「理解社会学のカテゴリー」の冒頭で言及されているフッサールの著作

この前の投稿で、理解社会学のカテゴリーの冒頭の注釈で言及されているフッサールの著作は「厳密な学としての哲学」ではないかと推定しましたが、実際に取り寄せてみたら、その推定は正しかった(少なくともこの書は間違いなくその一つ)と思います。

(1)これが書かれたのが1910年、「カテゴリー」は1913年で時系列では無理が無い。
(2)掲載誌が、「カテゴリー」と同じ「ロゴス」で、それも創刊号。これによってヴェーバーが読んでいる可能性が高くなります。
(3)下記の目次(クリックで拡大します)を見ても、心理学への批判、(現象学と)心理学との区別についての言及があり、「カテゴリー」と共通性があります。(フッサールの最初のまとまった論考は「算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―」で、タイトル通り数学・算数を心理学的なものとして位置付けようとしています。しかしそれでは科学の客観性が担保されないという批判を受けて、その後心理学主義から訣別します。)
(4)訳者によればこの書で始めて「現象学」が厳密に定義されたそうです。

中野氏に解説していただきたかったこと

中野敏男氏の「ヴェーバー入門」批評の補遺。
ヴェーバーは「理解社会学のカテゴリー」の冒頭の注釈で、以下の人名(と書名)を挙げています。(後ろに?があるのは書名記載が無く、私が想像したもの)

ジンメル「歴史哲学の諸問題」
リッケルト「自然科学の概念形成の限界。歴史科学への論理的入門」(第二版)
ヤスパース「精神物理学総論」
ゴットル「言葉の支配」
ラートブルフ「法哲学」?
フッサール「厳密な学としての哲学」?
エミール・ラスク「哲学の論理学とカテゴリー論」?

テンニース「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」
フィーアカント「社会学」
シュタムラー「唯物論的歴史把握による経済と法」

最初の7人はヴェーバーが影響を受けたもの。そしてその次の2人はヴェーバーが「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」について別の説明をしているけど、2人の見解を否定しているのではない、としているもの。そしてシュタムラーはヴェーバーが批判して、このカテゴリー論文を本来はシュタムラーが書くべきだったもの、としています。

中野書でこれらの人と書について解説があるのは、ほぼジンメルだけです。その他シュモラー、クニース、ヘーゲル等ここには出て来ない人に対してかなりのページが割かれています。「理解社会学」が重要だと言うなら、何故ヴェーバーが一番最初に言及しているこれらの人々の主張とのつながりが解説されていないのでしょうか。ちなみにこれらの参照は、ほぼそのまま「社会学の根本概念」でも繰り返されています。入門書レベルで解説すべきではない、というならシュモラーやクニースやヘーゲルの説明もそうであり、一貫していません。

私は上記のものについて、入手可能な邦訳を取り寄せ中です。ゴットルについては森川剛光さんの「社会科学方法論における初期ゴットルとマックス・ヴェーバー」がここで入手可能です。これを読んだだけでも、私の理解社会学への理解はかなり深まりました。ゴットルは国民経済学の根本概念として 「財 」 「資本」 「価 値 」 「富」 「経済」などが使われているのを、国民経済学者はそれらについての意味を一般的な世間での曖昧な概念に依存していて、きちんとした学問的な定義を行うことなくそれぞれだけを個別に論じている、と批判しています。ヴェーバーがここでゴットルに言及しているのは、ヴェーバーもカテゴリー論文で、日常的に使われている「ゲマインシャフト」や「ゲゼルシャフト」を、その一般的な意味をベースにするのではなく、学問的にどう定義するかという意味で、ゲマインシャフト行為やゲゼルシャフト行為といった、実際の人間集団においてはほとんど意識されない始原的な発生契機に遡って分析して定義に使っていると理解しました。

