「ローマ土地制度史」の日本語訳(14)P.136~138

「ローマ土地制度史」の日本語訳の14回目です。ここの部分は意味が把握しにくいラテン語句、ギリシア語句が登場し、別に書いたように生成AIを使いました。結果は十分期待以上でした。しかしこの Ager per extremitatem mensus comprehensus に関する議論は、例外的なものだけに難解で苦労しました。
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Ager per extremitatem mensus comprehensus [全面積が測量済みであるがまだ区分けされていない土地]について

我々は次にグローマで測量された土地の第三のジャンルである ager per extremitatem mensus comprehensus を取上げる。それはその名前[外周を取り囲む境界線のみが測量された土地]が示す通り、耕作地の地図において、ただ外側の境界線のみが描かれていて、[scamna/strigae またはケントゥリアによる]個々の区画割りが行われていない土地のことである 44)。ここにおいて、この分類名で測量された領域についてその法的な意味を説明出来るとすれば、次のことが確からしいであろう。つまり第一に[何らかの理由で]ローマの領土から外されたか、あるいは敵の降伏によってローマの領土となったものの一部分の領域が特別扱いされた場合に適用されたということである 45)。一方ではその領域は ager privatus [私有地]としては扱われず、他方では特別扱いされたといっても依然としてローマの行政管理下にあったものであり、しかし結局のところは個々の土地区画の所有者のローマの国家に対する納税義務のある土地とはならなかった、そういう領域である。このことを裏付けるのは、この分類の土地がまず第一に神殿[教会]付属の土地について適用されたということである。(Hyg., de cond, agr. p.117, 5; Sic. Flacc. 162, 28; Hyg., de lim. 198):その土地は非課税ではあったが、しかし[本来は課税される] ager publics [公有地]のままとされ、国家は疑いようもなく、[行政管理上]その領地の[場所や面積の]確認とその領域を確定させることの可能性について関心を持っていた。しかしこの種の測量は更に言えば、その領域に依存することになる神殿[教会]の占有に先立って行われ、その後その神殿[教会]はその領域を一定の支払いを代価として、譲渡されるかあるいは占有を認められた。神殿[教会]はその土地をそのような性質のものとして受け取り、また今度は神殿[教会]自身が[その構成員に対して]割当てを行ったのである。そう言える根拠はフロンティヌスがはっきりと次のように述べているからである。Ager per extremitatem mensus comprehensus は測量された[分割されていない]土地の全体がローマの市民[=ローマの国家]または[神殿や教会に]従属する人民に割り当てられた場合に適用されたのであると。

44) フロンティヌス、p. 4
45) Per extremitatem として測量された非課税の土地及び山林、そして土地の範囲とそれらとのローマの行政組織との関連については、第4章の関連箇所にて論ぜられる。

フロンティヌスはこの測量方法が実際に行われた例として、ルシタニア≪現在のポルトガルおよびスペイン西部≫のサルマンティカ≪現在スペイン北西部レオン地方のサラマンカ県の県都サラマンカ。第二次ポエニ戦争の時にローマの属州となった。≫及びスペイン方面に派遣されたパラティーニ≪Palatini。ローマ皇帝の護衛を勤める精鋭部隊。≫について述べている。[しかしながら]サラマンカ・パレンシア≪現在スペインのパレンシア県の県都。属州の中でのローマ軍が駐屯した都市。≫で発見されている碑文の内容は、これまでの我々の議論をほぼ完全に破綻させてしまう。何故なら Aggenius Urbicus≪4世紀後半に生きたと推定されるローマの技術書の著者。Corpus Agrimensorum Romanorum の中でフロンティヌスが彼の著作についてコメントを加えて紹介しているものがある。綴りは何種類か有り確定していない。≫は最初のゲマインデ[サラマンカの地方共同体]を vicus [ローマの村落]と呼んでおり、そして[サラマンカとパレンシアの]2つ共が課税された自治都市であった。しかしながら更にフロンティヌスが注記しているのは――こちらの方がより重要なのであるが――次のものである:”compluribus provinciis [tributarium] solum per universitatem populi est definitum.”[いくつかの属州においては、課税対象となる土地は、ただ住民の総意によってのみ決められた。]≪オリジナルのテキストでは”tributarium”が入っているがヴェーバーの引用では抜けている。≫ここについてはただ[その属州の]種族で、まだローマの都市法が適用されていなかった者達に関連付けられるであろう。実際にこの表現に適合する文献史料が存在している。それはサルデーニャ島にいた種族である Patulcenser と Galilenser ≪どちらも詳細は不明であるがサルデーニャ島のエステルツィーリ近辺にいたと推定される。なお後者の綴りは正しくは Galillenses。≫についてのものであり(C. J. L. X, 7852)、その耕地は a.u.c. 640-643年の間[BC114-111年の間]において、M. Marcellus [M. Caecilius Metellus、BC115年のローマの執政官。]によるその属州の一部への新法の適用の際に測量が実施されている。二つの種族間の境界を巡っての争いは――測量人達の間で controversia de territorio [領土を巡る争い]と呼ばれているその意味で 46)――[ローマによって測量が行われ作成された]測量地図を巡って行われた。それは三部作成され、一部がローマ市において保管された。そしてそれがローマにおいての測量地図の基準を満たしている場合には、それに関する争いはローマの地方総督≪Proconsul、執政官は1年任期であるが、それを辞めた後執政官の代理として1~3年間ぐらい属州に派遣された。≫によって裁かれた。この場合各種族の土地の区分けと個々の割当てについてが問題となったのではないであろうから、むしろ特徴的なことは、それぞれのゲマインデ[地域集団、ここでは二つの種族のこと。]がそれぞれの種族の[自分達が自領と考える]全部を一まとめにしてこのような訴訟を進めたのであり、それ故にこの場合争いの対象になっている土地は、ただ Ager per extremitatem mensus comprehensus であったと考えられる。

