フッサールの「厳密な科学としての哲学」(2)

別稿で書いたように、「理解社会学のカテゴリー」の冒頭の注で挙げられている多数の本を平行して読む、というある意味無謀なことをやっていて、その中のフッサールの「厳密な科学としての哲学」を一通り読み終わりました。ところで、モーア・ジーベックの全集のこの部分についての注釈がどう書いているかというと、フッサールについては、「論理的諸研究」の第一巻と第二巻を特に参照しろ、とあり、この本についての言及はまったくありません。しかしこの本の訳者の佐竹哲雄さんは「訳者のことば」でこう書いています。「『論理的諸研究』に至るまでの諸著作にあっては、フッサールの哲学の方法は、いわば無意識的に操作されるに止まっていて、方法そのものに対する自覚的な省察は殆ど試みられていないように思う。」
それだけでなく、「理解社会学のカテゴリー」冒頭注の複数の文献を一緒に読んで理解したのは、そもそも理解社会学の「理解」とか「了解」ということを最初に言い出したのはディルタイであり、それらの複数の文献のほとんどはディルタイの方法論を深化させるかあるいは批判しているものだと言うことです。(ディルタイとジンメル、ヴェーバーの関係は、向井守著「マックス・ウェーバーの科学論 -ディルタイからウェーバーへの精神史的考察ー」を参照。)フッサールにおいては、そのディルタイを批判しているのがまさにこの「厳密な科学としての哲学」であり、彼はディルタイの方法論を、精神科学(リッケルトの言う文化科学と同じで、自然科学以外の人文科学と社会科学のこと)の基礎として歴史主義的世界観哲学を持ってきているとし、それを批判し精神科学の基礎としての現象学を打ち出しています。
この二つのこと、つまりこの「厳密な科学」で初めてフッサールの方法論がはっきりと打ち出されていること、そしてディルタイを乗り越えようという試みが初めてされていること、を考えると、ヴェーバーがフッサールについて言及したのは他を差し置いてまずこの「厳密な科学」であるというのが私の意見です。「全集」は、シュルフター教授によれば「ドイツの学界の総力を結集した」ということですが、細部を見るとこの例のように深い考察の跡が見られない通り一篇の解説に終っているものが多々あります。(「中世合名・合資会社成立史」の日本語訳の時も、「全集」の注を参照して同じことを思いました。)
なお、ついでに言えば、ヤスパースの「精神病理学原論」も緒言・第一章までは読みましたが、その内容はディルタイの方法論を批判的に受け継ぐという意味で、驚くほどフッサールと共通性があり、人間の精神の観察を「現象学」と呼んでいます。

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