III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.208 – P.213 日本語訳 (19)

日本語訳の第19回目です。ラテン語の所だけでなく、ドイツ語の部分も内容がそれなりに錯綜していて理解するのに時間がかかりました。
ただ、新型コロナウィルス騒ぎにも負けずにひたすら粛々とやっています。マルティン・ルターの
„Auch wenn ich wüsste, dass morgen die Welt zugrunde geht,
würde ich heute noch einen Apfelbaum pflanzen.“
(もし明日世界が滅びることを私が知ったとしても、私は今日それでも一本の林檎の木を植えるだろう。)
の気持ちと同じです。
コムメンダやソキエタス・マリスの時は、まず現実の具体例(公正証書等)があって、それから法規の話になったので理解しやすかったですが、この章では、諸法規の規定の元になっている現実というものはあまり具体的には示されず、最終的な結果として残された法文から逆に歴史の具体的な事実を遡って再構成するというやり方になっており、それだけ理解するのに苦労します。しかし、ヴェーバーは各都市の様々な法規を本当に良くチェックしており、直接の1次資料ではないにしろ学問的な努力という意味ではこの章の内容はそれなりに深いものがあると思います。
元のドイツ語はここです。
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第三者に対する法的関係。血縁を基礎とする責任関係。

 法的に重要な様々な事実が(何らかのゲマインシャフトの)構成員である個人の枠を超えて権利と義務を産み出すという現象は、疑うことなくまずは氏族(ジッペ)を基礎として発生するのであり、その氏族の間においては相互に義務(債務)を保証しあっていたし、またそれに相当する権利(債権)も持っていたのである。特に私的復讐の権利と義務はある種の”obligatio ex delicto”(違法行為から発生する義務)を創り出すのであり、そこにおいては各成員は能動的(復讐を行った場合)または受動的(復讐を受けた場合)に法規則に沿った形で関与するのである。このことに該当する法律上の規定は、中世後期になってもまだ完全には消滅していなかった 27)。

27) Constititum Legis Pisane civitatis l. II c. 77(ピサの市民法)に出て来る私的復讐が違法行為を行った者に対して行われる場合についての刑罰の規定を参照せよ。

 能動的・受動的な殺人に対する賠償金の義務が既にleges barbarorum(ゲルマン法)においてほとんど純粋に財産権法的な性質を帯びた(つまり債務となった)後においては、義務的債務についての責任という概念への原則的な制限がもはや存在していなかったかのように見える。それは特にローマ法における不正と(ゲルマン法における)犯罪との明確な区別が欠如しているということをあまり意識していない場合に特にそうである。実際の所、それ(殺人の賠償金、支払い義務が財産権法的な性質を帯びるということ)に関する法規上の条文は、ランゴバルド法において見出すことが出来る。とは言ってももちろん純粋に氏族的な関係に更に財産権法的な関係が追加された、という形においてのみであるが 28)。このような(財産権法的な)経済の根本原理は氏族関係においては存在していなかったし、少なくとも信用貸しがある程度行われるようになった時代においては、氏族関係はそれ自身はまったくもって経済的なゲマインシャフトではなく、それ故に犯罪から生じる責任を超えて発展することは無かったし、ビジネスの中で発生する債務についての土台という意味では、氏族関係は有効ではなかったし、氏族的な関係に基づく動機は金銭に換算出来るようなものではなかった。

28) Rubr. De debitis et guadimoniis et que liceat pignorare vel non. Rex Rothar: Nulli liceat alium pro alio pignorare, excepto illo qui gaphans esse invenitur id est coheres ejus proximior qui ad illius hereditatem si casus evenerit venturus est. (ランゴバルド法の中の表題「債務及び利益について、差し押さえが許されるもの、または不可のもの」。ロタリ王:誰も他人の名前において何かを差し押さえることは許されない。例外としてその者が”gaphans”であることが分った場合以外は。”gaphans”とは、その者がほぼ共同相続人に近しい者であって、財産を相続するためにやって来たという場合のことを言う。)
“Gaphans”についてAlbertusは次のように説明している:「それは近縁の親族であって相続するためにやって来た者のことである。」それ故に債務は最も近縁の親族に対してに限定されており、それは債務者がまだ生存している時においてもその最も近縁の親族に対して既に発生しているのであり、遺産との関係が重要である。どの程度まで相続人の債務がここに端を発しているかということは、はっきりしていない。更にLimprandus王《Liutprand王、712~744年の間、ランゴバルドの王。》:
Si quis debitum fecerit et res suas vendiderit et tale fuerit illud debitum, quod solvere non possit et filius ejus per uxorem suam aliquid acquisiverit vel postea sibi per quodcunque ingenium laboraverit postquam genitor ejus omnes res venum daverit vel pro debito suo creditoribus suis dederit: aut a publico intromissus fuerint; non habeant facundiam creditores res ejus quas filius ejus de conjuge sua habere videtur vel postea conquisivit aut laboravit … distrahendi … sie tamen ut … prebeat sacramentum quod de rebus patris vel matris sue si ipsa in mundio patris mortua fuerit nihil apud se habeat nec alicui commendaverit …
(もしある者が債務を負うことになり、(その債務の解消のため)自分の所有物を売却することになり、それでもその債務を(全て)解消することが出来ない場合、その者の息子がその配偶者から財産を得た場合、もしくはその息子がどこかで働いた結果としてお金を得た場合、その父親が全ての所有物を売却したか、その債務のためにその代金を債権者に与えるということが済んだ後で、またはその父親がその財産を公衆によって差し押さえられた場合、そういった場合においても債権者は債務者の財産(のように見えるもの)でその債務者の息子が配偶者から得たものまたはその息子の労働により獲得したものを強制的に取り立てる権利を持たないであろう。…しかしながら…その息子は父親の財産からまたは母親が父親の監督権下にある状態で亡くなった場合にその母親の財産から何も得ておらず、また隠してもいないということを誓わなければならない。)
Ariprandはこの箇所から次のような陳腐な結論を導き出している。つまり「財産を何も相続しない者は、債務についても何も相続することはない。」ランゴバルド法ではしかしながら、Pappenheimの”Launegild und Garethinx”のP.70で述べられているように、被相続人(親)の死後の相続人の責任については規定しておらず、その被相続人(親)がまだ存命中の(相続人の)責任について規定しているのであり、その第2節では相続人である息子に対してある一定の生業で得られた自由に処分出来る財産についての保証を与えており、その際には(その相続人である息子と)父親の所有物に対する関係が、再度本質的なものとして記載されている。―Petrus《Petrus、生没年不詳、12世紀初頭のフランスのプロヴァンスの法学者》の”Petri Exceptiones Legum Romanorum”のLL. RR. l. IV c. 53における以下の箇所が何かの意味があるのか、または何を意味しているのかは、つまり父親が召使いと息子との間の契約について責任を持つかどうかは、”si in rem patris versum est, in solidum”(それが、全体として父親の物に転じるかどうか)ははっきりしない。おそらくは、息子と召使いが家計においての何かの物について契約する、ということを意味しているかもしれない。

家計ゲマインシャフトを基礎とする責任関係

 家計ゲマインシャフトの領域において今やある構成員の違法行為についての責任は他の成員達が負うことになる 29)ということが(様々な法規で)見出される。しかし(法規の中の)そういった規定に続く詳しい説明では、ある成員の契約上の債務が他の成員に及ぼす作用ということに対しては、そういった(共同)責任は全くの所後退してしまっており、最終的には消滅してしまっている。しかしこの作用については、そういったゲマインシャフト関係を基礎として成立したのである。常に(そういった法規で)見出されることは、未成年者の法という観点において、ローマ市民法での違法行為とゲルマン法での犯罪がほぼ同じと見なさざるを得ない場合、つまり処刑法においてと特にここでは逃亡した者の破産において、違法行為から発生したのではない(単なる)債務が発生するという場合であっても、犯罪という観点(からの責任=債務の発生)を準用して考えるやり方への郷愁である。

29) クレモナの法規(1388年 第495項)とマッサの法規(1592年、規定自体はそれより古い)の l. IV c. 17は家の主人と父親に対し、召使いや家の息子に生じた損失について無制限に責任を負わせることを定めている。シチリア島において1282年の憲法(Pardessus V P.255)は、息子、父親、兄弟等の間での相互責任を無効としている、”cum poena suos tenere debeat authores”(処罰がそれを行ったものを結び合わせる場合は)。その他の法規(ボローニャの法規のv. J. 1250ff. l. II c. 8、ピサのConstitutum Ususの45―後代での追加―、ヴィチェンツァの法規のv. 1264 III c quod dominus、モデナの法規のv. 1327 ref. l. IV c. 10)は違法行為、特に家の息子達が行ったものについての責任についての制限という形で、より早い時期に成立した無条件の責任を規定している。これに該当するフィレンツェの法規の中身については、後でまた取上げる。

1.共有財産についての責任

 さて、今まで述べて来たような様々な人間関係について具体的なイメージを持とうとした場合、明らかなのはゲマインシャフトの成員の債権者に対する債務において、まず第一に次のような本質的かつ実際的な疑問が湧き上がって来ることである。その疑問とはその成員がその債務のために万一強制執行を受ける場合にどのように振る舞うのかということであり、特にその成員が共通の家の中において直接強制執行を受けるのかどうかということである。法の発展の中ではこの問いに対しては肯定を与えており、こうした全体のまとまりとしての家計という考え方が、疑いもなく基本的な法学上の思考形式を創り出していたのである 30)。そうした総体としての家計は処分したり、また誰かがそれを代表したりすることが可能であったし、―それらの適用の仕方が全成員において同等ではなかったにせよ―根本的にどの成員にも権利が与えられていたのであり―こうした考え方は私法においても公法においてもまたそれ以外でも重要な意味を持ったのである。こうした種類の責任 31) は、実際的には次のような法文の中に登場する。つまりあるゲマインシャフトの成員の債務について、その成員がその債務を支払わない場合、その債務全額に対する強制執行が家の総体に及ぶということである。こうした考え方が根本原則であることは、次のような場合に見出し得る。その場合とは、諸法規が既に共通の家の中に見出し得るものの全てに対しての無条件の責任に対し制限を加えた箇所において、そうした制限が、まずは家の中に存在する全ての物が一旦差し押さえられ、次に法規において全体または部分的な差し押さえの免除を受け得ることが規定されている者が我々の用語での「調停」を申し立て、無条件の責任に対する制限の法的根拠を立証しなければならなくなる、という形で実現される、そのような場合である:Statuta Communis Vicentiae 1264 l. III c. de emancipationibus:[„] … quicquid filius habet, hoc totum praesumatur de bonis parentum habere, nisi expressim et liquide possint probare … se acquisivisse ex officio vel successione vel … alia … justa causa …[“]Ebenso Statuta Massae (gedr. 1592) für die communio fraterna.  Liber tertius causarum civilium communis Bononiae (gedr. 1491):
(1264年のヴィチェンツァのStatuta Communis Vicentiae 1264 l. III c.の{子供の父親からの}解放について:「…ある息子が所有している物が何であれ、その全ては両親の財産から得たものだと推定され、明白に相続によって得たと証明される場合、職業上の正当な権利によって獲得した場合、財産の(相続以外の)継承による場合、または他の正当な理由による場合を除く。」)
マッサの法規(1592年)もcommunio fraterna(兄弟同士のソキエタス)について同様のことを定めている。