ところで折原浩先生が、私の中野書批評で、「経済と社会」は理解社会学のカテゴリーの概念だけでは読めない、その例としてギールケのゲノッセンシャフト他を挙げたのに対し、下記のコメントをされています。
「これは別件ですが、「カテゴリー論文」で規定されるのは、まさにいくつかのeinigeもっとも一般的な基礎範疇(「シュタムラーが本来――規範学と経験科学とを混同せずに――言うべきであったこと」)にほかなりません。「家」、「近隣」、「氏族」その他、「普遍的な種類のゲマインシャフト」にかんする基礎概念ではありません。① たとえば、突然の驟雨に通行人が一斉に雨傘を広げる、相互間に意味関係」はない、自然現象への「斉一反応」、②「無定形のゲマインシャフト行為」、③「慣習律に準拠する諒解(ゲマインシャフト)行為」、④「制定秩序に準拠するゲゼルシャフト(的ゲマインシャフト行為」という四基礎範疇を定立し、社会関係一般の 「合理化」尺度を「類的理念型}として設定し、「旧稿」本論における具体的適用にそなえているわけです。」

この折原先生の意見に対しては以下反論します。
(1)ギールケのゲノッセンシャフトは、歴史における個々の「普遍的な種類のゲマインシャフト」を指すものではなく、それ自体ヴェーバーのゲマインシャフトやゲゼルシャフトと同じレベルのカテゴリー概念である。(ギールケはゲルマン民族のもっとも特徴的な「精神」と捉えています。)
(2)何よりヴェーバー自身がまさに「理解社会学のカテゴリー」の中で「国家」や「ゲノッセンシャフト」(海老原・中野訳では「仲間団体」)や「封建制」の概念は、社会学にとっては一般的に言って、人間の特定の種類の共同行為のカテゴリーを表現している、と書いています。(海老原・中野訳、P.38。ついでですが、Genossenschaftは「仲間団体」などとは訳さず、「ゲノッセンシャフト」と訳すべきと思います。ギールケの「ドイツ団体法論」の訳者の庄子良男さんもそう主張され、一貫して「ゲノッセンシャフト」と訳されています。また単語としてはGenossenverband, Genossenschafstverbandというのもドイツ語にはあります。後者は海老原・中野訳式だと「仲間団体団体」になってしまいます。)
(3)ヴェーバーが「理解社会学のカテゴリー」ではフェライン、アンシュタルト等も定義しており、これらはギールケの「ドイツ団体法論」でも登場する。(ヴェーバーとは若干定義が違う。)

(1)~(3)から、ヴェーバーを(経済と社会を)理解するには「理解社会学」があればいい、といった主張はバランスを欠いていると思いますし、また最初に書いたように、そう主張するならもう少し丁寧に同時代の他の思想家・学者の主張との関連を説明して欲しかったです。(なお、「理解社会学のカテゴリー」の日本語訳にある中野氏の「解説」も参照しましたが、そこにもそういう説明はありませんでした。)

 

 

 

 

ヴィルヘルム・ヘニスの主張

ミネルヴァ書房 「マックス・ヴェーバーとその同時代群像」W.J.モムゼン、J.オスターハーメル/W.シュベントカー編著
に収録のヴィルヘルム・ヘニス著の「人間の科学」より(P.29下)

「しかし、もしわれわれが「理解社会学」としてのヴェーバー社会学などというありきたりのヴェーバー解釈にとらわれずに、かれの著作をすなおに読むなら、かれの学問がドイツの学問の最盛期たる一九世紀末ドイツの人文・社会諸科学の大きな流れの一翼を形成するものであったことが明らかとなろう。」

この本は前から持っていましたがちゃんと読んでいなくて、今たまたま繙いて眺めていたら、まさしく私が中野書に言いたいことが書いてありました。ヴィルヘルム・ヘニスは政治学者です。雀部先生がその著作の日本語訳を出されています。この論考の日本語訳も雀部先生です。

都市の類型学におけるヴェーバーの「日本の都市」分析の誤り

「都市の類型学」で日本の都市についての言及が3箇所ぐらい出てきますが、どうも私はこれが信用出来ないと思います。

(1)世良訳のP.26

ヨーロッパの都市は、衛戌えいじゅ地(軍隊が永久的に駐屯している土地)または特殊な要塞であり、日本にはこういう都市はまったく存在しなかった。つまりは日本にはそもそも都市が存在しなかった。

