それから「カテゴリー」論文他のヴェーバーの科学論文で言及されている「心理学」についての注です。一般に「心理学」というと、フロイトの夢分析やリビドー説、ニーチェのルサンチマン説、そういったものをイメージされる方が多いと思いますが、ヴェーバー他がこの時代に言及している「心理学」は「実験心理学」という、「自然科学の一分野としての」心理学です。名前の通り、「実験」という自然科学の手段(例えば刺激の強弱による神経の反応度合いの変化の測定実験)で理論を構築するものです。それを提唱したのは、誰をさておき、ヴィルヘルム・ヴント(1832-1920)です。ヴントが提唱した自然科学的な心理学を応用することで、全ての精神科学もそれが人間の精神の働きである限りにおいて、心理学によって基礎付けることが出来るという考え方が「心理学主義」であり、ディルタイがまず精神科学の手段として記述的・分析的心理学を打ちだし、またフッサールも最初はまさにそういうことをやろうとしており、彼の最初の著作は「算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―」です。フッサールは最初の著作が「その立場では科学の客観性が担保されない」という批判を受けてから、心理学批判の方向に転換し、「現象学」を以て「真の」心理学を構築しようとします。ヴェーバーもクニース批判の中でヴントに言及していますし、また同じく実験心理学者であったミュンスターベルクについての批判もあります。
カテゴリー: ヴェーバーに関する有用なコンテンツ
フッサールの「厳密な科学としての哲学」(2)
別稿で書いたように、「理解社会学のカテゴリー」の冒頭の注で挙げられている多数の本を平行して読む、というある意味無謀なことをやっていて、その中のフッサールの「厳密な科学としての哲学」を一通り読み終わりました。ところで、モーア・ジーベックの全集のこの部分についての注釈がどう書いているかというと、フッサールについては、「論理的諸研究」の第一巻と第二巻を特に参照しろ、とあり、この本についての言及はまったくありません。しかしこの本の訳者の佐竹哲雄さんは「訳者のことば」でこう書いています。「『論理的諸研究』に至るまでの諸著作にあっては、フッサールの哲学の方法は、いわば無意識的に操作されるに止まっていて、方法そのものに対する自覚的な省察は殆ど試みられていないように思う。」
それだけでなく、「理解社会学のカテゴリー」冒頭注の複数の文献を一緒に読んで理解したのは、そもそも理解社会学の「理解」とか「了解」ということを最初に言い出したのはディルタイであり、それらの複数の文献のほとんどはディルタイの方法論を深化させるかあるいは批判しているものだと言うことです。(ディルタイとジンメル、ヴェーバーの関係は、向井守著「マックス・ウェーバーの科学論 -ディルタイからウェーバーへの精神史的考察ー」を参照。)フッサールにおいては、そのディルタイを批判しているのがまさにこの「厳密な科学としての哲学」であり、彼はディルタイの方法論を、精神科学(リッケルトの言う文化科学と同じで、自然科学以外の人文科学と社会科学のこと)の基礎として歴史主義的世界観哲学を持ってきているとし、それを批判し精神科学の基礎としての現象学を打ち出しています。
この二つのこと、つまりこの「厳密な科学」で初めてフッサールの方法論がはっきりと打ち出されていること、そしてディルタイを乗り越えようという試みが初めてされていること、を考えると、ヴェーバーがフッサールについて言及したのは他を差し置いてまずこの「厳密な科学」であるというのが私の意見です。「全集」は、シュルフター教授によれば「ドイツの学界の総力を結集した」ということですが、細部を見るとこの例のように深い考察の跡が見られない通り一篇の解説に終っているものが多々あります。(「中世合名・合資会社成立史」の日本語訳の時も、「全集」の注を参照して同じことを思いました。)
なお、ついでに言えば、ヤスパースの「精神病理学原論」も緒言・第一章までは読みましたが、その内容はディルタイの方法論を批判的に受け継ぐという意味で、驚くほどフッサールと共通性があり、人間の精神の観察を「現象学」と呼んでいます。
David GraeberとDavid Wengrowの”The Dawn of Everything”