46) モムゼンは(C. J. L. 1.c.)において、この判決を決定通告[Schiedspruch]と呼んでいる。私はこれに反対である。何故ならば和解のケースは言及されておらず、逆にまず明らかに一方的な訴えが先立って行われており、そしてそれに対する相手方の異議申し立てと[判決の結果としての]強制執行がそれに続いているからである。[つまり通常の裁判形式そのものである。]少なくとも私はそれが課税対象の[ゲマインデの]共通の財産[である土地]を問題にしているが故に、それが通常の法的な訴訟であるとう考え方は、もちろん特別法の形態ではあるが(更に現物執行も行われているし)、まったく無理がないと考える。

しかしながらこの[Ager per extremitatem mensus comprehensusという]測量方式は、また都市部の諸ゲマインデにおいても使われたに違いない。S. C. de Thisbaeis (Ephem. egigr. I p. 278f)によれば地方総督は[執政官から]5人の男達に対して土地の割当てを委託することを命じられている。その目的は、[第三次マケドニア戦争の結果マケドニア属州の一部となっていた]ティスバイ≪Θίσβη 後にまた Θίσβαι。ギリシアのボイオティアの都市、ヘリコン山の南の麓≫との関係を整理することであった。(οις τα καθ’ αυτους πραγματα εξηγησονται[誰であっても、自分自身に関係することについて説明されるであろう])それから地方総督は5人それぞれに委託した土地の割当てについて、どのような[法]原則に基づいてそれを行わせるかについての指示を与えられた。ティスバイの人々は、碑文に示されている通り、元々[旧来の支配者によって]課税されていたのであり、それはそのまま維持されねばならなかった。その耕地についてはローマに降伏したことにより、ager publics [公有地]となったのであるが、それがこの場合意味するのはそれらの耕地はティスバイの人達にとっては、”ημων ενεκα εχειν εξειναι”[私達が所有することを許された]ものであった。そのことによって[改めて]土地の割当ては行われず、その代わりに外周の境界線が[正規のローマの土地という意味で]設定され、そして次にその土地の測量地図を作成することが決定された。その理由はその領土がその土地の人々に改めて返還されるのはただ行政行為、つまりローマの公法に基づいた請願という形でのみ行われるためである。次に周囲の境界線の確定は、その土地に対して将来何か別の処理(例えば場合によっては植民市化など)を行うケースを留保するという意味で、国家にとって本質的に利害関心があることだったからである 47)。中でもまさにこの目的のために行われたのが、次の委託命令であったことは明らかである。それはカエサル[皇帝]が行った5人の男達への[行政事務の]委託であり、その委託[に基づく土地のAger per extremitatem mensus comprehensusによる測量]によって、法律が定める一般的な方法に適合した形で、[ティスバイの]土地が[合法的にローマに]譲渡された。その方法とは、[様々な文献で]何度も引用されている lex Mamilia Roscia Peducaea Alliena Fabia [マミリア法]で規定されているものである。Ager per extremitatem mensus comprehensus 以外のさらに別な[例外的な]測量方法については、これ以上ここでは述べることはしない。

47) また別の例として、lex agraria (a.u.c. 433年=BC111年、土地改革法)はまた、アフリカの土地[第三次ポエニ戦役で完全に滅亡したカルタゴの土地がローマの属州になったもの]について規定しており、それは課税地としてローマに譲渡されており。これもまた公共の測量地図の中に記載されねばならなかった。しかしそのことは属州としての法的地位の決定の際と、またグラックス兄弟の兄による土地配分の際に、概念の混同によって、結局行われなかった。我々はここで、カルタゴでは一体誰に結局土地が割り当てられたのかいう疑問について、第三章でまた取上げる。

