について争われた大規模な裁判(Decis. 14)においては、控訴院は原則的に次のことを強調する立場を取った。つまり、商人達がソキエタス関係にある場合において、Institorat(代表者)の仮定というものはまったく成立していないということを。(このことは Bartolus 34)《Bartolus de Saxoferrato、1313または1314~1357年11月より前、ペルージャ生まれの法律家でバルドゥスの先生》の主調には反しているが)しかしながらその反面次の場合については特に強調はしていなかった。つまり、契約に沿った形である一人のソキエタスの成員のみが事業の管理権を持ち、事業において彼のみが外部に対して契約者として現れる場合、つまりそれ故に契約は他のソキエタスの成員の名前を含めた形では行われず 35)、そして第三者である契約の相手方は、”nicht “fidem eorum secuti sunt”” 36)(ソキエタスの他の成員の信用を求めていなかった)、それはつまり契約する者の信用がソキエタスとしての信用を担保するものではない、そういう場合である。そのためにあるソキエタスの成員で、自分の名前にて契約が締結され、更に彼自身の判断で他のソキエタスの成員達の名前を含めた形で契約を締結する権利を持つ者、そういう成員のみが合名会社の(無限責任)社員である。ソキエタスの名前で締結された契約のみが他のソキエタスの成員、つまり”quorum nomina expenduntur”(その者達の名前が載っている)、に関係付けられ、それらの成員達は契約を締結した者の特別な事業の従事者となる 37)。ここにおいてソキエタスの成員の周知の二重人格性《ソキエタスの契約に拘束される「社員」としてとその者自身の個人としての二重性》が現れて来るのである。
34) Decisiones XII no. 67以下を参照。
35)前掲書、no. 48を参照。
36)前掲書、no. 97を参照。
37)Decisiones 7を参照。
38)前掲書を参照。
これらの新しい内容の法については、控訴院が強調したように、それは一般法から派生したものであったが、1567年の法規がまだ何もそれらを含んでいない一方で、1588/89年の法規はそれらを取り入れていたのである 39)。
39)De societatibus seu rationibus mercatorum (cap. 12 l. 2.): Socii sive participes societatis seu rationis quorum nomen in ea expenditur, teneantur in solidum pro omnibus gestis et erga omnes et singulos creditores rationis seu societatis.
(商人達のソキエタスまたは事業について(第12章、l. c.):ソキエタスの成員またはソキエタスあるいは何かの事業についての出資者で、その名前がそこにおいて記載されている者は、全ての業務と全員そして個々のソキエタスまたはその事業に対しての債権者(達)に対して連帯して責任を負う。)
Socii seu participes quorum nomen non expenditur, non intelligantur nec sint in aliquo obligati ultra participationem seu quantitatem pro qua participant et nihilominus percipere possint pro eorum rata participationis lucra et beneficia …
(ソキエタスの成員または出資者で、その名前が記載されていない者は出資者の出資金を超えた何かの債務、あるいはその者がソキエタスの共通資金の中で分担している金額を超えた債務について責任を負わないとされる。しかしそれにも関わらず、そういう者達は出資(分担)の割合に応じて(事業による)利益とその他の便益を受け取る…)
Creditores hujusmodi societatum sive rationum, sive sint sub nomine unius tantum, sive plurium … in rebus et bonis societatum seu rationum praeferantur quibuscunque aliis creditoribus sociorum singulorum, vel proprio vel quovis alio nomine, et in dictis rebus et bonis dicti creditores intelligantur et sint potiores et anteriores tempore, hypotheka et privilegio, ita ut praeferantur et praeferri debeant dotibus et aliis quibuscunque excepto eo qui rem suam vel quondam suam praetenderet.
(この種の債権者達は、ソキエタスまたは事業を、あるいは一人の者の名前によって全部のまたは複数の成員を…(債権者達は)商品と財産において、ソキエタスまたは事業に対して、ソキエタスのどの成員一人への債権者よりも優先権を持つ。出資者自身の名前によるかあるいは他の名前によっても、前述の商品と財産において、債権者は次のように見なされる。つまり抵当と特権において他の債権者よりも上位にあり、かつ時間的にも(破産の際の)先取り特権を与えられている。それ故に嫁資や他の何か別のものについても優先されるし、また優先されなければならないが、例外としてある者がその者個人の所有物としている商品と、または前からその者の所有物と見なされる商品を除く。)
De accommendis et implicitis (cap. 13 l. c.).
(委託された(コムメンダ契約で)ものと、関係者について(第13章、l. c.))
ここにおいてより古い時代のジェノヴァの法規のコムメンダに関する規定は、特に興味を惹くような変更は無く、繰り返されている。その中には債権者の先取り特権とコムメンダ契約で委託された商品についてのソキエタス成員に対しての規定も含まれている。
そこにおいては発展の成果が次のような形式で法として形作られていた:
1.何人かの人員から成るソキエタスで、そのゲマインシャフトとしての名前の下である業務を営み、そこではソキエタスの成員がソキエタスの債権者達と彼ら相互に対してのみ連帯責任を負っている形態(合名会社)。
2.何人かの人員から成るソキエタスで、ある業務をソキエタスの名前で営み、別の者は出資を通じてそのソキエタスに関与するもの。後者の責任は個人として(無限責任を)負うのではなく、その出資額を上限とした責任(有限責任)に限定される。Rota von Genua のDecis. 14、それはこの種のソキエタスについて規定している箇所であるが、それによれば次のように見える。つまり、ただ出資しただけのソキエタスの成員がまた事業の遂行のやり方についてある程度の影響力を持っていたということであるが、そうでないとしたら次の問いは成立し得ない。つまり事業を遂行するソキエタスの社員(is qui complementum dat、{ある者で何からの補完を行う者《例えば資金が不足する場合の追加の出資など》} — Decisiones Rotae Genuensis 18、 — 無限責任社員)が有限責任社員に対しての管理者(Institor)として観察することが適当かどうかという問いである。そこには次のことの名残りが見られる。つまり元々は有限責任社員こそが、無限責任社員ではなく、本来の企業家と見なすべき存在だったということである。この形態は明らかに合資会社である。
この2つの会社形態の双方において、我々がこれまで確認して来た意味でのゲゼルシャフト(会社)の財産が成立している。この法規の第12章のI.IVと古い時代の法規の編集(Statuta Perae 207)を比べてみると明らかに、前者の法規は後者の法規にある付加規定を拡張したものを含んでおり、さらに第12章の当該の部分を読むと、次のことについては全く疑問の余地が無い。つまりそこで記述されているソキエタスで連帯責任が無いものは、ソキエタス・マリスの発展したものであるということである。
ドイツ語原文の第45回目です。注39に長いラテン語があり、そこが最後のヤマかと思います。
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(前の段落から続く)
Sie hatte den Grundsatz, daß nur Geschäfte, die für Rechnung der Sozietät geschlossen wurden, die socii angehen, juristisch konstruiert, sie hatte ferner die Sozietät als eine Personengesamtheit, ein „corpus”, personifiziert und hatte endlich den Usus durchgesetzt, daß bei derartigen Kontrakten das Kontrahieren für Rechnung aller socii besonders hervorgehoben wurde, daß also die Sozietät nach außen als ein Ganzes unter einer die Namen der socii enthaltenden Kollektivbezeichnung 30), einer eigenen Firma 31), auftrat, — und sie konnten nunmehr die Konsequenz ziehen: die Absicht, eine Sozietas mit Solidarhaftung einzugehen, sei daraus zu entnehmen, daß die Betreffenden einen Kollektivnamen annehmen und unter ihm ihre Kontrakte schließen; derjenige, dessen Namen in der Kollektivfirma enthalten sei — „cujus nomen expenditur” —, sei solidarisch haftender socius; Kontrakte, welche unter der Kollektivfirma geschlossen werden, seien Sozietätskontrakte. Diese Grundsätze, und damit die Möglichkeit klarer Scheidung zwischen der offenen Gesellschaft und den Kommanditverhältnissen, sind