古い方で言えば、佐賀の吉野ヶ里遺跡は、相当な規模の環濠や物見櫓と思われるものを供えたある意味要塞的な小都市です。
また戦国時代の大名の城を中心とした城下町は要塞都市と十分言えるでしょうし、また石山本願寺のあった大坂、堺、奈良の今井などはすべて環濠城塞都市でしょう。また、日本は海に囲まれて外国からの侵略を受けることが相対的に非常に少なかったので、環濠都市の必要性が低かっただけで、それをもってして日本に都市は無かったなどとは暴論です。(私は九州に多い、「原」を「バル・ハル」と読む地名が、サンスクリットの-pur(城塞都市を示す地名接尾語。例:シンガプラ=シンガポール)と関係があるのではという仮説を立てたことがあります。日本では確かに大規模な城塞都市がほとんどなかったのは事実です。)

(2)世良訳のP.42

都市ゲマインデの条件は(1)防御施設(2)市場(3)自分自身の裁判所、独自の法(4)団体として他から区別される性格を持つこと(5)自律性と自首性をもつこと。(日本にはそういう都市は存在しなかった。)

堺や今井については、(1)、(2)、(3)、(4)、(5)は全て揃っていたと見なし得ます。堺については、他ならぬヨーロッパからの宣教師であるガスパル・ヴィレラが「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる。」というようにヴェネツィアと同じく自治都市であることをはっきりと書いています。

(3)世良訳のP.45

都市の住民の特殊身分的な資格が中国・インド・日本の都市には全く存在していない。

やはりイエズス会の宣教師の報告書の中に堺について「他の諸国において動乱あるも、この町にはかつてなく敗者も勝者もこの町に在住すれば、皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加えるものなし。」とあり、明らかに堺の住民は他の日本の地域とは明らかに違う特殊な身分であったことが伺えます。「都市の空気は自由にする」という言葉は堺にも当てはまるでしょう。

ヴェーバーの日本の都市に関する考察は、明治政府のお抱え外人だった経済学者のラートゲン(ちなみにヴェーバーがメンタルの病気を発症後、ハイデルベルク大学の国民経済学教授の地位を継いだ人です)が書いたもの等を参考にしているようですが、上記のように短兵急で限られた資料からだけ判断したお粗末なものだと思います。