サーバーダウンしていました。

ここのブログと、折原浩先生のHPも、昨晩(2024年2月5日22:30くらい)から2024年2月6日15時頃までアクセス出来ませんでした。雪による倒木で架線が切れ私の住んでいる所一帯が12~14時間くらい停電していました。ちなみに私自身が中央本線の高尾と甲府間が昨日16時過ぎから今日の12時まで運休で帰宅出来ずにホテルに泊まりました。こちらも雪による倒木・倒竹と架線切れです。ちなみにUPS(非常用電源)は付けていますが、あれはせいぜい10分くらいしか持たず、役目は停電を検知して30秒経つと、サーバーを自動シャットダウンするのと、後は瞬停対策にしかなりません。

古典ギリシア語の英訳:ChatGPT4 対 古典語学者(その2)

次はChatGPT4に古典ギリシア語(これもローマ土地制度史に出てくるもの)を訳させましたが、私が綴りを間違えていたのをちゃんと修正して、またアクセント記号も付けて訳してくれています。自分でも辞書を引いて確認しましたが、多分正しいです。ギリシアのティスバイの人々に土地の割当てについて説明する、という所なので。(意訳すると、ティスバイの人々は誰であっても、その者に割り当てられる土地についての説明を受けるであろう。)
英訳はここを削除してまったく訳していません!信じられない古典語学者です。

You
Please translate the following ancient Greek sentence into English: οισ τα καθ’ αυτους πραγματα εξηγησονται
ChatGPT
The sentence “οἷς τὰ καθ’ αὑτοὺς πράγματα ἐξηγήσονται” translates to English as “to whom the things concerning themselves will be explained.” This translation is an attempt to convey the original meaning as closely as possible, considering the structure and grammatical nuances of Ancient Greek. The sentence seems to suggest that there will be an explanation or exposition of matters or issues that are personal or relevant to the individuals referred to by “οἷς” (to whom).

ラテン語の英訳:ChatGPT4 対 古典語学者

ヴェーバーの「ローマ土地制度史」で今訳しているところで、ラテン語のフレーズが出て来たので、ChatGPT4に訳させてみました。なおより正確にと思って英語で質問し、英語に訳させています。また最初はヴェーバーの引用のままで訳しましたが、全集の注によるとオリジナルの文から一語抜けているとのことなので、それを入れて再度訳させました。結果として、私は(文脈も考え)正しく訳していると判定しました。また「土地」という言葉はまったく入っていないにも関わらず、土地に関する文章だということを理解しています。
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You
Translate the following ancient latin sentence into English: compluribus provinciis solum per universitatem populi est definitum.

ChatGPT
The sentence “compluribus provinciis solum per universitatem populi est definitum” can be translated into English as:

“In several provinces, the land is defined only by the collective agreement of the people.”

This translation interprets “compluribus provinciis” as referring to several provinces, “solum” as land or ground, “per universitatem populi” as through the collective or universal agreement of the people, and “est definitum” as is defined. The sentence suggests a concept of defining territorial boundaries or ownership based on the consensus or collective agreement of the population within those provinces.

You
I’m sorry one word was missing: “compluribus provinciis tributarium solum per universitatem populi est definitum” . Please translate it again.

ChatGPT
With the inclusion of the word “tributarium,” the sentence “compluribus provinciis tributarium solum per universitatem populi est definitum” translates to:

“In several provinces, the tribute-bearing land is defined only by the collective agreement of the people.”

Here, “tributarium” adds the notion of land that bears tribute, indicating that the sentence refers specifically to land from which taxes or tributes are collected. The translation thus suggests that in these provinces, the determination of which lands are subject to tribute is made collectively by the people.
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日本語にすると「いくつかの属州において、課税対象の土地は、ただそこの住民の総意によって決定された。」となります。

ちなみに英訳がここをどう訳しているかというと、
”in many provinces the land is identified with the people (populus) which inhabits it.”
で文脈から言ってまったく意味不明の訳です。

(文脈は、ager per extremitatem mensura comprehensus が非課税地であり、神殿の所領とかローマから分離されたような特別の土地に適用されたと議論してきて、しかし実際にそれが行われたとされている地方の碑銘文が、通常の村落であり課税対象だったとあって、議論が否定されるのを、いや実際はそれらの土地で課税地は後で住民の総意で決められたのであり、全部が最初から課税地となっていた訳ではない、というものです。)

英訳者は古典語の学者だそうですが、まあ一語抜けているのを知らなかったというのを差し置いても、ChatGPT4にまったく負けています。こういう学者は淘汰されていくと思います。何度も紹介していますが、この英訳のレベルは非常に低いです。古典語の学者なのにラテン語を正しく訳していない箇所が多くありますし(それどころか注釈の中のラテン語文は削除して訳していなかったりします)、ドイツ語も間違えている所が多くあります。

 

ちょっとドイツ語の復習

今までのヴェーバーの論文の日本語訳でごく自然に、普通の疑問文で、次にsoとか付きの文が来る時に、疑問文を条件文として訳していました。ヴェーバーの論文には良く出て来ます。
これは間違っていないと思いますが、念のため再確認しました。
この論文が参考になります。

wennとかの条件接続詞が無い、単なる疑問文で、直説法であっても条件を表す場合が多くあります。堅苦しく書くなら条件接続詞+接続法(1式または2式)なんでしょうが。
よく考えたら、学生時代にヒットしたNenaの「ロックバルーンは99」(古い!)の冒頭の歌詞がまさしくそうでした。
Hast du etwas Zeit für mich
Dann singe ich ein Lied für dich
(ちょっと時間をくれるなら、歌を歌ってあげるわ。)

