V. Florenz – VI. Die juristische Literatur. Schluß P.312 – 316 日本語訳(42)

日本語訳の第42回目です。第5章も終わり、ついに結論の章に入りました。
またしても高利禁止の話が出てきます。
これで残り17ページ(全集版)となり、ゴールが見えて来ました。
結論部の最初に合名会社と合資会社の説明がありますが、合名会社の方は分かりやすいですが、合資会社についてはどうも歯切れが悪いように思います。ヴェーバーの説明だと合資会社はソキエタスの枠組みをはみ出した新しい制度なのに、法律家が従来のソキエタスの理論をそのまま無理矢理使って定義しようとしたとしています。。
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 このこと(ゲゼルシャフトの特別財産を他から切り離してまさに特別なものとして取り扱うこと)は、また次の二つのことの対立をいっそう明確にしている。一つは合名会社におけるこれまで述べて来たような法学的に必然性を持っている特別財産への投資という概念であり、もう一つは単なる貸し付けという形での資本参加である。前出のアルベルティ家の相続協定の例が示しているように、ある特定のソキエタスの成員が意図的に何らかの資金をソキエタスに対して投資したとしても、この資金によってはまだゲゼルシャフトの基金においての持分所有者にはならないということである。そうではなく、(ゲゼルシャフトの)特別財産というものはこういった(資本)参加的な人間関係とは別に存在しているということである。――ラーバントが次のように言う場合、つまりゲゼルシャフトの財産が成立しているということが今日の合名会社の概念と法的には等価であると言う場合、それに対してはたまたまソキエタスの成員間の関係はまた貸借関係としてかあるいは資本参加としてかの二つに整理して考えることが出来るため、次のように反論することが出来る:もしソキエタスの成員間に今挙げた二つの人間関係の内の一つが成立した場合、そういった場合であってもまだそれ以外にゲゼルシャフトの特別財産というものは成立し得るのであると。その特別財産というものが対外的にはたとえ経済的に無に等しいものであっても《例えば法律上資本金が存在していても実際には資本金を食い潰して欠損になっている場合など》、法学的は存在しているということは、この論文の導入部で既に述べて来た。しかし、それについて更に次のことを確認することが出来る。つまりここで(ゲゼルシャフトの)内部についての関係が、外部に対しての関係においても決定的に作用するということである。ソキエタスの成員の間における関係でゲゼルシャフトの財産とされるものは全て、外部の(ソキエタスへの)債権者達との関係においてもまたゲゼルシャフトの財産とされるのである。

VI. 法的文献。結論。

法的文献とそのソキエタスへの関係

 我々はここまでの論述によって、我々が扱って来た法的な制度の解明について次の所にまで到達出来た。つまり合名会社にとっての全ての本質的な基礎原理:商号(Firma)、連帯責任、特別財産について明らかにすることが出来た。我々は同様に、合名会社に対立するものを比較して検討するという目的で、合資会社についてその始まりからある発展段階の一つに到達するまでを観察して来た。その発展段階においては、法的な構造についてみれば、今日の合資会社が有している意義という点で見てもそう大きくは隔たっていない。より後の時代における法形成は、それについてここで扱うことは出来ないが、今述べた発展段階における法的な構造を通じて法学的な見方を継承しており、そういった構造の組み合わせとそれの拡張によって、そういう法学的な見方は現代における人間関係に適合したゲマインシャフトの形態を創出することが出来ていた。――しかしながらここでは単にその内の何点かだけについて論じることとする。

 まず第一に明らかにしたいのは、(合資会社の黎明期の)同時代の法学者がその時代における制度として観察している人間関係についてである。

1.合資関係

 合資会社の人間関係は、契約法の基礎の上に成立するものとして見た場合、ローマ法の理論に照らし合わせて何か非常に把握困難なものとして扱うことは許されていなかった。しかし実際にはその把握は非常に困難だったのであり、それはラスティヒEndemannに対する所見と一致していることは間違いない。その当時の法学の文献が行っている合資会社関係への考察を見ると次のことが述べられている。つまりそういう考察においては、ローマ法学がそのような合資会社関係については、多分に嫌々ながらではあるが、新しい制度として歴史的な把握を行うことがほとんど無理であることを認めることで妥協するという、そういう意義しかなかったことが表明されている。BaldusのConsiliaとその中に含まれている他の者の文書は、それについて十分な証拠となっている。その者達によって取り扱われている societas “pecunia-opera”(in qua alter impossit pecuniam, alter operam)(資本-労働結合型ソキエタス、{その中では一方の成員は資金を提供し、他方の成員は労働を提供する})は、コムメンダを想定して述べていることは間違いない 1)。

1)Baldus編の Consilia II 87 のquatra proficui ({トラクタートル}が利益の1/4を取ること)と比較せよ。コムメンダというものは、Baldusがそれをそうイメージしているようにこのような形態で行われ、それまではそのような形態は存在していなかった。ただ利益のみが分割され、最終資本はそうされなかったということと、利益が得られなかった場合には、投下資本は全額償還されたということについて、Baldusは明らかに変則的であると考えており、その変則性をソキエタスがまさに “lucrum dividere”(利益を分けること)を目的として、”capitare dividere”(資本を分けること)を目的としていない理由としていた。他方ではコムメンダという形態は冒険的な性格を持っていると把握することが出来、損失は参加する双方の側で等しく分担することになっていた。その場合、もし全ての資本が失われてしまった場合には(!)、委任した側(Kommendant)がその1/2を負担し、そしてトラクタートルもまた(!)損金の全体額に関わらず資本の1/2を負担し返金しなければならなかった: Consilia IV 65、 214、 453。同じくRoffredusなどの法注解学者達もコムメンダについて同じような把握の仕方をしていた。ただ特別な協定が取り交わされる場合があり(それについてBaldusがそう主調し、他の学者はその存在を疑っているが)、その場合には資本家のみがリスクを負担することが求められていた。それ故にコムメンダの制度の法学的構成はここでは全くナンセンスなほどの資本というものの重要視につながるのであり、それはまた法学者の見解において、全員がそれを高利貸し的な制度とは見なしていなかったことの証拠である。

歴史的に見れば、そうした法学的な把握の際には海上取引におけるコムメンダの本来の目的が考慮されていなかった。法教義学的に見た関係という意味で法学者達は――明らかにローマ法主義の見解の結果として、ソキエタスの成員というものは基本的に対等の関係であり、同じような権利を与えられた契約者でなければならないという立場に立っており、――その見方によれば、委任される人(トラクタートル)は自分自身を、つまり自分の労働力をゲゼルシャフトへの投資(の代替物)として持ち込み、それは委任する人(ソキウス・スタンス)が資金をそこに持ち込むのと同様のことであり、委任される人(トラクタートル)の労働の成果がその者にとっての利益(fructus)であり、それは丁度資本家にとっての利子に相当し 2)、――しかしその際には次の事が認識されていなかった。つまり今描写したような姿が、たまたまだったとしても、より対象を明確に把握するために使用されたのだとしたら、それはある意味許容範囲ではあっても観念的なお遊びであり、もしそれを使って法学的な構成が行われなければならなかったのだとしたら、それはもうナンセンス以外の何物でも無い。

2)もっとも明確にそのことが表現されているのは、Petrus de Ubaldis《第3章の注53での訳注を参照》編の De duobus fratribus III 12 であり、投資された全資金の返済という委任された方(トラクタートル)の義務が、たとえ利益も損失も目論まれていない場合であっても、次の事についての動機の説明となっている。つまり、委任された方の労働(operae)が資本家にとっての期間利子( interusurium)《高利には該当しないと当時許容されていた範囲の一定期間に生ずる利子》に相当するということと、それから委任された方(トラクタートル)が分け前を持つことが出来るのは(資本の中ではなく)ただ利益の中においてのみであるということである。Angelus de Periglis de Peruso《?~1446または1447年、イタリアのペルージャ出身の法学者、Petrus de Ubaldisの兄弟のAngelusとは別人》の De societatibus Pars I no. 2 においては同じような概念が扱われており、そこでは著者は次のような議論を展開している:最終資本の分割は次のように行われるのではない。つまり資本家が当初の出資金を回収し、次にトラクタートルが自分の労働分としてその同額を取り、そして更に残った分が分割される(つまり:初期資本が100で最終資本が300だった場合、委任した方が100を取り、トラクタートルが次に100を取り、残りの100が分割される)のではない。そうではなくて、トラクタートルの人格が委任する側の資本と等価に扱われるので、委任した側がまず資本100を取り、トラクタートルはその人格分として0、つまり何も取らず、残った200が分割されるのである。

より後の時代の著述家にとって、Endemannが指摘したように、これらのソキエタス契約において次に尚一層頭を悩ませる問題となったのは、このようなソキエタスの契約が(教会法による)高利の禁止に該当するのか、するとすればどの段階でそうなるのかという問題であった。我々がこの論考で見て来たように、コムメンダのいくつかの変種は実際に高利禁止の犠牲になって廃れてしまっていたし 3)、そこまで行かなくても、高利禁止原則は実務上の取り扱いにおいて、確実に法理論家を困惑させていた。法律家達によるその問題についての取り扱いと説明の仕方の全ては、また次のことを示している。つまりそういった場合に何かしら良く考えられかつ論理が一貫した形で行われた、経済的なまたは非常に社会的な観察方法についての理論といったものに基づいていたのではなく、それはそれぞれ個別の場合の判断として何か抽象的な論理構成の産物としてのみ行われていた、ということである。

3)Baldusによれば、(海上取引での)危険が債務者(=トラクタートル)の側だけに生じるのでは無い場合には――ピサにおける dare ad proficuum maris はそれには該当しなかったが――利益の何%か(procentuale lucrum)を利子にように徴収することは許されていた。

