4. Vermögensrecht der Seesocietäten. P.177 – P.181 日本語訳(12)

かなり前回のアップから日数が経ってしまいまいたが、12回目です。時間がかかった理由は、19日にTOEICのS&Wを受けるのでその準備があったのと、また注釈に出てくるラテン語の訳が大変だったからです。特にラテン語金石碑文大成のラテン語は、欠損が多いものを推定で補ってあり、また全部で18万もの文があるため、さすがに英訳はほんの一部のものにしかなく今回の950のもありません。それで英訳者のLutz Kaelberもおそらく自分で訳しているのでしょうが、その内容がちょっと引っ掛かるのが多くて調べるのに時間がかかりました。日本語訳の中にも書きましたが、1月1日を何故か12月23日と解釈したり、人名でFrontinusとすべきをFrontiusとしていたりで、少なくとも注意深い翻訳者とは言えないように思いました。ここのラテン語の訳は識者のご意見を俟ちたいです。
元のドイツ語はここです。
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4. 海上取引に関係するソキエタスの財産権法上の扱い

 それではここまで歴史的及び地理的に追跡して来た《コムメンダとソキエタス・マリスという》制度が、この論考で取り扱っている問題《ローマ法のソキエタスが歴史的にどのように合名会社へと発展していくか》に対してどのような意味を持つのであろうか?

 我々がこれまでに見て来たように、これらのソキエタスのある一定のやり方の資本投下は最初からその本質的な要素であったし、その資本投下がさらにはその名称としても「ソキエタス」として表現され、あたかもそれがソキエタスの本来の代表例であったかのように扱われていたのである。それではこれらの資本投下の結果としての基金は、ソキエタスの成員の他の財産に対し、また対外的にどのような地位を占めるのであろうか?

ソキエタスの基金

ソキエタスに投下された資本は、まず何より単純に法的な客体(オブジェクト)の複合体である基金であり、その複合体すなわちソキエタスの基金は精算の目的で次のような特別の計算を必要とする。つまり、何が利益としてこの基金に組み入れられるか、そして何が損失としてこの基金から差し引かれるのかということである。というのは、複合体すなわちソキエタスの基金はリスクと特別な計算による利益の分割に関して、その土台を提供しているのである。そのためその複合体すなわちソキエタスの基金は、トラクタトールによって持ち込まれた商品や資本とは区別されなければならず、複合体=基金はある特別の勘定を形作る。そして今日の簿記が複数の勘定がそれぞれ法的な主体であり、それぞれがお互いに債権と債務を持ち合っているという具体的なイメージを用いているように、ジェノヴァの文献史料においてもまた、そこでのソキエタスで何がその収入となり、何が支払うべきものになるのかという点において、あたかもある種の法的な主体であるかのように取り扱われているのである。しかしながらそういった基金はそのことによってまた、ソキエタスの成員同士の関係においてのみ、ある種の特別財産の地位を獲得したのであろうか?今日の簿記上の勘定がそうであるような、同時に第三者に対しても特別財産の地位を獲得することがまだ起きていないのは確からしいことである。コムメンダとソキエタス・マリスという二つの関係は、それら自体が完全なものであり、ローマ法による根拠付けによって成立が可能になっているであるが、これらに関する文献史料は我々がローマ法のソキエタスとして知っているものをまさにその記述の中で思い起こさせるのである 32)。ソキエタスの成員同士の関係の全体像は、ソキエタスの成員同士の間での相互債権として法的に説明することが完全に可能である。