in der Tat in das Handelsrecht übergegangen, wie wir schon oben sahen; und daß dies geschehen, ist, wie mir scheint, wesentlich auch ein Verdienst der Jurisprudenz, welches eine Einschränkung des an die Spitze des Kapitels gestellten Urteils über deren Verhältnis zum Recht ihrer Zeit involviert. Der wirtschaftlichen Bedeutung und dem historischen Werdegang der Rechtsinstitute stand sie vielfach fern — dies Urteil muß aufrecht erhalten bleiben — und man wird nach dieser Richtung an einen in den Hörsälen von Bologna und Padua vorgebildeten Juristen billigerweise nur bescheidene Ansprüche stellen dürfen, — aber die klärende Macht der römischen Rechtsgedanken bewährte sich auch hier auf fremdem Gebiet. Dies anschaulich zu machen, war der Zweck der vorstehend skizzierten Übersicht über die juristische Literatur, welche auf eine auch nur annähernde Vollständigkeit oder darauf, die dogmengeschichtliche Entwicklung im ganzen klargestellt zu haben 32), keinen Anspruch macht.
30) „Corpus mysticum ex pluribus nominibus conflatum” in der früher zitierten Dezision der Rota Genuensis.
31) Über die Firma cf. die Abh. v. Dietzel, Jahrbuch des germeinen Rechts Bd. 4 und die Anm.70 zu Kap. III.
32) Dies ist bei Endemann, Studien, umfassender geschehen. Nur die Consilia des Baldus kommen bei ihm im Verhältnis zu ihrer Bedeutung wohl zu kurz. — Im obigen ist namentlich die Glosse und was sich an sie anschließt, außer Betracht gelassen worden.
Die Dezisionen der Rota von Genua und die genuesischen Statuten v. 1588/9.
Abschluß der Entwickelung.
Das Ergebnis dieser Arbeit der Rechtswissenschaft tritt am vollständigsten in den Dezisionen der Rota von Genua zutage, eines mit gelehrten Richtern besetzten Gerichtshofes 33), welche ihrer Zeit eine zweifellos internationale Bedeutung erlangt haben. In Genua, einer der Wiegen der Kommanditen, wie wir sahen, war die brennende Frage der Praxis des Gesellschaftsrechts notwendig die Scheidung der offenen Handelsgesellschaft von den Kommanditverhältnissen, der persönlich haftenden socii von den Kommanditisten. In der Tat ist nun diese Scheidung scharf durchgeführt. Besonders in dem großen Millionenprozeß Pallavicini c/a. Grimaldi (Decis. 14) nimmt die Rota prinzipiell Stellung, betont, daß die Institoratspräsumtion keineswegs überall Platz greife, wo Kaufleute in einem Sozietätsverhältnis stehen (gegen Bartolus) 34), insbesondere dann nicht, wenn vertragsmäßig nur einer der socii die Verwaltung habe und das Geschäft so führe, daß nur er als Kontrahent nach außen auftritt, wenn also die Kontrakte nicht auf den Namen auch der anderen socii gehen 35) und die dritten Kontrahenten mithin nicht „fidem eorum secuti sunt” 36), d.h. also, wenn deren persönlicher Kredit nicht Kreditbasis der Sozietät ist. Es ist also nur der socius, auf dessen Namen kontrahiert wird und der seinerseits das Recht hat, namens der socii zu kontrahieren, offener Gesellschafter. Nur unter dem Namen der Sozietät geschlossene Kontrakte gehen die socii, quorum nomina expenduntur, an, andere sind propria negotia des Kontrahierenden 37). Die bekannte duplex persona des socius erscheint auf der Bildfläche 38).
33) Stat. v. Genua v. 1588/9 1. I c. 7: constans ex tribus doctoribus exeris.
34) Decisiones XII no. 67f.
35) Eod. no. 48.
36) Eod. no. 97.
37) Decisiones 7.
38) Eod.
Diesen Rechtszustand, welcher, wie die Rota betont, aus dem gemeinen Recht abgeleitet ist, haben dann, während die Statuten von 1567 davon noch nichts enthalten, die Statuten von 1588/89 lib. IV cap. 12 und 13 aufgenommen 39). Es ist da|selbst
das Ergebnis der Entwicklung zu folgenden Rechtsformen gestaltet:
1. Sozietät von mehreren Personen, welche unter ihrem gemeinschaftlichen Namen ein Geschäft betreiben mit Solidarhaftung der Socii gegenüber den creditores societatis und nur ihnen gegenüber (offene Handelsgesellschaft);
2. Sozietät von mehreren Personen, von welchen eine das Geschäft auf ihren Namen betreibt, die anderen mit Kapitaleinlagen an demselben beteiligt sind. Die letzteren haften nicht persönlich, sondern mit ihrer Einlage. Nach der Decis. 14 der Rota von Genua, welche eine derartige Sozietät betrifft, scheint es, daß auch die nur mit Kapital beteiligten socii einen gewissen Einfluß auf die Art der Geschäftsführung gehabt haben, sonst hätte die Frage nicht entstehen können, ob der geschäftsführende socius (is qui complementum dat, — Decisiones Rotae Genuensis 18, — der Komplementar) als ihr institor zu betrachten sei. Es liegt darin eine Reminiszenz daran, daß ursprünglich die, nicht der Komplementar, als die Unternehmer zu gelten hatten. Dies ist offenbar die Kommanditgesellschaft.
39) De societatibus seu rationibus mercatorum (cap. 12 l. 2.): Socii sive participes societatis seu rationis quorum nomen in ea expenditur, teneantur in solidum pro omnibus gestis et erga omnes et singulos creditores rationis seu societatis.