David GraeberとDavid Wengrowの”The Dawn of Everything”を読了しました。大学時代、マックス・ヴェーバーの社会学を学びながら、平行して文化人類学や考古学・民俗学・民族誌などを学んでいたのは、ヴェーバー他の社会科学の知見を、文化人類学や考古学でその後見つけられた事例によって検証してみたい、というのが大きな意図でした。しかしアカデミックの道には進まなかったので、その路線をずっと続けるということも出来ていませんが、そこに現れたのがこの本で、まさに私がやりたかったことが実現されていました。20世紀から現代まで、文化人類学や考古学で実に様々な人間社会の事例が新しく調査されたり発見されたりしたのですが、その知見を総合して、啓蒙時代から20世紀初頭までの社会科学の主張を見直す、ということをやった人はこれまでおらず、著者2人が10年間に及ぶ私的なディベートを重ねてこの本にまとめたものです。著者2人の最初の動機というのは、「現代の不平等(格差)社会というのはどこから始っているのか」ということでしたが(2人の著者の内、David Graeberは文化人類学者で、2011年のアメリカでのいわゆるウォール街占拠運動で「我々は99%だ。」というスローガンを考えた人です)、色々調べた結果、完全に平等主義の社会というのは、小規模な狩猟採集のグループを除いてはほとんど発見出来ない、ということでした。マルクス主義者の主張する「原始共産制」などは完全なおとぎ話に過ぎないということです。ルソーの社会契約説やホッブスの「万人の万人に対する闘争」も同様です。それから農業革命、といった急速な社会変化もほとんどの社会で見つけることは出来ず、多くの場合、農業は片手間で家庭菜園的に試みられたのが、行きつ戻りつしつつ長い時間をかけて発展して来たということが、多くの事例をベースに検証されています。また農業によって多くの人口を養うことが出来、その結果都市が出来、そこでの管理の必要性から階層社会が生まれた、というのもそうでない事例の方が圧倒的に多いと論じられています。啓蒙時代から19世紀の社会科学はほとんど欧州だけを見て、様々な仮説を作り出しました。マックス・ヴェーバーになると、そこにインドや中国などが加わりますが、それは2次文献・3次文献に依拠するもので最初からある種の偏見や一方的な見方が多く含まれています。今こそ、この本に挙げられている様々な事例を自分達でも再考して、21世紀の新しい社会科学を作り出すべき時に来ていると思います。
なお、ここで紹介する意味ですが、ヴェーバーの主張したことを検証するという意味ももちろんありますが、この本自体でヴェーバーは7-8回言及されているからです。多くは正統的支配の3類型がらみですが、中には北米のネイティブ・アメリカンの諸部族がきわめて多様であった例として、まるでピューリタンのような禁欲的な生活を送る部族があったことが紹介されています。
マックス・ヴェーバーの写真
このブログのトップページでも使用しているマックス・ヴェーバーのこの写真ですが、これはアマナイメージズという所にお金を払ってこのブログでの使用許諾を得ています。
その請求が再度来たついでに著作権について調べたのですが、この写真はここによれば、1917年2月15日にハイデルベルクで撮影されたようです。ということは第1次世界大戦の真っ最中です。撮影がKEYSTONE Pictures USAとなっていますが、アメリカがドイツに宣戦布告したのが同年の4月6日ですから、ぎりぎりそういうことがあり得たのでしょうか。なお、アメリカの参戦を招いたのはドイツの無制限潜水艦作戦(戦艦などの戦争用船舶だけでなく一般の商船もターゲットにした潜水艦攻撃)が1917年2月3日に再開されたからです。ヴェーバーはこの作戦に反対していました。(参照:Der verschärfte U-Bootkrieg (1916)「潜水艦作戦の強化」)この写真のある種非痛感溢れる表情はもしかするとそういうことも関係あるのかもしれません。
P.S. ブリタニカのヴェーバーのページにこの写真と角度が違うだけでほぼ同じと思われる写真があります。そこのキャプションでは1918年となっており、カメラマンがLeif Geigesとなっています。しかし、このカメラマンは1915年生まれなので、1918年にヴェーバーを撮影したというのはあり得ません。おそらくLeif Geigesが何かの理由でこの写真を所有していた、というだけかと思います。
「理解社会学のカテゴリー」を「経済と社会」旧稿の「頭」と表現するのは適切か?
ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」、理解社会学の意味をもう一度自分なりに考えなおすため、最近写真に写っている複数の書籍を、「同時に」少しずつ読んでいます。とはいってもどれもほんの少しを読んだだけであり、まだ結論を出すには早すぎますが、それでも私なりに見えて来たものがあるので、途中経過の記録という意味でアップします。
まず「理解社会学のカテゴリー」自体をヴェーバーが後にどう評価しているかと言うと、それは「社会学の根本概念」の冒頭にありますが、「社会学の根本概念」での規定と合わせて、「こうした入門的な概念規定はたしかに欠くことができないものであるが、しかしそれはいきおい抽象的かつ没現実的 (Wirklichkeitsfremd) とならざるをえない。」としています。(恒星社厚生閣、阿閉・内藤訳、P.5)”Wirklichkeitsfremd”はもっと噛み砕けば「現実とは縁遠い」ということです。こうした述懐が、「理解社会学のカテゴリー」を書いて、その後「経済と社会」の旧稿を書いて、そして第1次世界大戦によるインターバルの後に書かれているというのは非常に興味深いです。このことは私自身、「経済と社会」の旧稿を含む一通りを通読して、同様に感じた所です。もちろん旧稿を読むのに「理解社会学のカテゴリー」の用語法をまず知っておく必要性があるのは当然のことで何も否定しませんが、果たしてそれが「頭」というほど全体を支配している方法論なのかというと疑問です。もちろん法社会学での法教義学と法社会学の区別といった概念的な所では「カテゴリー」の概念は上手く使われています。しかし、法社会学の後半部、支配、都市、宗教といった歴史上の具体的な部分を扱う場所については、ヴェーバーが自身言うように「現実とは縁遠い」概念であり、それが有効に働いているとは思えません。私自身が旧稿に対する「カテゴリー」の位置付けを形容するのであれば、それは「頭」というより音楽用語での「通奏低音」みたいなものではないかと。
写真に写っているような書籍を眺めだして段々と見えて来た、「理解社会学のカテゴリー」(および一連の科学論文)をヴェーバーが書いた動機と言うのは、
(1)19世紀後半の国民経済学に顕著な科学と倫理を一緒にしたような学問のあり方への批判(グスタフ・フォン・シュモラー、「国民経済、国民経済学および方法」、日本経済評論社、田村信一訳、P.172、原著:1911年「古い宗教・道徳体系、古い国家理論、古い国民経済学は、存在・事象を説明しようとするよりも、むしろ価値判断と理想に立脚して当為Sollenを説教しようとすいる目的をもっていたといっても過言ではない。」→シュモラーはヴェーバーとの価値判断論争で有名ですが、だからといってシュモラーが学問と価値判断をまぜこぜにしている訳ではなく、シュモラーもまた古い国民経済学から訣別しようとしていました。シュモラーとヴェーバーの違いは「客観的な」価値判断というものが成立するかどうかという点です。)
(2)19世紀後半に優勢だった「心理学が全ての科学の基礎である」(心理学主義)という考え方からはっきりと自分の立場を別にすること。(この点はフッサールがやったこととほぼ同じ。またテンニースの後継者の社会学者フィーアカントがまさに心理学主義的な社会学を提唱した。)
(3)マルクス主義における唯物論、史的弁証法、あるいは唯物論の逆の唯心論(シュタムラー)、国家有機体説(ヘーゲル、ロッシャー他)など、複雑な歴史の諸現象を単純な枠組みで全て説明してしまうような乱暴な方法論からの訣別
(4)人間集団を表現するタームを日常的な用語法からはっきり切り離して、ある程度厳密で科学的な定義を与えること(おそらくゴットルの影響?)