32)上記にて引用した(イタリア中世都市での)文献史料の記述を、以下のローマ法におけるソキエタスの文献史料、つまりルーマニアのトランシルヴァニア《ドイツ語でSiebenbürger》の歴史博物館収蔵の《ヴェーバーがこの論考を書いていた時、既に当該史料はベルリンの博物館に移送されている。今日でも同じ。》紀元167年のトリプチカ《木板の表面に蝋を塗って先の尖った鉄筆類で文字を書けるようにしたのが蝋板本だが、トリプチカはその板を3つ重ねてつなぎ合わせたもの。しかしここで言及されているラテン語金石碑文大成の950は2枚しか無い。》(Corpus Inscriptionum Latinarum《ラテン語金石碑文大成。CILと略記する。1847年にテオドール・モムゼンが主宰した解読のための委員会が発足し、2020年1月現在全17巻が刊行され、18万種類にも及ぶラテン語の金石碑文の解読結果が収録されている。》の、Voluminis Tertii Pars Posteriorの950。「Dociusの蝋板本」)と比較せよ。:
Inter Cassium Frontinum et Julium / Alexandrum societas dani(st)ariae (= 銀行業務) ex/X kal. Januarias q[uae] p[roximae] f[uerunt] Pudente e(t) Polione cos. in prid(i)e idus Apriles proximas venturas ita conve/n(i)t, ut quidq(ui)d in ea societati arre/natum fuerit lucrum damnumve acciderit/ aequis portionibus s(uscip)ere debebunt./ In qua societate intuli(t Juli)us Alexander nume/ratos sive in fructo X (qu)ingentos, et Secundus Cassi Palumbi servus a(ctor) intulit X ducentos/sexaginta septem ‘pr … tiu … ssum Alburno … d(ebe)bit)./ In qua societ(ate) siquis d(olo ma)lo fraudem fec(isse de/)prehensus fue(rit) in a(sse) uno X unum …/(denarium) unum X XX … alio inferre deb(ebit)/et tempore perac(t)o de(ducto) aere alieno sive/ summam s(upra) s(criptam) s(ibi recipere sive), si quod superfucrit,/dividere d(ebebunt) pp.
(Cassius Frontinus《英訳はFrontiusとしているが誤りと思われる。》とJulius Alexanderの間で、銀行取引に関するソキエタスの契約を締結した。その有効日は紀元165年の1月1日の10日前《紀元164年の12月23日。kal.(月の初日)の何日前、という時は実際の日数差に2日を足す。》から翌年の4月13日の1日前《紀元166年4月12日。ローマでは月中の日はいくつかの起点の日の何日前という風に表現された。》までであり、L. Arrius PudensとL. Fufidius Pollioが執政官(コンスル)であった年である。《ローマの執政官は任期は1月1日から1年間であり、ある年を言う場合は誰それが執政官であった年、と表現される。》その契約の中で次のことを合意した。すなわち、そのソキエタスにおいて、「相互が供託した資金において」《arrenatumという語のBrunsの解釈による》どちらのソキエタスの成員も、将来における利益または損害に対しては、その持ち分に応じて分担する義務を負う。そのソキエタスにおいて、Julius Alexanderは500デナリウスを現金で、かつ利益を得ることを目的として(?)支払い、Cassius Palmbusの代理人である奴隷のSecundusは《ローマでは奴隷が主人に代わって利殖を行うのが通常だった。》前もって267デナリウスを支払い、Alburoはそれについて債務を負うことになる。このソキエタスにおいて、その成員の誰かがソキエタスの資産について虚偽の手段を用いて詐欺を行ったことが明らかになった場合は、罰金として(だまし取ったお金)1デナリウスに対して20《ヴェーバーのテキストではXXの上に横線があり、これは1000倍を意味するので20,000になるが、数字が大きすぎるし、インターネット上で確認出来るこの部分の原典では横線は付いていない。Kaelberの英訳ではその左の解読出来ない文字も含めて30としている。》デナリウスをソキエタスの他の成員に支払わなければならない。そしてソキエタスの契約が終了した時には、負債を差し引いた上で、元々のそれぞれの拠出額を回復させなければならない。そしてもし剰余金が存在する場合は、それは成員間で分けられなければならない。)
”arrenatum”という単語は文法的に意味がはっきりしない。モムゼンは、Georgius Bruns《詳細不明だが、おそらくこの950についての注釈を作成した学者。》の”Fontes iuris romani antiqui in usum prae lectionem”の第5版のp.269に準拠し、ここの意味を”sub arrha mutuo datum”(誓約された相互の供託金?)としている。《この部分については全集版の注90を参照。モムゼンがBrunsの脚注を見落として間違った解釈をし、ヴェーバーがそれをそのまま引用した可能性が指摘されている。》より蓋然性の高い仮説としては、卑俗的表現である”ad-re-nasci”(そこに向かって生まれ出でる)という、ある資本投下の結果として生じてくる(”hinzu-er-wächst”)利益または損失の全てを表現しているとも考えられる。この考え方はコムメンダにおける通常の考え方にも適合するであろう。特徴的なのは-これについては後で《第4章》ピサでの金銭価値の見積り(aestimatio)についての議論の所で述べることになるが-更に現金以外の形でソキエタスに持ち込まれた有価物の価額評価がまた、中世の、特にピサにおけるソキエタス・マリスの本質的な目印であるということである。入手しうる文献史料は全て、海上取引に関する諸ソキエタスが、ローマ法の中の市民法によって根拠付けられていることの、蓋然性の証明の役目をここでも果たしているのである。

固有財産形成への萌芽

 ジェノヴァの法についてのこれらの原理的な立脚点は、しかしながらまだ完全に確立されたものとは言えなかった。そこには後代での大きな発展の始まりとなるような萌芽のみが見出される。そういった発展の始まりは特に次の事において見出される。つまり法の規定がソキウス・スタンスに対して、ソキエタスの所有物について、即ちソキエタスの中に持ち込まれ、ソキエタスの資金によって購われた物についての、-そういう言い方が出来るとするならば-「返済からの分離」(別除)への権利(別除権《破産の際に優先的に弁済を受ける権利》)を付与する場合である 33)。

33)同じ内容の規定がジェノヴァの法規の様々な版の中に見出される:
Pietro Datta《Regia deputatione di storia patria(1833年に設立された王立のイタリアの歴史史料の蒐集・編纂を行う団体)のメンバー》の”Frammento Di Breve Genovese”《1858年》IVの de pccunia ad statutum terminum accepta(法規によって決められた期日に受領した金銭について), 及びペラの法規 I. V c. 211:
… der socius hat den Vorzug, „et praesumatur… pecuniam vel rem illam quae inventa fuerit in ejus (scil, des reisenden socius) mobili a tempore quo pecuniam illam acceperit … processisse vel comparata esse de pccunia illa vel societate aut accomendacione accepta “
(ソキエタスは資産を保有する。「そしてあらかじめ次のことが想定されている。…旅するソキエタスの成員(トラクタトール)が、その(貿易の)旅の途上にて受け取ることになるお金や物品は、その成員が(ソキウス・スタンスの)出資金を受け取った時以降…ソキエタスからかあるいはコムメンダ関係による出資金に起因して、発生したかあるいは獲得された(とみなされる)。」)
故に次のような基本原則が確立する。金額は物の(販売された)場所によって決定される、逆もまた同様。Statuta et Decreta Communis Genuae、1567年 I. IV c.43. にも同じ規定が存在する。
このことは花嫁の持参金についての”utilis rei vindicatio”(所有権に関する返還請求権)を想起させる。この持参金というものも、女性の財産に至る法的な発展が途中で止まってしまっている制度である。《花嫁の持参金はローマでは通常の慣習だった。》

そういったソキウス・スタンスへの別除権の付与によって、事実上ソキウス・スタンスの出資金に属していたり、その資金に対する収入であったり、あるいはその出資金によって購われた財産のある部分については、旅する側のソキエタスの成員(トラクタトール)の個人的債権者の(トラクタトールの)破産の際の差し押さえから免除されることになり、トラクタトールの(ソキエタスの)全体の利益の中での分け前のみが、破産の際には破産財団に組み入れられる。他方では、ソキウス・スタンスの個人債権者は資金提供型のコムメンダにおいてはどのような場合であっても直接的にはソキエタスの基金に手を付けることが出来ないということであり、それは当然の帰結として、個人債権者はトラクタトールからソキウス・スタンスの出資分と利益(の分け前)を返してもらうよう要求出来るだけである。それ故に、ソキエタスの基金については、どのような場合であっても特別の取り決めがなされる必要があった。

ソキエタスの責務

 しかしながら旅するソキエタスの成員(トラクタトール)がその業務の執行において、債務を負ったり、債権を得る場合はどう扱われるのであろうか?