2.合名会社
a) 特別財産

 我々にとってここでより興味深いのは法学においての合名会社の取り扱いである。まず第一にそれに関係するのは特別財産であるが、明らかに見て取れる限りにおいては、文献の中では特別には扱われていない。ソキエタスに対する債権者の権利とそれの(ソキエタスの成員である)個人への債権者に対しての関係は、法学的には(ソキエタスの)破産の際の優先権(債権を他の債権者よりも先に回収出来る特権)という形で現れ、そしてそれについてはピサの例で見て来ているが、ソキエタスの成員達の(ソキエタスの成員の中の)個人への債権者に対しての関係と、ソキエタスの債権者のソキエタスの成員達への関係は、どちらについてもまずは法規によって回収優先権を与えられた債権者という形で把握される。Franciscus de Porcellinis von Padua 4)《?~1453年、イタリアのパドヴァ生まれの法学教師》はそこから次に、ジェノヴァの法規 5)の考え方と一致して、次のような法文を残すに至っている。つまりまたソキエタスの成員(委任する方)の投資金に対しても次のローマ法の考え方が適用出来るということである。そのローマ法の考え方とは、”res succedit in locum pretii et pretium 《succedit》in locum rei”(財というものはそれに対して価格が与えられた場所で成立し、価格というものはある物の(それが売られた)場所で成立する)というものである。

4)De duobus fratribus Quaestio 1を参照。

5)Statuta Perae lib. V c. 207 を参照。

(この段落続く)

V. Florenz – VI. Die juristische Literatur. Schluß P.312 – 316 ドイツ語原文(42)

ドイツ語原文の第42回目です。V章の最後の段落の後、結論部である最終章に入ります。
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 Dies um so mehr, als auch der Gegensatz des bei der offenen Handelsgesellschaft nach dem Gesagten juristisch notwendigen Begriffs der Einlage in das Sondervermögen gegen eine bloße Kapitalbeteiligung beleuchtet wird. Wie der in dem Erbrezeß der Alberti vorkommende Fall zeigt, ist der socius, welcher Kapital werbend bei der Sozietät anlegt, wegen dieses Kapitals noch nicht Teilhaber an dem Gesellschaftsfonds. Sondern das Sondervermögen besteht neben diesen Partizipationsverhältnissen. — Wenn nun Laband sagt, das Bestehen eines Gesellschaftsvermögens sei für den Begriff der heutigen offenen Handelsgesellschaft rechtlich gleichgültig, weil zufällig: das Verhältnis inter socios könne auch als Darlehen oder als Partizipation reguliert sein, so ist dagegen zu sagen: daß wenn unter den socii eines der letzteren Verhältnisse stattfindet, trotzdem und außerdem doch noch das gesellschaftliche Sondervermögen besteht. Daß es nach außen, mag es wirtschaftlich gleich Null sein, juristisch doch existiert, wurde schon in der Einleitung gesagt. Es ist aber ferner auch zu konstatieren, daß hier das Verhältnis nach innen entscheidend auf dasjenige nach außen einwirkt: alles, was im Verhältnis unter den socii Gesellschaftsvermögen ist, ist es auch im Verhältnis zu den Gläubigern.

VI. Die juristische Litteratur, Schluß.

Die juristische Litterature und ihr Verhältnis zu den Societäten.

 Wir haben hiermit die Entwicklung der von uns behandelten Institute bis zu einem Punkte verfolgt, wo für die offene Handelsgesellschaft alle wesentlichen Grundlagen: Firma, Solidarhaftung, Sondervermögen, gewonnen sind. Wir haben ebenso, um den Gegensatz zu gewinnen, die Kommanditgesellschaft von ihren Anfängen an bis zu einer Stufe der Entwicklung betrachtet, welche der rechtlichen Struktur nach von ihrer heutigen Bedeutung nicht mehr allzufern abliegt. Der späteren Rechtsbildung, welche hier nicht behandelt werden kann, waren damit die juristischen Gesichtspunkte geliefert, durch deren Kombination und Ausbau sie den modernen Verhältnissen entsprechende Gesellschaftsformen zu schaffen in der Lage war. — Es sollen hier nur noch einzelne Punkte zur Sprache kommen.

 Zunächst das Verhältnis der zeitgenössischen Jurisprudenz zu den vorstehend betrachteten Instituten.

1.Kommanditverhhältnisse.

 Was die Kommanditverhältnisse anlangt, so hätten dieselben, als auf dem Boden des Vertragsrechts stehend, der romanistischen Theorie erhebliche Schwierigkeiten nicht verursachen dürfen. Und doch ist dies der Fall, und es muß in Übereinstimmung mit Lastigs Bemerkungen gegen Endemann, bei einer Betrachtung der juristischen Literatur jener Zeit davon ausgegangen werden, daß eine solche nur die Bedeutung haben kann, zu zeigen, wie die romanistische Jurisprudenz es, zum Teil nicht mit Glück, versucht hat, sich mit Instituten, deren historische Erfassung ihr fern lag, abzufinden. Die Consilia des Baldus und die einschlagenden Schriften anderer geben davon genügend Zeugnis. Die von ihnen behandelte societas „pecunia-opera“ (in qua alter imposuit pecuniam, alter operam) soll die Kommenda vorstellen 1).

1) Conf. die quarta proficui bei Baldus, Consilia II 87. Die Kommenda ist in der Form, wie Baldus sie sich vorstellt, sicher nie vorgekommen. Daß nur der Gewinn, nicht das ganze Endkapital geteilt werde, und daß mangels Gewinn das Kapital ganz zurückgezahlt werde, was Baldus offenbar für abnorm hält, motiviert er damit, daß eben die societas auf „lucrum dividere“, nicht auf „capitale dividere“ geht. Dagegen ist er der abenteuerlichen Ansicht, der Verlust werde zwischen beiden Teilen gleich geteilt, wenn also (!) das ganze Kapital verloren gehe, so trage der Kommendant 1/2 und der tractator habe also (!) noch 1/2 herauszuzahlen trotz des Totalverlustes: Consilia IV 65, 214, 453. Auch die Glossatoren, Roffredus u.a., hatten ähnliche Vorstellungen. Nur besondere Abmachung (die nach Baldus gültig ist, was andere bezweifeln) kann dem Kapitalisten das Risiko allein aufbürden. Also die juristische Konstruktion würde hier zu einer völlig unsinnigen Begünstigung des Kapitals führen, ein Beweis, daß nicht alle Ansichten der Juristen der Wucherdoktrin zur Last fallen.

Historisch wird dabei der ursprüngliche Zweck derselben im Seehandel nicht berücksichtigt. In dogmatischer Beziehung gehen die Juristen, — offenbar infolge der romanistischen Ansicht, daß „socii“ grundsätzlich einander gleichstehende und gleichberechtigte Kontrahenten sein müssen, — von der Vorstellung aus, der Kommendatar bringe „sich selbst“, seine Arbeitskraft, als Einlage in die Gesellschaft ein, wie der Kommendant sein Kapital, seine Arbeitsleistung seien seine „fructus“, entsprechend den Zinsen des Kapitalisten 2), — ohne dabei zu erkennen, daß ein derartiges Bild, wenn gelegentlich, zum Zweck der Anschaulichkeit verwendet, eine zulässige Spielerei, wenn aber darauf eine juristische Konstruktion aufgebaut werden soll, Unsinn ist. Den späteren Schriftstellern hat dann, wie Endemann nachgewiesen hat, bei diesen Sozietäten mehr noch die Frage, ob und wann dieselben unter das Wucherverbot fallen, Kopfzerbrechen gemacht. Wir sahen, daß einzelne Abarten der Kommenda dem Wucherverbot wirklich zum Opfer fielen 3), im übrigen hat dasselbe wohl sicherlich die Theoretiker mehr als die Praxis beunruhigt. Auch zeigt die ganze Art der Behandlung und Erörterung bei den Juristen, daß nicht irgendeine durchdachte und konsequent durchgeführte wirtschaftliche oder gar soziale Theorie ihrer Betrachtungsweise zugrunde liegt, sondern daß ihre einzelnen Entscheidungen lediglich ein Ergebnis abstrakter Konstruktion sind.

2) Am ausdrücklichsten bei Petrus de Ubaldis, De duobus fratribus III 12, wo die Verpflichtung des Kommendatars zur Rückzahlung des vollen Kapitals, wenn weder Gewinn noch Verlust erzielt worden ist, damit motiviert wird, daß die operae des Kommendatars dem interusurium des Kapitalisten entsprechen, er also ebenso wie letzterer nur an den Früchten Anteil haben könne. Angelus de Periglis de Peruso, De societatibus Pars I no. 2 operiert mit ähnlichen Begriffen, indem er argumentiert: die Teilung des Endkapitals geschieht nicht so, daß der Kapitalist sein Kapital, der tractator ebensoviel als Wert seiner Person herausnimmt, der Rest geteilt wird (also: Anfangskapital 100, Endkapital 300: Kommendant 100, tractator 100, 100 geteilt), sondern die Person des tractator steht dem Kapital des Kommendanten gleich, also zieht der Kommendant sein Kapital (100), der tractator seine Person (0) heraus, der Rest (200) wird geteilt.

3) Nach Baldus ist, wenn die Gefahr nicht den Schaden allein trifft, — was beim dare ad proficuum maris in Pisa nicht der Fall war, — auch procentuale lucrum zulässig.

2. Offene Handelsgesellschaft.

 Uns interessiert hier mehr das Verhalten der Jurisprudenz gegenüber der offenen Handelsgesellschaft.

a) Sondervermögen.

 Anlangend zunächst das Sondervermögen, so ist dasselbe, soviel ersichtlich, in der Literatur nicht speziell behandelt; die Rechte der Sozietätsgläubiger und ihr Verhältnis zu den Privatgläubigern ließen sich juristisch in die Form von Konkursprivilegien bringen, wie wir in Pisa sahen; die socii gegenüber den Privatgläubigern und die Sozietätsgläubiger gegenüber den socii werden daher zunächst nur als statutarisch privilegierte Gläubiger aufgefaßt worden sein. Franciscus de Porcellinis von Padua 4) gelangt dann, in Übereinstimmung mit den Genueser Statuten 5) zu dem Satz, daß auch auf die Illaten des socius (Kommendanten) der römische Gedanke: „res succedit in locum pretii et pretium in locum rei“ Anwendung finde. (この段落続く)

4) De duobus fratribus Quaestio 1.

5) Statuta Perae lib. V c. 207.