(5)ジンメル的なすべてを人間の表象に還元し、歴史における客観的事実を認めない立場との差別化
(6)メンガーとシュモラーの間で行われたいわゆる「方法論争」に対するヴェーバーなりの応答。メンガーらが経済学で行った「限界効用」という基礎概念に基づく分析の社会学版を検討しようとした。
といったことではないかと思います。フッサールの書籍のタイトルをもじれば、「厳密な科学としての社会経済学」を打ち立てようという、ある意味野心的試みかと思います。それはいいのですが、「経済と社会」がそもそも教科書として書かれたということを考えれば、ヴェーバーがやはり「社会学の根本概念」の緒言で書いているように、あまりにペダンチックだと思います。ミュンヘン大学の学生が「理解社会学のカテゴリー」をほとんど理解しなかったすれば、それは「教科書」としては失格ということになります。
オットー・フォン・ギールケの「ドイツ団体法論」(2)
オットー・フォン・ギールケの「団体法論」、日本語訳が出ているのは第1巻だけなんで、2巻~4巻(ドイツ語版)を取り寄せていましたが、ようやく全部揃いました。(ちなみに第4巻で終って未完です。)驚いたことには、Amazonのドイツでもギールケの著作はほとんど販売されておらず、今回入手出来たのはインドの出版社によるファクシミリ版でオンデマンド出版のものです。ファクシミリ版なので、元の本のカスレなどがそのままです。また活字がFraktur(いわゆる髭文字)で非常に読みにくいです。第1巻の庄子良男さんによる日本語訳は非常に読みやすい良訳です。しかし訳者は今年80歳になられるので、おそらく今後2~4巻の日本語訳が続けて出るというのは期待薄です。さすがにこの2~4巻をドイツ語で読むというのも無理そうですが、必要な所を適宜参照することになると思います。
今第1巻の第1分冊を少しずつ読み始めた所ですが、論じている内容がヴェーバーの「経済と社会」とかぶる部分が多いです。またテンニースの「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」もかなりギールケの影響を受けています。テンニースはゲマインシャフトとゲゼルシャフトをいわば「止揚」したものをゲノッセンシャフトとし、しかしそれはギールケのような抽象概念ではなく、いわゆる「協同組合」や「労働組合」であり、テンニース自身がその活動の支援を行っています。(ついでに言えば、テンニースはかなりマルクスの影響も受けており、労働価値説の信奉者でもあります。)
「理解社会学のカテゴリー」の冒頭で言及されているフッサールの著作
この前の投稿で、理解社会学のカテゴリーの冒頭の注釈で言及されているフッサールの著作は「厳密な学としての哲学」ではないかと推定しましたが、実際に取り寄せてみたら、その推定は正しかった(少なくともこの書は間違いなくその一つ)と思います。
(1)これが書かれたのが1910年、「カテゴリー」は1913年で時系列では無理が無い。
(2)掲載誌が、「カテゴリー」と同じ「ロゴス」で、それも創刊号。これによってヴェーバーが読んでいる可能性が高くなります。
(3)下記の目次(クリックで拡大します)を見ても、心理学への批判、(現象学と)心理学との区別についての言及があり、「カテゴリー」と共通性があります。(フッサールの最初のまとまった論考は「算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―」で、タイトル通り数学・算数を心理学的なものとして位置付けようとしています。しかしそれでは科学の客観性が担保されないという批判を受けて、その後心理学主義から訣別します。)
(4)訳者によればこの書で始めて「現象学」が厳密に定義されたそうです。
中野氏に解説していただきたかったこと
中野敏男氏の「ヴェーバー入門」批評の補遺。
ヴェーバーは「理解社会学のカテゴリー」の冒頭の注釈で、以下の人名(と書名)を挙げています。(後ろに?があるのは書名記載が無く、私が想像したもの)
ジンメル「歴史哲学の諸問題」
リッケルト「自然科学の概念形成の限界。歴史科学への論理的入門」(第二版)
ヤスパース「精神物理学総論」
ゴットル「言葉の支配」
ラートブルフ「法哲学」?
フッサール「厳密な学としての哲学」?
エミール・ラスク「哲学の論理学とカテゴリー論」?