 ”nomina”《物に対比される債権》は諸規定での明確な記述によれば、ソキエタスの成員(ソキウス・スタンス)の優先権と別除権に関係づけられた客体に付随している。ペラ《イタリアの都市名》の法規定によれば、ソキウス・スタンスはそれらの客体を、あたかも自分自身の所有物であるかのように 34)、直接的に訴求することが出来る

 ソキエタスの業務の執行の中で契約された債務については、それ自身が当然のこととして-そこには何らの疑いもないが-単純にトラクタトールの債務である。文献史料を見ても、ソキウス・スタンスがまたその債務によって拘束されるということについては、どこにもそのように読み取れる箇所は無い。しかしながら、もしかしたらソキエタスの勘定についてトラクタトールに信用を供与している債権者は、ソキエタスの基金に何らかの関係を持つのであろうか?それについても文献史料の中には何らの明示的な規定も見出せない。ともかくここで注意しておくべきおことは、ソキエタスの成員の破産の際のソキエタスの仮想的な所有物に対する無条件の優先権を定めている規定を収録している法規は、同時にそれに対する制限も明示的に付け加えていることである:
”nisi sit res illa, de qua venditor nondum sit pretium consecutus”(もしまだ売りに出されておらず従って価格未定の物件が存在しない場合においては)(ペラの法規定、前述、C.211、1567年のC43)。また14世紀のアルベンガ《イタリア共和国リグーリア州サヴォーナ県の都市》の法規もジェノヴァの法規の影響を受けて、特別に明瞭に、破産の場合に売主に対し”rei vindicatio utilis”(自分の所有物に対する返還請求権)を定めている。

 トラクタトールは本質においてソキエタスのために購買や販売という業務を執り行うため、ソキエタスに対する主要な債権者は、ソキエタスの成員よりも強い優先権によって、ソキエタスの成員に対する自己の権利が保護されるのである。

34)前述の通り、”possil petere totum debitum de quanto sibi contigerit per quantitatem sue societalis vel accomendacionis”(その者は全ての債務を、その債務がその者のソキエタスまたはコムメンダ関係の範囲内で課されている限度内で認めることが出来る。)この規定は多数のコムメンダ契約が一人の同一の被委任者と締結されている場合についてのものであろう。ペラの規定の216も同様の意味を持っていると思われる。
 こうした法的な取扱いからは、被委任者(トラクタトール)の破産において委任者(ソキウス・スタンス)の勘定から返済を受けようとする請求の仕方を思い起こさせるが、こうした請求についてはドイツ帝国破産法の第38条の別除権によって保護されるのである。最終章(第6章)を参照。そこでは後代におけるコムメンダから委託業務への移行について言及される。

35)ピサの場合については、前述の通りここでは取り扱わない。

36)アルベンガの法規:”et tunc presumam et habebo pecuniam et rem illam in ejus bonis … processisse et comparatam esse de pecunia illa vel societatis vel accomendacionis excepta re illa, de qua venditor nondum sit pretium consecutus. in qua venditor habeat vendicationem rei venditac donec sibi de pretio fuerit satisfactum.”(そしてそれから私は以下のことを当然のことと想定する。つまり私が資金及び彼の所有物の中のある物を入手するようになるだろうということと…ソキエタスまたはコムメンダ関係によって投入された金銭について{購買対象として}現れ購われたその物について、売り手がまだ売価を入手していない商品を除いて、それらの売りに出されている商品に対しては、売り手は満足する価格を入手するまでは、その商品に対する所有権を保持し続ける。)

複式簿記もイスラム圏起源?

コムメンダがイスラム圏起源ではないかという説を紹介しましたが、いわゆる複式簿記は、こうしたコムメンダやソキエタス・マリスにおいて、その時々の貿易事業の精算を行う目的でイタリアにて発明されたという説が一般的です。(複数の出資者{一方はトラクタトールで航海を自分で行っている}による貿易の成果を借方と貸方という形で対照することにより、利益の分配を公平にしようとしたのが最初の契機のようです。)しかし、コムメンダがイスラム圏起源なら、複式簿記もそうではないか、という仮説は当然考えられる所です。
この点で、きちんとした根拠を示すことなく、「複式簿記の起源は諸説あるが、ローマ説、12世紀頃のアッバース朝のイスラム商人説がある。その後、複式簿記の仕組みはヴェネツィアやジェノヴァの商人を経てヨーロッパにもたらされた。」としているのが日本語のWikipediaです。そこで根拠として示されているのは宮崎正勝の「知っておきたい「お金(マネー)」の世界史」、角川学芸出版、2009年だけです。しかしこの本を入手してチェックすると、「簿記」についてはイスラム圏からイタリアに伝わったとありますが、「複式簿記」が伝わったとはどこにも書いていません。(その辺りの書き方が紛らわしいのは事実ですが。)言うまでもなく、「簿記」(単式簿記)と「複式簿記」ではまったく意味が違います、単式簿記は世界各地で行われていました。単式から複式に飛躍するには大きな発想の転換が必要です。
この「知っておきたい「お金(マネー)」の世界史」はタイトルからも明らかなように学術書ではなく一般向けの啓蒙書ですが、他に「最近よく使われる「リスク(予測できない危険)」の語源が海図のない航海を意味するアラビア語にあることでもわかるように」とも書いています。しかしOEDをチェックした限りでは、定説となっているriskの語源はラテン語→フランス語→英語のルートです。確かに”It has also been argued that post-classical Latin resicum , risicum , etc. is derived < the specific senses ‘fortune, luck, destiny, chance’ of Arabic rizq “という「説がある(been argued)」とは紹介されていますが、そこで示されている意味は「予測できない危険」でもなく「海図のない航海」でもなく、「幸運、運命、チャンス」としており、まったく意味が違います。この本の参考文献リストでのイスラム圏に関する本は著者本人の本だけであるため、まったく論拠にはなりません。(このように信用出来るかどうかも分からない本についても、ともかく何かの出版された本に書いてあれば根拠として採用してOK、というのが日本語Wikipediaのきわめておかしな記事作成ルールになっています。この手の馬鹿げたルールを振りかざすWikipedia自警団というのが跋扈しているため、私は半年ほど前にWikipediaの記事を編集するのを止めました。)
簿記研究者の片岡泰彦氏は、複式簿記の起源について「古代ローマ説」と「イタリア説」を並記して紹介しています
英語版Wikipediaは、複式簿記の起源について、”Double-entry bookkeeping was firstly pioneered by the Romans and in the Jewish community of the early-medieval Middle East.”としており、古代ローマと、中世初期における中東の「ユダヤ人コミュニティ」を挙げています。しかしこれもL. M. Parkerという人の仮説に過ぎず、仮にユダヤ人コミュニティで複式簿記の萌芽があったとしても、それがイタリアでの複式簿記の採用にどう影響したのかというのは現時点でも不明のようです。(ここを参照。)