安藤英治氏の「中世合名会社史」の紹介における誤り

以前、安藤英治氏の「ウェーバー歴史社会学の出立」におけるこの「中世合名会社史」に関する言及を紹介しました
日本語訳の第41回目を公開して、終わりにも近付いたのでその内容を再度読んでみたのですが、残念ながら色々と誤読されているようです。特に致命的な誤りは今回の日本語訳の所に出て来る、corpo della compagnia を動産の内で資本金に含まれないものを言い、それがヴェーバーの言う「ソキエタスの特別財産」だとされていますが、これは完全な誤りであり、corpo della compagnia は今回の日本語訳を読んでいただければ分りますが、出資された投資金額の合計=資本金のことです。現在でも貸借対照表の資産の部は資本と借入金の合計ですが、会社の実体を示すものは資本金であり、借入金では無いのは言うまでもありません。また、資本金のように一定期間の取り戻しや増額や減額が簡単に出来ないものこそ、「特別財産」と呼ぶにふさわしいもので、いつでも取り戻せる貸付金なら、それはローマ法のソキエタスの各成員の持ち寄り財産と何ら変りません。
どうしてこういう誤読が生じたかですが、引用されている箇所を見る限り、全文を読まれたのではなく、各章のErgebnis(成果)の所だけを読まれたのだと思います。
大塚久雄氏も決してこの論文をちゃんと読んでいないということは何度も言っておりますが、要するに日本人学者でこれまでこの論文をきちんと通して読んだ人は一人もいない、ということだと思います。

V. Florenz P.306 – 311 日本語訳(41)

日本語訳の第41回目です。第5章も後1段落を残すだけです。残った未翻訳のページ数は21で、9月末までには完了の見込みです。
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個人の動産

 それにも関わらず、ソキエタスの成員はゲゼルシャフトの基金以外にも動産を所有している。そしてそうした動産の中で我々にとって取り分け重要なのは、次のような資金である。それはソキエタス(コンパニーア)において何かの目的で自発的に出資されたものであるが、しかしながら出資金としては扱われないものである。ほとんどすべてのソキエタスの契約の中にそういった資金についての規定を見出すことが出来る。そういった資金はあるソキエタスの成員が、”fuori del corpo della compagnia”(コンパニーアの資本金の外側で)所有するものである。というのもここにおいてはソキエタス(コンパニーア)の資本金の特徴は、ソキエタスの成員がその資本金における自己の出資額を決算が行われるまでは変更することが出来ないということであり、そのために次のことを受け入れなければならなかった。つまり各ソキエタスの成員は当初の出資金以外の資金を初期出資と同じやり方でソキエタス(コンパニーア)に関連付けることが出来ないということである。そういった類の資金は、そのソキエタスの成員独自の勘定として取り扱うことが可能であろう。その勘定とは、その金額についてはその成員が総決算の時以外であっても増額したり減額したりすることが出来る、そういう性格のものである。そのことに適合するのは、――そしてそれはソキエタスの契約の中で何度もはっきりと述べられていることであるが、――そういった資金はその成員の出資金と同様のやり方では収益や損失に関与することは出来ないということである。大抵の場合、そうした資金はソキエタスにとっては単にそれをソキエタスの成員に対して利子を支払うべき借り入れであるように見え、それは今日においての、いつでも引き出すことが出来る銀行預金と同じである 30)。

30)Peruzziにおける1300年のソキエタス契約(Peruzzi編 l.3 c.2 6番)。結論部は:Ordinato si è quando faremo ragione di detta compagnia che ciascuno abbia sua parte siccome toccherà per migliajo; ancora si è ordinato che quelli compagni che tengono de’ loro danari fuori del corpo della compagnia e dovranno riaverli da essa la compagnia ne dove a quei cotali a ragione dell’ 8 per cento l’anno.
(次のことが取り決められる。つまり我々が前述のコンパニーアについて権利を持つ場合、その権利とはそれぞれが自分の取り分を1000分のいくつという単位で表された分だけ持つことになるというものである。しかしまた次のことも取り決められる。つまりこれらのコンパニーアの成員達が彼らのお金をコンパニーアの資本金以外で保持する場合、彼らはそのコンパニーアから1年間8%を利子として支払いを受けなければならない。)

 1322年のアルベルティ家のソキエタス契約: … il corpo della compagnia diciamo che sia in somma l. 25000 a fiorini e ciascuno debba partire per sua parte per gli denari che metterà per suo corpo di compagnia del guadagno e perdito che Iddio ne desse; e que’ denari che si metterano per lo corpo siano obbligati alla detta compagnia e niuno ne posse trare nè avere per niuno modo, salvo che quando si facesse il saldamento della regione della detta compagnia e se avesse alcuno che ne volesse traere, si possa in questo modo che da quello saldamento inanzi debba abbattere di sua parte e di suo corpo di compagnia quanti danari egli traesse e quei che rimangono s’intendono essere sua parte. Ancore se … volesse al saldamento … mettere … piu danari … debba dal saldamento … inanzi partire per gli denari che vollà mettere … E ciascuno de’ detti compagni che avrà danari nella detta compagnia, oltre i denari che avrà per il suo corpo, stea al provvedimento degli altri compagni p.p. t. I p.25).
(…我々はコンパニーアの資本金を合計でフィオリーノ金貨換算で25,000リラとする。それぞれの者はそれぞれの持分としていくら出資するのかを明確にしなければならない。その投資した資金については、コンパニーアの資本金の中でその者の持分となり、そこから上がる利益と損失については神がそれを与え給うであろう。このコンパニーアの資本金として投資された資金については、前述のコンパニーアの債務と見なされ、誰もその資金を引き出したり所有するすることはどんなやり方でも出来ない。ただ前述のコンパニーアがその所在地にて実施する決算の場合を除く。もしコンパニーアの成員の内の誰かが(資本金から)お金を取り戻したいと思う場合には、この決算の時は可能であるが、その際にはあらかじめその者の分の資本金をその分だけ減額しておかねばならず、自分の分の資本金からいくら取り戻してその結果残ったその者の資本金がいくらになるかを明確にしなければならない。しかしもし成員の内の誰かが決算の時に更に資金を投入したい場合には、その決算の時ににいくら増資したいかをあらかじめ明確にしておかなければならない。そして前述のコンパニーアの成員の内の誰かが、そのコンパニーアにおける自分の分の資本金を更に増やしたい場合には、その金額をあらかじめ他の成員に通知しておかねばならない、等々。(t. I p.25))

 ここで書かれていることはPeruzzi編の1304年のアルベルティ家の契約の内容と既に合致している。

1336年のアルベルティ家の相続協定

 こうした(コンパニーアの成員間の)人間関係の全体像について理解する上で最も良い材料となるのは、1336年のカロッチオ、ドゥッチオ、そしてアルベルトの3兄弟のラポ・デル・グィディーチェ・デイ・アルベルティの遺産についての相続協定であり、その遺産はその協定の時まで17年間も分割されない状態のままで置かれていた。その協定における本質的な取り決めの部分をここで吟味する意義が十分あるであろう 31)。

31)Passeriniによる出版物、Gli Alberti di Firenzeを参照。

 ラポ・デル・グィディーチェは死の際にコンパニーアにおいて、それへの出資分として1200リブラを保持していた。1336年の遺産分割の際には財産の内訳は次のようになっていた《死の際の1200リブラの出資金とと下記の数字との関連が不明、出資金ではなく下記の”in Accomandigia”(預け入れ金)のことか?》:

  22,300リブラ            コンパニーアの資本金中の出資額
  10,308リブラ18ソリドゥス6デナリ   コンパニーアへの出資金以外の投資額
  —————————————————————————————
  32,608リブラ18ソリドゥス6デナリ  が動産として、それに
   4,785リブラ            の不動産(課税対象額)が加わり、合計で
  —————————————————————————————
  37,393リブラ18ソリドゥス6デナリ  が分割対象の総額となる。

 この合計額から、4,008リブラ18ソリドゥス6デナリが兄弟達の共通の負担分として、コンパニーアに対しての”in Accomandigia”(預け入れ金)として控除されることになる。このことの意味は:利子を条件とした預け入れかあるいは疑似的なコムメンダ(資金委託)で、つまりは収益の分け前を条件としてのものである。この場合においては利子付きの預け入れの方がまずはより確からしく思われるが、しかしながらジェノヴァにおいてコムメンダによる委託の商品がソキエタス自身の商品と並置されたように、それ自体としてここではコムメンダ(による出資)が出資資本金に並置されていると解釈することも出来る。ソキエタスの成員はそれから出資金を保持している公開社員であるのと同時に、匿名の社員(持分所有者)であるとも考え得るであろうし、利益の分割の仕方については、推定ではあるがそれぞれ異なっていたであろう。この事例においてまた後者の匿名社員という人間関係が想定されているであろうことは、この協定の中で言及されている亡父の遺言に基づく規定が示している通りである。その遺言によれば3人の息子をはフィオリーノ金貨換算で200リラをそれぞれの息子(亡父の孫)のコンパニーアへの出資分として負担することになっており、この規定の詳細な記述は先ほど述べた疑似的なコムメンダを意味している 32)。

  資本金として設定されている金額   37,393リブラ18ソリドゥス 6デナリ
- 各成員についての控除分        4,008リブラ18ソリドゥス 6デナリ
—————————————————————————————–
  差し引き残額            33,385リブラ 0ソリドゥス 0デナリ

この残額については3人の兄弟の間で分割される。そしてなるほどより年長の兄弟の分け前の分についてはその妻の嫁資がゲマインシャフトの中に算入されている筈なので、カロッチオの取り分はドゥッチオよりも500リブラ多くなり、またドゥッチオはアルベルトよりも1000リブラ多く取るということになる。
従って兄弟間での分割の内訳は:
  カロッチオ  11,794リブラ
  ドゥッチオ  11,295リブラ
  アルベルト  10,295リブラ
  ———————————
  合計     33,385リブラ

となる。これによって資本金である33,385リブラは上記のようにきれいに分割されてそれぞれの持分が設定された訳である。

この遺産分割については次図で再確認する:
それぞれの所有分は 33):

32)この場合において、コムメンダ的に委託されている資本に対して、更にある金額を追加したりまた何かの用益権を更に付加するということが認められていなかったというまさにそのことから、次のことが明らかになる。つまりそのようなコンパニーアの資本金の外にある資金の受け入れが、今挙げたケース以外では許されていたことを。