Hast du etwas zeit für mich?(時間くれる?)という疑問文がそのまま「時間をくれたら」という条件文になっている訳です。
まさかヴェーバーの文をNenaで説明するとは思いませんでした…

「ローマ土地制度史」の日本語訳(13)P.134~136

「ローマ土地制度史」の日本語訳の13回目です。ちょっと分量が少ないですが、ager quaestorius に関する議論はここで終るので、一度ここでアップします。訳していて思いますが、この内容は断じて「農業史」ではありません。ヴェーバーはローマの土地制度の法的な取扱いの変遷を論じているのであり、最後の章も農業が主体なのではなく、ラティフンディウムという大土地所有とコローヌスという小作人がどうやって生じたのかという分析がメインだと思います。
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 今の議論で得られた仮説としての成果[ager quaestorius と強制収用の共通性]をager quaestorius の実際の分配の仕方――おそらくそれはまた trientabula の分配方法でもあったと思われるが――にて比較検証してみた場合、対象の土地に測量が行われている場合で、それについてはリヴィウスの報告が明らかにしているが、その場合に両者のやり方は非常に良く合致している。というのはその際に個々の土地区画に対して何らの課税もされず――あるいはただ名目的な税のみがあったか――というものであったからである。limites の確定は課税対象となるべき土地区画の所有境界を明確にすることを可能にしたであろうが、行政管理上の目的はほとんど持っていなかった。なるほどもしかするとそのような土地区画の境界線の確定は、国家が買い戻し権を行使する際の払戻金についての簡易的な確認証の役目を果たしていたのかもしれないが、しかしながらそのような 買い戻しの執行において、通常はそのようなことはまったく考慮されていなかった。しかしそれでもそういった買い戻しの執行が実際に行われており、それは当時半分革命的なやり方として人々に捉えられていたのである。強制収用[を後になった行った者達]はそこにおいて、土地の境界が limites の確立という形で修正させられた場合に、そのことがその土地の元の権利者達がその土地に対し以前いくら支払ったかを証明出来ていたかどうかといいうことに注目していた。測量地図上にはいずれの場合も売却された総面積の範囲が地図の技法で描かれており、そしてその面積の数字と、売却した相手方、更に売却価格が記載されていた;しかしながら limites がいつも描かれていたかどうかは疑問がある。43a) このことについては、私は以下のように考えたい:つまり、より古い時代においては scamna と strigas による土地の配分はケンソルの目的のためには [ケントゥリアによる測量と]全く同じく典型的な方法であったのであり、それは locatio [賃貸し]という[法的]概念に適合していた。それは limites で境界付けられた四角形の土地[latercui]が財務官[quaestor]の[一時的に現金を得る]目的のために分配されたのと同様のことであった。そちらはvendito [(買い戻し権付きの)売却]と呼ばれた土地の譲渡であってより少ない権利しか買い主には与えられなかったのであり、その一方でscamna と strigas による譲渡の場合は[「賃貸し」という名前の通り、使用料としての税金が課せられたものの]完全な所有権が与えられたのであると。

43a) もっとも測量地図上に土地のサイズが記載されていたかどうかも推測の範囲でしかない。

 しかしながら後の時代になると、既に述べてきたように、様々な土地配分の方法が混同されるようになってきて、それについて可能性があるのは、グラックス兄弟による公有地配分政策がそのきっかけになったということである。グラックス[兄のティベリウス]によって市民に分配された土地は ager privatus [私有地]にはされなかったにも関わらず、グラックス[兄]は明らかに[本来は ager privatus 用の測量方法であった ]ケントゥリアの[1ケントゥリア以上の土地を個人が所有出来ないという]制限を好都合な道具として利用したのである。ある一面ではこのやり方は lex agraria に示されているように、まず同一面積のケントゥリアを設定し、それを2等分割するするという土地割当てが頻繁に行われることにつながったのであり、また概して言えば、大きな混乱ももたらしたのである。もしかするとこういった純技術的な欠陥が、彼の政策を失敗に終らせそして公有地の私有財産への転換を必然的にした、決して小さくない理由の一つかもしれない。