Socii seu participes quorum nomen non expenditur, non intelligantur nec sint in aliquo obligati ultra participationem seu quantitatem pro qua participant et nihilominus percipere possint pro eorum rata participationis lucra et beneficia …
Creditores hujusmodi societatum sive rationum, sive sint sub nomine unius tantum, sive plurium … in rebus et bonis societatum seu rationum praeferantur quibuscunque aliis creditoribus sociorum singulorum, vel proprio vel quovis alio nomine, et in dictis rebus et bonis dicti creditores intelligantur et sint potiores et anteriores tempore, hypotheka et privilegio, ita ut praeferantur et praeferri debeant dotibus et aliis quibuscunque excepto eo qui rem suam vel quondam suam praetenderet. //SW437//
De accommendis et implicitis (cap. 13 l. c.).
Hier werden die Bestimmungen der älteren genuesischen Statuten über die Kommenda mit hier nicht interessierenden Änderungen wiederholt, inkl. der Bestimmungen über Vorzugsrechte der Gläubiger und socii am kommendierten Gut.
Bei diesen beiden Gesellschaften gibt es ein Gesellschaftsvermögen in dem von uns festgehaltenen Sinn. Es ist bei Vergleichung von c. 12 l. IV dieser Statuten mit den alten Statutenredaktionen (Stat. Perae 207) offensichtlich, daß ersteres Kapitel eine Weiterbildung der in den letzteren enthaltenen Ansätze enthält und es unterliegt ferner bei Durchsicht des cap. 12 l. c. keinem Zweifel, daß die dort geschilderte Sozietät ohne Solidarhaftung das Entwicklungsprodukt der societas maris ist.
日本語訳の第44回目です。「連帯責任」を法的にどう扱うのかの議論が延々と続きます。
ヴェーバーはこの「連帯責任」に非常にこだわっていますが、後の歴史を見れば合名会社の複数の無限責任社員が連帯責任を持つという考え方は過渡的で、結局会社組織は無限責任社員というものを排除する方向に進み、責任は個々の社員ではなく法人格そのものが負うということに変っており、個人的には無限責任の法的解釈が安定することより、商号から法人という概念が発生する方がより重要性が高いように思います。
後45回と46回で最後の部分に到達します。
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連帯責任の実質的な根本原理との関係
今まで見てきたような(連帯責任の)純粋にロマニステン的な論理構成の試みにも関わらず、(その当時の)法学にとっては次のような観察結果を見なかったことにして済ますことは不可能だった。その観察結果とは、連帯責任というものが、それは実際の所当時一般に採用されていたのであるが、今まで述べて来たような法学的思考形式に関連付けられていたのではなく、全くもって具体的で外から見てはっきり分る諸事実に関連付けられていたということである。それ故にそういった諸事実と先に述べたような法学的思考形式を結び付ける必要性が生じていたが、しかしそれは常に成功した訳ではなかった。家計ゲマインシャフトが(合名会社の)発展の歴史における出発点であったということは、法学的な文献の中にも登場するようになっていた。duo fratres communiter viventes(一緒に生活している二人の兄弟)の主題は相当浩瀚な法学書籍の中で何度も詳しく論じられていたが、それ以外にその主題自体が単体として研究論文(モノグラフ)にて取上げられていた 20)。それが可能である限りにおいて、ローマ法の societas omnium bonorum 《全ての財産が現在及び将来に渡って共有されるソキエタス》という分類形式が使われ、実質的な根本原理である共通の家計は、上述したような委任とか Institorat といった関係の上述の意味での成立という仮定を正当化するという役割を演じていたが、そういった観察結果は現実の人間関係の本質とはほとんど適合していなかった。しかしながらそういった観察結果は他方ではそれ自身をさらに明確に形作る上で有効に働く要素を内蔵していた。法学が家計のゲマインシャフト、つまり後の stacio(店)や taberna (店、食堂)を、あるソキエタスが成立する上での契機としてのみ観察している過程において、それらのゲマインシャフトは次のようなやり方で解釈する必要があった。つまりそういったゲマインシャフトの実情を分析することによって、それが発達する主因を明らかにし、法学はその主因をソキエタスの特性として他のものから切り出して描写するという、そういうやり方である。
20)ペルージャの Petrus de Ubaldisの De duobus fratribus と、パドヴァの Franciscus de PorcellinisのDe duobus fratribus を参照せよ。
というのも法学者達が強調したのは、発達の主な原因を単に一緒に住むということに帰するのではなく、その一緒に住むことにより経営ゲマインシャフトを形成するという意図をもって行われている場合にだけそうするべきということであった。夫と一緒に住んでいる妻は、それについて Rota Florentina Dec. 65 は詳しく述べているが、それ故に夫と一緒のソキエタスの一員とは見なされない。何故ならばその夫婦の共同生活はまず第一には、共同の経営の実務を行うという意図以外の別の法的根拠に基づいているからである。同じ原則が一緒に住んでいる兄弟達にも適用出来る。その場合においても単純に一緒に住んでいる(cohabitatio)という事実は責任についての法的根拠ではなく 21)、その事実に共同の労働と共同の経営という意図が含まれていることが法的根拠なのである。法学はこの意図については、兄弟の間においてそれぞれが自分の勘定を持って精算するというやり方が存在しない場合が、その意図を裏付ける根拠と見なした 22)。以上のこと全てが連帯責任の考え方を識別する上での目印なのであり、これまで見て来たように、それらのことは観察対象とする実際の人々の生において実際に起きたことなのである。――この共同での経営の業務遂行ということがこの意図においての本質的な側面であったとしたら、この意図は外部からも判別出来るように適当なやり方で文書化されねばならなかった。
21)バルドゥスの Consilia IV 472:Cohabitatio non facit societatem. (一緒に住むだけではソキエタスの形成とは言えない。)を参照。
22)Petrus de Ubaldisの書籍のDe duobus fratribus の序文を参照。また Ansaldus de Ansaldisの Discursus legales de commercio Disc. 49 を参照。バルドゥスは Consilia V 482 にて兄弟間での societas omnium bonorum の成立を判定する標識として以下を列挙している:
1. coarctatio in una domo,(一つの家の中で密に暮していること)
2. commensalitas (vixisse communi sumptu),(生活する上で出費を共通のものとしていること)
3. lucrorum communicatio,(収入を共通のものとしていること)
4. defensio communis in litibus,(訴えられた場合は共同で対抗すること)
5. communio bonorum pro indiviso,(財産を分割しないで共有すること)
6. publica fama super societate omnium bonorum.(societate omnium bonorum の存在が公にされていること)
