VI. Die juristische Literatur. Schluß P.316 – 320 日本語訳(43)

日本語訳の第43回目です。
ソキエタスの連帯責任原理の法的な論理構成についてのこみ入った議論が展開されています。
ヴェーバーも言っていますが、法学というのは時に非常に奇妙な論理をひねり出すんですよね。個人的には大日本帝国憲法から日本国憲法への移行についての「(1945年)8月革命説」を思い出します。
残りが12.5ページでラストスパートに入っています。
=======================================
(前回の段落から続く)
ソキエタスの成員達はソキエタスの財との関連では一まとまりで”una persona”(一人の個人)と見なすことが出来るとしよう。その場合であってもソキエタスの特別財産というものは発達することがなく、そうではなくてソキエタスの基金というものは言ってみればローマ法のdos(嫁資)と同じように扱われていた。《ローマ王の嫁資(dos)は家ゲマインシャフトの財産とは別勘定にされ、法律上は夫の所有物であるが、実質的には妻の所有物とされ、離婚したり寡婦になったりした場合は妻であった女性に戻された。》ソキエタスの財というものは次の場合にはむしろ特別財産とは全くの逆の方に置かれていた。その場合とはBaldusが corpus societatis (ソキエタスの実体→資本金)について語っていた時既にそうであった 6)。そして彼の言葉が引用される時、そして他には Dezisionen der Rota von Genua 《ジェノバ控訴院決定集、1606年》の中でソキエタスが “corpus mysticum”《神秘的な体、元々はキリスト教で信者の集まりをキリストの体と一体化した一つの霊的な共同の体と見なすもの。転じて欧州において人以外のものに人格を認める場合に使われた。》として、つまりある種の法人として呼称されている場合である。ここにおいてはソキエタスの基金はソキエタスの財に発展したのであるが、しかしそれはゲゼルシャフトの財ではなく、法人(Korporation)の財としてであった。というのは corpus societatis という表現は既にBaldusにおいても法的な主体――つまりゲゼルシャフト――または法的な客体――その財産――を意味していただろうからであり、――後者についてより確からしいと思われるのは 8)、――少なくとも明らかなのは、ソキエタスを法人と見なすことの法人にとっての動機は次のような観察によるものであるということである。その観察とは、破産時の先取り特権(債権の優先回収権)を用いた法的な論理構成はソキエタスの基金に財産としての特質をよりむしろ認めなければならない場合に十分では無かったというものである。その財産についてはそこからただソキエタスを一種の法人(Korporation)として把握することによって可能になると信じられていた。

6)BaldusのConsilia V 125を参照。

7)Decisiones Rotae Genuensis《Genuensisは正しくはGenuae》 7の: “quia societas est corpus mysticum ex pluribus nominibus conflatum”(何故ならばソキエタスは複数の名前{人}が一つに溶け合った神秘体である)を参照。

8)ここでの用語法の、ソキエタスの内部についての corpo della compagnia との関係についての考察は、”フィレンツェ”の章(第5章)の結論部を参照せよ。

そこから生じて来るものとしてはまず、
1. gesta extra societatem non obligant consortium, sed solum ipsum contrahentem (ソキエタスの外部にて行われたことはコンソーシアム{一つのまとまりとしてのソキエタスの成員全体}を拘束せず、ただ契約を行った者のみを拘束する 9)、その一方では
2. あるソキエタスの成員が次のような者として契約する場合は、”qui habet unum obligatum, habet et alterum et ipsam societatem”({何かの契約でそれを契約した}一人だけに責任を負わせているものは、もう一つべつのものにも責任を負わせている。つまりその者が所属するソキエタスである)(つまりゲゼルシャフトの財産である)、というのは:”quicquid scribitur per socium habentem facultatem nominis expendendi, dicitur scriptum ab ipso corpore seu societate, non ab ipsis ut particularibus”(ソキエタスの成員でソキエタスの名前で支払いをする能力を持っている者によって書かれた{書面で契約された}ものは何であれ、その者のコーポレーションまたはソキエタスによって書かれたものとして見なされ、どのような場合でもその特定の者{個人}だけによって書かれた{契約された}とは見なされない 10)。)ソキエタスをある複数の nomina(名前)を一緒にして構成した一つの人格として叙述することが示しているのは商号(Firma)の人格化がゲゼルシャフトを独立の存在として構築するための手段であったということである。ソキエタスを法人として把握することは、それについてはもう全く疑う余地は無い。しかし歴史的そして法教義学的にはそれは認められていないが、 ただそうした把握の仕方はゲゼルシャフトの基金を法の発展においてのソキエタスの成員の個人財産から特別財産として分離することをまた疑い無く非常に容易にした:その当時の法学にとってこれ以外の他のカテゴリーで意のままに扱えるものは存在していなかった。