 ここまで[ager quaestorius について]詳論してきたことの成果としては次のようになる:二つの測量方法であるケントゥリアによるものと、scamna によるものの間の関連が、土地に対する法的な評価という点において、これまで述べて来たような内容で存在しているということである。その際に、ヴォイクトの説のように、二つの土地分割の方法がそれぞれ別の民族的起源を持つ可能性がある、ということまでは主張していない。もしイタリアのポー平原上の郊外村落が、実際に長方形の土地で区画され、方向付けされているとしたら、そのことは長方形区画を使った測量方法が、古代イタリアのウンブロ-ザベラー族[ラティーノ-ファリスカー族連合と対立した古代イタリアの有力部族連合]によって確立されたものであるということを非常に確からしくするであろう。正方形による土地分割を使った測量方法の場合、グローマを使った[最初の]測量人自身が、エトルリア人[ローマの先住民]であったのではないかと推論付けられているが、それが正しいかどうかは未定とするのが正当であろう。またその際にギリシア人の影響もあった可能性がある。≪グローマの起源は紀元前4世紀以前のメソポタミアであり、それがギリシアからエトルリアに伝わり、クラネマというエトルリア人がローマに伝えたとする仮説がある。≫しかしながら以上のような二つの測量方法の起源に関する議論は次の事実に何も影響を与えない。それはつまり、この二つの方法が[ローマに伝わった]後にローマの行政によって注目され[両方が]使われるようになった、ということであり、それについてはここまで詳論してきた。

ギールケのゲノッセンシャフトと中根千枝先生の「タテ社会の人間関係」

「ゲノッセンシャフト」について、日本国語大辞典(精選版)は、「〘名〙 (Genossenschaft) 成員の自由意志に基づき契約によって成立する協同体。本来は、ローマ法的個人主義的団体の対立概念だったが、現在は主として協同組合をさすものとして用いられる。」と説明している。しかしこの「契約によって成立する」は明らかな間違いと思います。少なくともギールケが言っているゲノッセンシャフトに「契約が必須」などという定義はありません。ギールケのゲノッセンシャフトはドイツの歴史上存在した全ての団体に共通して存在する一種の団体形成原理です。そもそも古代ゲルマンの時代に「契約」によってゲノッセンシャフトが成立したなどという歴史的事実は存在しないでしょう。ギールケのゲノッセンシャフトにもっとも近いのは、これを発見したのは私が初めてではないかと思いますが、中根千枝先生の「タテ社会の人間関係」における「タテ」と「ヨコ」の概念でしょう。中根先生は「タテ」を親子のような垂直の人間関係、「ヨコ」を兄弟のような水平の人間関係と説明しており、これはそのままギールケのヘルシャフトとゲノッセンシャフトの説明と同じです。ただ中根千枝先生の「ヨコ」は主としてインドの様々な社会の分析から得られたもので、カーストのような層を成した上下関係の下での同一カーストメンバー間の協力関係のような点に重きを置いています。そういう意味でちょっとギールケとは違うかもしれませんが、ギールケは「ドイツ団体法論」の史的決疑論分析の中で、どうみてもヘルシャフト的な人間集団の中にさえ、それでも同僚的なゲノッセンシャフト的関係を見出そうとしていますので、そういう意味ではやはり同じかもしれません。ちなみに現代のドイツでのゲノッセンシャフトはいわゆる生活協同組合のようなもので、ギールケの基本概念とはまるで違いますのでご注意ください。ヴェーバーはゲノッセンシャフトという言葉はあまり使っていません。おそらくギールケのゲノッセンシャフト論の中に「ゲルマン民族の精神」のようなある意味非科学的でアプリオリなものを見出していて、それでわざと避けているように思います。

ChatGPT4に「中世合名・合資会社成立史」について聞いてみる

久しぶりにChatGPT4で、「中世合名・合資会社成立史」について聞いてみたら、最初の回答はおそらくWeb上にある間違った俗説に基づいています。しかし、正しい情報を入れたら、2回目の回答はかなりまともになりました。=======================================================

マックス・ヴェーバーの「中世商事会社史」(Zur Geschichte der Handelsgesellschaften im Mittelalter)はどういう内容の本ですか?

ChatGPT
マックス・ヴェーバーの「中世商事会社史」(”Zur Geschichte der Handelsgesellschaften im Mittelalter”、直訳すると「中世における商事会社の歴史」)は、中世ヨーロッパにおける商事会社の発展とその社会経済的影響について詳細に分析した作品です。ヴェーバーは社会学者であり経済学者でもあるため、彼の分析は経済的な側面だけでなく、社会的、文化的な文脈も含めて考察されています。

この本では、中世の商事会社がどのようにして形成され、成長したか、また、それが中世ヨーロッパの経済と社会にどのような影響を与えたかについて研究しています。ヴェーバーは特に、商業の発展が社会構造や法律制度、さらには日常生活にまでどのように影響を与えたかに焦点を当てています。商事会社の組織形態、貿易ルート、商業法の発展なども重要なテーマです。

ヴェーバーの分析は、中世の商事会社が後の資本主義的経済体制の形成にどのように寄与したかを理解する上で重要な基盤を提供しています。彼の研究は、経済史だけでなく、社会学や法学の分野にも影響を与えています。


この論文は法学博士論文がベースになっており、社会学的・経済学(経済史)的な内容はほとんど含まれていないと思います。

ChatGPT
ご指摘いただき、ありがとうございます。マックス・ヴェーバーの「中世商事会社史」(”Zur Geschichte der Handelsgesellschaften im Mittelalter”)についてのより正確な情報を提供いたします。