 ボローニャのLiber tertius causarum civilium communis Bononiae (1491年):父親(の父権)から解放されて一人前になった息子達は、差し押さえしようとする債権者に対して、自分達は当該の債務が発生するよりも前に解放されていた、と証明することになっていた。

30) 他の人間関係については:ヴィチェンツァでは公的な債務は家に対して賦課された。(Statuten v. 1264 l. II c の最後の所)ミラノではそれが家族に対して賦課された。(Statuten v. 1502 fol. 81、1217年の追放に関する法規のIの最後の箇所によっても既に規定されていたことを参照せよ。)家族の構成員は連帯してその賦課を負った。モデナでは(Statuta 1327 ref. I 165)各々の家族の構成員は家族に対して課された兵役の義務を果たした。シエナでは(Statuten v. 1292)個々の手工業の工房(bottega、より正確には工場と販売店を兼ねるようなもの)が、個人ではなく、ツンフト(同業者組合)への上納金を支払っている。モンカリエーリでは(Statuten v. 1388 H. P. M. l. Mon. I vol. 1450)fratres communiter viventes(一緒に住んでいる兄弟)の債権は、相互に所得税の評価のためには、それぞれの財産の中には組み入れられなかった。フィレンツェのカリマーラのStatuto dell’ Arte を一瞥すると、その地ではどのように個々の工房(bottega)と個々のソキエタスが、その土地でのツンフトの組織の基礎として使われていたかが示されている。

31) ローマ法についてはこの事柄についてはよりシンプルであった。家族の中の父親については家族全体が責任を負った。そして家族の中の息子については、その息子自身が責任を負った。manus injectio (債権者が債務者に対し手で触れるという、古代ローマ法においての強制執行の象徴行為)が息子に対して行われた場合には、父親がその息子に代わって債務を支払うことになっていた。―中世の法は財産能力の無い者が債務を負うということ自体を認容しなかったであろう。―別々に住んでいない共同相続人については、ローマ法はその譲渡可能な各人の相続分について責任を負わせた。こうした法概念は中世の法には見られない。

III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.208 – P.213 ドイツ語原文 (19)

ドイツ語原文の19回目です。
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Rechtsverhältnis gegen dritte. Haftungsverhältnisse auf verwandtschaftlicher Grundlage.

 Die Erscheinung, daß rechtlich relevante Tatsachen über die Person des unmittelbar Beteiligten hinaus Rechte und Pflichten erzeugen, findet sich unzweifelhaft zuerst auf dem Boden der Sippe, in der Pflicht des Eintretens der Genossen füreinander und den entsprechenden Rechten. Insbesondere bilden Pflicht und Recht der Privatrache eine Art obligatio ex delicto, an welcher aktiv und passiv jeder Genosse in geregelter Weise beteiligt ist; die betreffenden Rechtssätze sind noch im späteren Mittelalter nicht völlig verschwunden 27).

27) Cf. die im Constititum Legis Pisane civitatis l. II c. 77 getroffenen Strafbestimmungen für den Fall, daß die Privatrache sich gegen den Falschen richtet.

 Nachdem die aktive und passive Wergeldobligation schon durch die leges barbarorum fast eine rein vermögensrechtliche Natur angenommen hatte, scheint eine prinzipielle Schranke gegen den Gedanken einer Haftung auch für obligatorische Schulden nicht mehr vorhanden zu sein, zumal wenn der Mangel scharfer Scheidung des Delikts vom zivilen Unrecht in Betracht gezogen wird. In der Tat finden sich Ansätze dazu in der Lombarda, aber freilich nur unter Verhältnissen, wo zu den rein verwandtschaftlichen Beziehungen noch eine vermögensrechtliche hinzukommt 28). Diese wirtschaftliche Grundlage fehlte der Sippschaft an und für sich, sie war, wenigstens zu der Zeit, als der Kredit eine Rolle zu spielen begann, keine Wirtschaftsgemeinschaft und hat es deshalb niemals über die Haftung aus Delikten hinaus gebracht, auf dem Boden der Geschäftsobligationen war sie nicht aktionsfähig, das verwandtschaftliche Moment nicht verwertbar.

28) Rubr. De debitis et guadimoniis et que liceat pignorare vel non. Rex Rothar: Nulli liceat alium pro alio pignorare, excepto illo qui gaphans esse invenitur id est coheres ejus proximior qui ad illius hereditatem si casus evenerit venturus est. — „Gaphans“ erklärt Albertus: „id est proximior qui ad illius hereditatem venturus est“. Also die Haftung ist auf den Nächstversippten beschrä nkt, trifft diesen aber schon bei Lebzeiten des Schuldners; die Beziehung zur hereditas wiegt vor. Inwieweit die Haftung der Erben hiervon ihren Ausgang genommen hat, steht dahin. Ferner: eod. Rex Limprandus: Si quis debitum fecerit et res suas vendiderit et tale fuerit illud debitum, quod solvere non possit et filius ejus per uxorem suam aliquid acquisiverit vel postea sibi per quodcunque ingenium laboraverit postquam genitor ejus omnes res venum daverit vel pro debito suo creditoribus suis dederit: aut a publico intromissus fuerint; non habeant facundiam creditores res ejus quas filius ejus de conjuge sua habere videtur vel postea conquisivit aut laboravit … distrahendi … sie tamen ut … prebeat sacramentum quod de rebus patris vel matris sue si ipsa in mundio patris mortua fuerit nihil apud se habeat nec alicui commendaverit … Ariprand macht hieraus den trivialen Satz, daß, wer nichts aus der Erbschaft habe, auch nicht als Erbe für Schulden hafte. Die Lombarda aber spricht, wie auch Pappenheim, Launegild und Garethinx S.70 hervorhebt, nicht von Haftung des Erben nach dem Tode des Erblassers, sondern von Haftung bei Lebzeiten desselben und schafft in der zweiten Stelle dem Sohn aus gewissen Erwerbsarten von der Haftung freies Vermögen, wobei die Beziehung zu den res patris wieder als das Wesentliche hervortritt. — Ob etwas und was die Stelle bei Petrus, Except. LL. RR. l. IV c. 53 bedeutet, daß der Vater aus dem Kontrakt des servus und filius hafte, — „si in rem patris versum est, in solidum“, ist dunkel. Vielleicht heißt es: wenn sie in Sachen des Familienhaushalts kontrahieren.

Haftungsverhältnisse auf Grundlage der Haushaltsgemeinschaft

 Auf dem Gebiete der Haushaltungsgemeinschaft nun finden wir einerseits die Haftung für Delikte eines Beteiligten zu Lasten der übrigen 29); die folgende Erörterung wird aber ergeben, daß dieselbe gänzlich zurückgetreten und schließlich verschwunden ist gegenüber der Wirkung, welche Kontraktschulden eines Genossen für die übrigen haben, und diese letztere ist lediglich auf dem Boden dieser Gemeinschaftsverhältnisse erwachsen. Immerhin findet sich eine Reminiszenz an die Priorität des Deliktsgesichtspunktes darin, daß die nicht ex delicto entspringende Haftung an einem Punkte einsetzt, wo in den Augen des jugendlichen Rechts das zivile Unrecht dem Delikt am meisten verwandt erscheinen mußte: im Exekutionsrecht, und hier insbesondere im Konkurse des fugitivus. Von den meisten Statuten wird die Haftung der Genossen am ausführlichsten, von einigen nur bei Gelegenheit des Konkurses erörtert. Das ist nicht ohne historische Erheblichkeit.

29) Die Statuten von Cremona (1388 rubr. 495) und von Massa (1592, der Stoff ist älter) l. IV c. 17 lassen den Hausherrn und Vater für durch das Gesinde oder den Haussohn zugefügten Schaden ohne Einschränkung haften. In Sizilien hob eine Konstitution von 1282 (Pardessus V S.255) die wechselseitige Haftung der filii, patres, fratres &c für Delikte auf, „cum poena suos tenere debeat authores“. Andere Statuten (Statuta Bononiae v. J. 1250ff. l. II c. 8, Pisa, Constitutum Usus 45 — ein späterer Zusatz —, Vicenza, Statuten v. 1264 III c. quod dominus, Modena, Statuten v. 1327 ref. l. IV c. 10) zeigen durch die Einschränkungen der Haftung für Delikte, namentlich solche der Haussöhne, welche sie einführten, die früher bestandene unbedingte Haftung. — Von dem hierher gehörigen Inhalt der Stat. von Florenz wird noch die Rede sein. Doppelte Bedeutung der Haftung der Gemeinschaft.  Es tritt nämlich bei unseren Gemeinschaftsverhältnissen die Haftung nach außen in zwei nicht nur dem Grade nach voneinander verschiedenen Bedeutungen auf: 1. als Belastung des gemeinsamen Vermögens durch die Schulden des Genossen und 2. als persönliche Mithaftung der Genossen, als Schuldner, füreinander. 1. Haftung des gemeisamen Vermögens.  Stellt man sich nun die Verhältnisse konkret vor, so war offenbar bei Schulden eines Beteiligten für den Gläubiger die wesentliche praktische Frage zunächst, woran er eventuell im Vollstreckungswege wegen dieser Schulden sich halten, ob er namentlich unmittelbar in das gemeinsame Haus vollstrecken lassen konnte. Diese Frage hat die Rechtsentwicklung bejaht, und unzweifelhaft hat die Auffassung des Haushalts als eines Ganzen, über welches zu verfügen und welches zu vertreten — wenn auch nicht in gleichem Maße — grundsätzlich jeder Genosse berufen war — eine Auffassung, welche im privaten und öffentlichen Recht auch sonst von erheblicher Bedeutung war, die zugrunde liegende juristische Denkform gebildet 30). Diese Art der Haftung 31) stellte sich also praktisch in dem Satze dar, daß aus Schulden eines Genossen, welche dieser nicht zahlt, die Exekution auf den vollen Betrag in das ganze Haus geht. Daß dies der Grundgedanke ist, zeigt sich auch darin, daß, wo die Statuten schon eine Beschränkung der unbedingten Haftung alles im gemeinsamen Hause Vorfindlichen eingeführt haben, dieselbe dadurch praktisch verwirklicht wird, daß zunächst alles, was sich im Hause befindet, gepfändet wird; der statutarisch ganz oder teilweise Eximierte muß dann, nach unserer Redeweise, die Interventionsklage anstrengen und den Rechtsgrund der Beschränkung nachweisen: Statuta Communis Vicentiae 1264 l. III c. de emancipationibus:[„] … quicquid filius habet, hoc totum praesumatur de bonis parentum habere, nisi expressim et liquide possint probare … se acquisivisse ex officio vel successione vel … alia … justa causa …[“]Ebenso Statuta Massae (gedr. 1592) für die communio fraterna.  Liber tertius causarum civilium communis Bononiae (gedr. 1491): Emanzipierte Söhne haben dem exequierenden Gläubiger nachzuweisen, daß sie vor Entstehung der betr. Schuld emanzipiert sind.

