VI. Die juristische Literatur. Schluß P.329 – 332 日本語訳(46)

ついに最後の日本語訳です!
それはいいのですが、最後の結論の所、信じられないくらい回りくどく何を言っているかを理解するのが非常に難しいです。普通は結論というと述べて来たことをまとめて、更に今後の課題を書いたりするものですが、ヴェーバーは私の印象では自分が書いた論文でゲルマニステンとロマニステンの間での不毛な論争になるのを極力避けようとしている、そんな感じを受けました。大体この論文自体が両方にいい顔をしようとしている、コウモリ的な性格を持っているように感じました。まあ、この論文についての感想はまた別の機会に行います。今後は校正に入ります。
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古い時代の一方向的なコムメンダは次の章にて扱われている。そしてその最後の部分から明らかに分ることは、そういったコムメンダは手数料ベースの委託販売になったということである。それ故に古い時代の統一された法的制度であったコムメンダは、次の二つの方向へと分かれて発展した:一方ではソキエタス・マリスを経由して合資会社に、もう一方は手数料ベースの委託販売へと 40)。

40)Lepa《第2章の注12の訳注参照》の商法雑誌の第26巻のP.438以下の記述と比較せよ。ただ私の印象では、Lepaは手数料ベースの委託販売の利用が始まったのが更にもっと古い時代と考えているように思える。古い時代のトラクタートル(Kommendatar)については手数料ベースの委託販売人とは見なすことは出来ない。トラクタートルは、先に見て来たように、委任する側(ソキウス・スタンス、Kommendanten)の非独立の器官であるか、またはそれより後の位置付けでは、自身が企業家であり、委任する側の資本を自分自身の業務においての投資としてだけ利用したのである。(コムメンダにおいてトラクタートルが取る)1/4の利益配分を手数料として理解することはまず無理であり、いずれの場合でも第2章の説明を通じて確からしく思われることは、こうした見解は当時の人々の理解とも合致していないということである。Lepaは手数料ベースの委託販売人もまたソキエタスの成員として考えていた。そしてソキエタスの業務を海外との取引きに限定していなかった。コムメンダから手数料による委託販売が分かれるのはもっと後の時代であるが、ここではそれについて立ち入るべきではない。しかしながらコムメンダと委託販売の対立ははっきりしたものでは全く無かった。

それというのも、第12章の該当する部分において、我々が仮定しているように、古い時代においてのコムメンダの場合に存在していた萌芽が発展して形作られてたゲゼルシャフトの特別財産が合名会社と合資会社において同じように利用されており、そのためここにおいては次のことが明らかになったように思える。それは前述の箇所で可能であると主張したように、コムメンダ関係における特別財産の形成が、合名会社におけるゲゼルシャフトの特別財産の発展と形成の仕方を同様に採用することで行われたということである。――ジェノヴァの法規の1598/99年版についてここでさらに詳しく述べる。まずそれは合資会社と合名会社の対立について特別に明確なやり方で並置して扱っており、それからその法規については法学の影響が明らかであるので、そこにおいては普通法の応用としての合名会社についての規定が、それが先の場所で説明されていたように、明らかに採用されているのである。その他の点については、この研究は後は次のことを確認すれば、終着点に到達したと言えるであろう。それはここで扱って来た諸制度について地方の諸法規において次の点にまで追いかけたかということである。その点とは、まずは科学の土台の上で国際的な法形成の発展が起こり、そしてその法形成が地方の諸法規の成果を取り入れ自らの手柄としたという点である。そしてその後、このような国際的な発展の成果がそれ自身として、今度は近代的なより広範囲の地域においての立法につながる端緒をどのように見出したかということは、もはやこの論文で扱う範囲を超えている。