p.s. 
橋本寿哉氏の「中世イタリア複式簿記生成史」(2009年3月出版、白桃書房)のP.52に以下の文章があります。
「これまでにも、複式簿記はアラブ・イスラム世界の強い影響によって生成したとする指摘がたびたびなされてきた。(中略)複式簿記という計算機構そのものの生成に当たって、アラブ・イスラム世界からの具体的な影響があったことを証拠付けるものは存在していない。」
これがまっとうな学問の分野では普通の考え方と思います。呉々もWikipediaの記述を信用しないでください。

P.178 注32のラテン語の原文(CIL: Corpus Inscriptionum Latinarum)

P.178の原注32(ドイツ語原文(11)中)に出て来る”Corpus Inscript. Lat. III 950″のオリジナルを探したら、こういうものでした。(画像はクリックで原サイズになります。)古典期のローマ法関係の、木板または石板の上に書かれたものをモムゼンが解読したもののようです。Xが何を意味しているのか分からなかったのですが、おそらく解読できなかった部分をこの記号にしているのかな、と思います。
入手元はここです。

4. Vermögensrecht der Seesocietäten. P.177 – P.181 ドイツ語原文(12)

ドイツ語原文の12回目です。4. Vermögensrecht der Seesocietäten. P.177 – P.181の所です。注32でローマ数字の真ん中に横棒を重ねたものや、上に横棒を追加したものがあります。上に横棒は1000倍する、という意味らしいですが、真ん中に横棒の意味は調査中です。
なお、この原文はドイツ語対応のOCRソフトで全集版のテキストから取っていますが、ドイツ語部分はそう大きな間違いは無いと思いますが、ラテン語等についてはOCRが認識を間違えて、それをこちらで訂正しきれていない場合があります。あくまで参考としてのみご活用ください。
ネット上でのドイツ語原文は、ここ(Fraktur{ひげ文字}です)とかここにもありますので、テキストの正確さに疑問がある場合にはそちらも参照下さい。=================================================
4. Vermögensrecht der Seesocietäten.

 Welche Bedeutung haben nun diese bis hierher historisch und geographisch von uns verfolgten Institute für die hier behandelte Frage?  

 Wir haben im obigen gesehen, daß ein bestimmter Einschuß von Kapital dieser Societät von Anfang an wesentlich ist, daß dieser Einschuß sogar mit ihrem Namen, als „societas“, bezeichnet wird, als sei er ihr eigentlicher Repräsentant. Welche Stellung also nimmt dieser Fonds gegenüber dem übrigen Vermögen der socii und welche nach außen ein?

Der Societätsfonds.

 Zunächst ist es eben einfach ein Fonds, ein Komplex von Rechtsobjekten, welcher zum Behuf der Auseinandersetzung besondere Berechnung dessen erfordert, was als Gewinn in ihn hineinfällt, als Verlust aus ihm abgeht. Da er bezüglich der Gefahr und der Verteilung des Gewinnes besonderer Abrechnung unterliegt, so muß er von den übrigen vom tractator mitgeführten Waren und Kapitalien gesondert werden, er bildet ein besonderes Konto; und wie die heutige Buchführung sich der anschaulichen Vorstellung bedient, als seien die Konti Rechtssubjekte und hätten untereinander Forderungen und Schulden, so wird auch in den genuesischen Urkunden die societas mit dem, was in sie hineinfällt und was sie belastet, wie eine Art Rechtssubjekt behandelt. Hat aber damit dieser Fonds auch nur im Verhältnis unter den socii die Stellung eines Sondervermögens gewonnen? Sicherlich ebensowenig wie ein heutiges Buchkonto, und um so weniger dritten gegenüber. Die Verhältnisse der Kommenda und societas maris sind an sich vollkommen auch auf dem Boden des römischen Rechts möglich, die Urkunden erinnern in der Fassung an diejenige, welche wir für die römische societas kennen 32). Das ganze Verhältnis ist durch Forderungsrechte der socii untereinander vollständig juristisch darstellbar.

32) Vergl. die oben angeführten Urkunden mit folgender römischen Societätsurkunde, einem Siebenbürger Triptychon aus dem Jahre 167 n. Chr. (Corpus Inscript. Lat. III 950):  Inter Cassium Frontinum et Julium / Alexandrum societas dani(st)ariae (= Bankiergeschäft) ex/X kal. Januarias q[uae] p[roximae] f[uerunt] Pudente e(t) Polione cos. in prid(i)e idus Apriles proximas venturas ita conve/n(i)t, ut quidq(ui)d in ea societati arre/natum fuerit lucrum damnumvc acciderit/ aequis portionibus s(uscip)ere debebunt./ In qua societate intuli(t Juli)us Alexander nume/ratos sive in fructo X (qu)ingentos, et Secundus Cassi Palumbi servus a(ctor) intulit X ducentos/sexaginta septem ‘pr … tiu … ssum Alburno … d(ebe)bit)./ In qua societ(ate) siquis d(olo ma)lo fraudem fec(isse de/)prehensus fue(rit) in a(sse) uno X unum …/(denarium) unum X XX … alio inferre deb(ebit)/et tempore perac(t)o de(ducto) aere alieno sive/ summam s(upra) s(criptam) s(ibi recipere sive), si quod superfucrit,/dividere d(ebebunt) pp.
Das Wort „arrenatum“ ist grammatikalisch dunkel. Mommsen bei Bruns, Fontes p. 269 (ed[itione] 5) nimmt an, es bedeute „sub arrha muluo datum“. Näher scheint die Annahme eines vulgären Compositum ad-re-nasci für alles, was aus einer Kapitalanlage als Gewinn oder Verlust dem Kapital „hinzu-er-wächst“, zu liegen. Dies würde zu der bei der Kommenda üblichen Vorstellungswcise passen. Charakteristisch – es wird noch bei Besprechung der Aestimation in Pisa davon zu reden sein – ist ferner die Veranschlagung auch der nicht bar eingebrachten Gegenstände in Geld, auch ein wesentliches Merkmal der mittelalterlichen, besonders der pisanischen societas maris. – Die ganze Urkunde gibt wieder einen Wahrscheinlichkeitsbeweis dafür, daß die Seesocictäl an römisches Vulgärrecht anknüpfte.