上記の条件(6番を除いて)のどれも、それ単体だけでは連帯責任が存在しているという仮定を産み出すには十分ではない。しかし一緒に業務に携わっているということは常に必須条件だったと考えられる。
バルドゥスは(連帯責任が発生する条件として)共通の「業務(negociatio)」23)の存在と、更にそれに関連して成員の誰もが、それが家族の一員であろうと家族以外の者であろうと、実際に業務に従事していたこと、そして「取引者(negociator)」として登場していることも必要と考えていた 24)。
23)注22の最後の部分を参照。
24)バルドゥスの Consilia V 125 (屠殺業者・肉屋のソキエタス);V172:ただ業務を行う能力がありかつ実際に業務に従事している者のみがソキエタスの成員と見なされた;I 19:ただソキエタスが成立する場合のみ経営というものは兄弟の勤労によってゲマインシャフトの中に現れる(III 30も参照);III 451:一緒に住むこと(cohabitatio)がではなく、しばしば行われる共同の行為(actus sociales frequenter facti)が(連帯責任発生のための)仮定を生じさせる。Petrus de Ubaldis l. c. III, 2を参照。
論理的な帰結としての、利益はただこの経営においての業務遂行からゲゼルシャフトの中に入って来るもののみであるという考え方は、そこから直ちに導き出されることは、他の方法による利益は”Adventizgut”(本業外収益による異質な財産)と見なされるということである 25)。
25)バルドゥスの Consilia I 120 を参照。
更にそこから進んだ論理的な帰結となるのは、それ故にソキエタスの勘定に入れられる業務をまた形式上他の業務から区別しなければならなかった、ということである。そのような形式的な標識を当時の法学は契約書の文中にそれを発見した。それは単に”nomine communi”(共通の名前で)という章句であり、――形式的にまたゲマインシャフトの勘定に入れられるという意味にもなるが――その共通の名前で執り行われた業務がソキエタスの業務として関係付けられたのである 26)。その語句においては、委任という仮定と代表者の仮定の両方がその中に取り込まれていたのである。この標識を利用することによってその当時の法学は自らを再び実践的な方の発展の基礎の上に位置付けることが出来たのであり、その法の発展は、これまで我々が見て来たように、(連帯責任の原理を採用した合名会社の成立といった)同様の結果につながったのである。この最後のことが起きたということは、もしかすると部分的には法学者達の功績であったかも知れず、彼らの作業は放棄の編纂であるのと同時にまた、本質的な部分では司法上の実践でもあったのであり、そういった実践がこのような論理的な帰結を明確にして発展させたのである。
26)Petrus de Ubaldis l. c. III, 2を参照。
国際的な発展に対しての法学研究の成果
ソキエタス会社
引き続いて今まで述べて来たようなゲマインシャフトの単なる成立を根拠とする連帯責任は、ロマニステンの教義にとっては適当なものでなかった。何故ならば全ての新しい解釈の仕方にも関わらず、それはローマ法の法形式に正しく適合する現象ではなかったからである。バルドゥスはそれまで通用していた法に対して、連帯責任を実際に存在するものとして認めていた。しかしながらそれについての個々の司法的決定を通じて、明らかに次のような傾向を持っていた。それは当該の集団における委任や代表者という意図を証明することが益々困難になっていたことによって、当該のゲマインシャフトをひとまずはソキエタスと定義するが、しかしそれに付随する不人気の(連帯責任という)制度を可能な限り制限しようとする、そういう傾向である 27)。
27)Consilia V, 125, 402を参照せよ。
カルパノは自身のミラノの法規についての注解書の中で、次のことについて強い疑いを抱いていた。それは1498年の法規の第415章が、ある父親の息子に対する債権者のための父親の息子への相続財産分与義務に関しての規定であるが、それが神意に背いて人間が作った法であるのか(contra divina et humana jura sei)ないのか、という疑いである 28)。そしてカルパノはそのことにより、証拠の重視ということを正当化しようと試みるのであるが、それを彼は望ましいことと考えていた。
28)注釈aaa:というのは次のことは不自然と考える。ある者が自分がまだ生存中に息子に対して遺産相続を行わなければならない、ということは。
1502年の法規の第481章の、相互に別れないで一緒に住んでいる兄弟に関しての箇所について、カルパノは次のように注意している。つまりそのような(連帯責任を持った)ゲマインシャフトについては十分に注意を払う必要があると、それはあたかも「丁度火に対してそうするように 29)」、というのもそうしたゲマインシャフトは全ての関与者を場合によっては破滅に導くこともあるだろうから、としている。
29)注釈b:このようなソキエタスやコミュニティからは身を遠ざけるべきである、丁度火から身を遠ざけるべきであるように。
いずれの場合においても、このような法学的な把握は次のことに対して強力に影響を及ぼした。つまり(相互に)責任を持つソキエタスの成員達とそういう内容のソキエタス契約の特性が、そういう性格を示すものとして契約の中で使われた名前への参照と言及によって確認されるということと、こうした名前による識別、つまり「ソキエタスの名前で」(nomine societatis)契約するということが、個人の債務からソキエタスの債務を区別する上での最も確実な標識になったということである。そのことはある時間の間継続的な意義を持っていた。というのも責任についての古くからの基礎:つまり共通の家計、共通の店(stacio)、工房(bottega)、店・食堂(taberna)が国際的な取引きにおいて、その存在意義を失った際に、いまや別の標識がソキエタスに何かの責任を負わせる契約と、その契約によって責任を負うことになる個人にとっての必要物になったのであり、それによって法学における予備的な仕事は実際的な意義を勝ち取ったのである。
Zur Geschichte der Handelsgesellschaften im Mittelalterの日本語訳のタイトルについて、これまで「中世合名会社史」として来ましたが、日本語訳も終盤にさしかかり、色々検討した上で最終的な邦訳のタイトルを「中世合名・合資会社成立史」にします。以下がその理由です。
1.「中世商事会社史」の「商事会社」という表現は、他の所で書いたように現在の日本の法律で「商事会社」と「民事会社」という区別がもはや存在せず、またその区別がされていた時代にも実質的な区別の意味はなかったということを考えると適当ではないと考えます。
2.「商事会社」は一般には「商社」と解釈される場合もありますが、ヴェーバーの論文はもちろん商社だけを扱ったものではありません。
3,ヴェーバーがこの論文で扱っているHandelsgesellschaftは合名会社と合資会社のみで、今日一般的な有限合資会社(GmbH)や株式会社(AG)については何の言及もありません。これには理由があり、「商事会社」は人的商事会社(ヒトが支配する会社)と資本的商事会社(カネが支配する会社)に分けられます。この論文では人的商事会社のみを扱っています。いわゆる株式会社については、19世紀になって外からドイツ(プロイセン)に入って来たものであり、ドイツの中で合名会社や合資会社から発達したものではありません。有限合資会社は元々は有限会社であり小規模な株式会社と考えることが出来ます。それが有限合資会社に変ったのは、税制上で有限会社(社長一名だけの会社も多かった)に対して、法人への課税と社員の給与に対する課税で二重に課税されたということが起き、それに対抗するために20世紀初頭に考え出されたものが有限合資会社で、合資会社の無限責任社員が有限会社である(=つまり結局は有限責任であり、無限責任を負う社員は存在しない)というものになります。ちなみに、株式会社と有限合資会社については、その後商法からは取り除かれ、それだけを規定する専用の法律が作られています。
おそらくは大塚久雄の「株式会社発生史論」で言及されていることから来るものと思われますが、よくこのヴェーバーの論文を「株式会社の起源を探った」という風に解釈されている場合があります。これは完全な誤解であり、この論文はローマ法のソキエタスから、連帯責任と固有財産や商号を備えた合名会社がどのように生まれて来たかについての考察がメインであり、それとの対比で合資会社についての考察も付け加えられているものです。当初の博士号論文(第3章)では合名会社のみだったので、タイトルも「イタリアの諸都市における合名会社の連帯責任原則と特別財産の家計ゲマインシャフト及び家業ゲマインシャフトからの発展」となっていますが、その後の他の章の追加の際に合資会社の考察も付け加えられたので、ヴェーバーは合名会社と合資会社の両方に当てはまる表現として「商事会社」を使いましたが(論文の序論を参照)、ここに書いた理由でその呼称は不適当と考えより具体的に説明する「中世合名・合資会社成立史」としたいと思います。
参考:山田晟著 「ドイツ法概論 III 商法・労働法・経済法・無体財産権 第3版」、有斐閣、1989年
ドイツ語原文の第44回目です。これを入れて後3回となりました。
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Verhältnis zu den wirklichen Grundlagen der Solidarhaftung.