結論。得られた成果の法教義学的利用の可能性。

 これまで行って来た考察の成果の法教義学的かつ法実務的な意義を問われた場合には、まず次のことが確認されなければならない。それはこのような考察についてそのような意義をある程度はっきりした形で切り出すことは出来ないということである。このことはもしかすると次の場合にはまた違った対応になるであろう。つまり、もしこの考察から次の問いへの答えが得られるとしたら、その問いについてはここでは提示されるだけで今すぐ答えを出すべき筋合いのものではないが、その問いとは合手制度とこの考察で合名会社の発生の基礎としてつきとめられた諸制度との関係はどうなっているのか、ということである。この問いは提示自体はされなければならない。何故ならば、周知のように、顕著な特徴から 41)合手制度は合名会社が成立する上での基礎として扱われるし、その場合さらに、つまり問いは事実においてはまず次のように言い換えられねばならないとされるからである: 合名会社は歴史的かつ法教義学的に合手関係なのか、あるいは何か別のものなのか?それからさらに問われるかもしれない、(もしそうだとしたら)それは一体何なのか?この問いについてはここでは種々の理由から答えを保留とせねばならない。まずは、この問いは何よりも用語論的なものであり、そこでは合手の概念を債務関係に適用する場合には、周知のように全くの所ただ契約する者の communi manu (共通の手=合手)だけに限定されていない。《ドイツ民法では合手の概念は組合、夫婦財産共同性、共同相続関係などの「共有」の場合において使われている。》――このドイツ法におけるある制度に関しての用語法の問題をローマ法の領域に持ち込んで結着を付けることは出来ない。同じ制度がしかし次の場合では問題無く扱うことが出来、今の問いに対しては満足な答えが与えられるであろう。それは更に新たに抽出される問いとしてであり、つまりここにおいて法制史上の合名会社の先祖というものを、イタリアのおいて見出し得ていた色々な制度について、その概念の中に当てはめて見て問題が無いかという問いである。この最後の問いは完全にゲルマン法上の問題であり、そしてもし我々が次のことについての研究の工程の中で、つまり我々が追究した法的制度の発展についてゲルマン法の考え方がその程度まで影響力を持っていたのか、それともまた何か別の起源を受け入れるべきなのかという研究の過程において、決して些末ではない何かの手がかりを得ていたとしたら、そうだとしたら次のことは是認されないであろう。それは純粋にドイツ法の土台の上において、何か(合名会社に)平行して発展したものが無かったかどうかという確認を行うこと無しに、ここでの問いに対して何か確固たる判断を行うことである。どの程度までドイツ法が関与していたかを確認していない場合はしかしながら、ここで扱っている諸制度のドイツ法の合手の考え方との関係についての論述は暗中模索の状態に陥ってしまうであろう。というのもこのドイツ法の関与の程度という問題は対象としている法制度の法教義学的な詳細な議論に入った瞬間に、直ちに燃え上がってしまうであろう。そのためそういった詳細な議論はドイツ法の領域に属する同種の制度についての調査と分析を行うまでは差し控えることになる。――そのような同種の制度が存在していることは、第3章の注14aで引用したザクセンシュピーゲルの箇所が示している。こうした調査と分析はしかしながら、また別の観察として留保しなければならない。

41)ギールケゾーム、そして何よりもKuntzeの商法雑誌の第6巻収録の論文を参照せよ。

 その研究を留保する代わりに、別の方向においての成果を確認することが出来るかもしれない。(この論文で行った)歴史的な観察により、合名会社と合資会社については二つの別のものとするのではなく、原則的には同じ土台の上に構築されたものであり、単に会社形態の分類において別のものと扱うことが出来ると言える。特別財産は二つの制度に共通しており、しかしその発展の仕方については二つは全く異なった出発点から始まってそれぞれの状態に至っているのであり、そして更に述べれば財産処分能力を持っているということは、ただこの二つの形態にのみ備わっているのではなく、確かに非常に本質的な特徴ではあっても決してまず第一に他からの判別に使われるべきような特徴ではない。財産処分能力はただゲゼルシャフト(会社)形成の基礎の法学的な性質として見られるものであり、それはこの二つの形態でそれぞれ根本的に異なっているのである。合資会社は合名会社と比べた場合、その発展の経過はまったく異なっていた。合資会社の有限責任社員においてのいわゆる「責任」は合名会社の(無限責任社員の)それと並置することはまったく出来ず、合名会社のそれの緩和と制限として理解される。というのみ歴史的な発展に従って考察する限り、「有限責任社員の(無限)責任」について語ることは全くもって正当化され得ない 42)。

42)Endemann《下線は訳者が追加》のハンドブック第1巻中のラスティヒの論文とも比較せよ。

有限責任社員は「責任を負う」のではなく、その資本を用いて利益及び損失(の機会に)参加するのであり――それこそがイタリアの文献史料においての理解であるが――その利益と損失はその有限責任社員にとっては他人の行った業務の結果であり、それ故にその者が投資した資金は(会社が)第三者への支払いを済ませた後で(deduct aere alieno)のみ返還請求出来るのであり、更に会社の債務の返済の原資として使われてしまう性質のものであった。合名会社はソキエタスの成員の総体としての財産権上の人格性を保持しているが、有限責任社員の(全体としての)財産権的な人格性というものは、合資会社におていは認められていなかった。合資会社の信用の基礎は合名会社のそれとは根本的に異なっていた。合名会社を総体としての人格性を持ったゲマインシャフトと表現する一方で、合資会社は(有限責任社員)の参加の関係として構成することが出来る。