オットー・フォン・ギールケの「ドイツ団体法論」

オットー・フォン・ギールケの「ドイツ団体法論」四分冊を入手しました。中野書への批評の中で、「理解社会学のカテゴリー」だけでは「経済と社会」全体を理解出来ない、という例として、オットー・フォン・ギールケの概念であるゲノッセンシャフトとケルパーシャフトを挙げました。実は「中世合名・合資会社成立史」を訳した時にも、ギールケが何を論じたのかは確認したくて、「ドイツ団体法論」を参照したかったのですが、買うと四分冊で合わせて6万円弱、という価格なのでちょっと手を出せませんでした。(あの翻訳のためには学説彙纂の英訳とか、オックスフォードのラテン語大辞典とか色々書籍代がかさんでいます。)しかし色々調べていくと、結局ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」は、ギールケのこの書籍を通説(あるいは当時の学問的常識)として前提とした議論をしていると私には思え、ヴェーバーとしては「ゲマインシャフト行為」「ゲゼルシャフト行為」のような個々人の「行為」に着目することでここは確かに「理解社会学的」視点を新たに提唱しています。それからアンシュタルトやフェラインと言ったものは、ギールケの書籍にも当然出てくるのであり、それに対してヴェーバーは例えばアンシュタルトについては(普通はこれは公的機関、公的施設という意味です)、「人が自由意志に関係なく生まれた時から所属するようになるもの」という点を強調して独自色を出しています。
ヴェーバーの「経済と社会」はなるほど確かに「決疑論」の集成ではありますが、ギールケのこの書籍は「決疑論」という意味ではそれをはるかに上回るレベルです。私見ですが、ゲノッセンシャフトというのは法律上正式に使われた用語ではなく、ギールケがドイツにおける諸団体を貫く原理としてもっとも重視しているものに見えます。(序文によれば、ゲノッセンシャフトという語を使い出したのはギールケの師のゲルマニストのベーゼラーとのことです。)ギールケはドイツの諸ゲマインシャフトの中に、この「ゲノッセンシャフト」的な要素と「ヘルシャフト」的な要素を見出します。ゲノッセンシャフトは人間同士の横(家族で言えば兄弟姉妹の関係)のつながりであり、ヘルシャフトはそれに対し縦(家族で言えば親子)の関係です。これがある意味合理化され、それぞれ外側からはっきり識別出来る団体として進化したのが、ケルパーシャフトとアンシュタルトということになります。そういう意味ではギールケのアンシュタルト定義はヴェーバーの定義と視点が違います。(ヴェーバーもまた、「法社会学」の中で{世良訳P.205}、「法学的意味におけるアンシュタルトと社会政策的な{世良さんの注ではまたは社会学的な、原文は”sozialpolitisch”=「社会(学)・政治(学)的な」}アンシュタルト概念は単に部分的に一致するにすぎない」と書いています。)またケルパーシャフトは、法人や各種の社団でゲルマン法的な言い方がケルパーシャフトで、ローマ法的な言い方がコルポラチオーンではないかと思いますが、ギールケはこの書籍の前書き(Vorwort、第1巻だけでなく4巻全体への前書き)でフェラインからケルパーシャフトを区別するものとして「観念的な法人格」の存在を挙げています。実はこの第1巻はゲノッセンシャフトについてのもので、ケルパーシャフトについての詳細な議論は第2巻になります。まあその論じている所はこれからぼちぼち目を通していくつもりです。さすがに全部は読めないと思いますが。それから付記しておけば、現代のドイツではゲノッセンシャフトは協同組合の意味になります。また「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」を書いたテンニースは、その両者を統合したのがゲノッセンシャフトと考えていたようです。先日書いた中野書批評をこの観点から振り返って、中野書にもっとも欠けているのはヴェーバーの「経済と社会」におけるいわばギールケ的要素だと思います。

ヴェーバーにおけるformalとformell (2)

以前、2020年3月12日のポストで、以下のことを書きました。========================================================
formalとformell
ドイツ語で英語のformalにあたる形容詞としては、formalとformell、そしてförmlichというのもあります。後の2つはほぼ同義語です。

私見ですが、ヴェーバーはformalとformellを使い分けているように思います。
これは私の解釈であってどこまで正しいかは保証致しかねますが、formalはある意味ニュートラルな表現で、ともかく外見として何かの形(form)に沿っている意味だと思います。これに対し、formellはどちらかと言えば何かの法律とか規則とかの「内容に」適合している、という感じかなと思います。またformellは口語的なニュアンスですが、「形式張って堅苦しい」といった意味もあると思います。
なので、この2つが出てきた場合、機械的に「形式的な」と訳すのは時によっては適当でないことになります。
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このformalとformellの違いは、大学時代に折原浩先生の「経済と社会」解読演習で実際に訳読作業をやりながら見つけたものでした。しかしその違いについての考察は上記の通り、非常に表面的でしたが、この度ちゃんと考察した論文を見つけました。これがどこまで正しいのかという検証はこれからですが、少なくとも学生時代の発見が間違っていなかったというのは嬉しく思います。

広渡清吾 M. ウェーバーの「法の形式的合理性」概念の位置について

ヴェーバーのメンタルな病気についての私見

大澤真幸の「社会学史」というのを求めて繙いてみたら、序文にヴェーバーが出てきて、その精神疾患について根拠も示さず「うつ病」と断定していました。(左の画像参照)
まず最初にはっきりさせておかなかければならないのは、ヴェーバーのメンタルの病気について今日断定的な診断を下すことはほぼ不可能だということです。
ヴェーバーは病中にありながら、ある意味彼らしく自分の症状についてノートに書きためていました。そのノートは診断の助けとするために、盟友であり元々精神科医でもあったカール・ヤスパースに渡されます。しかしヤスパースは個人の病気についての診断を公にすることはありませんでしたし、そのヴェーバーのノートも、第2次世界大戦中にそれがナチスの手に渡って悪用されるのを恐れた結果処分されたと聞いています。