Trotz dieser Versuche einer rein romanistischen Konstruktion konnte sich aber die Jurisprudenz doch unmöglich der Beo|bachtung verschließen, daß die Solidarhaftung, wie sie tatsächlich in Übung war, nicht an die erwähnten juristischen Denkformen, sondern an ganz konkrete äußere Tatbestände anknüpfte. Es mußten deshalb diese Tatbestände mit jenen Denkformen in Beziehung gesetzt werden, was nicht immer gelang. Daß die Haushaltsgemeinschaft der historische Ausgangspunkt der Entwicklung war, tritt auch in der juristischen Literatur hervor. Das Thema der duo fratres communiter viventes ist in den größeren juristischen Werken wiederholt erörtert, außerdem aber zum Gegenstand von Monographien gemacht worden 20). Soviel möglich, wurde das römische Schema der societas omnium bonorum angewendet, die wirkliche Grundlage, der gemeinsame Haushalt, spielt nur die Rolle, die oben dargestellten Präsumtionen für das Bestehen eines Mandats- oder Institoratsverhältnisses im obigen Sinn zu rechtfertigen, eine Betrachtungsweise, welche dem Wesen des Verhältnisses wenig entsprach. Indessen hat sie doch andererseits für dessen Fortbildung auch günstige Wirkungen gehabt. Indem die Jurisprudenz die Gemeinschaft des Haushaltes, später der stacio oder taberna, nur als Symptom des Bestehens einer Sozietät betrachtete, mußte sie darauf hingeführt werden, durch Analyse des Tatbestandes diejenigen Momente zu entwickeln, welche ihr als für den Sozietätscharakter charakteristisch sich darstellten. So betonen denn die Juristen zunächst, daß es nicht auf das Zusammenwohnen als solches ankomme, sondern darauf, daß dies Zusammenwohnen in der Absicht der Erwerbsgemeinschaft stattfinde. Eine mit dem Ehemann zusammenlebende Ehefrau, so führt die Rota Florentina Dec. 65 aus, ist deshalb nicht socia des Mannes; denn ihr Zusammenleben hat prinzipaliter einen anderen Rechtsgrund, als die Absicht gemeinsamer Erwerbstätigkeit. Entsprechend ist es bei gemeinsam lebenden fratres. Auch hier ist nicht die einfache cohabitatio der Rechtsgrund der Haftung 21), sondern die mit derselben verbundene Absicht gemeinsamer Arbeit und gemeinsamen Erwerbes.
20) Cf. Petrus de Ubaldis de Perusio, De duobus fratribus, Franciscus de Porcellinis von Padua, De duobus fratribus.
21) Baldus, Consilia IV 472: Cohabitatio non facit societatem.
Diese Absicht fand die Jurisprudenz in der Abwesenheit kontomäßiger Abrechnung unter den fratres ausgedrückt 22). Alles dies sind Merkmale, die, wie wir sahen, auch im praktischen Leben bestanden. — War die wesentlichste Seite die Absicht gemeinsamer Erwerbstätigkeit, so mußte sich diese Absicht äußerlich in entsprechender Weise dokumentieren. Baldus verlangt gemeinsame „negociatio“ 23) und im Anschluß daran, daß jeder der Beteiligten, seien es Familienglieder oder extranei, auch wirklich eine Erwerbstätigkeit entfalte, als „negociator“ auftrete 24).
22) Petrus de Ubaldis im Eingange seiner Schrift De duobus fratribus. Ansaldus de Ansaldis, Discursus legales de commercio Disc. 49. Baldus, Consilia V 482 zählt als Kriterien für die societas omnium bonorum inter fratres auf:
1. coarctatio in una domo,
2. commensalitas (vixisse communi sumptu),
3. lucrorum communicatio,
4. defensio communis in litibus,
5. communio bonorum pro indiviso,
6. publica fama super societate omnium bonorum.
Keiner dieser Gründe (außer dem ad 6) soll allein die Präsumtion ergeben. Immer aber soll negotiatio communis nötig sein.
23) Cf. Schluß der vorigen Note.
24) Baldus, Consilia V 125 (Sozietät von Schlächtern); V 172: nur erwerbsfähige und erwerbende Mitglieder sind socii; I 19: nur bei Bestehen einer Sozietät fällt Erwerb ex industria fratrum in die Gemeinschaft (Cf. III 30); III 451: nicht die cohabitatio, sondern actus sociales frequenter facti ergeben die Präsumtion. Petrus de Ubaldis l. c. III, 2.
Die Konsequenz, daß auch nur der Gewinn aus dieser Erwerbstätigkeit in die Gemeinschaft fällt, ist denn auch alsbald gezogen, lucrum anderer Art ist „Adventizgut“ 25). Eine weitere Konsequenz ist, daß demnach die auf Rechnung der Sozietät gehenden Geschäfte auch formell von anderen geschieden werden mußten. Ein solches formelles Merkmal fand die Jurisprudenz in dem Satz, daß nur „nomine communi“ — auch formell für Rechnung der Gemeinschaft — geschlossene Geschäfte diese angehen 26), ein Satz, zu welchem sowohl die Mandats- als die Institoratspräsumtion hindrängte. Mit Aufstellung dieses Merkmals befand sich die Jurisprudenz wiederum auf dem Boden der praktischen Rechtsentwicklung, welche, wie wir sahen, zu dem gleichen Resultat gelangte. Daß letzteres geschah, war vielleicht zu einem Teil mit das Verdienst der Juristen, in deren Händen die Statutenredaktion sowohl als die gerichtliche Praxis zum wesentlichen Teil lagen und welche diese Konsequenzen klar entwickelt hatten.