この著作はヴェーバーの法学博士論文がベースとなっており、主に法学的な視点から中世ヨーロッパの商事会社に関する研究を行っています。社会学的または経済学的な分析は主要な焦点ではなく、むしろ、中世の商事会社がどのように法律的に構成され、運営されていたかに焦点を当てています。

ヴェーバーは、商事会社の法的地位、運営の方法、および商事法の発展に関する詳細な調査を行っています。この研究を通じて、彼は中世ヨーロッパの商業活動が法的枠組みの中でどのように機能していたかを明らかにしています。彼のこの作品は、中世の法制史、特に商業法の発展に関する重要な貢献と見なされています。

ヴェーバーの後期の作品、特に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などで、彼はより社会学的、経済学的なテーマに焦点を当てていますが、「中世商事会社史」では、彼の法学的な訓練が強く反映されていることが特徴です。

再考:合名会社と合資会社の起源について

ヴェーバーの「合名・合資会社成立史」をこの正月休みに改訂して読み直しましたが、翻訳していた時には気付かなかったことを段々と考えるようになって来ました。まず、合名会社の起源については、ヴェーバーが説くように、家計ゲマインシャフトから発展したものであるということは、現在でも定説のようですので、こちらは一応OKとします。気になるのが合資会社の方で、Wikipediaによれば、各言語での合資会社の表現は、羅: societas in commendam、独: Kommanditgesellschaft、仏: société en commandite になります。見ていただければお分かりのように、いずれも「コムメンダ」に相当する表現を含んでおり、すなわち現在での定説は「合資会社はコムメンダから発達した。」になります。この定説の長所は、コムメンダは、出資者と航海者というように対等ではない人間関係に基づいているため、合資会社における無限責任社員と有限責任社員の差別をある程度説明出来るということです。逆に短所は、コムメンダでは航海する側は出資していないのに対し、合資会社での有限責任社員は一応出資者であり、そこがどうしてそうなったのかを説明するのが困難です。一方ヴェーバーの合資会社がソキエタース・マリースから発達したという説ですが、こちらは本来の出資者と航海者が両方出資しており、それでも立場は対等ではないため、合資会社の2種類の社員の差をある程度説明出来ます。ただヴェーバーは、無限責任社員となったのは、貿易事業に関わる出資者(複数)・航海者の中で、capitaneus(キャプテン)と呼ばれるいわばリーダー的な存在だと論じています。この場合、もし航海者がcapitaneusになったとすると、通常ソキエタース・マリースでの航海者は一人ですから、そこから出来た合資会社のプロトタイプにおける無限責任社員は一人だけ、ということになります。このことは歴史的な実例に合致するのか、ヴェーバーは法規のみしか論じていないのでそこは不明です。また逆に複数の出資者の中から誰かがcapitaneusになった場合を考えると、この場合も一人(何故なら通常会社の社長は一人ですし、トップが複数いるのは多くの点で不都合でしょう)であり、他の出資者よりリスクの高い地位を引き受けるインセンティブやメリットは何なのかが不明です。いずれにせよ、無限責任社員が1名というのが本当に歴史の真実なのかがポイントです。もし合資会社の無限責任社員が1名であるのが通例なら、このことは合資会社が合名会社から発展したものであるという大塚久雄他の発展段階説のはっきりした否定になります。何故なら合名会社では社員(出資者)が1名ということは、今の日本の法律では認められるようになっていますが、本来は絶対にあり得ないからです。
私見では、コムメンダとソキエタース・マリースは、元々厳密に区別出来るようなものではなく(法律上の規定は別として)、例えばジェノバの公証人の記録に出て来る例では、ある冒険心には富んでいるけどお金の無い若者が、まずコムメンダで金持ちから出資してもらい、対スペイン貿易を決行して成功し、1/4の利益を得、次にその得た利益を全額出資して、今度はより儲けることの出来る可能性の高い中東地域との貿易で再度前の出資者と組んでソキエタース・マリースを行う、という風にある意味一種のオプション選択に過ぎないものであったと理解すべきと思います。なので定説がコムメンダ起源にしていますが、この場合のコムメンダはその変種であるソキエタース・マリースを含むと解釈すべきと思います。いずれにせよヴェーバーの「成立史」の欠点は、そういった経済史的な実例の分析が弱く、慣習法から制定法に変わっていく法的な取り扱いだけしか見ていないことで、ヴェーバーの論述だけで合資会社の起源について確定的なことを述べることは出来ません。