テンニース「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」
フィーアカント「社会学」
シュタムラー「唯物論的歴史把握による経済と法」
最初の7人はヴェーバーが影響を受けたもの。そしてその次の2人はヴェーバーが「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」について別の説明をしているけど、2人の見解を否定しているのではない、としているもの。そしてシュタムラーはヴェーバーが批判して、このカテゴリー論文を本来はシュタムラーが書くべきだったもの、としています。
中野書でこれらの人と書について解説があるのは、ほぼジンメルだけです。その他シュモラー、クニース、ヘーゲル等ここには出て来ない人に対してかなりのページが割かれています。「理解社会学」が重要だと言うなら、何故ヴェーバーが一番最初に言及しているこれらの人々の主張とのつながりが解説されていないのでしょうか。ちなみにこれらの参照は、ほぼそのまま「社会学の根本概念」でも繰り返されています。入門書レベルで解説すべきではない、というならシュモラーやクニースやヘーゲルの説明もそうであり、一貫していません。
私は上記のものについて、入手可能な邦訳を取り寄せ中です。ゴットルについては森川剛光さんの「社会科学方法論における初期ゴットルとマックス・ヴェーバー」がここで入手可能です。これを読んだだけでも、私の理解社会学への理解はかなり深まりました。ゴットルは国民経済学の根本概念として 「財 」 「資本」 「価 値 」 「富」 「経済」などが使われているのを、国民経済学者はそれらについての意味を一般的な世間での曖昧な概念に依存していて、きちんとした学問的な定義を行うことなくそれぞれだけを個別に論じている、と批判しています。ヴェーバーがここでゴットルに言及しているのは、ヴェーバーもカテゴリー論文で、日常的に使われている「ゲマインシャフト」や「ゲゼルシャフト」を、その一般的な意味をベースにするのではなく、学問的にどう定義するかという意味で、ゲマインシャフト行為やゲゼルシャフト行為といった、実際の人間集団においてはほとんど意識されない始原的な発生契機に遡って分析して定義に使っていると理解しました。
ところで折原浩先生が、私の中野書批評で、「経済と社会」は理解社会学のカテゴリーの概念だけでは読めない、その例としてギールケのゲノッセンシャフト他を挙げたのに対し、下記のコメントをされています。
「これは別件ですが、「カテゴリー論文」で規定されるのは、まさにいくつかのeinige、もっとも一般的な基礎範疇(「シュタムラーが本来――規範学と経験科学とを混同せずに――言うべきであったこと」)にほかなりません。「家」、「近隣」、「氏族」その他、「普遍的な種類のゲマインシャフト」にかんする基礎概念ではありません。① たとえば、突然の驟雨に通行人が一斉に雨傘を広げる、相互間に「意味関係」はない、自然現象への「斉一反応」、②「無定形のゲマインシャフト行為」、③「慣習律に準拠する諒解(ゲマインシャフト)行為」、④「制定秩序に準拠するゲゼルシャフト(的ゲマインシャフト) 行為」という四基礎範疇を定立し、社会関係一般の 「合理化」尺度を「類的理念型}として設定し、「旧稿」本論における具体的適用にそなえているわけです。」
この折原先生の意見に対しては以下反論します。
(1)ギールケのゲノッセンシャフトは、歴史における個々の「普遍的な種類のゲマインシャフト」を指すものではなく、それ自体ヴェーバーのゲマインシャフトやゲゼルシャフトと同じレベルのカテゴリー概念である。(ギールケはゲルマン民族のもっとも特徴的な「精神」と捉えています。)
(2)何よりヴェーバー自身がまさに「理解社会学のカテゴリー」の中で「国家」や「ゲノッセンシャフト」(海老原・中野訳では「仲間団体」)や「封建制」の概念は、社会学にとっては一般的に言って、人間の特定の種類の共同行為のカテゴリーを表現している、と書いています。(海老原・中野訳、P.38。ついでですが、Genossenschaftは「仲間団体」などとは訳さず、「ゲノッセンシャフト」と訳すべきと思います。ギールケの「ドイツ団体法論」の訳者の庄子良男さんもそう主張され、一貫して「ゲノッセンシャフト」と訳されています。また単語としてはGenossenverband, Genossenschafstverbandというのもドイツ語にはあります。後者は海老原・中野訳式だと「仲間団体団体」になってしまいます。)