Anfänge einer Sondervermögensbildung.  

 Dieser prinzipielle Standpunkt des genuesischen Rechts ist nun aber nicht ganz unerschüttert geblieben. Es finden sich Ansätze, welche den Anfang einer weitergehenden Entwickelung bedeuten. Ein solcher ist insbesondere darin zu finden, daß die Statuten dem socius stans an den Societätssachen, d. h. an den in die Societät eingebrachten und den aus Societätsgeld erworbenen Objekten, ein Recht – wie wir sagen würden – „auf abgesonderte Befriedigung“ einräumen 33). Damit sind praktisch die zur Einlage gehörigen oder ihr zugeschriebenen oder aus ihren Mitteln erworbenen Vermögensstücke dem Zugriff der Privatgläubiger des reisenden socius entzogen, nur die Gewinnquote fiel in seine Konkursmasse. Daß andererseits die Privatgläubiger des socius stans jedenfalls bei Geldkonimenden nicht unmittelbar den Societätsfonds angreifen konnten, ergibt die Natur der Sache, sie können vom tractator nur Herausgabe des capitale und lucrum, welches dem stans zukommt, fordern. Mithin mußte unter allen Umständen über den Societätsfonds eine besondere Auseinandersetzung stattfinden.

33) Gleichlautend in den verschiedenen Redaktionen der genuesischen Statuten: Dattasches Fragment IV de pccunia ad statutum terminum accepta. Stat[uta] Perae I. V c. 211: … der socius hat den Vorzug, „et praesumatur… pecuniam vel rem illam quae inventa fuerit in ejus (scil, des reisenden socius) mobili a tempore quo pecuniam illam acceperit … processisse vel comparata esse de pccunia illa vel societate aut accomendacione accepta “ … Es gilt also der Grundsatz: pretium succedit in locum rei und vice versa. Ebenso Statuta et Decreta Communis Genuae 1567 I. IV c.43.
Es erinnert dies an die utilis rei vindicatio bezüglich der Dotalsachen; auch die dos war ja ein auf dem halben Wege der Entwickelung zum Frauenvermögen stehen gebliebenes Institut.

Societätsobligationen.

 Wie aber stand es, wenn der reisende socius im Betrieb des Geschäftes Schulden gemacht, Forderungen erworben hatte?
 Die nomina gehören nach ausdrücklicher Bestimmung der Statuten zu den vom Vorzugs- und Absonderungsrecht des socius mitbetroffenen Objekten, nach den Statuta Perae kann der stans dieselben auch ohne weiteres einklagen, als seien es seine eigenen 34).
 Was die im Betriebe der Geschäfte der societas kontrahierten Schulden anlangt, so sind sie an sich natürlich – daran besteht kein Zweifel – einfach Schulden des tractator. Es findet sich in den Quellen keine Andeutung, daß auch der socius stans durch sie verhaftet wurde. Stehen aber vielleicht die materiell für Rechnung der Societät dem tractator kreditierenden Gläubiger zu dem Societätsfonds in irgend einer Sonderbeziehung? Es findet sich 35) keine ausdrückliche Bestimmung darüber in den Quellen. Immerhin ist zu bemerken, daß die Statuten der Bestimmung betr. das unbedingte Vorrecht des socius im Konkurse an den präsumtiven Societätssachen die Beschränkung ausdrücklich beifügen: „nisi sit res illa, de qua venditor nondum sit pretium consecutus“ (Stat[uta] Perae l.cit. c.211. Stat[uten] v. 1567 c.43). Besonders deutlich drücken sich auch die Statuten von Albenga 36) aus dem 14. Jahrhundert, unter genuesischem Einflusse stehend, aus, welche in dem bezeichneten Falle dem Verkäufer eine rei vindicatio utilis geben.  Da nun der tractator wesentlich Kauf- und Verkaufsgeschäfte für die societas abschloß, so waren damit die Hauptgläubiger der societas durch ein noch stärkeres Vorrecht als der socius auch diesem gegenüber geschützt.

34) L.c. „possil petere totum debitum de quanto sibi contigcrit per quantitatem sue societalis vel accomendacionis”, – es wird der Fall des Bestehens mehrerer Kommenden an denselben Kommendatar vorausgesetzt. Auch Stat[uta] Perae 216 scheint ähnliche Bedeutung zu haben.
 Die rechtliche Behandlung erinnert an die Art, wie im Konkurse des Kommissionärs an Forderungen, die für Rechnung des Kommittenten erworben wurden, dem letzteren ein Absonderungsrecht gewährt wird. § 38 Konk[urs]-Ordnung. Cf. letztes Kapitel, wo der spätere Übergang der Kommcnda in das Kommissionsgeschäft berührt ist.

35) Pisa bleibt hier außer Betracht, wie bemerkt.

36) Stat[uten] v. Albcnga: et tunc presumam et habebo pecuniam et rem illam in ejus bonis … processisse et comparatam esse de pecunia illa vel societatis vel accomendacionis excepta re illa, de qua venditor nondum sit pretium consecutus. in qua venditor habeat vendicationem rei venditac donec sibi de pretio fuerit satisfactum.