33)ここに引用された数字は、Passerini編の書籍によっているが、写本の状態が良くなかったことが、あるいは印刷が良くなかったことが原因で、ひどく歪んでしまっており、計算の結果がしばしば食い違っている。私はそれに対して自分なりの修正を施しているが、ただそれによってのみ正しい計算結果を確認出来たと考えるが、しかし一つ一つの修正についてここで細々と述べるには紙面が足りない。

       カロッチオ   ドゥッチオ   アルベルト    合計
———————————————————————————————
1)動産    725L-S-D   2,030L-S-D   2,030L-S-D   4,785L-S-D
として

2)資本金に  7,766L13S04D  7,766L13S04D 6,776L13S04D  22,300L-S-D
組み入れ                  《他が正しければここは
                       6,766S13S04Dの間違い。》
3)資本金外の3,303L6S8D    1,498L06S08D 1,498L 6S 8D   6,300L-S-D
資金
———————————————————————————————–
合計    11,795S-S-D   11,295S-S-D  10,295S-S-D   33,385L-S-D
             上記以外のコムメンダによる委託    4,008L18S06D
             —————————————————————
             以上で前述の資本合計となる。     37,393L18S06D
《L=リブラ、S=ソリドゥス、D=デナリ、1L=20S、1S=12D》

 この表から分るように、それぞれのソキエタスの成員が所有するのは:
 1)不動産であって、ソキエタスとは無関係に存在するもの。
 2)動産であって、明示的に示されている限りにおいてソキエタスとは無関係のもの。
 3)動産であって、ソキエタスにおいて、利子付きという場合であれ、利益についての配当という形であれ(無利子の預け入れではない、それは用益権への言及が示している通りである)、投資されているもの。
 4)コンパニーアの資本金の中での各自の出資金としての財産。

成果

 corpo della compagnia というイタリア語での表現は、ラテン語では corpus societatis (ソキエタスの実体)に相当する。このラテン語での表現は法律家においての、例えばBaldusの用法では、外部に対する関係においてのゲゼルシャフトの財産、つまり合名会社の特別財産を意味する。ここにおいては同じ表現が内部に対しての関係としての特別財産を意味するのであり、それはこれまで述べて来た状況の中から発生してきたように見える。諸法規が外部に対しての特別財産というものを制定し定義するように、ソキエタスの契約はそういったものを内部に対してソキエタスの成員達に対して制定し定義するのである。そして外部に対してのゲゼルシャフトの特別財産と同じものの内部に対してのものが全く同一のものであることは全く疑いの余地が無い 35)。この2つが相等しいということは何らの偶然でもなく、また法学における観察において無視して良いことでは全く無い。更に次のことについては詳しく論じるまでもなく自明のことである。つまり corpus societatis というものは必要性から生まれた合名会社の歴史的な発展であり、ゲマインシャフト(会社)の位置付けとして、(会社の)財産に対する唯一の主体であるということと適合している。以上のことを見解としてまとめると、この corpo della compagnia というものは、フィレンツェの(法的)文献史料においては、その概念を他から切り離して特別なものと捉え、そしてそれに対して特別の記述を行うことが本質においての目的であった。ここでの成果としては、 Laband の見解に対しての歴史的な観察に基づく意見の表明という意義を持っている。

34)Consilia V 125を参照。

35)もちろんこの同じであるということの意味は、corpo della compagnia と corpus societatis が表現として意味が同じだからではなく、誰かが “nella compagnia”(コンパニーアの中で)持つもの(Statuto dell’ Arte di Calimata I c. 62の先に引用した部分を参照)で、まさにここで記述した出資金以外のもので、外部に対しての関係で同一の役割を持つ何か別のものが存在するということは全く考え難いからである。

Consitutum Ususの中にcompera(e)が特別な概念として使われているか?

全集版のP.279の10行目~12行目の
Für die von einem Teilhaber auf eigene Rechnung abgeschlossenen comperae haben die anderen ein Eintrittsrecht (nach Art der heutigen offenen Handelsgesellschaft).
(ある構成員によってその構成員の会計中で締結されたcomperaeについては、他の構成員は介入権を保持する。(今日の合名会社でのやり方と同じ))
にある”comperae”について、全集版の注釈は、”Erwerbung durch Kauf. Weber übernimmt den Quellenbegriff des Constitutum Usus.”(購買の業務。ヴェーバーはConsitutum Ususの中の概念を使っている。)としています。
これについて、本当にConsitutum Ususの中にそういう概念が定義されているのかを確認しました。Consitutum Ususのテキストを入手するのに苦労しましたが、結局以下のオンラインでのデジタルテキストを発見しました。
このサイトでは検索が出来ます。
(1)”comperae”での検索→ヒット数0。
(2)”compera”での検索→ヒット数4。具体的には以下の箇所です。どの例を見ても単なる「購買」という意味で使われているように見え、全集版の注釈が言っているような特別な概念として定義されているような事実は確認出来ませんでした。おそらくこの注釈は想像で書いているもので、裏付けを欠いた根拠の無いものです。

Page 167 – 1 matching term
…o. De compera mobilium re- rum faota, ut in alia terra solutio earum vel pretii fiat. De naulo navium , et raari- nariis. De iactu navium. De rebus que inveniuntur in mari. De darapno navis dato ab altera navi. Deprestantiis rerum que con- stant pondere numero et mensura, quod est mu- tuum; et ideo …

Page 238 – 1 matching term
…od in compera datum fuit recipere. Verumtamen aliquis infrascriptorum , aliquam penam per ii-‘ bram alii presenti et scienti et consentienti cum ille expensas fecerit, dare non teneatur, nisi ei quesierit vel interdixerit: tunc enim secun- dum quod superius dictum est, fratri vel nepoti reddere comp…

Page 247 – 1 matching term
…tatem compera– tori dedit solverit, capitale cum pena duorum denariorum per libram in mense, ille qui potestatem dedit ei socio qui comperaverit red- dere teneatur. Quod diximus de eo qui potestatem socio dedit, et e converso, dicimus de eo qui potestatem a socio accepit. Constituimus generaliter, u…

Page 265 – 1 matching term
…I. De compera mobilium rerum facta ut in alia terra solutio earum vel pretii fiat. De aliquo mobili venditionem si quis alicui fecerit in aliquo tassedio salvo in aliqua nominata navi, si navis salva ierit, ven- ditionem complere teneatur; quam si non compleverit, dampnum quod inde babet ille qui co…

V. Florenz P.306 – 311 ドイツ語原文(41)

ドイツ語原文の第41回目です。ここではまた注釈で長々とイタリア語が…
それからここではアルベルティ家の遺産分割の計算式が出てきます。ちょっとテキストだとフォーマットが崩れてしまいますが、最終的にはHTMLの表を使うなどを検討しますが、それまではご寛恕ください。その中で、l.、sol.、denとあるのはそれぞれ、リブラ、ソリドゥス、デナリの略です。
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2. Mobiles Privatvermögen.

 Indessen auch Mobiliarvermögen besitzen die socii außerhalb des Gesellschaftsfonds, und darunter, was für uns besonders wesentlich ist, Kapitalien, welche werbend bei der Kompagnie angelegt sind und doch nicht zur Einlage gehören. In fast allen Sozietätsverträgen wird Bestimmung über diejenigen Gelder getroffen, welche ein socius „fuori del corpo della compagnia“ hat. Da nun das Charakteristikum des corpo della compagnia ist, daß der socius seinen Anteil daran nicht vor der Abrechnung verändern kann, so muß angenommen werden, daß jene anderen Kapitalien nicht in dieser Weise vinkuliert sind. Sie würden also ein Konto des socius darstellen, welches er vermehren oder vermindern kann auch zu anderen Zeiten als bei der Generalrechnung. Dem entspricht, — und dies ist wirklich mehrfach in den Sozietätsverträgen ausdrücklich gesagt —, daß sie auch nicht in derselben Weise wie die Einlagen der socii am Gewinn und Verlust partizipieren können. In der Regel scheinen sie von der Sozietät dem socius verzinst worden zu sein, wie ein heutiges jederzeit kündbares Depot 30).

30) Sozietätsvertrag der Peruzzi v. J. 1300 b. Peruzzi 1. 3 c. 2 Nr. 6). Am Schluß: Ordinato si è quando faremo ragione di detta compagnia che ciascuno abbia sua parte siccome toccherà per migliajo; ancora si è ordinato che quelli compagni che tengono de’ loro danari fuori del corpo della compagnia e dovranno riaverli da essa la compagnia ne dove a quei cotali a ragione dell’ 8 per cento l’anno.

 Sozietätsvertrag der Alberti v. 1322: … il corpo della compagnia diciamo che sia in somma l. 25000 a fiorini e ciascuno debba partire per sua parte per gli denari che metterà per suo corpo di compagnia del guadagno e perdito che Iddio ne desse; e que’ denari che si metterano per lo corpo siano obbligati alla detta compagnia e niuno ne posse trare nè avere per niuno modo, salvo che quando si facesse il saldamento della regione della detta compagnia e se avesse alcuno che ne volesse traere, si possa in questo modo che da quello saldamento inanzi debba abbattere di sua parte e di suo corpo di compagnia quanti danari egli traesse e quei che rimangono s’intendono essere sua parte. Ancore se … volesse al saldamento … mettere … piu danari … debba dal saldamento … inanzi partire per gli denari che vollà mettere … E ciascuno de’ detti compagni che avrà danari nella detta compagnia, oltre i denari che avrà per il suo corpo, stea al provvedimento degli altri compagni p.p. t. I p.25).

 Entsprechend schon der Vertrag der Alberti von 1304 b. Peruzzi.

Erbrezeß der Alberti von 1336.

 Die beste Übersicht des ganzen Verhältnisses gibt der Erbrezeß der Brüder Carroccio, Duccio und Alberto di Lapo del Giudice dei Alberti vom Jahre 1336 über das Vermögen ihres 1319 verstorbenen Vaters, welches also bis dahin, 17 Jahre hindurch, ungeteilt geblieben war. Die wesentlichen Bestimmungen desselben mögen daher hier Platz finden 31).
Lapo del Giudice hat bei seinem Tode 1200 1. in der Kompagnie als Einlage stecken gehabt. Bei der Teilung 1336 sind vorhanden:

l. 22300 dentro il corpo della compagnia
l. 10308 sol. 18 den. 6 fuori del corpo della cia, zusammen
——————————————————————–
l. 32608 sol. 18 den. 6 an Mobiliarvermögen, wozu
l. 4785 an Immobilien zum Taxwert)
kommen,
zusammen
——————————————————————–
l. 37393 sol. 18 den. 6 an Teilungsmasse.