(3)ヴェーバーが「理解社会学のカテゴリー」ではフェライン、アンシュタルト等も定義しており、これらはギールケの「ドイツ団体法論」でも登場する。(ヴェーバーとは若干定義が違う。)
(1)~(3)から、ヴェーバーを(経済と社会を)理解するには「理解社会学」があればいい、といった主張はバランスを欠いていると思いますし、また最初に書いたように、そう主張するならもう少し丁寧に同時代の他の思想家・学者の主張との関連を説明して欲しかったです。(なお、「理解社会学のカテゴリー」の日本語訳にある中野氏の「解説」も参照しましたが、そこにもそういう説明はありませんでした。)
ヴィルヘルム・ヘニスの主張
ミネルヴァ書房 「マックス・ヴェーバーとその同時代群像」W.J.モムゼン、J.オスターハーメル/W.シュベントカー編著
に収録のヴィルヘルム・ヘニス著の「人間の科学」より(P.29下)
「しかし、もしわれわれが「理解社会学」としてのヴェーバー社会学などというありきたりのヴェーバー解釈にとらわれずに、かれの著作をすなおに読むなら、かれの学問がドイツの学問の最盛期たる一九世紀末ドイツの人文・社会諸科学の大きな流れの一翼を形成するものであったことが明らかとなろう。」
この本は前から持っていましたがちゃんと読んでいなくて、今たまたま繙いて眺めていたら、まさしく私が中野書に言いたいことが書いてありました。ヴィルヘルム・ヘニスは政治学者です。雀部先生がその著作の日本語訳を出されています。この論考の日本語訳も雀部先生です。
都市の類型学におけるヴェーバーの「日本の都市」分析の誤り
「都市の類型学」で日本の都市についての言及が3箇所ぐらい出てきますが、どうも私はこれが信用出来ないと思います。
(1)世良訳のP.26
ヨーロッパの都市は、衛戌地(軍隊が永久的に駐屯している土地)または特殊な要塞であり、日本にはこういう都市はまったく存在しなかった。つまりは日本にはそもそも都市が存在しなかった。
→
古い方で言えば、佐賀の吉野ヶ里遺跡は、相当な規模の環濠や物見櫓と思われるものを供えたある意味要塞的な小都市です。
また戦国時代の大名の城を中心とした城下町は要塞都市と十分言えるでしょうし、また石山本願寺のあった大坂、堺、奈良の今井などはすべて環濠城塞都市でしょう。また、日本は海に囲まれて外国からの侵略を受けることが相対的に非常に少なかったので、環濠都市の必要性が低かっただけで、それをもってして日本に都市は無かったなどとは暴論です。(私は九州に多い、「原」を「バル・ハル」と読む地名が、サンスクリットの-pur(城塞都市を示す地名接尾語。例:シンガプラ=シンガポール)と関係があるのではという仮説を立てたことがあります。日本では確かに大規模な城塞都市がほとんどなかったのは事実です。)
(2)世良訳のP.42
都市ゲマインデの条件は(1)防御施設(2)市場(3)自分自身の裁判所、独自の法(4)団体として他から区別される性格を持つこと(5)自律性と自首性をもつこと。(日本にはそういう都市は存在しなかった。)
→
堺や今井については、(1)、(2)、(3)、(4)、(5)は全て揃っていたと見なし得ます。堺については、他ならぬヨーロッパからの宣教師であるガスパル・ヴィレラが「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる。」というようにヴェネツィアと同じく自治都市であることをはっきりと書いています。
(3)世良訳のP.45
都市の住民の特殊身分的な資格が中国・インド・日本の都市には全く存在していない。
→
やはりイエズス会の宣教師の報告書の中に堺について「他の諸国において動乱あるも、この町にはかつてなく敗者も勝者もこの町に在住すれば、皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加えるものなし。」とあり、明らかに堺の住民は他の日本の地域とは明らかに違う特殊な身分であったことが伺えます。「都市の空気は自由にする」という言葉は堺にも当てはまるでしょう。
ヴェーバーの日本の都市に関する考察は、明治政府のお抱え外人だった経済学者のラートゲン(ちなみにヴェーバーがメンタルの病気を発症後、ハイデルベルク大学の国民経済学教授の地位を継いだ人です)が書いたもの等を参考にしているようですが、上記のように短兵急で限られた資料からだけ判断したお粗末なものだと思います。