複式簿記もイスラム圏起源?

コムメンダがイスラム圏起源ではないかという説を紹介しましたが、いわゆる複式簿記は、こうしたコムメンダやソキエタス・マリスにおいて、その時々の貿易事業の精算を行う目的でイタリアにて発明されたという説が一般的です。(複数の出資者{一方はトラクタトールで航海を自分で行っている}による貿易の成果を借方と貸方という形で対照することにより、利益の分配を公平にしようとしたのが最初の契機のようです。)しかし、コムメンダがイスラム圏起源なら、複式簿記もそうではないか、という仮説は当然考えられる所です。
この点で、きちんとした根拠を示すことなく、「複式簿記の起源は諸説あるが、ローマ説、12世紀頃のアッバース朝のイスラム商人説がある。その後、複式簿記の仕組みはヴェネツィアやジェノヴァの商人を経てヨーロッパにもたらされた。」としているのが日本語のWikipediaです。そこで根拠として示されているのは宮崎正勝の「知っておきたい「お金(マネー)」の世界史」、角川学芸出版、2009年だけです。しかしこの本を入手してチェックすると、「簿記」についてはイスラム圏からイタリアに伝わったとありますが、「複式簿記」が伝わったとはどこにも書いていません。(その辺りの書き方が紛らわしいのは事実ですが。)言うまでもなく、「簿記」(単式簿記)と「複式簿記」ではまったく意味が違います、単式簿記は世界各地で行われていました。単式から複式に飛躍するには大きな発想の転換が必要です。
この「知っておきたい「お金(マネー)」の世界史」はタイトルからも明らかなように学術書ではなく一般向けの啓蒙書ですが、他に「最近よく使われる「リスク(予測できない危険)」の語源が海図のない航海を意味するアラビア語にあることでもわかるように」とも書いています。しかしOEDをチェックした限りでは、定説となっているriskの語源はラテン語→フランス語→英語のルートです。確かに”It has also been argued that post-classical Latin resicum , risicum , etc. is derived < the specific senses ‘fortune, luck, destiny, chance’ of Arabic rizq “という「説がある(been argued)」とは紹介されていますが、そこで示されている意味は「予測できない危険」でもなく「海図のない航海」でもなく、「幸運、運命、チャンス」としており、まったく意味が違います。この本の参考文献リストでのイスラム圏に関する本は著者本人の本だけであるため、まったく論拠にはなりません。(このように信用出来るかどうかも分からない本についても、ともかく何かの出版された本に書いてあれば根拠として採用してOK、というのが日本語Wikipediaのきわめておかしな記事作成ルールになっています。この手の馬鹿げたルールを振りかざすWikipedia自警団というのが跋扈しているため、私は半年ほど前にWikipediaの記事を編集するのを止めました。)
簿記研究者の片岡泰彦氏は、複式簿記の起源について「古代ローマ説」と「イタリア説」を並記して紹介しています
英語版Wikipediaは、複式簿記の起源について、”Double-entry bookkeeping was firstly pioneered by the Romans and in the Jewish community of the early-medieval Middle East.”としており、古代ローマと、中世初期における中東の「ユダヤ人コミュニティ」を挙げています。しかしこれもL. M. Parkerという人の仮説に過ぎず、仮にユダヤ人コミュニティで複式簿記の萌芽があったとしても、それがイタリアでの複式簿記の採用にどう影響したのかというのは現時点でも不明のようです。(ここを参照。)

p.s. 
橋本寿哉氏の「中世イタリア複式簿記生成史」(2009年3月出版、白桃書房)のP.52に以下の文章があります。
「これまでにも、複式簿記はアラブ・イスラム世界の強い影響によって生成したとする指摘がたびたびなされてきた。(中略)複式簿記という計算機構そのものの生成に当たって、アラブ・イスラム世界からの具体的な影響があったことを証拠付けるものは存在していない。」
これがまっとうな学問の分野では普通の考え方と思います。呉々もWikipediaの記述を信用しないでください。