ハイデルベルクでヤスパースが住んでいた家の跡

(カール・ヤスパースの妻はユダヤ人であり、二人は戦争中はハイデルベルクでひっそり隠れるように暮していましたが、いよいよナチスに強制連行されそうになったギリギリのタイミングでハイデルベルクが連合軍により解放され、二人は九死に一生を得ました。)従って現時点でヴェーバーの症状が書かれているのはほぼマリアンネによる伝記の記述に限定されます。専門家ではないマリアンネの記述だけから、推測の材料にはなってもヴェーバーの病気の名前を正確に同定することは出来ません。

それからもう一つ、うつ症状=うつ病とは限らない、ということです。現時点では、メンタルな障害・病気の診断は、精神科医がDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders、精神障害の診断と統計マニュアル)というアメリカ精神医学会が出版している精神疾患の診断基準・診断分類を使って患者の状態の観察をすることによって行われれます。(これもまさしく「決疑論」です。)その中で鬱状態を引き起こすものとしては、重篤気分調節症、かんしゃく発作、うつ病(大うつ病)、持続性抑うつ障害(気分変調症)、月経前不快気分障害、物質・医薬品誘発性抑うつ障害、他の医学的疾患による抑うつ障害、他の特定される抑うつ障害、特定不能の抑うつ障害、それから双極性障害(いわゆる躁鬱病)と適応障害があります。

以下は以上の前提を踏まえた上での私の個人的な推測です。私自身大うつ病(激越型うつ病)で3年ほど苦しみましたし、また高校時代よりの親友をアルコール依存+双極性障害で失いました。(その親友が双極性障害であったということは、ある精神科医と面談して確かめていますし、また同じ高校の同期でその親友も良く知っている精神科医の者にもメールで相談して確認しています。)その関係でメンタルの病気について読んだ本は30冊を超えます。そういった本で得た知識と自分及び親友を観察した経験からの推測として、ヴェーバーのメンタルな障害は「双極性障害」の可能性が高いのではないかと思います。うつ病と双極性障害は今日ではDSM上別のカテゴリーに分けられており、一部症状がかぶるとはいえ別の病気です。双極性障害の一番大きな特徴は、「気分が異常かつ持続的に高揚し、開放的で、またはいらだたしい、いつもとは異なった期間が少なくとも1週間持続する」という状態がうつ状態と交互に現れるということです。そもそもヴェーバーの発病のきっかけになった、実父との確執ですが、これ自体がある意味異常な「躁エピソード」(マリアンネの表現では「息子が父親を裁いた」)と考えることも可能であり、その極端な躁状態の後に、実父の旅先での死をきっかけに「うつ状態」が発現したと考えられます。ヴェーバーは発病後、結局1920年6月の死まで、死の直前にミュンヘン大学やウィーン大学で講義をした以外は本格的に大学に復帰することは出来ておらず、それは「うつ状態」が死ぬまで完全に無くなることがなかったからだと思います。しかしながら、ご承知のようにヴェーバーについて今日良く知られている著作のほとんどは、最初の発病後に書かれています。私自身の大うつ病経験からいって、「うつ状態」がずっと継続していればこのような大規模な著作執筆・研究活動を行うことはまず不可能です。その一方で、この期間においていわゆる高揚(躁)状態を示すようなエピソードは数多くあり、例えば1905年にロシア革命の報を聞いてから約3ヵ月間で新聞を読める程度にロシア語を非常な勢いで習得したり、第1次世界大戦勃発後に野戦病院に勤務した時はほとんど休みを取らず働き続けています。また宗教社会学で中国やインドの研究をしている時には短期間にきわめて多くの文献に当たり、精力的に活動しています。こういったことは、「うつ病」が死ぬまで継続したということからは説明が出来ません。また傍証になりますが、双極性障害はいわゆる「天才」型の人間に多いことが経験的に知られています。(というかある一定のレベル以上の人が躁状態になると、それは傍から見ると天才に見えるということだと思います。先のロシア語習得のエピソードも、ヴェーバーが外国語習得の天才と考える人は多いでしょう。)例えばヴェーバーが中学生の時に全集を読破したというゲーテがそうです。または画家のヴァン・ゴッホなどもそうです。また、ヴェーバーの学問の手の広げ方(結局多くのものが未完に終った)についても、折原浩先生に怒られそうですが、ある意味双極性障害の患者の高揚期特有の万能感の現れ、と解釈出来ないこともないでしょう。