9)Decisiones Rotae Genuensis 12 を参照。

10)Decisiones Rotae Genuensis 7 を参照。

b)連帯責任。委任の仮定と代表者(Institorat)の仮定。

 ロマニステン(ローマ法主義者)的なゲゼルシャフトの財産の法的な構成が、ひとたび法人という観念が使われるようになって以降は、それほど困難でなかったとしたら、そのことはよりいっそう法学者達に対して連帯責任の原理を創出させることにつながった。その創出を手助けするごく自然な考え方としては、契約を行うソキエタスの成員を仮定的な他のソキエタスの成員の代表者と見なすことであった。まず利用されたのは「委任が行われた」ということを仮定することで、契約を行うソキエタスの成員を代理人 11)または mandatarius exigendi 12)(代理の任を与えられた者)として取り扱い、それに合わせて次のことを行うことを目論んだ。つまり、おそらくはソキエタスの他の成員と対置する形で、その者に対する代理権の授与を expressis verbis 、つまり明確な言葉によって保証する書面を用意するということを 13)。しかしながらこういった構成の仕方はソキエタスにおいての実際の人間関係にほとんど合致していなかった。こういったやり方がきわめて異常と見なされていたに違いない一方で、明示的な全権というものが存在しないことに対して――そこから直ちに導かれる形で――まったくもって普通のものでは無い、非常に強い権力を持った全権というものを仮定することになったのである。その時々のケースにおいて、前提となっている各ソキエタスの成員が相互に保証人 14)になるという考え方は、一人一人が代表者的な連帯保証人としての責任を明確にするという目的には十分ではなかった 15)。同様にローマにおける銀行家による共同保証というやり方を利用することも、それは Petrus de Ubaldis がほのめかしていることであるが 16)、出来ておらず、それは連帯責任によって結び付けられた諸ゲマインシャフトが本質的には銀行的な業務を全く行っていなからであった。そういった考え方より、結局の所信じられるようになったのはローマ法における Institorat (代表者)という概念をこうした場合での把握の仕方としての法的なひな型として使うことが出来る、ということであった。パンデクテン法学《ローマ法の影響下にあった当時のドイツの普通法学》における、 institor (店主)の考え方のように、ここにおいては業務の遂行において締結された契約についての責任が扱われているのであり、その業務の遂行については契約を行う者が管理人としてそれを差配(さはい)しており、そしてその者が実質的には他の者――ここではソキエタスの成員の総体(しかしそこには契約を締結する者も含まれており、そこが既にローマ法とはまず異なっている点である)――に責任を負わせているのである。

11)Decisiones Rotae Florentinae 55 を参照。

12)Decisiones Rotae Florentinae 107を参照。

13)このことは、l’Orient latinの古文書史料の源泉であり、これらの全ての法様式が使用している。

14)BaldusのConsilia V 155を参照。

15)そうした把握の仕方はしかしながら Decisiones Rotae Romanae P. III d. 168 に見られる、ソキエタスの成員を Korrealschulner 《相対債務者、自分の持分だけについて責任を負う債務者》という概念の基礎となっている。

Institor(店主)がそういう風に扱われるように、ソキエタスの成員達は連帯して責任を負うことになるが、それは全くのところ Institor が特別な全権をひけらかすような行いをせずに業務遂行に勤しんでいるという理由からである。そして最終的には――このことが特別に重要であると思われるが――何人かの個人が共通の Institor を持つ場合、その者達は各自連帯してその Institor に対して責任を負うのである。そういう状況に対応するために採用されたのがソキエタスの成員を交代制で Institor に任命すること(praepositio institoria)であり、こうした把握の仕方が長く優勢な考え方として続いたのである 17)。

16)De duobus fratribus IX 参照。

17)トライチュケ《ハインリヒ・トライチュケ、1834~1896年、ドイツの歴史家、政治記者、1871~1884年の間帝国議会議員。》による Die Gewerbegesellschaft においても、まだ特に Thöl 《第2章の注12の訳注参照》の Handelsrecht (商法)においてもそれが見られる。

こうした把握の仕方は、ローマ法の概念の利用が重視された場合には、次のような驚くべき結果をもたらしている:Carpano 《第3章の注76の訳注参照》がそのミラノの法規への注解書の中で次のような結論を引き出している。つまり連帯責任というものは個々のソキエタスの成員がソキエタスの名前で契約する場合に成立するのであり、それに対してもしあるソキエタスの名前での契約の締結の際に全てのソキエタスの成員が個人として関与したとしたら、それはもう連帯責任ではあり得ず、各人の持分に比例した(pro rata)責任のみが発生するのであり、その際にはそれぞれのソキエタスの成員が自らかつ自己のために契約するのであり、それ故に institor という者は存在せず、それによって連帯責任を裏付ける法的な基礎はどこかに行ってしまうのであると 18)。このことは再度次のことに関しての証拠となる。つまりまずはどの程度まで法学における論理構成を行う上において法律家の個々人としての判断のみがその基礎になっているかということ、次に如何に法律家がそれ故に正当化され得ないかということ、最後にその中の底深い所に哲学的または社会的な理論を見出すことが出来るかという、そういった事々への証拠となる。――一般論として、Carpano によって提示された難点については驚きはしないが、その一方でまた他の著述家もそのことについて言及しているのである 19)。

18)Carpano による1502年の法規の第483章への注1を参照。

19)BartolusPetrus de Ubaldisがその例である。Petrus de Ubaldis の De duobus fratribus IX を参照。