30) Für andere Verhältnisse: In Vicenza werden die öffentlichen Lasten auf die Häuser umgelegt (Statuten v. 1264 l. II c. ultimo), in Mailand auf die Familien (Statuten v. 1502 fol. 81, Cf. schon wegen des bannus Statuten v. 1217 I am Ende), deren Glieder solidarisch dafür haften; in Modena kann (Statuta 1327 ref. I 165) jedes Familienglied die der Familie als solcher obliegende Wehrpflicht ableisten; in Siena (Statuten v. 1292) zahlt die einzelne gewerbliche Niederlassung, nicht die Person, das Zunftgeld; in Moncalieri (Statuten v. 1388 H. P. M. l. Mon. I vol. 1450) werden die Forderungen der fratres communiter viventes untereinander nicht in das Vermögen eines jeden behufs Einkommensteuerschätzung eingerechnet. Ein Blick in das Statuto dell’ Arte di Calimala von Florenz zeigt, wie dort die einzelne bottega und die einzelne societas als lokale Grundlage der Zunftorganisation galt.

31) Für das römische Recht lag die Sache einfacher. Für den pater familias haftete die gesamte familia, für den filius familias dessen Leib; die manus injectio gegen ihn mochte dann wohl den Vater zur Zahlung für ihn veranlassen, — das mittelalterliche Recht würde Verpflichtungsfähigkeit ohne Vermögensfähigkeit nicht angenommen haben, — für die unabgeteilten Miterben haftete römisch-rechtlich dessen Erbquote, die negoziabel war, — dem mittelalterlichen Recht lag diese Abstraktion fern.

III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.203 – P.208 日本語訳 (18)

日本語訳の18回目です。家ゲマインシャフトと商業におけるゲゼルシャフト形成の関係がより詳細に論じられていきます。
ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」における、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトを対立する概念ではなく、ゲゼルシャフトがゲマインシャフトの特別な場合と考えるのは、この論文での研究が最初のきっかけではないのかと思います。
ドイツ語の原文はここです。
それから今回の分も含めて最初から通して読んでみたい方はこちらを参照願います。
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これらのゲマインシャフトの共通の土台

 この種のゲゼルシャフトの形態の全体構造に対する家ゲマインシャフトという要素の影響は疑う余地の無いものである。というのもそのような(Geselleとしての)ソキエタスの成員の地位は非常に高く、ソキエタスにおいて元々そうであったように、信頼関係に基づいたものでなければならなかったということは明白であり、ソキエタスはそのような(Geselleとしての)成員に対しては、丁度常時雇われている奉公人が都度都度雇われる賃金労働者に対するのと同じように振る舞うのである。これらの関係の家族的な性質もまた明らかである。親族という観点で見た場合、そして家の息子と召使い、またはfactorつまり(Geselleとしての)ソキエタスの成員とまだ独立していない共同相続人が非常に本質的な点で等しく扱われていることが見出される場合、それについては特別な説明は必要無いであろう。ここにおいて「家族法的な」根本原則が他の関係にそのまま応用されたということもまた出来ない。そうではなくて、等しい根本原則が平行的な法形成を導いたのである。というのは財産法において判定基準となるような関係が、二つのケースで同じように存在したからである。仕事を共にする仲間の関係は、本質的に家族による家計の中での構成員である家族同士の関係に似ており、他方ではその家族による家計は同時に何らかの事業経営の基盤でもあろうとした場合、簿記と外部から一つの法的主体として認識されるようにすることの二つの条件が必要であった。要するに、経営ゲゼルシャフトという形で財産法における重要な要素として扱われるために必要な全ての条件がこの二つだったのである。つまりは、家族による家計と経営ゲゼルシャフトの両方にて、法的に重要な要素は同じなのである 16)。ただ、家族ゲマインシャフトにおいては共通の家計という土台は最初から存在しているものであるが、家族以外の人との労働ゲマインシャフトにおいては共通の家計(記帳)は任意のものでしかなく、しかも改めて作り出されねばならなかった。これらのことから、家族ゲマインシャフトは、ある特定の観点から見てそれに該当するものとしての原生的法制度として把握されるのであり、それ故に文献史料にて(家ゲマインシャフトと労働ゲマインシャフトの)2つの集団が共通のものとして記述されている箇所がもっとも重要なのである。

 中世における法形成の過程が様々な都市で始まった時、古くからの親族関係に基づく公法及び私法の基礎原理は既に失われており、他の場合と同様にその地位は他の純粋に経済的な原理に置き換えられたのである 17)。

 手工業的な労働が家族の内側においても外側においてもゲマインシャフト的関係構築の共通の源泉なのである。

15) この点については後でフィレンツェの章で特別に詳しく扱うことになる。

16) ザクセンシュピーゲルの注釈14を参照せよ。手工業(における労働関係)が財産ゲマインシャフトの中で家族原理と並立するように存在している場合、ザクセンシュピーゲルはこの双方を不可欠なものとして扱っている。

17) この点についてはLamprecht《Karl Lamprecht、1856~1915年、ドイツの歴史家。歴史研究における法則性の発見の重要性を主張し、史料批判を重視するドイツの他の歴史学者との激しい論争を引き起こした。》の”Deutsches Wirtschaftsleben im Mittelalter”(ドイツ中世の経済的な生)のIのP.288の注3と、Inama-Sternegg《Theodor Inama von Sternegg、1843~1908年、ドイツ・オーストリアの経済史家。》の”Deutsche Wirtschaftsgeschichte”(ドイツ経済史)のP.75の注1を参照せよ。その意義についてはまたHeuslar《Andreas Heusler、1865~1940年、スイスの中世研究者で特にゲルマンとスカンディナビアを専門とした。》のInstitutionen Des Deutschen Privatrechts(ドイツ私法における諸制度)第2巻のP.304以下で詳細に論じられている。所有されている物が財産の主要部分を占めている場合、傾向としては物を(全体の財産から)分離して個人所有とする方向へ、また動産と手工業的労働の存在は商品ゲマインシャフトへと進んでいる。

共通の特質

 これらのゲマインシャフト関係の2つの特質について、ここにおいてまずは手短に確認しておくのが良いであろう。

1.男性socii(ソキエタスの構成員{複数})への制限

 まず第1のものはゲマインシャフトの男性 18) 構成員に対する、その個人としての影響力に対する制限である 19)。つまり、働いて収入を得て商業において自発的に活動するゲマインシャフトの成員が、ゲマインシャフトの共通財産に対する考え得る主体なのである。それについて新しく証拠となるのは、共通の業務を執り行うことにより、成功の場合も失敗の場合も運命を共にするということを出発点に置いているということである。

18) Ansaldus de Ansaldisの”Discursus legales de commercio et mercatura.”(1698年、ジェノヴァ)のDisc.49を参照せよ。そこでは姉妹の(共通の財産への)関与の問題が普通法上で議論の余地があるものとされている。

19) Bonani編の”Constitutum Usus Pisanae Civitatis”の”De societate inter extraneos facta”(家族外のメンバーとの間でのソキエタスについて)の章の”inter laicos et masculos”(俗人と男性の間で)を参照せよ。更に別の例は後でまた取上げる。特にヴェネツィアについての議論の所で。またランゴバルド法ではただ兄弟について述べており、ブルグンドの法では父親と子供達から成るゲマインシャフトを規定しているが、しかしそこでは夫婦間での財産共有ゲマインシャフトについては何らの規定も存在しない。

2. 不動産の除外

 2つ目は、ゲマインシャフトの共通の基金への帰属という意味での、規則に沿った形での不動産の除外である。既に海上取引に係わる諸ソキエタスにおいて、ソキエタスへの債権者の優先権が動産に対してに限定されたように 20)、ここにおいてもただ動産のみがゲマインシャフトの共通財産とその(各成員が持つ)個別の影響力の対象なのである 21)。共通の家というものは発展における出発点でありかつゲマインシャフトの土台であるが、(不動産としての)それそのものについては非常に明白なこととしてゲマインシャフトの共通財産には算入されていなかったし 22)、その他の動産は常に家の外に存在したのである。それ故に収益を上げる資本がさらなる発展のための材料なのである。

20) Statuta Peraeのc.20を参照せよ。

21) この部分はLattesによる”Il diritto commerciale nella legislazione statutaria”の§6の注5と6において言及されている商法における不動産の除外についての引用の中に含まれている。その他、この論考のフィレンツェの所でも再度言及することになる。

22) 家はそれぞれの持ち分所有者のソキエタスの取り決めに従った処分対象物の特別な一つのものとはならなかった。今日においてもあるソキエタス、例えば会社が不動産を(簡単には)売却することが出来ないように、持ち分所有者はその時々のゲマインシャフトの土台、つまり共通の家を、抵当に入れたり売却することは出来なかった。