佐藤俊樹の「社会学の新地平 ――ウェーバーからルーマンへ」

佐藤俊樹の「社会学の新地平 ――ウェーバーからルーマンへ」を読了。この本を読んだのは、どうも私が日本語訳した「中世合名・合資会社成立史」を読んだ上で議論している様子が伺い見えたからです。そしてそれはその通りで、「プロテスタンティズムの倫理の資本主義の精神」を理解する上に、ヴェーバーの会社制度の研究を考慮に入れなければならない、という主張が含まれており、そういう風に活用していただけると訳した方としても張り合いがあります。また「丁寧で精度の高い日本語訳」(P.117)とお褒めの言葉もいただいているので、その点については感謝したいと思います。
ただ、これまでのヴェーバー研究がこの「成立史」の内容をほとんど知らずかまたは完全な誤解をして他人に伝えるかのどちらかであり、それがきちんと内容を読んだ上で新たな議論をしているということは良いのですが、著者には申し訳ありませんが、著者の「成立史」の解読には私から見ると間違っていたり不正確な部分が多く見受けられます。まず第一に、これは安藤英治氏と同じ誤解ですが、フィレンツェにおける家業ゲマインシャフトからの合名会社の成立ということだけが、この論文の主張ではない(元になっている博士号論文「イタリアの諸都市における合名会社の連帯責任原則と特別財産の家計ゲマインシャフト及び家業ゲマインシャフトからの発展」はそれだけを論じていますが)と言うことです。特にピサのConstitutum Ususの分析の章にはっきり書いてありますが、コムメンダのバリエーションとして同時期に行われていたソキエタース・マリースが、合資会社が成立する基礎であることがはっきり述べられています。(訳からの引用(一部略):「ここまでの論述の結果として私にとって明らかになって来たことは、理解しづらいConsitutum Ususの法文について、より明証性の高い解明を行うことが出来たということである。――それはつまり、我々はここにおいて合資会社の財産法的な基礎原理を目の当たりにしているということである。合資会社に必要なものは全てここにおいて揃っているか、あるいは少なくともその登場が予示されている。」)(大塚久雄は会社組織というものは個人事業→合名会社→合資会社のように段階的に発展したとしていますが、ヴェーバーはそういう発展段階説を否定し、合名会社と合資会社の起源は異なりお互いに鋭く対立するものとしています。)また、合名会社についてもそもそも当初の合名会社はフィレンツェの章で述べられているアルベルティ家(商会、銀行)のように、家業ゲマインシャフトという表現から想像されるよりもはるかに巨大な「財閥ファミリー」が採用したものでした。その主目的はファミリーの資産の一体性を保ち、それが相続等で分割され小さくなっていったり他人に分与されるのを防止するということです。このことは日本でも同じで、明治になって財閥も会社化することが必要になると、三井や安田の財閥が(持ち株会社として)採用したのは合名会社でした。このことから合名会社を「自由な労働の合理的組織」の基礎として捉えるのはまったくもって無理があります。そもそも合名会社は合名会社の法律上の社員(会社法での「社員」は株式会社なら株主であり、従業員ではありません)ではない、単なる従業員(もしいたとしたら)に何かのメリットがある制度ではまったくありませんし、様々な技能を持った人材が集まって共同で会社の仕事をする、などという著者が主張しているような機能はまったく果たしていません。それから容易に推測出来ることですが、社員一人一人に無限責任が求められる合名会社は、財閥家にとっては都合が良いものの、それ以外の場合は、会社規模が限定され(例えば「成立史」論文でも出て来るお雇いドイツ人法学者レースラー{ロエスレル}が作った日本最初の商法の草案では「合名会社の社員は2人以上7人以下」でした。現在の会社法では上限は無く、最低は1人でも可能になりましたが、私は現在において、規模の大きい合名会社の例を寡聞にして知りません。)、この意味でも合名会社は近代的な資本主義のベースにはなり得ません。むしろ合資会社の方が投資という形で参加だけする社員(有限責任社員)とその外部資本を取り込めるので、規模の拡大にははるかに有利です。最終的には株式会社という形で経営と資本の分離がある意味完成する訳ですが、この流れは合名会社からは生まれ得ません。(特にドイツにとって、株式会社は「外から」入って来たものでした。ヴェーバーのこの論文の当時、ドイツの法学者の間で株式会社をどう法的に位置づけるかの議論が盛んでした。)また合名会社誕生当時のフィレンツェでは、経済を牛耳っていたのはツンフト(ギルド)であり、前述のアルベルティ家の場合も、アルテ・ディ・カリマラという毛織物の生産・販売同業者組合に所属しており、その保護の下で資本を蓄積して行っています。ヴェーバーは何故かツンフトを詳細に論じた箇所がほとんど無い(「都市の類型学」に少しだけ出て来ます、また講義ベースの「一般社会経済史要論」を除く)のですが、このツンフトこそある意味「資本主義の精神」の反対のものです。時間をかけてずっと読んできているギールケの「ドイツ団体法論」にて丁度今読んでいる所がツンフトに関する箇所なのですが、原材料をツンフトからの購入に限定、夜間・休日労働の禁止、価格の統制、取引先の統制等々、今なら独占禁止法に抵触することばかりです。(もちろん会員の安定した利益を保証したり、作られる製品の品質を一定以上に保つ、などメリットが無い訳ではもちろんありません。)つまりガチガチの「不自由労働」の世界であり、この意味でも「自由な労働の合理的組織」の元になったことはあり得ません。最初の合名会社はそれ自体が独立的に生まれたのでは無く、このツンフトという「都市の中の都市」的なものの内部で生まれた、それによって強い規制を受ける存在であったことには注意すべきです。(ヴェーバーの「成立史」は8割方法制史の論文であり、ローマ法のソキエタースの概念が拡張されて如何に合名・合資会社が新たに法的に定義されたかが主軸であり、経済史的な分析は非常に少ないといえます。)ちなみにドイツではこのツンフトの解体が遅れ、ビスマルクの時代であっても、未だに多くのツンフトが存在していました。この本に出てくるカール・D・ヴェーバーの活動も、反ツンフト(かつ反問屋制度、問屋制度はある意味ツンフトの残滓)であると考えると理解しやすいでしょう。
それから、「成立史」は「資本主義の起源」を研究したものでも「株式会社のスタート」を研究したものではありません。著作の発表順序や思想的発展を無視した議論はすべきではないでしょう。(もちろんこの論文で研究した素材が後の著作で何度も使われ、「後から」本人の中での位置付けが変化したのでしょうが{特にゾンバルトとの資本主義の起源を巡る論争の中で}、論文の評価はそれ自体に書かれていることに基づいて判断すべきです。「資本主義」「株式会社」という単語はどちらも一度も出て来ません。)
後、用語として「共同責任」などという法律用語はありません。言うまでもなく「連帯責任」です。(もしかすると、会社の所有者の間の「連帯責任」を、法律上の社員ではない単なる従業員のエンゲージメント意識に意図的にすり替えてわざと「共同責任」という言い方に変えた可能性も考えられます。もしそうなら一種の詐術です。また中世の「手工業」と書くべきを何度も「工業」と書いているのも同様の詐術。ヴェーバーは「古代社会経済史」の中で、中世のイタリアの一番大きな工房でもそれは「工業」と呼べるものではなかった、と書いています。)