31) Abgedruckt bei Passerini, Gli Alberti di Firenze.

 Hiervon sollen l. 4008 sol. 18 den. 6 für gemeinsame Rechnung der Brüder bei der Compagnie „in Accomandigia“ gegeben werden. Das kann heißen: in Depot gegen Zinsen oder als quasi-Kommenda, also gegen Gewinnanteil. Im vorliegenden Fall scheint zunächst ersteres wahrscheinlicher; allein an sich konnte, wie in Genua die Kommenda neben den Sozietätsgütern, so hier eine Kommenda neben der Einlage stehen. Der socius wäre dann zugleich offener Gesellschafter mit Einlage und stiller Teilhaber, die Gewinnanteile wären vermutlich verschieden. Daß in casu auch letzteres Verhältnis gemeint sein kann, zeigt die in demselben Rezeß erwähnte Bestimmung des Testaments des Vaters, wonach die Söhne sich mit 200 fior. für Rechnung jedes Enkels an der Kompagnie beteiligen sollen und daß die vorgedachte Kommendierung die Ausführung dieser Bestimmung darstellt 32).

  Der von dem Kapital von l. 37393 sol. 18 den. 6
  nach Abzug jener l. 4008 sol. 18 den. 6
  verbleibende Rest von l. 33385 sol. — den. —

soll unter die drei Brüder verteilt werden und zwar soll, da in den Anteilen der älteren Brüder die in die Gemeinschaft gefallenen Mitgiften ihrer Frauen enthalten sein müssen, Carroccio 500 l. mehr als Duccio und dieser 1000 l. mehr als Alberto erhalten. Es erhalten also:

Carroccio l. 11795
Duccio l. 11295
Alberto l. 11295
——————————————————————
womit das Kapital wie oben l. 33385 aufgeteilt ist.

 Diese Erbteile werden nachgewiesen wie folgt:
 Es erhalten 33):

Carroccio Duccio Alberto Zusammen
—————————————————————————————————————–
1) An
Immobilien l. 725 s.— d.— l. 2030 s.— d.— l. 2030 s.— d.— l. 4785 s.— d.—
2) Dentro il
corpo della cia l. 7766 s.13 d.4 l. 7766 s.13 d.4 l. 6776 s.13 d.4 l. 22300 s.— d.—
3) Fuori del
corpo della cia l. 3303 s.6 d.8 l. 1498 s.6 d.8 l. 1498 s.6 d.8 l. 6300 s.— d.—
—————————————————————————————————————–
Zusammen l.11795 s.— d.— l.11295 s.— d.— l.10295 s.— d.— l. 33385 s.— d. —

Hierzu die akkommendierten: l. 4008 s.18 d.6
ergibt als Gesamtkapital obige: l. 37393 s.18 d.6

32) Gerade daraus, daß im vorliegenden Fall vertragsmäßig die Entnahme von Beträgen und usifrutti auf das kommendierte Kapital ausgeschlossen wird, geht hervor, daß solche Entnahmen auf derartige, außerhalb des corpo della Cia stehende Beträge sonst zulässig waren.

33) Die Zahlen sind bei Passerini, sei es durch schlechte Abschrift oder Druckfehler stark entstellt, das Resultat stimmt rechnerisch nicht. Die von mir vorgenommenen Korrekturen mögen sich hier nur durch das dadurch gewonnene klare rechnerische Resultat rechtfertigen, eine Erörterung jeder einzelnen Verbesserung verlangte unverhältnismäßigen Raum.

Wir sehen also, daß jeder socius besitzt:
1) Immobiliarvermögen, welches außerhalb jeder Verbindung mit der Sozietät steht.
2) Mobiliarvermögen, welches, soviel ersichtlich, außer Beziehung zur Sozietät steht;
3) Mobiliarvermögen, welches bei der Sozietät, sei es zinsbar, sei es gegen Gewinnanteil nicht als zinsloses Depot, wie die Erwähnung der usifrutti zeigt) belegt ist.
4) Vermögen innerhalb des corpo della compagnia.

Ergebnis.

 Der Ausdruck corpo della compagnia entspricht dem lateinischen corpus societatis, letzterer bedeutet in der Sprechweise der Juristen, z.B. des Baldus 34), im Verhältnis nach außen das Gesellschaftsvermögen, also das Sondervermögen der offenen Handelsgesellschaft. Hier heißt derselbe Ausdruck das Sondervermögen |
im Verhältnis nach innen, wie aus dem Gesagten hervorgeht. Wie die Statuten ein Sondervermögen nach außen, so konstituieren die Sozietätsverträge ein solches nach innen, gegenüber den socii; und es kann keinem Zweifel unterliegen, daß das Gesellschaftsvermögen nach außen mit demjenigen im inneren Verhältnis identisch ist 35). Daß dies Zusammenfallen kein zufälliges oder von der juristischen Betrachtung zu ignorierendes ist, bedarf nicht der Ausführung, es war der historischen Entwicklung der offenen Handelsgesellschaft nach notwendig, der Stellung der Gesellschaft als Subjekt eines Vermögens allein entsprechend. Dies zur Anschauung zu bringen, war der wesentliche Zweck der Aussonderung und gesonderten Darstellung der Florentiner Quellen. Das Ergebnis ist von Bedeutung für die Stellungnahme der historischen Betrachtung zu Labands Auffassung.

34) Consilia V 125.

35) Natürlich nicht wegen der Identität des Ausdrucks corpo della compagnia und corpus societatis, sondern weil schlechterdings nicht erdenklich ist, was sonst im Verhältnis nach außen dasjenige sein sollte, was jemand „nella compagnia“ hat Statuto dell’ Arte di Calimata I c. 62 sup. cit.), als eben die hier geschilderte Einlage.

V. Florenz P.302 – 306 日本語訳(40)

日本語訳の第40回目です。
英訳はますます手抜きになってきて、時には元のイタリア語の文章の半分だけ訳している箇所まで出て来ています。
そのため、自分で考えて訳すしか無くなっておりその分時間がかかっています。
特に、piccioliという単語が中々辞書に見つからず苦労しましたが、イタリアのフィレンツェの古文書館に残された初期の帳簿をデジタル化して会計ソフトで解析するというすごい事をされている方のサイトを見つけて解決しました。(そちらは「13世紀後半から14世紀前半におけるフィレンツェの通貨について」という別記事にしています。)
なお、これまでの訳でアルベルティ家、ペルッツィ家としている所は、別の書籍を見るとアルベルティ商会、ペルッツィ商会とされています。しかし既に商会という形で「会社」が発生していることにするとヴェーバーの論述と合わなくなるため、現時点では「家」にしておきます。最終的にどうするか検討します。
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家計ゲマインシャフト

 まず第一に登場して来るのは、ゲゼルシャフトの自然な特性としての共通の家計である。libro segreto des Giotto Peruzzi(ジオット・ペルッツィの決算帳簿) の1308年以下及びその他の年の中にある記帳明細は、あるソキエタスの成員のソキエタス共通の費用として支出された分をある成員個人が立て替えた生計上の支払い 23)についての精算を含んでいる――:それは例えばパン、塩漬け肉、酒、馬、ロウソク、小遣い(danari borsinghi《=財布の中のお金》)、奉公人の賃金など――そしてそれらから切り離されていない帳場や商品倉庫での必要な支出、例えば定型文書と業務の帳簿用の羊皮紙、封ろう、筆記用具などである。これらの支出についてはまずは金庫番のソキエタスの成員によってソキエタスの共通金庫から払い出され、それから個々の関連する家族のメンバーに対して割り当てられる 24)。

23)Baldusによってもまた、Consilia II 260 において、家計上での費用支出で疑わしいものは、単純にソキエタスの成員達による議論の対象となっている。

24)例えば Peruzziの: 1308年の codici(補遺)の t. I p.2:
Sono lire 698. 16. 8 a fiorini che Tommaso Peruzzi e Compagni nostri pagarono per me Giotto Peruzzi per la terza parte di spese di casa e famiglia comune col detto Tommaso e con Arnoldo miei fratelli la quale fue da Kalen novembre 1308 a Kalen novembre 1309 — — l. 698. 18. 8.
(私は8月16日に698リラをフィオリーノ金貨換算で《当時のフィレンツェはフィオリーノ金貨とピッチョロ銀貨が使われていたが、この2つの交換比率は変動していたため{銀は次第に減価していた}、この当時金額をリラで言う時はどちらの価値をベースにしたかを言う必要があった。》受け取った。それはトマソ・ペルッツィと私の所属するソキエタスが私ことジオット・ペルッツィに対して支払ったもので、それは家と家族の共通の出費の1/3についてであり、前述のトマソとアルノルドの2人の兄弟と一緒に{1/3ずつ}もらったものであり、それは1308年の11月1日から1309年の11月1日についての支出予定としてである。―――698リラ、8月18日。)

 1309 p.3: Sono l. 933. 4. 10 a fiorini che Tommaso etc. pagarono etc. per la terza parte di spese di casa, di famiglia, per fazioni di comuni, di cavalli e di fanti, pane e vino e a nostra e loro spese comuni con Tommaso suddetto e Arnoldo nell’ a.
 (1309年のp.3:私は10月4日に993リラをフィオリーノ金貨換算で受け取った。それはトマソ他が支払ったもので、それは家、家族と、またソキエタスの共通費用の一部について、馬、{男の}召使い、パンと酒、また上記のトマスとアルノルドとの共通の支出を含めた1310年の予定支出の1/3としてである。しかしこの金額は137番帳簿の分として記帳される。―――933リラ、10月4日。)

 1310 pero in spese in questo libro nel 137 — — — — — l. 933. 4. 10. 1310 … per spese della mia famiglia per calzare, vestire, danari borsinghi, più 35 fiorini d’oro giocati e 45 fior. d’oro per spese di mobilia al bagno a Menzona come appare al libro della compagnia.
 (1310年…私の家族の次の支出について、つまり普段着とドレスと、お小遣い、の支出分として追加の35リラがフィオリーノ金貨換算で提供され、更に45リラがフィオリーノ金貨換算でメンツォナの家の浴場の備品の費用として提供され一緒にソキエタスの帳簿に記帳される。)