財産関係における変化

 それ故に財産ゲマインシャフトがもはや単純に全体をカバーするのではなく、構成員の財産のある一部のみを包括するだけになった場合、そして、既に述べたように、個々の成員による財産の分割がそれによって益々進展した形で投資や各成員がゲマインシャフトにおいて保持する一つの勘定としての性質を持つと見なされた場合、この(各員の)勘定を全体として高い程度で独立した法的主体としてみなすのと、取り分けその勘定をそうした独立のものとして(共通財産とは切り分けて)処分する可能性を認める必要性が出てきた。実際の所、フィレンツェのAlbertiという家族 23)においての遺言と遺産相続手続において、(死亡した)持ち分所有者の勘定について、その勘定を利害関係者(相続人)の間で分割しそれぞれの勘定への振り替えが命じられているという事実が見出される。更には、ゲマインシャフトの成員の資金でゲマインシャフトの共有基金には属していないものについても、可能であればそのソキエタス(ゲマインシャフト)において投資させるという需要が生じて来て、その場合には個々の成員が二重の意味でゲマインシャフトの業務に参加するという特別な関係が見出されるのである。つまりはまずはその成員がゲマインシャフトの共有財産の中での持ち分の金額の範囲においての参加と、更にはゲマインシャフトで利用可能な投資された資本において、ジェノヴァでの文献史料 24) においてソキエタス・マリスとコムメンダが同時並行して行われていたという事実に適合するような、ゲマインシャフトの業務への出資者としての参加である。さらに後の時代では、家族において、元々は法律の規定によって成立していたゲマインシャフト関係を、契約に基づいてまたその時々の必要性に応じて作り出す 25) ということも行われるようになり、それによって家族ゲマインシャフトはソキエタス法に準じた形で規定されるようになったのである 26)。それから我々はここにいても「投資」という概念にたどり着いたが、それは全体の共有財産の中での一定の割合としてであり、その割合によって当該のソキエタスの成員の分としての利益、損失、そして資本が分割されるのであり、―それはソキエタス・マリスの場合と同様である。しかしながらここにおいて次のような疑問が出て来る。つまり、この投資とここで呼ぶものがコムメンダ関係におけるものと同じ意味を持っているのかということである。この疑問については他のはるかに重要な人間関係の側面としての、ゲマインシャフトの外部や第三者に対しての作用について考察した後に答えることが出来る。我々はこの目的については、まずは後の時代の発展の最終的に予想出来る結末について述べた後で、再びその結末の開始点へと立ち戻って行かねばならない。

23) Passerini《Luigi Passerini Orsini de’ Rilli、1816~1877年、イタリアの政治家・歴史学者・系譜学者。》の”Gli Alberti di Firenze”(フィレンツェのアルベルティ家)を参照。また下記の本稿でのフィレンツェに関する部分も参照せよ。

24) 下記の本稿でのフィレンツェに関する部分も参照せよ。

25) 注23のAlberti家の史料とPeruzzi《Simone Luigi Peruzzi、1832~1935年、イタリアの歴史家、メディチ家に連なる家系の出身。》の”Storia del Commercio e dei’ Banchieri di Firenze”を参照せよ。

26) それどころか、Registrum Farfense(注11参照)のNo.36の史料が示しているように、家ゲマインシャフトそのものが契約によって創り出されている事例が存在するのである。この文献史料においては、二人の同じ家に住んでいる兄弟が彼らの叔父(伯父)を家ゲマインシャフトに迎え入れている: te … affratamus et in tertia portione … heredem esse volumus.(我々はあなたを家族として迎え入れ、そして相続人として1/3の分け前を持つことを希望する。)このケースは田舎においての家共同体に関するものである。Brunnerの前掲書(注11参照)のP.12以下では血縁関係にある者同士のゲゼルシャフト形成を商業の目的で使うことと家族ゲマインシャフトとの類似について言及している。

formalとformell

ドイツ語で英語のformalにあたる形容詞としては、formalとformell、そしてförmlichというのもあります。後の2つはほぼ同義語です。
私見ですが、ヴェーバーはformalとformellを使い分けているように思います。
これは私の解釈であってどこまで正しいかは保証致しかねますが、formalはある意味ニュートラルな表現で、ともかく外見として何かの形(form)に沿っている意味だと思います。これに対し、formellはどちらかと言えば何かの法律とか規則とかの「内容に」適合している、という感じかなと思います。またformellは口語的なニュアンスですが、「形式張って堅苦しい」といった意味もあると思います。
なので、この2つが出てきた場合、機械的に「形式的な」と訳すのは時によっては適当でないことになります。

Pappenheimの”Launegild und Garethinx”

中世合名会社史の第三章注9に出て来る

Pappenheim《Max Pappenheim、1860~1934年、ドイツの法制史家》の Launegild und Garethinx 《1882年、ブレスラウ》は、c. 51, 1において liber legis Gundebadi(ブルグント王国のGundbad王の法律の書)を西ゴート王国の I ArfÞaer balker 9 principio (相続財産の一部?)と比較している。」の箇所ですがLaunegild und Garethinxのファクシミリ版を入手しましたので、該当箇所をご参考までにアップしておきます。言うまでもなく、著作権は既に切れています。(画像はクリックで拡大します。)

III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.203 – P.208 ドイツ語原文 (18)

ドイツ語原文の第18回目です。この章においてかなり佳境に入って来た感じでしょうか。
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Gemeinsame Grundlagen dieser Gemainschaften.

 Der Einfluß dieses Elements auf die ganze Struktur derartiger Gesellschaftsformen ist unverkennbar. Denn daß die Stellung eines solchen socius in eminent höherem Grade, als es bei der Sozietät ohnehin der Fall ist, ein Vertrauensverhältnis sein mußte, ist klar, sie verhält sich zu derjenigen eines Partizipanten etwa wie diejenige eines Dienstboten zu der eines ad hoc gemieteten Lohnarbeiters. Auch das Familienartige des Verhältnisses ist augenfällig, es ist, abgesehen von der Verwandtschaft, ganz der Tatbestand der Hausgemeinschaft der Familie vorhanden, und wenn wir deshalb Haussohn und famulus bzw. factor, socius und unabgeteilten Miterben in sehr wesentlichen Punkten gleich behandelt finden 15), so wird es dafür einer besonderen Erklärung nicht bedürfen; man wird auch nicht sagen können, es seien hier „familienrechtliche“ Grundsätze auf andere Verhältnisse übertragen, sondern gleiche Grundlagen führten zu paralleler Rechtsbildung, da gerade die für das Vermögensrecht maßgebenden Verhältnisse bei beiden gleichartig vorlagen. Die Beziehungen der Arbeitsgenossen waren der Natur der Sache nach dem Verhältnis zwischen Gliedern eines Familienhaushalts ähnlich, und andererseits war der Familienhaushalt, wollte er zugleich Grundlage eines Gewerbebetriebes sein, genötigt, seine Buchführung, sein Auftreten nach außen, kurz: alle in vermögensrechtlicher Beziehung erheblichen Momente, nach Art einer Gewerbegesellschaft zu gestalten. So koinzidierten bei beiden die rechtlich relevanten Momente 16). Nur daß bei der Familiengemeinschaft die Grundlage, der gemeinsame Haushalt, schon a priori besteht, welcher bei der Arbeitsgemeinschaft inter extraneos erst gewillkürt und geschaffen werden muß. Daher den Quellen die Familiengemeinschaft, wie es in gewisser Art auch zutreffend ist, als das primäre Institut erscheint, und deshalb da, wo beide gemeinsam behandelt werden, an der Spitze steht.

 In den Städten sind, als das mittelalterliche Recht seinen Bildungsprozeß begann, die alten sippschaftlichen Grundlagen des öffentlichen und Privatrechts bereits verschollen, hier wie sonst sind an deren Stelle andere, rein wirtschaftliche, getreten 17).

 Die gewerbliche Arbeit ist die gemeinsame Quelle der Struktur der Gemeinschaftsverhältnisse innerhalb und außerhalb der Familien.

15) Wir kommen bei Florenz darauf speziell zurück.

16) Cf. die Sachsenspiegelstelle in Note 14. Daß die Gewerke als solche in Gütergemeinschaft leben, versteht sich dem Sachsenspiegel hiernach von selbst.

17) Cf. hierzu für andere Verhältnisse Lamprecht, Deutsches Wirtschaftsleben im Mittelalter I S.288 Anm. 3, und v. Inama-Sternegg, Deutsche Wirtschaftsgeschichte S.75 Anm. 1. Von Bedeutung sind hier auch die Ausführungen Heuslers, Institutionen Bd. 2, S.304ff. Wo liegendes Gut den Haupt|bestandteil der Vermögen bildet, geht die Tendenz auf Gütertrennung und Individualeigen, wo Mobiliarvermögen und gewerbliche Arbeit, auf Gütergemeinschaft.

Gemeisame Eigentümlichkeiten.

 Zwei Eigentümlichkeiten der Gemeinschaftsverhältnisse mögen schon hier kurz konstatiert werden.

1. Beschränkung auf männliche socii.

 Einmal die Beschränkungen ihrer eigentümlichen Wirkungen auf die männlichen 18) Mitglieder der Gemeinschaft 19). Also: nur die arbeitenden, erwerbenden, im Geschäftsleben selbsttätigen Glieder sind mögliche Subjekte des gemeinschaftlichen Vermögens, ein neuer Beweis dafür, daß die gemeinsame Erwerbstätigkeit auf „gemeinsamen Gedeih und Verderb“ den Ausgangspunkt bildet.

18) Cf. Ansaldus de Ansaldis, Discursus legales de commercio et mercatura. Genua 1698 Disc. 49, wonach die Frage der Beteiligung der Schwestern gemeinrechtlich streitig gewesen sein soll.

19) Const[itutum] Usus Pis[anae] Civ[itatis] b. Bonaini, Rubr. De societate inter extraneos facta: „inter laicos et masculos“. Fernere Beispiele werden noch zur Sprache kommen, besonders in Venedig. Auch die Lombarda spricht nur von fratres und die lex Burgund[ionum] kennt eine Gemeinschaft des Vaters mit den Söhnen, obwohl sie eheliche Gütergemeinschaft nicht kennt.

2. Ausschluß der Immobilien.

 Zweitens der regelmäßige Ausschluß der Immobilien von der Zugehörigkeit zum gemeinsamen Fonds. Wie schon bei den Seesozietäten die Vorrechte der Sozietätsgläubiger sich auf das mobile Kapital beschränken 20), so ist auch hier nur das Mobiliarvermögen Gegenstand der Gemeinschaft und ihrer speziellen Wirkungen 21). Das gemeinsame Haus war der Ausgangspunkt der Entwicklung und die Grundlage der Gemeinschaft, allein es wird, soviel ersichtlich, nicht zu dem Gemeinschaftsvermögen gerechnet 22), und die übrigen Immobilien stehen stets außerhalb desselben. Also nur das werbende Kapital ist das Material für die Fortentwicklung.