「中世合名会社史」英訳P.74の誤訳と思われる箇所について

ヴェーバーの「中世合名会社史」の英訳の誤訳と思われる箇所を、翻訳者のLutz Kaelber教授にメールで指摘しました。(大学の紹介ページにメアドがありました。)すぐに返事が来て「多分あなたの方が正しいと思いますが、念のため全集版の原文を確認するので1-2週間待って欲しい。」とのことでした。日本の学者だとこういう非専門家からの問い合わせを無視する人も多いですが、アメリカ(ドイツ)の学者はフェアですね。

3. Geographisches Gebiet der Kommendaverhältnisse 日本語訳(11)P.170-177

日本語訳の第11回目です。お正月休みにペースを上げようと思っていましたが、ハッキング騒ぎによるこのサイトの再構築作業などもあってなかなか進みませんでした。
なお英語訳のP.74の「Genoa」の最初の行にある、”following southern French statutes”は原文では”an welches sich die südfranzösischen Statuten anlehnen “であり、まったく逆に訳した誤訳だと思います。原文の主語は”die südfranzösischen Statuten “であり、それがジェノヴァの法規に依拠していると言っているのであり、英訳では逆にジェノヴァの法規が南仏の法規に依拠していることになってしまいます。これは一例ですが、この英訳分かりやすく訳そうとしている努力は理解しますが、ニュアンスを示す不変化詞の意味をまったく訳さなかったり、また代名詞、指示代名詞を単にそのまま英語の代名詞・指示代名詞に置き換えたりしています。後者についてはドイツ語であれば少なくとも代名詞・冠詞・指示代名詞に性と格の情報があり、それをヒントに何を指しているかを確定することが容易ですが、英語の代名詞はご承知の通り人称代名詞以外は性と格が無くなっているため、情報量がドイツ語原文より落ちてしまいます。従って日本語訳でも同じですが、単に代名詞、指示代名詞として訳すのではなく、それが指している内容を可能な限り明記すべきと思います。私は今回の日本語訳では、何を指すのかがきわめて明白な場合以外は極力そうしているつもりです。
なお、この部分は別にアップした「コムメンダのイスラム起源説」を考慮して読むと興味深いと思います。
ドイツ語の原文はここです。
また、これまで訳した分を最初からまとめてご覧になりたい方はこちらを参照願います。
これで大体全体の2割が完了です。
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3.コムメンダ関係の地理的領域

 ここにおいては、膨大な文献史料に基づいてコムメンダとソキエタス・マリスの発展の経過を個々の地域共同体(都市共同体、コミューン)において追っていくことはしない。ピサについては、第4章で特別に取り扱うこととする。というのはピサの法律は我々の研究目的に対して非常に興味深いものであるからである。-個々の国々におけるコムメンダ関係に関する文献史料についての概説は、それが我々の関心に適合する場合において、かつまたこの制度の地域的ではなく国際的な意味を俯瞰するという目的においてのみここで扱うこととする。
実際の所、コムメンダ関係は地中海周辺のあちらこちらで見出すことが出来る。

スペイン

 スペインにおいてはコムメンダ関係の法的な発展は、既に引用した西ゴート法典の引用箇所や Fuero Iuzgo《Fuero Juzgoとも表記。スペインのカスティーリャ王国で1241年にフェルディナント3世により制定された法律で、内容的には654年の西ゴート法典のスペイン語への翻訳が主で他にローマ法や教会法の影響も受けている。》において確立するが、しかしながらそこで規定されているコムメンダ関係は独自性が弱く、まずは外国人が従事している商取引 20) に適用されるものだった。本質においてジェノヴァの法律がそのままコピーされており、コムメンダや海上取引法に関心の力点は置かれておらず-それはConsolato del mareでも同じであるが-海上船舶の運航に関する法規、つまり船主と乗組員他との関係に重点が置かれている。急速に浸透したローマ法においてはそれから、既に13世紀においてそれぞれの国での法的な発展の内容をほとんど変更せず 21) そのまま吸収した。ただバルセロナ 22) においてのみ、この制度の(現地の法での)規定が生き残っていた。Siete Patridas(7つの章、の意)《スペインのカスティーリャ王国で賢王(El Sabio)と呼ばれたアルフォンソ10世(在位:1252 – 1284)によって編纂された法規集。同王は他に音楽史において「聖母マリアのカンティーガ集」の編纂でも有名。》では、やはりローマ法の規定のみしか見出せない。

20) アグラムント(カタルーニャ州の地名)の議会による1118年の Fuero de Guadalajara 《アルフォンソ7世が12世紀に定めたグアダラハーラの地方法》では、商人をただ外国人としてのみ扱っており、Consolato del mare c. 172.175はジェノヴァ法の内容を含んでいる。バルセロナにおいては、1258年の規定において完全にジェノヴァの法規定の内容を取り込んでいる。Leyes de Recopilacion《1772年のスペインの法規集成》1. VII t.X1. 3では、外国人による船舶の航行業務についての規制が有り、そういう外国人に対しては特別に大規模な貿易取引の場合にのみ(コムメンダ関係を)許可しているように見える。

21) 1258年の Costums de Valencia《バレンシアで13世紀に制定された通常の法と同様の効力を持つ慣習法の集成。》では、コムメンダの被委任者について取り決められている。マヨルカ島では1433年の法規の中では純粋なローマ法が支配的である。トルトーサにおける慣習法の集成ではエンコミエンダ (1. IX r. 23) 《8世紀から15世紀までのスペインにおけるレコンキスタというキリスト教地域復活運動の中で、征服した地域の住民の労働が功績を挙げたものに委託される制度》において修正が加えられている。

22) コムメンダ等についての法規が見出せるのは、以下の文献においての1271、1283、1304、1343年の部分においてである。Jean-Marie Pardessus《1772 – 1853、フランスの法学者。商法・海事法の専門家。》の”Collection des lois maritime”、Don Antonio de Capmany《1742 – 1813、スペイン(カタルーニャ)の政治家、歴史家、ローマ法学者、辞書編纂者。》の”Memorias historicas sobre la marina, comercio y artes de la antigua ciudad de Barcelona”(マドリッド、1779年)。

シチリア島、サルディーニャ島

 シチリア島とサルディーニャ島の諸都市においては、文献史料を見た限りにおいては、独立した大規模取引の欠如により、コムメンダの制度は発達しなかった。23)