25) Baldus, Consilia I 120.
26) Petrus de Ubaldis l. c. III, 2.
Ergebnisse der Arbeit der Jurisprudenz für die internationale Entwicklung.
Societätsfirma.
Immerhin war die Solidarhaftung auf dem Grunde des bloßen Bestehens einer derartigen Gemeinschaft eine der romanistischen Doktrin nicht bequeme, weil trotz aller Umdeutung nicht recht in die römische Schablone passende Erscheinung. Baldus erkennt, gegenüber dem nun einmal geltenden Recht, sie als bestehend an, aber durch seine einzelnen Entscheidungen geht offenbar das Bestreben, durch Steigerung der Schwierigkeiten für den Beweis der Absicht der Parteien, daß ihre Gemeinschaft eine societas sein solle, das mißliebige Institut tunlichst einzuschränken 27).
27) Cf. Consilia V, 125, 402.
Carpano in seinem Kommentar zu den Statuten von Mailand zweifelt sehr, ob nicht cap. 415 der Statuten von 1498, betreffend die Abschichtungspflicht des Vaters zugunsten der Gläubiger des Sohnes, contra divina et humana jura sei 28), und sucht damit die Erschwerung des Beweises zu rechtfertigen, welche er für erwünscht hält. Zu cap. 481 der Statuten von 1502, betreffend die unabgeteilt lebenden Brüder, bemerkt er, man müsse sich vor derartigen Gemeinschaften hüten, „wie vor dem Feuer“ 29), denn sie könnten nur zum Ruin aller Beteiligten führen. Jedenfalls wirkte die juristische Auffassung energisch darauf hin, daß die Eigenschaft der haftenden socii und der Sozietätskontrakte als solcher durch ausdrückliche Bezugnahme und Nennung der Namen in den Kontrakten konstatiert wurde und daß diese namentliche Bezeichnung, das Kontrahieren „nomine societatis“ eins der sichersten Kriterien der Unterscheidung von den Privatschulden wurde.
28) Note aaa: denn es sei unnatürlich, daß jemand bei seinen Lebzeiten sich beerben lassen müsse.
29) Note b: Ab istis societatibus et communionibus abstinendum est tanquam ab igne.
Das war von dauernder Bedeutung. Denn als die alten Grundlagen der Haftung: gemeinsamer Haushalt, gemeinsame stacio, bottega, taberna, im internationalen Verkehr ihre Bedeutung verloren und nun ein anderes Merkmal für die zu Lasten der Sozietät gehenden Kontrakte und für die aus denselben haftenden Personen Bedürfnis wurde, gewann die Vorarbeit der Jurisprudenz praktische Bedeutung.(この段落続く)
日本語訳の第43回目です。
ソキエタスの連帯責任原理の法的な論理構成についてのこみ入った議論が展開されています。
ヴェーバーも言っていますが、法学というのは時に非常に奇妙な論理をひねり出すんですよね。個人的には大日本帝国憲法から日本国憲法への移行についての「(1945年)8月革命説」を思い出します。
残りが12.5ページでラストスパートに入っています。
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(前回の段落から続く)
ソキエタスの成員達はソキエタスの財との関連では一まとまりで”una persona”(一人の個人)と見なすことが出来るとしよう。その場合であってもソキエタスの特別財産というものは発達することがなく、そうではなくてソキエタスの基金というものは言ってみればローマ法のdos(嫁資)と同じように扱われていた。《ローマ王の嫁資(dos)は家ゲマインシャフトの財産とは別勘定にされ、法律上は夫の所有物であるが、実質的には妻の所有物とされ、離婚したり寡婦になったりした場合は妻であった女性に戻された。》ソキエタスの財というものは次の場合にはむしろ特別財産とは全くの逆の方に置かれていた。その場合とはBaldusが corpus societatis (ソキエタスの実体→資本金)について語っていた時既にそうであった 6)。そして彼の言葉が引用される時、そして他には Dezisionen der Rota von Genua 《ジェノバ控訴院決定集、1606年》の中でソキエタスが “corpus mysticum”《神秘的な体、元々はキリスト教で信者の集まりをキリストの体と一体化した一つの霊的な共同の体と見なすもの。転じて欧州において人以外のものに人格を認める場合に使われた。》として、つまりある種の法人として呼称されている場合である。ここにおいてはソキエタスの基金はソキエタスの財に発展したのであるが、しかしそれはゲゼルシャフトの財ではなく、法人(Korporation)の財としてであった。というのは corpus societatis という表現は既にBaldusにおいても法的な主体――つまりゲゼルシャフト――または法的な客体――その財産――を意味していただろうからであり、――後者についてより確からしいと思われるのは 8)、――少なくとも明らかなのは、ソキエタスを法人と見なすことの法人にとっての動機は次のような観察によるものであるということである。その観察とは、破産時の先取り特権(債権の優先回収権)を用いた法的な論理構成はソキエタスの基金に財産としての特質をよりむしろ認めなければならない場合に十分では無かったというものである。その財産についてはそこからただソキエタスを一種の法人(Korporation)として把握することによって可能になると信じられていた。
6)BaldusのConsilia V 125を参照。
7)Decisiones Rotae Genuensis《Genuensisは正しくはGenuae》 7の: “quia societas est corpus mysticum ex pluribus nominibus conflatum”(何故ならばソキエタスは複数の名前{人}が一つに溶け合った神秘体である)を参照。
8)ここでの用語法の、ソキエタスの内部についての corpo della compagnia との関係についての考察は、”フィレンツェ”の章(第5章)の結論部を参照せよ。
そこから生じて来るものとしてはまず、
1. gesta extra societatem non obligant consortium, sed solum ipsum contrahentem (ソキエタスの外部にて行われたことはコンソーシアム{一つのまとまりとしてのソキエタスの成員全体}を拘束せず、ただ契約を行った者のみを拘束する 9)、その一方では
2. あるソキエタスの成員が次のような者として契約する場合は、”qui habet unum obligatum, habet et alterum et ipsam societatem”({何かの契約でそれを契約した}一人だけに責任を負わせているものは、もう一つべつのものにも責任を負わせている。つまりその者が所属するソキエタスである)(つまりゲゼルシャフトの財産である)、というのは:”quicquid scribitur per socium habentem facultatem nominis expendendi, dicitur scriptum ab ipso corpore seu societate, non ab ipsis ut particularibus”(ソキエタスの成員でソキエタスの名前で支払いをする能力を持っている者によって書かれた{書面で契約された}ものは何であれ、その者のコーポレーションまたはソキエタスによって書かれたものとして見なされ、どのような場合でもその特定の者{個人}だけによって書かれた{契約された}とは見なされない 10)。)ソキエタスをある複数の nomina(名前)を一緒にして構成した一つの人格として叙述することが示しているのは商号(Firma)の人格化がゲゼルシャフトを独立の存在として構築するための手段であったということである。ソキエタスを法人として把握することは、それについてはもう全く疑う余地は無い。しかし歴史的そして法教義学的にはそれは認められていないが、 ただそうした把握の仕方はゲゼルシャフトの基金を法の発展においてのソキエタスの成員の個人財産から特別財産として分離することをまた疑い無く非常に容易にした:その当時の法学にとってこれ以外の他のカテゴリーで意のままに扱えるものは存在していなかった。
9)Decisiones Rotae Genuensis 12 を参照。
10)Decisiones Rotae Genuensis 7 を参照。
b)連帯責任。委任の仮定と代表者(Institorat)の仮定。