以上、私見を書き連ねてみました。大澤真幸だけでなく全ての人に言いたいのは、明確な根拠もなく断定的なことを自分の専門外の領域で書くべきではないということです。

中野敏男氏の「ヴェーバー入門 ――理解社会学の射程」

中野敏男氏の「ヴェーバー入門 ――理解社会学の射程」を読了しました。中野氏がヴェーバーにまつわる伝記的なエピソード中心の入門書や、浅く広く色んな学者の見解をただまとめたような入門書ではなく、少なくとも「ヴェーバーの学問」を氏自身の言葉できちんと語ろうとしていることは高く評価すべきでしょう。
ですが、大変申し訳ありませんが、この入門書も他の入門書と同じく「群盲象を撫でる(評す)」ではないかという思いを禁じ得ませんでした。(この表現は若干差別的ですが、敢えて使わせていただきます。)同じことをかつて大塚久雄は「鶏がエサをつつき散らすように」と例えましたが、この中野氏の本もヴェーバーの学問の全体像を入門者に的確に説明する、ということに十分成功しているとは言えないと思います。

まずは「ヴェーバー入門」というタイトルで「ヴェーバーの理解社会学入門」ではないのに、何故理解社会学だけをここまで重視して取上げるのかが理解出来ませんでした。確かに理解社会学は特に宗教社会学においては非常に重要な方法論であり、これなくして宗教倫理から生活実践のエートスが生まれる過程を分析することは不可能です。しかし、ヴェーバーの学問の中で理解社会学は、私見ではある一定部分(決して小さくないにせよ)を占めているだけであり、理解社会学だけを押さえていればそれでヴェーバーの学問はほぼ理解出来ました、ということには決してなりません。個人的に、ヴェーバーの学問で、最初の論文である「中世合名・合資会社成立史」から宗教社会学と「経済と社会」まで、全体を貫いているもっとも重要な方法論は「決疑論」であると考えます。各種理念型を思考のスタートにし、歴史における様々な具体的諸事実と照らし合わせて、必要があれば理念型を修正し、様々な類型概念をカタログのように整理・体系化しそれによって歴史上の諸文明の分析・比較を行うというのがヴェーバーにおけるもっとも基本的な方法論であり、理解社会学さえあれば他は要りません、ということにはなりません。ちなみに中野書では「決疑論」についての説明や解説はまったくありません。