トラーニ、アンコーナ

 トラーニ法典においては 24)、独立したコムメンダの被委託人は、まだ海上取引の商品に付き添う商人の通常の代理人の代用品としてのみ言及されている。

アマルフィ

 アマルフィにおいては、Kolonna(colonna) 25) 《colonnaについては栗田和彦著『アマルフィ海法研究試論』(関西大学出版部、2003)で詳しく研究されています。ここに情報あり。》という制度において、コムメンダにおいて発展した船に商品を積み込んで海上取引を行う場合の危険の分散と利益の分割という考え方が適用されている。しかし、それはただ小規模で原始的な沿海貿易で相対的に小規模な資本が投下される場合に使われただけである。独自の、大規模な海上取引に付属するコムメンダのような制度はそこでは独立したものとしては発展しなかったように見える。26)

 これまで述べて来た全ての地中海沿岸の領域においては、バルセロナの例外を除いては、独自の継続的な大規模海上取引が存在せず、それ故にコムメンダという制度も、またその特徴的な根本原理も、存在自体は知られていたが、イタリアの大沿岸都市においてそうであったように、独自な形で、また決疑論《あらかじめ存在する理論的なカテゴリーやモデル(後のヴェーバーの用語法では理念型{Idealtypus})に個々の事例(ラテン語でcasus、ケース)がどのように当てはめられるのかあるいはられないのかを検討する学問の技法。例えば法教義学において、個々の事件にどのような法律概念を適用出来るか検討する(例:殺人だが正当防衛なので無罪)ようなこと。》的に完全な形にまで、発展することはなかった。

23) パレルモ法典《詳細不明》の第76章からは、大規模な海上取引はただ外国人の手に委ねられていたことが結論付けられる。サルディーニャ島のサッサリ(の法典)では、外国人が内国人に委託するその時々のコムメンダについての言及が見出される。スペインと南イタリアとイタリアの島々においての全体での貧弱な文献収集からは、コムメンダという制度は知られていたが、同時にそれの独自の発展はそれらの地域では見出すことが出来ない。

24) Pardessusによればトラーニ法典の成立年代は1063年であるが、周知の通り、この成立年代に関しては疑義が投げかけられている。1397年のアンコーナ法典《詳細不明》はその内容をトラーニ法典に負っている。

25) Labandの商法雑誌第7巻に収録された”Tavola de Amalfa”(正しくは”Tabula Amalfitana”、全集版の注による。)とジルバーシュミットの”Commenda in ihrer frühesten Entwicklung”(コムメンダの最初期の発展について)を比較参照せよ。

26) 1274年の” Consuetudines civitatis Amalphiae”(アマルフィ市民慣習法)(Luigi Volpicella《詳細不明》の編集による)の第14章によれば、societas vascelli(= Colonna)に並置してソキエタス・マリスを記載している。しかしその本質的な原理の説明が欠けており、特に利益が出資分に応じて(pro rata)分けられたかということは疑わしい。ソキエタス・マリスがこの地へは外から持ち込まれたのであり、独自に発達したのではないと言うことは、事業の危険を資本家が負うという必須とみなされた特別な前提条件の記述を見ても明らかである。

ピサ

 ピサについては別途《第4章にて》考察を行う。

ヴェネツィア

 ヴェネツィアではジルバーシュミットが指摘するように10世紀において既に、collegantia という形で、入手出来る文献史料が明白に証拠立てているように、コムメンダとソキエタス・マリスの根本原理を発展させている。collegantiaの担い手が本来の企業家であるということは、コムメンダやソキエタス・マリスと同様に確からしく、それは営利目的の資本投下の一つの形態を作り出している。

27) 1081年の調停の文献史料(Archivio Veneto《1871年創刊のイタリアの史学雑誌》第6巻、P.318)を参照。そこでは、rogadia、transmissum、commendacio、collegantiaといった用語が使われている。transmissumはおそらく輸送に関する業務で船主のコムメンダに関わるものであろう。commendacioはここ以外でも多く使用されているが、供託物(Depositum)の意味であろう。colleganitaはソキエタス・マリスであり、しかしジルバーシュミットの言うようにrogadiaが一方的なコムメンダであるかどうかは疑わしい。ヴェネツィア法典の1. III c. 3では、collegantia はソキエタス・マリスの形態を内包しており、単なる一方向的なコムメンダとは違い、トラクタトールもまた資本参加するのである。rogadiaについて可能性が高いのは、固定報酬によって委任を引き受けるということであり、コムメンダの前段階と言えるだろう。roga communis《共同事業についてのコミッション、Kaeblerの英訳による》という表現がヴェネツィア法典(Promissiones maleficiiの第22章。《→全集版の注によれば、1232年のPardessusのCollection Vの第22章にある、Statut criminel de Veniceが正しく、Promissiones maleficii{虚偽の約束}という箇所は実際には存在しない。》)の中に見出されるが、なるほどそこでは communis rogam《共同事業についてのコミッション》または communis marinarium《海上取引についてのコミッション》を請け負ったものは、契約違反を犯した場合には、poena dupli(二重の罰)が課せられるという脅し文句が記載されている。Pardessusの”Collection des lois maritimes antérieures au dix-huitième siècle”(1824 – 1845、全6巻)の第5巻のP.19では communis roga を”arrhes payées au nom de la ville pour engagement sur le navire de l’état”(都市国家の名前において、都市国家の船についての契約に対して支払われた手付金)と説明している。この用語と船の航行との関連も、引用したヴェネツィア法の箇所から見て明白である。さらにヴェネツィア法の1. III c. 2を見れば(基礎的な記載追加は既に13世紀初頭に見出される)、rogadia の目的が商品の販売とされていることも明らかである。同法の1.1 c.48の箇所からは何も判断出来ない。従ってそこでの船の航行との関係も明らかではない。

28) Archivio Veneto XX《詳細不明》のP.75の1150年の例とP.76の1191年の例、さらにはP.325を参照。1403年の銀行法のv. 21. XI. によれば、collegantia はまた銀行による資本投下の手段としても使われている。