後、これは「成立史」と関係ないことも含め、3点指摘しておきます。
(1)「資本主義の精神」の定義
プロ倫でどこにも「資本主義の精神」の定義が無い、とありますが、理念型に最初からきちんとした定義がある筈が無く最初は例示で大体の概念が示されるだけだと思います。理念型は研究の最後できちんとした類型として確立するものだと思います。(プロ倫はある意味で研究のスタートであり完成した研究ではないので、最後まで完全な定義が出て来ないのは事実です。)それから法律というものは厳密な定義から始る、というのはナンセンスであり、通常法律の制定それだけで厳密な適用範囲は決まらず、裁判と判例を通してその意味する所が次第に確定していくものです。(つまり決疑論)最近の日本の例では「同一労働同一賃金」(2020年4月1日より適用開始の「短時間労働者及び有期雇用労働者の雇用管理の改善等に関する法律」)で、その適用範囲は2020年10月の5つの最高裁判決と、最近の1つによってようやく少しずつその意味する所がはっきりしつつあります。)もっと分かりやすいのは憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」です。これに厳密な定義がありますか?これについては朝日訴訟という裁判で最高裁が「この条文は国がこれを目差していく」というプログラム的な規定であるとしました。
(2)うつ病?
別の所でも書きましたが、ヴェーバーの神経症を根拠も示さず「うつ病」(大うつ病)と断定しないで欲しいです。
(3)ヴェーバーの時間管理
著者はヴェーバーが時間管理が出来ない証拠として博士号論文に時間をかけすぎていることを挙げますが、おそらく著者は博士号論文は「成立史」論文の第三章の所だけだということを理解していないように思います。またこの時期ヴェーバーは裁判所に勤務しながら論文を書いていて更に中世の法文献を調べるためスペイン語まで勉強したりしています。また「成立史」論文で参照された法文献は膨大なものであり、読みにくい中世ラテン語他の文献を短期間によくぞこれだけ読んだと感心しこそすれ、時間管理が出来ない、などとは思いません。むしろヴェーバーの徹底癖が出ていると私は理解しますし、どちらかと言えば仕事は他の人に比べて非常に速く普通の意味の時間管理などする必要も無かったのだと思います。ヴェーバーの問題としては、短期的な時間管理ではなく、あまりにも興味の赴くまま手を広げすぎ、生涯全体で結局宗教社会学も社会経済学もどちらも未完で終ってしまった、ということを私は指摘したいです。(スペイン風邪によると思われる肺炎で急死するとはもちろん本人は予想していなかったでしょうが。)ついでに言えば「成立史」論文が教授資格論文の一つ(ローマ土地制度史以外に)使われたというのも、博士号論文に比べるとページ数だけでも約3倍(全集版で全体が193ページ、第三章の博士号論文部分が63ページ)であり、またそれぞれ別に出版されており、そういう意味でほぼ新規論文とも言え、まったく問題無いと私は考えます。