20) Stat[uta] Perae c. 20.

21) Stellen sind in den von Lattes, Diritto commerciale § 6 Note 5 und 6 zusammengestellten Zitaten über Ausschluß der Immobilien vom Handelsrecht enthalten. Im übrigen kommen wir bei Florenz darauf zurück.

22) Es unterliegt nicht der speziellen Art der sozietätsmäßigen Verfügung der Teilhaber; sowenig als heute ein socius etwa die Firma veräußern kann, sowenig konnte er die damalige Grundlage der Gemeinschaft, das gemeinsame Haus, belasten oder veräußern.

Wandlungen in den Vermögensverhältnissen.

 Indem somit die Vermögensgemeinschaft nicht mehr eine allgemeine war, sondern nur einen Teil der Vermögen der Beteiligten umfaßte, und indem, wie gesagt, die Beteiligung des Einzelnen damit in weitgehendem Maße die Natur einer Einlage, eines Konto, welches er bei der Gemeinschaft hat, annahm, entstand auch das Bedürfnis, diesem Konto als Ganzem die Natur eines selbständigen Rechtsobjekts in höherem Maße zuteil werden zu lassen, insbesondere die Möglichkeit von Verfügungen über dasselbe als solches für einzelne Fälle zuzulassen. In der Tat finden wir in Testamenten und Erbrezessen der Florentiner Familie der Alberti 23), daß über das Konto des Teilhabers verfügt, dasselbe unter die Interessenten verteilt und letztere auf dasselbe angewiesen werden. Es entstand ferner das Bedürfnis, auch das nicht zur Kommunion gehörige Kapital des Genossen fruchtbar, am liebsten bei der Eigenen Sozietät, anzulegen, und wir finden dann das eigenartige Verhältnis, daß der Einzelne in doppelter Art am Geschäft beteiligt ist: einmal mit dem Betrage, welcher seinen Anteil am Gemeinschaftsvermögen darstellt, und ferner mit dem bei der Gemeinschaft nutzbar angelegten Kapital, als Partizipant, entsprechend dem Nebeneinanderlaufen von societas und Kommenda in den genuesischen Urkunden 24). Später nun begann man auch in den Familien die alten, früher ex lege eintretenden Gemeinschaftsverhältnisse vertragsmäßig und auf Zeit zu schaffen 25), womit die Familiengemeinschaft auch formell auf den Boden des Sozietätsrechts tritt 26). Wir gelangen dann auch hier zu dem Begriff der „Einlage“, als einer Quote, mit welcher der socius an Gewinn, Verlust und Kapital der Gemeinschaft beteiligt ist, — wie bei der societas maris. Aber es fragt sich, ob diese Einlage hier dieselbe Bedeutung hat, wie bei den Kommendaverhältnissen, und darüber können wir nur entscheiden, wenn wir die andere, hier weitaus wichtigere, Seite des Verhältnisses, die Wirkungen nach außen, Dritten gegenüber, betrachtet haben. Wir müssen zu diesem Behufe, nachdem zuletzt vorgreifend Ergebnisse einer späteren Entwicklung bezeichnet worden sind, wieder auf die Anfänge derselben zurückgehen.

23) Passerini, Gli Alberti di Firenze. Cf. unten bei Florenz.

24) Cf. unten bei Florenz.

25) Cf. die Urkunden der Alberti und Peruzzi in Florenz.

26) Man schuf sogar, wie die Urkunde Nr. 36 des Registrum Farfense (cf. Note 11) zeigt, die Familiengemeinschaft selbst durch Vertrag. In der cit. Urkunde nehmen zwei in Kommunion lebende Brüder ihren Onkel in die Hausgemeinschaft auf: te … affratamus et in tertia portione … heredem esse volumus. Der Fall betrifft eine ländliche Hauskommunion. Brunner a.a.O. (Note 11) S.12 f. hat auf die Analogie der Vergesellschaftung Verwandter zu Handelszwecken hingewiesen.

III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.198 – P.203 日本語訳 (17)

日本語訳17回目です。ここは注釈が長くて、かつゲルマン法にはほとんどなじみがなくて色々調べるのに時間を要しました。ヴェーバーは当時のロマニステンとゲルマニステンの対立のどちらにも与することなく、両方の論点を止揚しようとしているように感じました。
またザクセンシュピーゲルで中低ドイツ語が出てきました。学生時代に中高ドイツ語は新田春夫先生の授業で少しやりましたが、中低の方は初めてです。地域的にはハノーファーの辺り(ニーダーザクセン)の言葉です。大体分かる感じですが、所々分からない単語があり、その箇所は辞書も持っていないので英訳に頼りました。英訳はKaelber教授自身の訳ではなく、ザクセンシュピーゲルのドイツでの注釈書を参照しています。(その後、Web上の中低ドイツ語の辞書を発見しました。)
これで全体の1/3を訳し終えました。元のドイツ語はここです。
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 第一の方向、つまり家族の財産を個々の成員がそれぞれ分け前として持つという方向に向かったのは、ノルマン人《12世紀に南イタリアを占領し、ノルマン・シチリア王国を建国した。》の残した考え方 9) から非常に強い影響を受けた南イタリア-シチリア島の法における考え方であった。それらの法の規定によれば、家族の財産は持ち分に従って父親と子供達の間で分割されて所有されていたように見える。父親は生者に囲まれながら、自分自身の死を想定しつつ生き、それぞれの子供達と同等に、家族財産の中のある決められた部分に対してしか自由処分権を持っていなかった。

9) 類似した考え方は古フリースラントでも、またバルト海から侵入したブルグント人の法においても見られた。《現在のオランダであるフリースランドにゲルマン民族であるフリース人が進出し、7~8世紀にフリースラント王国を建国した。ブルグント人は元々スカンジナビアに住んでいたゲルマン人であり、5世紀初めにローマ帝国領内に侵入し、ライン川の西にブルグント王国を建国した。ブルグント王国は叙事詩「ニーベルンゲンの歌」の舞台としても有名。また現在のフランスのワインで有名なブルゴーニュ地方の名前はブルグントにちなむもの。》Brünneck《Wilhelm von Brünneck、1839~1917年。ドイツの法学者、法制史家。》のSiziliens mittelalterliche Stadtrechte 《1881年、シチリア島の中世の都市法》を参照せよ。Pappenheim《Max Pappenheim、1860~1934年、ドイツの法制史家》の Launegild und Garethinx 《1882年、ブレスラウ》は、c. 51, 1において liber legis Gundebadi(ブルグント王国のGundbad王の法律の書)を西ゴート王国の I ArfÞaer balker 9 principio (相続財産の一部?)と比較している。

10) ソレントでは(Consuetudines rubr. 43《ソレント慣習法集成》)、父親は自分の労働による報酬のみを自分自身のものとして取得し、相続対象となる財産については子供達が一緒の家に住んでいる限りにおいてそれを自分で管理し、共通の生計への収入についてはしかしながら子供達が成人した後は(rubr.43 前掲書)、その子供達がもはや父親と一緒に住んでいないことになると直ちに(rubr. 7 前掲書、 Consuetudines v. Neapel の r. 7 と比較せよ)、父親・母親・子供達の間で成年に達した者に対する分け前に応じた収入の分割が始まり、息子達(rubr. 43、前掲書)は分割を要求することが出来た。つまり家族の構成員による共有財産(communio)が成立しているのである。1345年のシチリア島のカターニアの法(名称:III Consuetudo unica)は家族成員間の等しい関係を次のように表現している:家族構成員の財産はあたかも「一つの体」(unum corpus)と成るであろうと。シチリア島のメッシーナの法(ホーエンシュタウフェン朝のもの《ホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ2世の時代、1197~1250年》)と1299年のカルタジローネ《同じくシチリアの町》の法、そして Ordinaciones terrae Noti《1341年、シチリア島のノートの法規》は父親の分け前についてより詳細に定めており、また次のような規定も存在する。つまり、父親とそれぞれの家族構成員はそれぞれの分け前の分についてのみ自由処分権を有することが正当化されている。しかし、その分け前分についてはそれ以外に何の制約条件も無く自由に処分出来たのである。メッシーナの法のc.33では明確に、両親の生きている間においては、(子供達からの)分割の要求を無効と定めている。そのことについてはカルタジローネの法は次のような除外規定を置いている:もし父親が息子または娘を一人前と認めて自由にしない限りは、と。こうした関係のこれまで知られている限りでの最も古い法律条文での言及は、1150年のルッジェーロ2世《1130~1154年までシチリア王》のもの(ギリシア語とラテン語で記載)である: … „si genitor in vita habuerit 3 liberos … consuetudo est ex omni substantia eorum ipsum obtinere duas partes, id est 8 uncias, filios autem terciam“.(もしある父親が生きている内に3人の子供を持ったとしたら…慣習では父親は彼らの全ての所有物の中から2/3を得、それは8/12と等しいが、息子達はそれに対してその中から1/3を得る。)
 フランス民法典の”part disponible”(自由に処分出来る財産分与分)は、ここにおいて既に生きている者同士の間で適用されていた。
 シチリア島においてノルマン人の法とビサンチン(東ローマ帝国)の法が、中間的な法も存在せずに同時に並立しているということは、シチリア島においては個人の原則がまずフリードリヒ2世皇帝の Constitutiones Regni Siciliae (l. II t. 17)において取上げられており(更に1286年にはアマルフィで、Volpicella《Luigi Volpiicella、1864~1949年、イタリアの歴史家》の編による文献史料 Consuetudini d’Amalfi において、”vivens lege Romana”(生きているローマ法)という宣言が登場する)、ローマ法における communio がゲルマン法での家族財産という概念に直接的に移行するのを促進したと言えるかもしれない。
 シチリア島の諸法規とBrünneckのそれに関する前掲書(Sisiliens mittelalterliche Stadtrechte)を参照せよ。

 このような家族の構成員が家の財産の内からそれぞれ分け前を持つといった法的な考え方は、シチリア島以外の他のイタリアにおいては一度も存在していなかった。個々の構成員にとってのこうした人間関係の金銭的な意味は、ここにおいてもまた自然に前面に登場して来ることになった。その後それ故にそういった諸ゲマインシャフトは大規模な商業において役割を果たし始めた。そうした大規模な商業における共通の業務への出資という形での重要な関与においての、共通の財産の要求は正当なものと見なされるようになり、―ただ観念的な分け前の概念における家族の(共有)財産概念の崩壊は、南イタリアにおけるような形ではまだ始まっていなかった。家族財産の原則的な一体性は維持されていた。全体的な経営ゲマインシャフトと個々に分割された財産についての共通の財産を超える原則的に無制限な処分権の、これらの諸ゲマインシャフトに固有であった根本原則は、それぞれのゲマインシャフトに大規模商業における行動能力を付与するという意味で、かなり高いレベルでの有用性を保つように明確に形成されたいた。