 1312 … di mangiare e bere, salario di masnadieri, di fanti e lanciulli e spese di cavalli e fazione di comune e altre spese che face a comune …
 (1312年…飲食の費用について、警備担当のごろつき共の賃金、男女の召使いの俸給、馬、ソキエタスの共通費用の一部と、共通の目的で使われた他の費用…)

今やはっきりとした発展が認められるようになった。1313年にはこのような共通の支出、今丁度そう名付けるのであるが、が出現している。しかしそれははっきりそれと強調された例外的な支出と一緒にされており、その例外とは被服費や小遣い銭の費用であった。この最後のものについてはそれを発生させた者の特別な勘定に入れられた 25)。

25)… per la terza parte di spese di casa, di famiglia, e fazione di comune e altre, senza vestimenti nè calzamenti nè danari borsinghi, spese in comune col detto Tommaso mio fratello e con Ridolfo di Donato mio nepote …
(…の支出の1/3について、家の、家族の、そして共通の費用の一部、そして他の費用、しかし衣服、靴、小遣い銭は除き、また前述の私の兄弟であるトマソと私の孫であるリドルフォ・ディ・ドナートと一緒に費用を…)

そのような共通の支出というものが出て来たのに適合してある変化が1334年5月1日のアルベルティ家の相続において同様に出現しているのを見出すことが出来る。それによればある未来の時期まで――その時までは支出はペルッツィ家の場合と同じように取り扱われ――各人は自身の家族の必要とするものの費用を自らが負担しなければならなかった。そこから例外として除かれたものはゲマインシャフトで一緒に行う宴会の費用といくつかの同様のものの費用だった。そういった費用はひとまずは共通の費用として扱われ、その後各家族に割り当てられた。しかしながら明白なこととして、関与している各家族のソキエタスの中での力が異なっていることにより、まずは各々の成員に対してあらかじめ決められている固定額がその者の負担分として記帳され、その後残った分についてだけ均等に分割されてそれぞれの負担とされたのである 26)。

26)1334年の5月1日よりカロッチオ、ドゥッチオとアルベルト・ディ・ラポ・アルベルティの間で次のようなやり方の精算が行われるようになった。つまり、”ciascheduno quelle della sua propria famiglia del suo proprio le debba fare, chome bene piacerne a ciachuno” (各々はこれらの自分自身の家族についての費用について本人自身がそれを負担しなければならない。そのやり方は各々にとって好ましいことである)、これに対し、
“le spese chessi far a chomune, cioè alle tavola nostra, ove chomunemente partecipiamo, e le spese chomuni a minuto diputa a presente affare per noi a Jacopo di Charoccio … queste cotali tassiamo, che ne debba tocchare per anno a Charoccio l. 300 piccioli e a Duccio l. 250 piccioli e a Alberto l. 200 piccioli l’anno.
({ソキエタスの}共通の経費として発生した支出については、それは我々が一緒に集まって会食した費用であるが、その共通の支出は細かなものを含めて出席した者に委任され、我々の間での処理についてはジャコポ・ディ・カロッチオに…この支出については次のように割り当て、今年の内に取り立てなけれならない。カロッチオには300デナリ・ピッチョリで、ドウッチオには250デナリ・ピッチョリで、そしてアルベルトには200デナリ・ピッチョリの支払いを今年の分として割り当て取り立てる。)

 E fummo in achordo che se la detta spesa fosse maggiore che quel chotale piu fosse per terza intra noi e se la detta spesa fosse minore che anche quel meno fosse per terzo intra noi.”
 (次のことについて契約が取り交わされており、上記の支出が今割り当てた金額の合計より多い場合はその超過分は我々の間で1/3ずつ負担する。逆に実際の支出額が割り当て合計額より少ない場合は、その余った分は我々の間で1/3ずつ支払額から控除される。)

《フィレンツェの通貨は従来からあるデナリ・ピッチョロと言う銀貨に加え、1252年にいわゆるフィオリーノ金貨(フローリン金貨)を鋳造し、このフィオリーノ金貨が19世紀における英ポンドや第2次世界大戦後のブレトンウッズ体制での米ドルのように、その当時の欧州での国際金融・商取引における基軸通貨となった。しかし国内での日常品の売買などにはフィオリーノ金貨は額面が大きすぎて使いにくく、デナリ・ピッチョロ銀貨も使い続けられた。1252年での1フィオリーノ金貨は240デナリ・ピッチョロ銀貨の換算レートであったが、このレートは変動するものであり、14世紀前半には1フィオリーノ金貨=780デナリ・ピッチョロ銀貨にまで銀貨が減価していた。このため、何かの金額をリラの単位で言う時はフィオリーノ金貨とデナリ・ピッチョロ銀貨のどちらで換算したものなのかを示す必要があった。なお、このデナリ・ピッチョロは現在イタリア語で、”denaro spicciolo”(小銭)という形で今も残っている。》

 同様の方法で宿泊者があった場合の費用を共通で分担する場合のある決まった額の割当金が規定されている。もし実際の金額がその定額を超えている場合には、超過分は各々が負担していた。費用全体をどのように個々の成員で分担するかについては、ソキエタスにおける兄弟達の動産の額に比例して割り当てられており、該当の者の勘定への算入という形で処理されていた。

 こうした(共通の費用の発生という)変化は、それは我々にはピサにおいて確認した現象を思い起こさせるものであるが、先に叙述した法の発展の傾向について間違えようがないはっきりした具体例を提供している。その傾向には元々無制限であった個々のソキエタスの成員の財の処分の自由という権利を、ソキエタスの人間関係に適合する形で制限するというものである。

ゲマインシャフトの土台としてのソキエタス契約

 いまや我々の研究もゲマインシャフト関係の基礎を論じる所にまで至ったが、その際にその基礎というものは形式的には契約によったものである。なるほど家計のゲマインシャフトというものは、世代から世代へと継続していたが、それへの参加者というものは、継続して同一の者とその子孫であった。しかしながら形式的にはある決まった年数に時間的に制限されたゲゼルシャフトがその都度書面によるソキエタス契約によって作り出されており、その契約が更新される際には常に参加者の分け前としての権利も新たなものに差し替えられた。

27)Peruzziによって既に引用済みの箇所を含む多くのソキエタス契約を含んだ書籍が出版されている。

資本金と各ソキエタス成員の出資

 ソキエタスの資本金――il corpo della compagnia (コムパーニアの実体)――は各ソキエタスの成員の出資金を合計したものとして成立していた。

 これらの出資金は、通常の場合認められうる限りにおいて全部をまとめた合計額として表現され、利益が繰り入れられ損失が控除される。各ソキエタスの成員の出資金は総決算(Generalrechnung)、つまり saldament della compagnia 28) (コムパーニアの決算)と呼ばれたもので、一般的に2年に1回行われる決算までは増額も減額もすることが出来なかった。その決算の時までは、またそのソキエタスの成員の死においても、その出資金はソキエタスに縛り付けられ、そして利益と損失を分割する際の基準となった。決算の時になってやっとソキエタスの成員は出資金の額を変更することが出来、そしてそれ以降増額したまたは減額した結果としての出資金の額でソキエタスの成員はソキエタスに関与し、その金額でのその成員の新たな資本勘定が開設されるのである。その決算において、もしそれがある場合はようやく利益が発生するので、その成員の「購買」もまた疑い無く、前もって一概にはその成員の資本勘定への算入は許されておらず 29)、そうではなく、我々が既に見て来たように個人的なまたは家計上の必需品対する支出も、ソキエタスの共通金庫から支払われ、後にそれらの支出が各成員に振り替えられた。(もしかすると、またはよりむしろ、非常にはっきしたこととして、後の時代になって共通の家計用の金庫はソキエタスの共通金庫から分けられるようになった。)ソキエタスの財産はこういったやり方で、形式的に閉じたものとなっていた。

28)ソキエタス契約の協定として繰り返し登場している。

29)その成員の分の利益の分け前についても同じで、何故ならばそういったものが存在しているのが分るのは決算が行われてからであったからである。

各ソキエタス成員のゲマインシャフトの外部での特別財産。
1.不動産

 まず第一にソキエタスの財産の外部にあるものとして留まったのは不動産の形での所有物だった。共通の不動産というものを見出すことが出来るのは、特にフィレンツェにおける家であり、それはゲゼルシャフトの居住地となっていたが、明らかに共通のものであった。しかしながらソキエタスの契約と決算から次の事が出現して来ているように思われる。つまり資本金への出資だけが計算され記帳されており、資産を分割したり持ち分を計算したりすることは、ただ動産の場合のみに可能となっていた。このことは上記の一般的な(不動産についての)説明と矛盾していない。外見上はっきりした、当時の慣習に適合した、包括範囲の広い不動産の所有はソキエタスの参加者の特別な所有権として成立し、ゲマインシャフトにおいては考慮されなかった。フィレンツェにおける諸家族の間では良く知られているように、家とその分割物《相続の際に、ある家を間仕切で区切って分割することが行われていた。》に対してのはっきりした所有というものが見出される。しかしながら個々のソキエタスの成員の不動産についてはソキエタスの契約の中では全く言及されていない。