ロマニステン(ローマ法主義者)的なゲゼルシャフトの財産の法的な構成が、ひとたび法人という観念が使われるようになって以降は、それほど困難でなかったとしたら、そのことはよりいっそう法学者達に対して連帯責任の原理を創出させることにつながった。その創出を手助けするごく自然な考え方としては、契約を行うソキエタスの成員を仮定的な他のソキエタスの成員の代表者と見なすことであった。まず利用されたのは「委任が行われた」ということを仮定することで、契約を行うソキエタスの成員を代理人 11)または mandatarius exigendi 12)(代理の任を与えられた者)として取り扱い、それに合わせて次のことを行うことを目論んだ。つまり、おそらくはソキエタスの他の成員と対置する形で、その者に対する代理権の授与を expressis verbis 、つまり明確な言葉によって保証する書面を用意するということを 13)。しかしながらこういった構成の仕方はソキエタスにおいての実際の人間関係にほとんど合致していなかった。こういったやり方がきわめて異常と見なされていたに違いない一方で、明示的な全権というものが存在しないことに対して――そこから直ちに導かれる形で――まったくもって普通のものでは無い、非常に強い権力を持った全権というものを仮定することになったのである。その時々のケースにおいて、前提となっている各ソキエタスの成員が相互に保証人 14)になるという考え方は、一人一人が代表者的な連帯保証人としての責任を明確にするという目的には十分ではなかった 15)。同様にローマにおける銀行家による共同保証というやり方を利用することも、それは Petrus de Ubaldis がほのめかしていることであるが 16)、出来ておらず、それは連帯責任によって結び付けられた諸ゲマインシャフトが本質的には銀行的な業務を全く行っていなからであった。そういった考え方より、結局の所信じられるようになったのはローマ法における Institorat (代表者)という概念をこうした場合での把握の仕方としての法的なひな型として使うことが出来る、ということであった。パンデクテン法学《ローマ法の影響下にあった当時のドイツの普通法学》における、 institor (店主)の考え方のように、ここにおいては業務の遂行において締結された契約についての責任が扱われているのであり、その業務の遂行については契約を行う者が管理人としてそれを差配しており、そしてその者が実質的には他の者――ここではソキエタスの成員の総体(しかしそこには契約を締結する者も含まれており、そこが既にローマ法とはまず異なっている点である)――に責任を負わせているのである。
11)Decisiones Rotae Florentinae 55 を参照。
12)Decisiones Rotae Florentinae 107を参照。
13)このことは、l’Orient latinの古文書史料の源泉であり、これらの全ての法様式が使用している。
14)BaldusのConsilia V 155を参照。
15)そうした把握の仕方はしかしながら Decisiones Rotae Romanae P. III d. 168 に見られる、ソキエタスの成員を Korrealschulner 《相対債務者、自分の持分だけについて責任を負う債務者》という概念の基礎となっている。
Institor(店主)がそういう風に扱われるように、ソキエタスの成員達は連帯して責任を負うことになるが、それは全くのところ Institor が特別な全権をひけらかすような行いをせずに業務遂行に勤しんでいるという理由からである。そして最終的には――このことが特別に重要であると思われるが――何人かの個人が共通の Institor を持つ場合、その者達は各自連帯してその Institor に対して責任を負うのである。そういう状況に対応するために採用されたのがソキエタスの成員を交代制で Institor に任命すること(praepositio institoria)であり、こうした把握の仕方が長く優勢な考え方として続いたのである 17)。
16)De duobus fratribus IX 参照。
17)トライチュケ《ハインリヒ・トライチュケ、1834~1896年、ドイツの歴史家、政治記者、1871~1884年の間帝国議会議員。》による Die Gewerbegesellschaft においても、まだ特に Thöl 《第2章の注12の訳注参照》の Handelsrecht (商法)においてもそれが見られる。
こうした把握の仕方は、ローマ法の概念の利用が重視された場合には、次のような驚くべき結果をもたらしている:Carpano 《第3章の注76の訳注参照》がそのミラノの法規への注解書の中で次のような結論を引き出している。つまり連帯責任というものは個々のソキエタスの成員がソキエタスの名前で契約する場合に成立するのであり、それに対してもしあるソキエタスの名前での契約の締結の際に全てのソキエタスの成員が個人として関与したとしたら、それはもう連帯責任ではあり得ず、各人の持分に比例した(pro rata)責任のみが発生するのであり、その際にはそれぞれのソキエタスの成員が自らかつ自己のために契約するのであり、それ故に institor という者は存在せず、それによって連帯責任を裏付ける法的な基礎はどこかに行ってしまうのであると 18)。このことは再度次のことに関しての証拠となる。つまりまずはどの程度まで法学における論理構成を行う上において法律家の個々人としての判断のみがその基礎になっているかということ、次に如何に法律家がそれ故に正当化され得ないかということ、最後にその中の底深い所に哲学的または社会的な理論を見出すことが出来るかという、そういった事々への証拠となる。――一般論として、Carpano によって提示された難点については驚きはしないが、その一方でまた他の著述家もそのことについて言及しているのである 19)。
18)Carpano による1502年の法規の第483章への注1を参照。
19)Bartolus と Petrus de Ubaldisがその例である。Petrus de Ubaldis の De duobus fratribus IX を参照。
ドイツ語原文の第43回目です。今回の分を含めて後4回です。
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Die socii seien in bezug auf das Sozietätsgut als una persona anzusehen. Mit alledem ist ein Sondervermögen nicht entwickelt, sondern der Sozietätsfonds ist etwa mit der römischen dos auf eine Linie gestellt. Nach der entgegengesetzten Seite hin liegt es, wenn schon Baldus von einem corpus societatis spricht 6) und unter Berufung auf ihn und andere in den Dezisionen der Rota von Genua die societas ein „corpus mysticum” 7), eine juristische Person genannt wird. Hierbei ist der Sozietätsfonds als Sondervermögen entwickelt, aber nicht als Gesellschafts-, sondern als Korporationsvermögen. Denn mag nun der Ausdruck corpus societatis schon bei Baldus das Rechtssubjekt — die Gesellschaft — oder das Rechtsobjekt — deren Vermögen — bezeichnen, — das letztere ist wahrscheinlicher 8), — jedenfalls ist klar, daß der Anlaß für die juristische Personifikation der societas für die Jurisprudenz in der Beobachtung lag, daß die Konstruktion mittels Konkursprivilegien nicht ausreichte, daß man vielmehr dem Sozietätsfonds den Charakter eines Vermögens zugestehen müsse, für welches man alsdann ein Subjekt nur durch die Auffassung der societas als einer Korporation gewinnen zu können glaubte. Daraus ergab sich dann, daß 1. gesta extra societatem non obligant consortium, sed solum ipsum contrahentem 9), während 2. wenn ein socius als sol|cher kontrahiert, „qui habet unum obligatum, habet et alterum et ipsam societatem” (das Gesellschaftsvermögen), denn „quicquid scribitur per socium habentem facultatem nominis expendendi, dicitur scriptum ab ipso corpore seu societate, non ab ipsis ut particularibus” 10). Die Darstellung der Sozietät als einer aus mehreren „nomina” zusammengesetzten Person zeigt, daß die Personifikation der Firma das Mittel zur Konstruktion der selbständigen Existenz der Gesellschaft war. Die Auffassung der Sozietät als einer juristischen Person war, darüber waltet kein Zweifel mehr ob, historisch und dogmatisch ungerechtfertigt, allein sie hat die klare Ausscheidung des Gesellschaftsfonds als eines Sondervermögens aus dem Privatvermögen der socii in der Rechtsentwicklung ebenso zweifellos sehr erleichtert: der damaligen Jurisprudenz stand eine andere Kategorie nicht zu Gebote.