11) ランゴバルド法もまた家族の構成員の分け前的な権利という根本原理に従った家族財産の形成への傾向を持っていた。そのことは文献史料のRegistrum Farfense (Il Regesto di Farfa pubblicato della Società romana di storia patria vol. II、1879年、ローマ)《ファルファはローマの近郊で北東方向にある地名》にはっきりと示されている。(Brunner《Heinrich Brunner、1840~1915年、オーストリアの法制史家》の Mitteilungen des Instituts für österreichische Geschichtsforschung、第2巻、P.10以下)を参照せよ。これらの諸都市ではしかしながら、今後本論考で示されるように、こうした発展はただ部分的に発生していたに過ぎなかった。

家族以外での諸家計ゲマインシャフト

 しかしながら、今まさに述べた最後の理由(個々の成員の分け前である財産の処分権の共有財産に対する優先が、そのゲマインシャフトに商業での行動能力を付与すること)は、そういった根本原理がまず第一に家族に属する者に限定されると見なすべきことへの理由とはなり得ない。既に述べて来たように《全集版のP.195、「諸ゲマインシャフト関係の法的基礎。家計ゲマインシャフト」の最初の箇所》、家を基礎にする家族のゲマインシャフトはその構成員として家族以外の人間も包含していたし、それも既にランゴバルド法において本質的には親族関係という要素では無く、家を共通にするゲマインシャフトという事実をその関係の基準と見なしていたし、その場合こうしたゲマインシャフトに適用された法文は、共通の家計と労働を通じての共通の経営が、親族関係に基づいていない人間集団の中で行われているという(家族だけの関係と)同等の原則が存在している場合には、まさに同じような法適用が可能だったのである。事実として、また中世の法においても、家のゲマインシャフトの効力をただ親族関係に限定するということは行われていなかった。それはむしろ家族の外側でそれと同じようなゲマインシャフト関係が作られ、全く家族ゲマインシャフトと同等に扱われたのである。更には、より古い時代においてはそうした家族の外でのゲマインシャフト関係は手工業を基礎として形成されたのである。

手工業のソキエタス

 内陸の諸都市においてより大規模な遠方との交易についての諸前提条件がようやく外部に対して次第にはっきりと姿を見せるようになったということは、既にこれまで述べて来た《5.の「陸上コムメンダと合資会社」の箇所》。そうした取引は自然な形では最初は商品を次の市が立つ場所に輸送することから始まり、そして時には(海上輸送や貿易のために)海に面する港まで運ぶことになり、それは更に輸送の範囲を広げて行くことになり、その結果その商売の形態は商品の売り買いというより販売が主となり、工芸的な労働がその繁栄の基礎をそこで築くことになった。というのもそうした内陸都市における法規の中では、そうした産業の内容を警察がそうするように取り締まる規定が多くの部分を占めていたのである。そういった産業の労働が生み出したものは、まずは手工業によって生産された商品であり、それに応じてここにゲゼルシャフト形成の源流が見出されるのである。その際に、資本を相互に拠出してまとめることによる共通の基金の形成と、一方向的なコムメンダというやり方でのゲゼルシャフト化に対しては、この時点ではまだほとんどの所必要性に乏しく、かつ可能性という意味でもほとんど無かった。特定の手工業の職人がある別の一人の職人仲間とお互いに協力し(ある種の組合を結成し)た場合、そこに共通の労働が発生し、その目的はその仲間と作業場と販売のための店舗において仕事を分担することであり、というのもその共通の仕事は本質的には(同じ)居住場所の中において進行したのであり、その居住場所とは原理的には店舗であり同時に作業場であったのであるが、それ故に労働仲間は同時に家仲間と成り、食卓と家計を分け合ったが、つまりは一つの家に起居する職人仲間(Geselle)に成ったのであり、ラテン語では famulus, factor であり―、または同じく独立した構成員(Genosse)―ラテン語では socius ―でもあった。「一つのパンと一本のワインを共有する」(stare ad unum panem et vinum)はこうした労働ゲゼルシャフト(そう名付けるのであれば)にとって自然なことであり、このことが法律におけるこういう関係の形成において明確な意味を持っているのである。ただ手工業におけるこれらのゲゼルシャフト形態の源流が次のことを明らかにする。つまり、更に後の時代で巨大な産業として経済的に世界を支配したような商業上の諸ソキエタスでのゲゼルシャフトに成長した家計的要素は、本論考では後でそれについて取上げることになるが、確かに必ず必要なものでも無いしまた本質的なものでも無いが、しかしそれはある重要性の高い(他から区別するための)特徴となっているのである。

12)海上取引の盛んな都市と産業の発達した都市の対立がLastigによって強調されている。(Entwicklungswege und Quellen des Handelsrechts《商法の発達の道と源泉》)ゴルトシュミットはZeitschrift für das Gesammte Handelsrecht《総合商法雑誌》の第23号の309ページ以下で、このLastigの論に対し、対立を際立たせるやり方が行き過ぎであり、また一般化も過度であるとして批判している。Lattes《Alessandro Lattes、1858~1940年、イタリアの法制史家で商法史とランゴバルド法が専門》は Il diritto commerciale nella legislazione statutaria においてLastigに賛成しているが、彼が主に注目しているのは生成されて来る法規における2種類の都市の対立であり、つまりはその歴史的な発展である。彼の主に都市制定法の入門として有用な著作は、我々にとって重要な法制史上の観点についてはほとんど触れていない。

13) ある家内手工業者の雇い主との関係に関する法適用式としてのコムメンダの利用については、ピサの法についての章《第4章》にて手短に述べることとする。

14) バルドゥス編の Consilia V25 に述べられている、同じ台(banca)の上に立っている《同じ露店を営んでいる》肉屋の「ソキエタス」を参照せよ。

14a) 更にザクセンシュピーゲル《ザクセンの騎士 Eike von Repgowによって1220年から1235年の間に編纂されたドイツ中世の慣習法をまとめた法書。中低ドイツ語で書かれている。「ザクセンの鏡」の意。》の第1巻 Art. 12を参照せよ:
Swô brudere oder andere lûte ir gut zu samene habn, erhôen si daz mit irre kost oder irme dînste, der vrome ist ir aller gemeine, dazselbe ist der schade. Swaz aber ein man mit sîme wîbe nimt, das en teilt he mit sinen brûdern nicht (dazu cf. die Stelle der l[ex] Longob[ardorum]). Verspilt aber ein man sîn gût oder verhûret erz oder verguftet erz mit gift oder mit kost, dâ sîne brûdere oder die ir gût mit ime gemeine habn, nicht zûphlicht en habn, der schade den her daran nimet, sol sînes eines sîn, und nicht sîner brûdere noch sîner gewerken, die ir gût mit ime gemeine habn.(兄弟達と他の人達が財産を共有している場合でその者達が投資と労働の結果としてその財産を増やそうとする場合、利益については全員に共通のものとなり、損失についてもまた同じである。しかしある一人の成員が結婚した相手の女性から何かを得る場合には、その人はそれを他の兄弟には分け与えない。(ランゴバルド法の相当箇所を参照せよ。)しかしある成員が賭博にお金をつぎ込んだり、何かを浪費したり、贈り物や他の目的でお金を使った場合、その成員の兄弟やその成員と財産を共有している者がそれらの支出について同意していない場合は、損失はその成員のみの負担となり、その成員の兄弟や財産を共有している者の負担とはならない。)―イタリアの諸法規においては、ほとんど規則的に、手工業者は商人(mercatores)と一緒に扱われ、その商人(mercatores)についての規定において、手工業者とその商人の関係が規定されている。

決疑論とは何か

「決疑論(けつぎろん)」というのはあまりなじみのない言葉であり、人口に膾炙しているものとは思えないため、ヴェーバーを学ぶ人向けに簡単な解説を上げておきます。

決疑論はドイツ語では(die) “Kasuistik”です。(英語では”casuistry”)元はラテン語で「事例、ケース」を意味する”casus”をドイツ語的に綴った”Kasus”に学問や技術を表す接尾辞である”istik”がくっついたものです。それ故、非常にラフな言い方としては一般に使われるケース・スタディと意味が重なります。しかし、単純な意味での具体的事例の研究だけではありません。

この言葉は元はキリスト教のカトリック神学から出てきたもので、カトリックの教会の神父が、信者から告解(懺悔)を聞いた時に、基本的なことしか定めていないカトリックの神学の体系からは、どう扱っていいか分からないような複雑で時には教義と矛盾する個別の事例に対し、どのように神学として処理して現実的な指針を与えるか、ということを研究した学問です。例えば単純な例では、法学ともかぶりますが、自分を殺そうとして襲いかかって来た者を思わず反撃して殺してしまった場合罪になるのかどうかということです。(大抵の宗教では、「汝殺すなかれ」というルールがあると思います。法学ではご承知の通り正当防衛になり、無罪となります。)法学が出てきましたが、法律においても、具体的な個々の法令がすべての事例の可能性を想定して詳細に説明出来ている訳では当然なく、通常は裁判によってその法律の具体的な適用の範囲が決まって行きます(判例)。つまり決疑論的な思考は法学においてもきわめて通常の事であると言うことになります。

また、医学にも決疑論はあって、ある病気が定義されている場合、医者は個々の患者の具体的な症状を見て、それが既存の病気で定義可能か、ということを日常的にやっています。この医学における決疑論を見事に描写しているのが、自身が医者であった森鴎外の小説「カズイスチカ」です。(この小説は著作権は既に切れているので青空文庫で読むことが出来ます。)その中では、若い医者である花房がある農民の息子が破傷風にかかったのを往診し、実際の患者を診て「内科各論の中の破傷風の徴候が、何一つ遺(わす)れられずに、印刷したように目前に現れていたのである。」ということに感心する、といった話です。医学の世界でも医学書が規定する各種の病気の病態と、現実の患者に現れる様々な病状を照らし合わせて病名を決定していく時に、まさしく神学や法学と同じような「決疑論」が使われる訳です。

ヴェーバーにおいての決疑論は、彼の理念型と一緒に考えると分かりやすいです。つまりある思考のためのモデル設定である理念型を用い(例えば「中世合名会社史」では「家ゲマインシャフト」)、その設定した理念型が現実の歴史における諸事例と照らし合わせ、どの程度適合しているのかしていないのかを吟味し、その結果を元にして場合によっては理念型の方を訂正し、再度諸事例との照合を行う、という繰り返しになります。そうした決疑論の集大成がヴェーバーの宗教社会学と並立される大著である「経済と社会」だと思います。

以上をまとめると、「決疑論」とはある一般法則的なものと個別の特殊ケースのせめぎ合いについて、どう折り合いをつけていくかを研究する学問だということです。

III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.198 – P.203 ドイツ語原文 (17)

ドイツ語原文の第17回目です。ここでは中に、中世ラテン語ではなくて、低地ドイツ語と思われるもの(Sachsenspiegel)が登場して、なかなかタフそうです。
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 Nach der ersteren Richtung ist am weitgehendsten infolge nordischer Reminiszenzen 9) die Auffassung des süditalisch-sizilianischen Rechts 10), wonach das Familienvermögen quotenmäßig unter Vater und Kinder verteilt erscheint, der Vater inter vivos und mortis causa nur ebenso wie jedes Kind über eine bestimmte Quote verfügen kann.