13世紀後半から14世紀前半におけるフィレンツェの通貨について

今訳している所の中世イタリア語の文章で、”piccioli”という単語が出てきて、手持ちの紙の辞書にもWiktionaryなどのインターネット上の辞書にも無く、困って色々検索していたら、これはフィレンツェで流通していた銀貨の名前でした。それでこの13世紀後半から14世紀前半のフィレンツェの通貨事情がかなり面倒なので簡単にまとめておきます。
まず、8世紀からこの13世紀前半の欧州での通貨は銀本位制(銀を含むコインが正貨として使われたという意味)で、最初はカール大帝(在位:768~814年)が定めたものです。
この場合、単位としてリブラ、ソリドゥス、デナリがあり(それぞれ元々は重量の単位、イギリスのいわゆるポンドスターリング制では、それぞれポンド、シリング、ペニーに相当)ました。換算率は、1リブラ=20ソリドゥス、1ソリドゥス=12デナリ、つまり1リブラ=240デナリになります。
実際には1リブラの銀貨は、馬鹿でかいものになるため発行されず、いわば仮想通貨でした。この銀本位制は次第に欧州で国際的な商取引や金融取引が活発になってくると、銀自体の貴金属の価値の変動が大きく、また大きな金額の決済には銀貨では相当な重さになって不便であるという問題がありました。(例外的に一部で中東から持ち込まれたDinar金貨が使われていました。)この問題を解決するため、1252年に、フィレンツェとジェノヴァで金貨が鋳造されます。フィレンツェのそれが有名なフィオリーノ(フローリン)金貨です。フィオリーノコイン1枚は1リブラ→1リラでした。この時に従来使われていたDenar Piccioloという銀貨は名前の通り、1枚が1デナリです。そのため1252年時点での1フィオーリノ金貨は240 Denar Piccioloに換算されました。
その後、このフィオリーノ金貨は価値が安定しておりまた額面も大きいということで、中世のヨーロッパにおける国際取引でもっとも使われた通貨になりました。その一方で銀は価値が次第に低く評価されるようになり、1300年代初めには1フィオリーノ金貨は780 Denar Piccioloに換算されるまで減価しました。しかしながらそれでもフィレンツェでの中での通常の商取引は、フィオリーノは額面が大きすぎて使いにくいという理由でDenar Piccioloで行われていました。まさにカール・ポランニーの言う、Special-purpose moneyが複数共存しそれぞれ別の目的で使われるということが起きていた訳です。
以上の理由でこの時代の文書で、リラによる金額を記載する時は、それがフィオリーノ金貨での価値換算なのか、Denar Piccioloでの価値換算なのかを明記することが行われていました。”piccioli”であればそれはDenar Piccioloのその時の価値で換算されたリラ価格ということになります。

参考にしたサイト:
Fiorini, Quattrini e Piccioli. Il sistema monetario europeo nel Trecento
フィオリーニ金貨の誕生と帳簿

P.S.
参考サイトの日本語の方の方から、現代のイタリア語でもspiccioliという単語(spiccioloの複数形)があり、「小銭、釣り銭」の意味であることを教えていただきました。また、伊和辞典によれば denaro spicciolo は小銭という意味です。Denar Picciolo がそのまま現在でも残っている訳ですね。
教えていただいた方にこの場を借りて御礼申し上げます。

V. Florenz P.302 – 306 ドイツ語原文(40)

ドイツ語原文の第40回目です。
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Haushaltsgemeinschaft.

 Zunächst tritt deutlich als Naturale der Gesellschaft der gemeinsame Haushalt hervor. Die Notizen aus dem libro segreto des Giotto Peruzzi aus den Jahren 1308ff. und andere enthalten Abrechnungen der socii über die für gemeinsame Rechnung gemachten Auslagen 23) für den persönlichen Unterhalt —: Brot, Pöckelfleisch, Wein, Pferde, Wachslichter, Taschengeld (danari borsinghi), Dienstboten —, und davon ungetrennt die Ausgaben für die Bedürfnisse des Kontors und Warenlagers, Formulare für Pergamenturkunden und für Geschäftsbücher, Wachs zum Siegeln, Schreibmaterial u.a. Diese Auslagen sind von dem die Kasse führenden socius aus der Kompagniekasse gemacht und werden dann auf die einzelnen beteiligten Familien umgelegt 24). Nun ist eine Entwicklung bemerkbar. Im Jahre 1313 erscheinen als gemeinsam dieselben Auslagen, wie eben genannt, mit Ausnahme jedoch, wie ausdrücklich hervorgehoben wird, der Kosten der Bekleidung und des Taschengeldes; diese letzteren gehen auf spezielle Rechnung dessen, welcher sie macht 25). Eine dementsprechende Änderung findet sich gleichfalls in einem Erbrezeß der Alberti vom 1. Mai 1334. Hiernach soll für die Zukunft, — bis dahin waren die Auslagen behandelt worden wie bei den Peruzzi, — jeder die Kosten der Bedürfnisse seiner eigenen Familie selbst tragen. Ausgenommen davon sind die Kosten der gemeinschaftlichen Tafel und einiges Entsprechende; diese sollen gemeinsam bleiben und umgelegt werden; jedoch wird, offenbar wegen der verschiedenen Stärke der beteiligten Familien, ein fixierter Betrag vorweg einer jeden von ihnen zur Last geschrieben und erst der Rest wird gleich verteilt 26).

23) Auch nach Baldus, Consilia II 260 werden die Haushaltungskosten in dubio einfach de communi bestritten.

24) Z.B. Peruzzi: t. I p.2 der codici 1308: Sono lire 698. 16. 8 a fiorini che Tommaso Peruzzi e Compagni nostri pagarono per me Giotto Peruzzi per la terza parte di spese di casa e famiglia comune col detto Tommaso e con Arnoldo miei fratelli la quale fue da Kalen novembre 1308 a Kalen novembre 1309 — — l. 698. 18. 8.

 1309 p.3: Sono l. 933. 4. 10 a fiorini che Tommaso etc. pagarono etc. per la terza parte di spese di casa, di famiglia, per fazioni di comuni, di cavalli e di fanti, pane e vino e a nostra e loro spese comuni con Tommaso suddetto e Arnoldo nell’ a.

 1310 pero in spese in questo libro nel 137 — — — — — l. 933. 4. 10. 1310 … per spese della mia famiglia per calzare, vestire, danari borsinghi, più 35 fiorini d’oro giocati e 45 fior. d’oro per spese di mobilia al bagno a Menzona come appare al libro della compagnia.

 1312 … di mangiare e bere, salario di masnadieri, di fanti e lanciulli e spese di cavalli e fazione di comune e altre spese che face a comune …

25) … per la terza parte di spese di casa, di famiglia, e fazione di comune e altre, senza vestimenti nè calzamenti nè danari borsinghi, spese in comune col detto Tommaso mio fratello e con Ridolfo di Donato mio nepote …

26) Vom 1. Mai 1334 an soll zwischen Carroccio, Duccio und Alberto di Lapo dei Alberti eine Abrechnung der Art stattfinden, daß „ciascheduno quelle della sua propria famiglia del suo proprio le debba fare, chome bene piacerne a ciachuno”, dagegen „le spese chessi far a chomune, cioè alle tavola nostra, ove chomunemente partecipiamo, e le spese chomuni a minuto diputa a presente affare per noi a Jacopo di Charoccio … queste cotali tassiamo, che ne debba tocchare per anno a Charoccio l. 300 piccioli e a Duccio l. 250 piccioli e a Alberto l. 200 piccioli l’anno.

 E fummo in achordo che se la detta spesa fosse maggiore che quel chotale piu fosse per terza intra noi e se la detta spesa fosse minore che anche quel meno fosse per terzo intra noi.”

 In gleicher Weise wird ein Limitum für den Aufwand gesetzt, welcher auf gemeinsame Kosten für Logierbesuch gemacht werden darf. Was darüber hinausgeht, hat der Einzelne zu tragen. Die Verteilung der Kosten auf die Einzelnen muß, da das ganze mobile Vermögen der Brüder in der Societät angelegt war, durch Anrechnung auf das Konto des Betreffenden erfolgt sein.

 Diese Änderungen, bei welchen wir uns an die in Pisa konstatierten Erscheinungen erinnern, geben ein unverkennbares Beispiel für die früher generell geschilderte Tendenz der Rechtsentwicklung, die ursprünglich unbeschränkte Verfügungsfreiheit des einzelnen socius den Verhältnissen entsprechend zu begrenzen.

Societätsverträge als Grundlage der Gemeinschaft.

 Kommen wir nun auf die Basis des Gemeinschaftsverhältnisses, so ist dieselbe formell eine vertragsmäßige. Zwar setzt sich die Gemeinschaft des Haushalts von Generation zu Generation fort, Teilnehmer sind dauernd dieselben Personen und deren Deszendenz; aber es wird formell jedesmal eine zeitlich, auf eine bestimmte Anzahl von Jahren, beschränkte Gesellschaft durch schriftlichen Societätsvertrag[27] geschaffen und die Anteilsrechte der Teilnehmer wechseln bei jeder Erneuerung.

27) Bei Peruzzi l.c. sind mehrere Societätsverträge abgedruckt.

Grundkapital und Einlage des socius.

 Das Grundkapital der Societät — il corpo della compagnia — setzt sich aus den Einlagen der socii zusammen.

 Diesen Einlagen, welche in der Regel, soviel ersichtlich, runde Summen darstellen, wird Gewinn und Verlust zu- und abgeschrieben. Die Einlage darf der socius nicht vermehren oder vermindern vor der Generalrechnung, saldamento della compagnia 28), die im allgemeinen alle 2 Jahre aufgemacht wird. Bis dahin bleibt die Einlage auch beim Tode des socius vinkuliert und maßgebend für die Gewinn- und Verlustverteilung. Erst beim Saldamento kann er die Einlage dem Betrage nach ändern und ist dann von da an entsprechend der vergrößerten oder verkleinerten Höhe derselben als socius beteiligt, sein neues Kapitalkonto wird mit diesem Betrage eröffnet. Da sich erst beim saldamento der etwaige Gewinn ergibt, so sind zweifellos auch „Entnahmen” des socius vorher überhaupt auf sein Kapitalkonto nicht zulässig 29), sondern, wie wir oben sahen, auch die persönlichen und Haushaltsbedürfnisse bestreitet die Societätskasse und legt sie später um. (Vielleicht oder vielmehr höchst wahrscheinlich hat man später die gemeinsame Haushaltskasse von der Societätskasse getrennt.) Das Societätsvermögen war hiernach ein formell geschlossenes.

28) Stehend wiederkehrende Abrede in den Societätsverträgen.

29) Auch nicht auf seinen Gewinnanteil, denn das Vorhandensein eines solchen konstiert erst bei der Abrechnung.

Sondervermögen des socius außerhalb der Gemeinschaft.
1. Immobilienvermögen.

 Die Einlage des socius umfaßte nicht sein gesamtes Vermögen.