それに理解社会学という言葉がそれほど重要なのであれば、ヴェーバーがカテゴリー論を書き直した時に「理解社会学の根本概念」とはせず、「社会学の根本概念」としたのは何故でしょうか。また、私は「理解社会学のカテゴリー」が「経済と社会」の旧稿を理解する上のカテゴリー論として「頭」とされなければならない、という折原説については全面的に賛成です。しかしそうではあっても、この本の正確なタイトルは「理解社会学の二、三のカテゴリーについて」(einige = 二、三の)であり、ある意味非常に限定的な議論であって、これ「だけ」で「経済と社会」全体を完璧に解読出来る、ということでもないと思います。(参考:野崎敏郎「ヴェーバー『理解社会学論』の執筆事情とその定位 : リッケルト宛書簡を手がかりとして」)ちなみに私はここ数年、「経済と社会」の邦訳を折原先生の仮説による順番で読んでいくということを延々とやっており、つい数日前に「都市の類型学」を読了し、ようやくその作業(の一回目)を終えたところです。この「都市の類型学」の大きなテーマは、西洋近代都市の特異性を明らかにすることと同時に、中世の特にイタリアの諸都市と、ギリシア・ローマの古典古代の都市を比較するということであり、その記述の中に理解社会学的な手法は、若干はあるかもしれませんが、ほとんど認めることは出来ませんでした。「理解社会学のカテゴリー」ではゲマインシャフト(行為)、ゲゼルシャフト(行為)、諒解ゲマインシャフト、(目的)結社(Verein)、アンシュタルト(国家、カトリックの教会のように人が生まれながらにして自動的にそのメンバーとされるような団体)のような概念が定義され、もちろん旧稿の中でこれらの概念が使われていますが、それだけではありません。例えばゲノッセンシャフト(Genossenschaft、「(義)兄弟関係」のような対等な人間同士の横のつながりを重視した集団、ヘルシャフト(支配=縦)的集団との対概念)-ケルパーシャフト(Körperschaft、ゲノッセンシャフトが単なる個人の集まりなのに対し、集団そのものが一つの人格{法人格}を持ち、その成員は一定の共通の目的を持って集まったもの。Körper=身体であり、ローマ法でのコルポラチオーン{これも元々ラテン語のcorpus=身体から派生した言葉}にも似ている概念、ちなみにヘルシャフト的集団が進化したものがアンシュタルト)というのが特に都市論で使われていますが、この概念は元々ゲルマニスト(ゲルマン法重視派)のギールケ(ちなみにギールケはゴルトシュミットと並んでヴェーバーの博士号論文の査読者の一人でした)のドイツ団体法論(Das deutsche Genossenschafts-recht)他に出てくる概念であり、ヴェーバーはこの2つが「理解社会学のカテゴリー」の中のどれに当たるか(あるいはそれらでは説明出来ない概念なのか)という説明は一切していません。この例を見ても、「理解社会学のカテゴリー」が「経済と社会」に出てくる全ての概念を網羅的にカバーしているものではなく、研究のスタートにあたっての基礎的な概念整備、立ち位置の確認という性格のものではないかと思います。この点でも「理解社会学」がヴェーバーの学問の最重要の方法論だというのは疑問を呈さざるを得ません。

それから、中野氏は、西洋の近代化、合理化をほぼ物象化(非人間化、物化)とイコールだと捉えているようです。そもそも私はヴェーバーの学問を解釈するのにマルクス主義的な概念を持ち出すことに強い違和感を感じますが、例えば宗教社会学の緒論でヴェーバーが持ち出す西欧近代の色々な分野での合理化が、すべて物象化と説明出来るとはまるで思いません。例えばヴェーバーは「音楽社会学」を書いて、西洋音楽の中での調律の方法についていわゆる「平均律」が作られ使われるようになる過程を分析しますが、この平均律の採用が「物象化」と言うのは無理があり、むしろ和音の調和感(=極めて人間的なもの)と、転調という作曲上・(即興)演奏上の便宜のせめぎ合いの中で妥協的に行われたのが平均律の採用であると思います。(その意味で特殊な合理化です。)それから中野氏は貨幣を別の例として挙げ、もっとも抽象的・非人間的なものと描写しますが、これも私は納得出来ません。ヴェーバーの貨幣論(「経済行為の社会学的基礎範疇」の中の)はクナップの「貨幣国定学説」(貨幣を国家によって定められたシンボルと見るもの、カルタ的貨幣)とほぼ同じですが、それをもっとも抽象化が進んだものとは捉えていません。大体ヴェーバーの時代のドイツは第1次世界大戦後のハイパーインフレの時期を除いて金本位制だったのであり、極めて具体的な「金」が本位貨幣でした。現代の暗号通貨のようなものが他の通貨を全て駆逐するようなことになればそれはもっとも抽象的と言えるでしょうが、ヴェーバーの時代にはそういうレベルにはまるで達していません。また「理解社会学のカテゴリー」の中で貨幣は諒解行為の具体例として言語と共に挙げられており、その意味でも合理化・物象化がもっとも進んだ例として持ち出すのは、言語がそう理解出来ないのと同じで無理があります。