9) Analogien finden sich im altfriesischen und im Recht der von der Ostsee gekommenen Burgunder. S[iehe] Brünneck, Siziliens mittelalterliche Stadtrechte; Pappenheim, Launegild und Garethinx stellt die Stelle c. 51, 1 lib[er] leg[is] Gundeb[adi] mit Westgötalagen I ArfÞaer b[alker] 9 pr[incipio] zusammen.

10) In Sorrento (Consuetudines rubr. 43) erwirbt der Vater für sich nur den Verdienst aus eigener Arbeit, von dem ererbten Vermögen verwaltet er, solange die Kinder im gemeinsamen Hause wohnen, die Einkünfte zum gemeinsamen Unterhalt, nach Großjährigkeit der Kinder aber (rubr. 43 zit.) erfolgt, sobald dieselben nicht mehr mit ihm leben (rubr. 7, cf. Consuet[udines] v. Neapel r. 7), Teilung der Einkünfte unter Vater, Mutter und Kinder nach Virilportionen und können die Söhne (rubr. 43) auf Teilung klagen. Also communio der Familienglieder. Die Statuten von Catania v. 1345 (Tit. III Consuet[udo] unica) drücken das gleiche Verhältnis so aus: die Güter der Familienglieder würden „unum corpus“. Die Statuten von Messina (aus der Hohenstaufenzeit), Caltagirone (v. 1299) und die Ordinaciones terrae Noti bestimmen die Anteilsquote des Vaters näher, und zwar zeigt sich, daß der Vater und jedes Familienglied nur über seine Quote, aber über diese auch ohne weiteres, zu verfügen berechtigt ist; das Statut von Messina c. 33 hält ausdrücklichen Ausschluß der Teilungsklage bei Lebzeiten der Eltern für nötig, wovon das Statut von Caltagirone die Ausnahme macht: „nisi pater emancipet eum vel eam“. Die, soviel bekannt, älteste gesetzliche Erwähnung derartiger Verhältnisse ist die Novella Rogerii vom Jahre 1150 (griechisch und lateinisch): … „si genitor in vita habuerit 3 liberos … consuetudo est ex omni substantia eorum ipsum obtinere duas partes, id est 8 uncias, filios autem terciam“.
 Das Prinzip der part disponible des Code ist hier bereits auf die Verhältnisse inter vivos angewendet.
 Das unvermittelte Nebeneinanderstehen des normännischen und byzantinischen Rechts in Sizilien, wo das Personalitätsprinzip erst in den Constitutiones Regni Siciliae K[aiser] Friedrichs II (l. II t. 17) aufgehoben wurde (noch 1286 kommt in Amalfi in einer Urkunde b. Volpicella, Consuet[udini] d’Amalfi die Deklaration „vivens lege Romana“ vor), mag die unmittelbare Übertragung des Begriffs der römischen communio auf das germanische Familieneigentum begünstigt haben.
 S[iehe] die sizil[ianischen] Statuten und über sie Brünneck l. cit.

 Derartig ist die Rechtsauffassung im übrigen Italien nie gewesen 11). Die pekuniäre Bedeutung des Verhältnisses für den Einzelnen trat auch hier naturgemäß mehr in den Vordergrund und deshalb mußte, nachdem die Gemeinschaften als solche im großen Geschäftsleben zu funktionieren begannen, sein Anrecht an dem gemeinsamen Vermögen in wichtigen Beziehungen als Einlage in ein gemeinsames Geschäft qualifiziert werden, — allein ein Zerfall des Familienvermögens in Idealquoten trat nicht in der Weise wie in Süditalien ein; die prinzipielle Einheit des Vermögens blieb gewahrt; die diesen Gemeinschaften eigentümlichen Grundsätze voller Erwerbsgemeinschaft und prinzipiell unbeschränkter Verfügungsmacht aller einzelnen Beteiligten über das gemeinsame Vermögen waren augenscheinlich in hohem Maße geeignet, der Gemeinschaft Aktionsfähigkeit im Geschäftsleben zu verleihen.

11) Auch das langobardische Recht hat Neigung zur Ausgestaltung des Familienvermögens nach den Grundsätzen quotenmäßigen Anrechtes der Genossen gehabt, wie die Urkunden des Registrum Farfense (Il Regesto di Farfa pubbl[icato] della Soc[ietà] rom[ana] di stor[ia] pat[ria] vol. II, Rom 1879) deutlich zeigen (cf. Brunner in den Mitt[eilungen] des Instit[uts] f[ür] österr[eichische] Geschichtsforschung Bd. 2 S.10f.). In den Städten ist diese Entwicklung aber, wie das Folgende zeigen soll, nur partiell mitgemacht worden.

Haushaltgemeinschaften außerhalb der Familie.

 Aber eben aus diesem letzteren Grunde liegt keine Veranlassung vor, weshalb wir uns diese Grundsätze als zunächst auf die Familienangehörigen beschränkt zu denken haben sollten. Wie schon hervorgehoben, umfaßte auch die häusliche Gemeinschaft der Familie neben deren Angehörigen noch andere Personen, und da schon die Lombarda nicht wesentlich das verwandtschaftliche Element, sondern das Faktum der häuslichen Gemeinschaft als maßgebend betrachtet, waren die Rechtssätze, welche auf diese Gemeinschaft Anwendung fanden, ebenso anwendbar, wenn die gleichen Grundlagen: gemeinsamer Haushalt und gemeinsamer Erwerb durch Arbeit, unter Nichtverwandten vorhanden waren. Tatsächlich haben auch im mittelalterlichen Recht sich nirgends die Wirkungen der häuslichen Gemeinschaft auf Verwandte beschränkt. Es hat vielmehr auch außerhalb der Familie derartige Gemeinschaftsverhältnisse gegeben und sind diese völlig gleichartig behandelt worden. Und zwar in älterer Zeit zunächst auf dem Boden des Handwerks.

Handwerkersocietäten.

 Daß in den Binnenstädten die Bedingungen für einen großen Fernhandel erst allmählich mit ihrem Erstarken nach außen sich einstellten, ist schon oben berührt und bemerkt, daß naturgemäß ihr Handel zunächst in dem Transport ihrer Produkte an den nächsten Marktplatz, evtl. Seehafen, bestand, welcher dann das weitere übernahm, also mehr im Absatz, als im Umsatz von Gütern, daß also gewerbliche Arbeit die Grundlage ihres Wohlstandes bilden mußte 12), wie denn gewerbepolizeiliche Vorschriften einen der umfangreichsten Bestandteile aller ihrer Statuten bilden. Die gewerbliche Arbeit aber ist zunächst Sache des Handwerks und demgemäß finden sich hier die Anfänge der Gesellschaftsbildung. Dabei war nun für die Bildung gemeinsamer Fonds durch Zusammenschluß von Kapitalien oder für eine Vergesellschaftung nach Art der einseitigen Kommenda zunächst weniger Bedürfnis und Möglichkeit vorhanden 13); tat sich der Handwerker mit einem Genossen zusammen, so geschah es zu gemeinsamer Arbeit, um mit ihm die Tätigkeit in der Werkstatt und im Verkaufsladen zu teilen; und da diese seine Tätigkeit sich wesentlich in seiner Behausung abspielte, welche prinzipaliter zugleich auch Laden und Werkstatt war, so wurde der Arbeitsgenosse von selber zum Hausgenossen und teilte Tisch und Haushalt, der unselbständige „Geselle“, — famulus, factor, — so gut wie der selbständige „Genosse“, — socius —; das stare ad unum panem et vinum ist naturale dieser Arbeitsgesellschaft (um sie so zu nennen), und dies ist für die rechtliche Gestaltung des Verhältnisses von augenscheinlicher Bedeutung. Nur der Ursprung dieser Gesellschaftsformen im Handwerk 14) erklärt es, daß noch später bei der Großindustrie und den pekuniär weltbeherrschenden Handelssozietäten der gemeinschaftliche Haushalt zwar, wie wir sehen werden, nicht mehr ein notwendiges oder das wesentlichste, aber doch ein erhebliches Kriterium bildet 14a).

12) Der Gegensatz von Seehandels- und Industrieplätzen ist von Lastig klar betont (Entwicklungswege und Quellen des Handelsrechts). Einschränkend gegen zu scharfe Fassung des Gegensatzes und generalisierende Schlüsse Goldschmidt, Z. f. Handelsr. 23, S.309ff. Lattes (Il diritto commerciale nella legisl[azione] stat[utaria]) folgt Lastig, sieht aber mehr auf übersichtliche Zusammenstellung der sich findenden Rechtssätze, als auf historische Entwicklung und kommt sein als Einführung in das Statutarrecht vorzüglich brauchbares Buch für unsere rechtshistorischen Zwecke weniger in Betracht.

13) Auf die Verwertung der Kommenda als Rechtsform für das Verhältnis eines Hausindustriellen zum Arbeitgeber kommen wir in dem Kapitel über pisanisches Recht kurz zu sprechen.

14) cf. die bei Baldus, Consilia V 25 geschilderte „Sozietät“ von Schlächtern, die an derselben banca stehen.