 Zunächst bleibt außerhalb des Societätsvermögens der Immobiliarbesitz. Gemeinsame Immobilien finden sich, insbesondere ist das Haus in Florenz, welches die Niederlassung der Gesellschaft bildet, offenbar gemeinsam. Aber aus den Societätsverträgen und Abrechnungen scheint hervorzugehen, daß man nur die Einlagen an Kapital berechnete und buchte, die Aus|einandersetzung und die Berechnung der Anteile sich nur auf das mobile Vermögen bezog. Es entspricht das ja dem oben generell Erörterten. Der wesentliche Teil des anscheinend, den damaligen Gewohnheiten entsprechend, sehr umfangreichen Immobiliarbesitzes stand aber im Sondereigentum der Teilhaber und kam für die Gemeinschaft überhaupt nicht in Betracht. In den Florentiner Familien findet sich bekanntlich ein starker Besitz an Häusern und Häuseranteilen. Das Immobiliarvermögen der einzelnen socii wird aber in den Societätsverträgen gar nicht erwähnt.

V. Florenz P.298 – 302 日本語訳(39)

日本語訳の第39回目です。これまでソキエタスというと、ごく小規模な貿易のために作られた結社的なものや家内制手工業のような小規模なものが主に扱われてきましたが、ここで論じられるのはフィレンツェでの超巨大銀行家ファミリーで当時ローマ法王やイングランド王にまでかなりの額のお金を貸していました。Scali家の破産も、もっと調べてみると非常に面白そうなのですが、現時点では保留にしておきます。
ところでまた英訳ですが、この箇所において、分らない箇所は訳さないで飛ばす、というかなりの暴挙を行っています。もう一々指摘するのも馬鹿馬鹿しくなってきたので、訳者に連絡はしませんが、英訳読んでヴェーバーの論旨を理解するのはなかなか難しいと思います。
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 またフィレンツェにおいても、より後の時代の会社(ゲゼルシャフト)の商号の名前で契約することへの土台となったものを見出すことが出来る。その商号による契約はソキエタスの債務というものについての純粋に形式的な標識である。しかしながらその商号というものは、実際には発達しなかった。ある側で商号の概念が敬遠されるようになると、別の側ではそれはむしろより強固な概念となった。商号の定義は様々な法規の中ではこうなっている:”asserendo .. se facere pro se et sociis suis.”(自分が自分の名前と自分の属するソキエタスの成員の名前で行動していると主張すること。)それ故にまず第一に浮かんでくる疑問は:誰が一体その者のソキエタスの仲間であるのか、共通の家計や共通の店舗(taberna)がもはや識別のための目印としては十分で無くなった後は?ということである。それに対しての簡単な定義:その者とある商号(Firma)の下である業務を営む者 16)、はまだ使われていなかった。1324年の法規と1355年の法規との間の時期に”publica fama ipsos socios esse”(その者達がソキエタスの仲間であるという公的な情報が存在していること)、それはつまり:該当の者達が外部に対して自分達はそのソキエタスの一員であるというように振る舞い、そしてそれを相手方に確認させる、そういう状況を意味している。これより後の時代の法規においては、もはや識別のための目印一般が挙げられていない。

16)”Quorum nomina expenduntur”(その者達の名前が重視される)というのが、後の時代における定義になる。

 しかしながらそれから契約を行おうとする人は、――それは部分的にはローマ法学理論の影響により――契約の相手がただその契約しようとしているソキエタスの成員の言葉だけによって、その者がソキエタスの名前で契約するのだということについて、本当は連帯責任にはなっていないのではないかという不安に駆られ、その結果としてその契約しようとするソキエタスについての有効性について一人または複数のソキエタスの成員の同意(書)を要望するようになった 17)。このような複数の法規に見出すことが出来る諸規定は、より前の時代の有効性が限定された連帯責任の残滓といったようなものではなく、より後の時代における司法警察的な性質を持った制限であり 18)、それは例えば Statuto dell’ Arte di Calimala 19)の規定と同じ立ち位置のものである。その規定とは官公庁に次のことについての判定をさせるということで、その判定とは外国に旅しているソキエタスの成員達にソキエタスの側から文書によって裏付けられた無制限の権利が与えられているかどうかということについてのものであった。その際のあるソキエタスの成員の正当性の証明は、その成員と同じソキエタスの他の成員の義務として最初から用意されていたものではなく、それはただ国際的な取引における金銭のやり取りの確実性についての要求に支えられていたものだった。Statuta mercatorum の1393年版と1415年の法規集成の中でのそれの改版においては、そういった制限を再度無くしている。それらの法規の版で要求されているのはただ次のことである。”talis contractus esset vel fuisset de aliqua vel super aliqua re spectanti et pertinenti ad societatem seu trafficum hujusmodi sociorum”(そのような契約は、ソキエタスまたはソキエタスの成員の取り引きに関連するかあるいは付属する何か、あるいはその何かに関連するものについてであるとされるか、あるいはあったとされる。)それ故、その契約のソキエタスとの関連性の確認は裁判官に委ねられた。その場合にはただソキエタスの元々の営業内容に含まれる業務のみが取り扱われなければならなかった。

 こういった法の改版によりフィレンツェにおける連帯責任原理の発達は終わってしまっている。この根本原則の決定的な確立は、つまり誰がその商号(の会社)に所属するのかということについての確認方法の確立は、つまりは”cujus nomen expenditur”(誰の名前が重視されるか)ということは、その商号を使って締結された契約に基づく業務に対して保証を与えたし、その確立は先に素描した国際的な発展の一部を構成していた。

17)1324年版の法規と1355年の法規:dummodo nullus socius possit (hiernach wohl nicht nur im Verhältnis unter den socii)) contrahere debitum in civitate vel districtu Florentiae ex quo aliquis socius vel socii teneantur …, nisi talis obligatio fiat de consensu saltem duorum aliorum de ipso societate.(一人のソキエタスの成員も以下のことが出来ないとされている場合は{ここについてはソキエタスの仲間における関係だけに限定されていない}、債務について市内またはフィレンツェの行政区において同意すること、その債務についてはどのソキエタスの成員または成員達も責任を持つが、…もしそのような債務がそのソキエタスの最低2名の同意をもって発生していない場合は。)

18)前注における規定はその効力をフィレンツェの行政区の中に限定している。この規定が狭義の更新であることは、Statuto dell’ Arte di Calimalaがこの規定を含んでおらず、ようやく1341年の Additamenta のSub IIにおいて付け加えられているということから判定出来る。

19)I c. 66を参照。

ソキエタスの財産に対する差し押さえからの個人への債務者の除斥

 今まで述べたことから、あるソキエタスの成員によって契約された債務について、ソキエタスの財産がそれについて責任を負う場合には、その場合にはその関連で次のような概念が生まれてくる。つまりソキエタスの成員の他の(個人的)債務については、ソキエタスの財産は関知しないということである。この論理的帰結は Statuto dell’ Arte di Calimala の次の箇所(I c.56)を思い起こさせる――そしてそれによってソキエタスの特別財産というものが決定的に構成されるのである:

 もしあるソキエタスの成員が(個人的な)債務を負っているとした場合、
 ”in sua specialità a suo nome per carta o per scrittura di sua mano secondo che è principale, o per mallevadore, ove non si faccia menzione della compagnia della quale fosse compagno, fattore overo discepolo … sia costretto cotale obligato nella sua persona e ne’ suoi beni solamente … niuno di quella compagnia possa essere costretto nè molestato … veramente si … avesse alcuni beni in quella compagnia, sia tenuto la compagnia di rispondere interamente di quelli beni per tale obligato e conviuto.”
 (その者の専門の職業において、その者の名前によって簡単な申し込み書によるか、あるいはその者自身の責任に基づくその者の自筆署名付きの契約書によって、あるいは保証人を通じて、その際にその者が成員、使用人頭または徒弟であるという、そのソキエタスへの言及無しに…そのような場合の債務はその者個人の債務であり、またその者自身の財産に対する債務であり…そのソキエタスの成員の誰においてもその債務を強制されたり責任を負わされることはない…本当に…その者が当該のソキエタスにおいて何かの財を持つ場合、そのソキエタスはそのような債務とそれへの同意については、ただその者の{ソキエタスに投資した}財の部分についてだけ責任があるとされる。)

最後に考慮した事例においての規制方法については、ソキエタスの成員への財産分与ということを通じて既に言及して来た。ゲゼルシャフトの財産について何か特別な破産ということが可能かどうかと言うことは、どの法規においても言及されていない。そのような可能性を考えることは困難であると考えられていた。あるソキエタスが破産した場合、そのソキエタスの成員個人に対する債権者はその破産ついては無関係の状態ではいるのは難しかった。そしてそのソキエタスの成員の個人財産はいずれの場合においてもソキエタスの破産に直接関連付けられ、差し押さえられてしまうのである。その次にソキエタスの特別財産についてのゲゼルシャフトに対する債権者の権利が、それはFierli 《第3章の訳注参照》20) が叙述している通りであるが、”sportello”(専用窓口)からの優先的な返済を受ける権利として立ち現われるのである。法的な史料が大規模なゲゼルシャフトの財政的破綻について語っている所では、つまり1326年のScali家《当時のフィレンツェの三代銀行家ファミリーの一つ》の破綻、そしてBardi家の破綻、また1345年 21)のペルッツイ家他の破綻について語っている所では、そういった史料でそういったCompagnia(ソキエタス)を破産者として扱っており、そしてさらにそういったソキエタスについて「破綻しており逃亡している」と説明している。

20)Della Società chiamata Accomanditaを参照。

21)Villani《第5章の訳注参照》の Croniche storiche X c. 4 を参照せよ。

II. 諸文献:アルベルティとペルッツイにおける商業簿記

 これまでに既にしばしば言及してきたこれらの大規模なソキエタスの人間関係について文献史料にて知られていることについて、ここで最終的に更に手短に立ち入ってみたい。その内容は多くはない:最大限に見てもこの2つの規模の大きい、Arte di Calimala に属していた銀行家ファミリーであるアルベルティとペルッツイの両家についての抜粋的記述に過ぎない。それはそれぞれの個別の記述については法学的な視点からではなく、そしてペルッツイに関する部分は、更に素人で専門家ではない者によって出版されたものである 22)。引き続きこの断片的な文献史料においても、我々がこれまで論じて来た発展を再び見出すことが出来るのである。

22)Passeriniの Gli Alberti di Firenzeを参照。Peruzziの storia del commercio e dei banchieri di Firenze も参照せよ。さらにはゴルトシュミットの商業雑誌掲載の論文の第14巻のP.660と比較せよ。