最後に、「プロ倫」が理解社会学か?という問題ですが、この問題については既に折原浩先生が極めて詳細に反論しており、私が特に付け加わることはありません。ただ中野氏を弁護するなら、理解社会学というのは宗教社会学の分析においてもっとも効果的な方法論であり、「プロ倫」を例として使うのは、前提となる説明の仕方が適切に修正されれば、入門書としては有り、と思います。

「仕事としての学問」「仕事としての政治」という珍訳

野口雅弘という方がいて、中公新書にヴェーバーに関する入門書を書かれています。それはいいのですが、この方、ヴェーバーのWissenschaft als Beruf、Politik als Berufを講談社学術文庫に訳されています。そしてその日本語タイトル名が「仕事としての学問」「仕事としての政治」となっています。私はこの日本語タイトルに以前から強い違和感を感じていましたが、この度入門書を読んでこう訳した理由が分りました。
この方の説明によると、「仕事」とは「事に仕える」という意味なので、Berufの一般的職業と神から与えられた召命の2つの意味を同時に持っているのだそうです。故に「職業」より適訳なんだそうです。しかしこの説明は完全にナンセンスです。辞書には「名](スル)《「し」はサ変動詞「」の連用形。「仕」は当て字》」とあり、「仕」は仕えるという意味では使われていません。その元々の意味は「(何かの)事をすること」「している事」というものであり、そこに神から与えられた使命、などという意味を読み取ることはほぼ不可能です。また、一般的職業の意味でも、「急に仕事が入った」「やっつけ仕事をしてしまった」などの用例から分るように、職業に比べて短期の、ひとかたまりの作業的なニュアンスが強くあり、ヴェーバーのBerufがどちらの講演でも、言うまでもなく人が一生をかけてやっていくべきもの、という意味であり、その意味でも英語でいえば gig に近い仕事は訳語としてはより不適切です。
そもそもこの2つの講演は戦前から日本語訳があり、他にも何種も日本語訳が出ているのに、新たに屋上屋を架そうという理由が理解出来ません。そういういわば「便乗翻訳者」に限って変な独自性を出そうとし、しかもそれが誤っているのでは、何をか言わんや、です。
私もこのサイトでドイツ語の日本語訳をやっていますが、翻訳には外国語の知識だけでなく、言うまでもなく日本語の深い知識も必要になります。

ヴェーバーの音楽社会学が見落としているもの

マックス・ヴェーバーの「音楽社会学」は、例によって「高度な和声法と(平均律)とそれに基づくポリフォニー音楽を発展させたのは近代西欧だけ」という論点で書かれています。平均律という発明で、(純粋な音の響きの調和を少し犠牲にした上で)12の音をそれぞれ基音とする調性を自由に転調出来るようにしたのは確かに西洋音楽の功績です。しかし、ここで注意すべきなのは「和声・旋律」のみが音楽の要素なのか、ということです。西洋音楽はもう一つの重要な要素であるリズムについては、きわめて単純であり、基本的に単純な等分割リズムか、付点音符を使ったシンコペーションぐらいしかありません。日本の作曲家矢代秋雄が1958年に作曲した「交響曲」の第2楽章には、西洋音楽としてはきわめて珍しいリズムが使われており、それは「テンヤ、テンヤ、テンテンヤ、テンヤ」(6/8+(2/8+6/8)(Wikipediaによる)というもので、元となっているのは獅子文六の「自由学校」の映画に使われたお神楽のリズムです。この矢代の交響曲がある欧州の一流のオケで演奏された時、プロ揃いのオケのメンバーが、このリズムをきちんと刻むことに非常に苦労したという話しがあります。また、現代音楽作曲家でスティーブ・ライヒという人がミニマルミュージックと呼ばれる音楽を作曲していますが、それの元はインドネシアのガムラン音楽であり、独特の音の色相が徐々に移り変わって行くような曲は元々西洋音楽にはありませんでした。
さらには、演奏家という面で、チベットの仏教僧は口を十字型にして二つの音高の音を同時に発し、一人で和音を出してしまうという超絶技巧で知られています。そういった様々な事例を考え合わせて、ヴェーバーの「~を発展させたのは近代西欧だけ」という記述は割り引いて読んだ方がいいと思います。