14a) S[iehe] ferner folgende Stelle des Sachsenspiegels (B[uch] I Art. 12): Swô brudere oder andere lûte ir gut zu samene habn, erhôen si daz mit irre kost oder irme dînste, der vrome ist ir aller gemeine, dazselbe ist der schade. Swaz aber ein man mit sîme wîbe nimt, das en teilt he mit sinen brûdern nicht (dazu cf. die Stelle der l[ex] Longob[ardorum]). Verspilt aber ein man sîn gût oder verhûret erz oder verguftet erz mit gift oder mit kost, dâ sîne brûdere oder die ir gût mit ime gemeine habn, nicht zûphlicht en habn, der schade den her daran nimet, sol sînes eines sîn, und nicht sîner brûdere noch sîner gewerken, die ir gût mit ime gemeine habn. — Fast regelmäßig werden in den ital[ienischen] Statuten die Handwerker mit zu den mercatores gerechnet und in den Statuten der letzteren ihre Verhältnisse mit geregelt.

III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.194 – P.198 日本語訳 (16)

日本語訳の第16回目です。ここはラテン語はあまり出て来ないのですが、別の記事で書いた”meta”というランゴバルド法での一種の結納金に対する解釈が、H.ミッタイスの本(ドイツ私法概説)を見る限り、ヴェーバーも英訳者も全集版の注釈者も全て間違えているんじゃないかという疑問があり、大変でした。またヴェーバーのドイツ語も前章までに比べると錯綜してきたように思います。
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故に王に忠誠を誓うことによって王より与えられたか、あるいは何かの判決によって獲得されもののみがゲマインシャフトの勘定には入らず、そして(外部から嫁いで来た)妻に共通の財産から(ex communi)与えられた”meta”《全集版の注釈では「花嫁の持参金」とされているが、P.193の下でヴェーバーは「持参金」{mitgebenと動詞形で表現}は父親または男の兄弟より花嫁に与えられ、「それによって財産の分与を受けたことになる。(und sind damit abgefunden)」と書いているので、ex communi{共通の財産}から(花嫁に直接)与えられると読める記述は明らかに矛盾している。”meta”はH.ミッタイスの「ドイツ私法概説」によれば、花婿が花嫁の父親から花嫁に対するMunt{保護監督権}を引き渡してもらうことの代償として花嫁の父親に支払う、日本語で言えば一種の結納金のことであり、確かに父親はその受け取ったお金の中から娘に持参金を渡すのであるが、一度お金は父親の財産となったものを更に財産分与として与えるのであり、直接花婿の家から花嫁に支払われる訳では無い。ヴェーバーは花嫁の持参金以外に、何か別のお金が花婿の家の共通財産から花嫁に支払われると勘違いしている可能性も否定出来ない。H.ミッタイスによれば、ランゴバルド法での女性の地位、とりわけ婚姻後の地位についてはもっとも大きく学説が変わったとしており、ヴェーバーの時代ではmetaの意味が間違って解釈されていた可能性も考えられる。》のみが、(財産全体の)分割の際には、各成員個人に帰属すると認められる。そうでない場合の全ての収入は、兵士として出征したことで得られるものであってもゲマインシャフトの勘定に入り、同じく全ての支出もゲマインシャフトの勘定から行われるのである。支出のゲマインシャフト(全ての支出を共通の勘定から行うこと)にとって重要な事は、より古い時代の単純な人間関係の中にあった。そこでは支出を毎日必要となるもののみに限定しており、まだ信用売買は全く利用されていなかった。そういったやり方は今日の眼では心許なく見えるが、実際はそれ程でも無かった。収入のゲマインシャフトが関係する場合は、それ以外の要素も現れて来たかのようであった。つまり家族仲間の間での自然な関係 4)として、共通の家に住む共通の労働と生業という要素である。家族というものは、その時代での見方によれば、まだまず第一に一つのまた自然に与えられもした「生産ゲマインシャフト」であり、今日我々が普通に考えている単なる「消費ゲマインシャフト」だけでは無いのである。そういった生産ゲマインシャフトは、特にイタリアの諸都市では、広範囲に及ぶゲゼルシャフト形成の基礎であった。

4)Breve Pisani. Communis. v. 1286 l. I c. 118における家の息子に対する家の労働の強制を参照せよ。またランゴバルド法の表題 “De eo quod pater filiis vel filiabus necesse habet relinquere”(父がその息子達や娘達に残すように強制されたものについて)における、家の労働に良く貢献した(bene servientes)息子達に対して遺言で援助を与えることへの許可についても同様に参照せよ。こうした見解を裏付ける更に何倍もの具体例については後でまた扱うことになる。

諸ゲマインシャフト関係の法的基礎。家計ゲマインシャフト

 家族ゲマインシャフトと共に基礎に置かれる親族関係は、最初から本質的な契機ではあり得なかったということをここで確認しておかなければならない。

 家族を構成員とする家のゲマインシャフトは家族の成員以外にまた家族以外の人間 5)を含んでいた:家における使用人もまた、古い時代から家の成員として認められていた。そしてその取り扱いは家族について法的な因果関係を考える上での意味を持っており、それについては今後折に触れ立ち帰って検討することになる。財産法の側面については、大規模な商業の始まった時代においては、親族関係は大きな意義を持ち得ず、その代りに家計ゲマインシャフト、文献史料での呼び方では、”stare ad unum panem et vinem”(一つのパンと一本のワインを共にする)、がそれによって結び付けられた労働 6)のゲマインシャフトという点において本質的な特徴として表現されている。

5) このこと(家族以外の人間が加わっていること)は、ギールケ《Otto von Gierke、1841~1921年、ドイツの法学者でゲルマン法主義者であるゲルマニステンの中でもっとも高名》のGenossenschaftsrecht《邦訳書名:ドイツ団体法論》の第1巻のP.14以下において、他の関係の場合でも注記されている。-ギールケがジッペ(氏族)と家計の関係について論じている所で、彼はその二つの差異を本質的にジッペ(氏族)のゲノッセンシャフトとは対立関係にある、家計ゲマインシャフトに基づく専制君主の組織の中に見出している。しかし注意を要するのは、家のゲマインシャフトが家父長を頂点に置いていない場合で、つまり各成員が平等に扱われるように構成されている場合において、むしろ何よりもそれ自体が独特の性格を持っている、ということである。またイタリアにおいても、少なくともランゴバルド法においては、家族の組織に対しての家父長の専制君主的な固有の権利という考え方は存在せず、南イタリアにおいてもほとんど存在していなかった。

6)バルドゥス《Baldus de Ubaldis、1327年頃~1400年、イタリアの法学者で中世ローマ法の大家》のConsilia IV 472:”cohabitatio sola non facit societatem“(一緒に住んでいるというだけではソキエタスの構成要件として十分ではない)の箇所を、Consilia II 74の、一緒に暮している兄弟達の「勤勉な労働」によって獲得されたものは均等に分けられなければならない、の所と結び付けて参照せよ。Consilia のIIの451と更にIIIの30の、相続された共通の財産はその一族の間で、また労働によって獲得されたものは頭数によって分割されねばならない、を参照せよ。Consilia I 19の箇所においては、ロマニステン(ローマ法重視派)的な見解をより厳密に借用しようとする場合において、ソキエタス契約締結の証拠が必要とされ、それは共通の労働を結合しつつ一緒に暮すこと以外の要素から推定されるのである。というのはIIの260はIの19に出て来る判断を次のことによって再び無効とする。つまり分け前の持ち主があるものをどこから獲得したのかということを証明出来ない時、それについては共通の財産から取得したと見なし、そのことにより獲得の意図についての証拠が無いのにも係わらず、ゲマインシャフトのために獲得したのだということにして、成員間の共通性が損なわれないような状態に留めるのである。
 共通の家に一緒に住んでいない者は、ゲマインシャフトによって産み出されたものを取得することは出来ない。-このことは既に引用済みのランゴバルド法の箇所から結論付けることが可能であり、そしてピサのConstitutum Ususでは明確に、ゲマインシャフトは家に不在の者(absentia)が他の住居を建てた場合にはその者の権利を剥奪する、と述べている。
 その中で行われる共通の生業と結び付いている共通の住居は、財産法の側面においてもまた本質的なものであり、-そして我々にもこの側面がまず第一に重要なのである。

7)Bonaini、Statuti inediti della città di Pisa Vol. II のp.880を参照せよ。

財産法的発展の行程。構成員の分け前への権利。

 財産法的発展の行程は、次の事によって特徴付けられる。つまり、既に我々が見て来たように、ランゴバルド法は無制限の財産ゲマインシャフトに対する様々な制約を最初から視野に入れていた:少額の収入についてはゲマインシャフトの共通勘定に入れることはなく、しかし支出については少額でもゲマインシャフトからとしなければならなかった。この支出をどこから行うかについて、次に本質的では無い新たな変更が加えられた。個々の成員はいまやゲマインシャフトにおいて計算の目的である種の-まだ簿記とは言えないまでも-個別勘定を持つことになり、もはや全ての収入がゲマインシャフトには必ずしも入らなくなり、この傾向は更なる制約条項の出現を示唆するものとなった。

 しかしながら法的な観察の上で更に重要な因果関係が出現している。ゲマインシャフトのある構成員が計算を行うことと、少額の収入が自分に帰属するというのと、支出がまた自分の持ち分の勘定から行われるという風に見なすこと 8)が始まるや否や、-そしてゲマインシャフトがその本来的な業務を行うものとして現れ出るや否や、両方の場合で次のことが不可欠になる。-つまり、その場合には次のような原則的な疑問が出て来るのである。それは全ての構成員から見て、誰が一体それぞれの分割された部分について独立した権利を持っていると認めるのか-例えば家の息子達か?-というものであり、ゲマインシャフトにおいての個々の成員による共通財産の分割は一般的に持ち分という概念で考えられたのであり、そしてそれはソキエタスへの投資として理論的には扱われる傾向があった。しかしそれから、法的に重要な次の疑問に対しての態度決定が必要となった:つまり、共通の財産における家族の財産は、ゲマインシャフトの個々の成員の分け前として分離して扱うべきなのか、または逆に能動的でも受動的でも、ゲマインシャフトの仲間への分け前へという権利に対抗して、徹底的に共通の財産の統一を保つことを選ぶようにするか、ということである。

8)これらの必要性についての論理的帰結を導くためのこみ入った法的決疑論の構成については、バルドゥスの何を共通の家計として一般的に把握するのかという疑問に対する多数の決定事項によって十分に答が与えられている。これについては、Consilia Iの21、97、260,IIの87、347、IVの189、239,335、461、Vの40、65、234,259,284、372において、そして他にも多くの箇所で述べられている。既にランゴバルド法において、-前記の箇所を参照-女性の嫁資(持参金)またはローマ法の嫁資であるdosの計算についての特別な規定を導き出すという目的での、疑問に対する答がここでも前面に登場している。