6) Baldus, Consilia V 125.
7) Decisiones Rotae Genuensis 7: „quia societas est corpus mysticum ex pluribus nominibus conflatum”.
8) Mit Rücksicht auf den Sprachgebrauch im Verhältnis nach innen corpo della compagnia, vgl. unter „Florenz” am Schluß.
9) Decisiones Rotae Genuensis 12.
10) Decisiones Rotae Genuensis 7.
b) Solidarhaftung.
Mandats- und Institoratspräsumtion.
War so die romanistische Konstruktion des Gesellschaftsvermögens, nachdem man einmal die Kategorie der juristischen Person zur Anwendung brachte, nicht besonders schwierig, so machte die Solidarhaftung den Juristen um so mehr zu schaffen. Die naturgemäße Abhilfe war, daß man den kontrahierenden socius als präsumtiven Vertreter der übrigen socii auffaßte. Man nahm zunächst die Präsumtion eines Mandats zu Hilfe, behandelte ihn als procurator 11)oder mandatarius exigendi 12)der übrigen und suchte dementsprechend darauf hinzuwirken, daß womöglich eine gegenseitige Bevollmächtigung expressis verbis urkundlich ausgefertigt werde 13). Indessen entsprach diese Konstruktion den tatsächlichen Verhältnissen wenig, indem es im höchsten Grade abnorm erscheinen mußte, für den Fall des Mangels einer ausdrücklichen Vollmacht — und gerade auf diesen kam es an — dieselbe mit ihren ungemein einschneidenden Wirkungen zu präsumieren. Die gelegentlich vorkommende Auffassung der socii als gegenseitiger Bürgen 14)reichte zur Erklärung ihrer Haftung als prinzipaler Selbstschuldner nicht aus 15), ebensowenig konnte die Anknüpfung an die Mithaft der argentarii in Rom, welche bei Petrus de Ubaldis angedeutet wird 16), befriedigen, indem die mit Solidarhaft verbundenen Gemeinschaften keineswegs wesentliche Bankgeschäfte betrieben. Man glaubte vielmehr schließlich, im römischen Institorat die juristische Formel für das Institut finden zu können. Wie bei dem institor der Pandekten, so handelte es sich hier um Haftung für in einem Geschäftsbetriebe, welchem der Kontrahierende als Verwalter vorsteht, und welcher materiell auf Rechnung anderer, — hier der Gesamtheit der socii (aber einschließlich des Kontrahenten, das ist schon die erste Differenz vom römischen Recht), — geht, geschlossene Kontrakte. Wie für den institor so wird für den socius in solidum gehaftet rein auf Grund dessen, daß er in dem Geschäftsbetrieb tätig ist ohne besonderes Vollmachtsverhältnis. Wenn endlich — das schien besonders wesentlich — mehrere Personen einen gemeinsamen institor haben, so haften sie für ihn ein jeder in solidum. Man nahm demgemäß wechselseitige praepositio institoria der socii an und, wie bekannt, ist diese Auffassung dauernd die herrschende geblieben 17). Auch sie führte, wo man mit der Verwendung der römischen Begriffe Ernst machte, zu erstaunlichen Resultaten: Carpano in seinem Kommentar zu den Statuten von Mailand zieht die Konsequenz, daß die Solidarhaftung nur da eintrete, wo ein einzelner socius namens der Sozietät kontrahiere; wenn dagegen etwa bei Abschluß eines Kontraktes namens der Sozietät sich alle socii persönlich beteiligt hätten, könne nicht Solidarhaftung, sondern nur Haftung pro rata eintreten, indem dann ja jeder socius selbst und für sich kontrahiere, also kein institor vorhanden und damit der Rechtsgrund der solidarischen Haftung weggefallen sei 18). Wieder ein Beweis dafür, wie weit juristische Konsequenzmacherei Grundlage der einzelnen Entscheidungen der Juristen ist und wie wenig man deshalb berechtigt ist, darin Ausflüsse einer tiefliegenden philosophischen oder sozialen Theorie zu sehen. — Im allgemeinen stieß man sich an der von Carpano aufgeworfenen Schwierigkeit nicht, wiewohl auch andere Schriftsteller sie erwähnen 19).
11) Decisiones Rotae Florentinae 55.
12) Decisiones Rotae Florentinae 107.
13) Dies der Ursprung der Urkunden in Archives de l’Orient latin, welche alle diese Rechtsform verwenden.
14) Baldus, Consilia V 155.
15) Sie ist indessen wohl die Grundlage der in der Decisiones Rotae Romanae P. III d. 168 begegnenden Auffassung der socii als Korrealschuldner.
16) De duobus fratribus IX.
17) Noch bei v. Treitschke, Die Gewerbegesellschaft, und namentlich bei Thöl, Handelsrecht.
18) Carpano zu cap. 483 der Statuten v. 1502 Note 1.
19) Bartolus und Petrus de Ubaldis. Petrus de Ubaldis, De duobus fratribus IX.