ジェノヴァ

 ジェノヴァにおいて、コムメンダやソキエタス・マリスを見出すことができる法規や文献史料の中で、それらに南仏の諸法規が依拠しているのであるが 29)、二つの制度が当然のものとして定義されていることについては、何の疑問も差し挟む余地も無く同意出来る。ジェノヴァの契約書の書式は、地中海沿岸の全ての国で、十字軍の時代 30) においてオリエントでの大規模な国際的商取引の中で、一字一句変更無しにそのまま用いられた。ジェノヴァそれ自身においても、コムメンダとソキエタス・マリスの書式は明白に海外との取引についての都市国家により定められた法書式であった。Compagna communis《1097年頃に結成された誓約共同体、自治組織であり、ジェノヴァ共和国の原型となったもの。》のメンバーでない者は、この書式を使用することが出来なかった。文献史料ではこの都市の最初の名門の家門であるドーリア(Auria)家、スピノラ家他が非常にしばしばコムメンダの委任者として登場する。同じく非常に頻繁に同じコムメンダの委任者が同時に非常に多くの異なった商品についてのソキエタス関係を結んでいる。

29) ニース(Hist. Pat. Mon. Leg. Munic.T. 1)、マルセイユ(1253年)、モンペリエ(ParadessusのCollectionに収録)。

30) アルメニアのアイアスにおけるNikolaus DensAntoniusu de Quartoの公正証書、及びArchivcs de l’Orient latin vol. 1.1. に収められた13世紀のキプロスのファマグスタにおける Lambertus de Sambuseto の公正証書を参照。地中海沿岸の全ての国が登場する。これらの文献史料はほとんど一字一句ジェノヴァの公証人であるGiovannni Scribaの書式を借りている。オリエントでの独自の表現は、ソキエタス・マリス相当語としてiatenum、von tchaten、zusammenlegen = collegantiaなどが存在する。

 これらの法規における様々な規定は、法的関心の範囲内で、ジルバーシュミットにより詳細に分析されている。それ故に、本論文ではそれらを再度細かく蒸し返すことは行わない。本質においてそれらの規定は任意法規《当事者の意思によって適用を免れることができる法規》を含んでおり、ソキエタスの成員同士の関係を規制している。しかしここでもまたそれらの規定の完全な姿は存在していない。それらの規定は、全てのイタリアの諸法規と同様に、-何が解釈において重要であるかという意味で-本質的に個々の細かい点を扱っているのであり、それらは実地においては疑義をもたらしたり、困難を引き起こすこともあったのである。そういった不完全さは、特に「一方的な労働ゲゼルシャフト」と「一方的な資本ゲゼルシャフト」(Lastigが定義した意味で)の間での経済上の意味の揺れのために、しばしば疑念を引き起こす次のような問題を生じさせる。つまり、委任された側は航海中にどの程度まで委任した側あるいはsocius stansの指示に従う必要があったのかということと、また委任された側が自らはリスクを負うこと無しに、どの程度まで予定の航路から外れることを決定する権利があったのかということ、さらには当然の懸念事項として、トラクタトールが外国で死亡した場合にその後継者をどうするか、等々の問題である。
 トラクタトールの非独立性は基本原則であり、その反対に独立性を認める場合には多くは特別事項として追加条項の中で処理され、トラクタトールが貿易のためにどこに赴くとしても(quocunque iverit)、そのトラクト-ルはソキエタス関係をそのまま維持するとされた。
 ジェノヴァの法規における規定はこれらの制度に関してはほとんど変更されることはなかった。1567年の改定においてでさえ、特記すべき変更点は無かった。ようやく1588/89年版の法規において重要な変更が加えられている。これについては後述する。 31)  当時コムメンダとソキエタス・マリスはその古い形態では商取引においてそれまで長い間保持していた重要な意義をもはや保持してなかった。商取引自体が別の方向に進み始めていたし、地中海における海上取引はもはや全世界においては上位に位置するものではなくなっていたし、その古い形態は他の形態に席を譲らざるを得なかった。もちろん他の形態といっても部分的には古い形態をベースにしていたのであるが。16世紀の判例集- Decisiones Rotae Genuensis、Rotae Lucensis、Rotae Florentinae、Rotae Romanae – においては、コムメンダとソキエタス・マリスに関する箇所では、その古い形態についてはもはや言及されていない。

31) 最終章(第7章)参照。

コムメンダはイスラム圏がオリジナル?

今、「コムメンダ関係の地理的領域」の所を訳していますが、ここでちょっと重要な指摘をしておきたいと思います。ヴェーバーはコムメンダやソキエタス・マリスがイタリアの沿岸都市において交易における必要性からある意味自然発生したように解釈しています。これは当時のドイツの歴史学派の間ではほぼ常識的な理解と思います。しかし実はイスラム圏において、砂漠での隊商貿易において、「ムダーラバ契約」(مضاربة‎)というものがあり、この内容がまさにコムメンダと同じで、しかも歴史的にはこちらの方が古いとされています。であれば、イタリアの12-13世紀にこれらの制度が自然発生したと考えるより、むしろヴェーバーも言及しているように十字軍によって自然と中東地域との接点が出来、ムダーラバ契約の考え方が入ってきてそれが採用されたと考える方が自然ではないでしょうか。(コムメンダが発達したのが、ジェノヴァとヴェネツィアであるとヴェーバーは書いていますが、この2つとも当時の中東貿易の重要な拠点でしたし、十字軍にも深く関わっています。)中世においては欧州よりイスラム圏の方が学問においても文化においても産業においても上回っていたのは今日では常識と思います。しかしヴェーバーがこの論文を書いている時代には、その当時の中東やオスマントルコの状況から、それらの地域を蔑視する傾向(サイードの言う「オリエンタリズム」)があり、過去にそれらの地域の影響で新しい法的制度が出来たというのは、盲点だったのではないかと思います。
またご承知の通り、ヴェーバーは宗教社会学において、イスラム教を研究する計画を持っていましたが、それを始める前に亡くなっています。実はイスラム教でも、利子(リーバ)を取る貸付けはカトリックと同様禁止されており(現在でも)、資産家にとって、ムダーラバ契約は戒律に触れない財産運用の仕組みとして活用されたようです。(現在でもムダーラバ契約はイスラム圏では一種の信託として主流を成しています。)
また、ヴェーバーの「経済と社会」における決疑論でも、イスラム教と同様にカトリックでも利子禁止であり、それをかいくぐる裏技とてレンテンカウフ(地代請求権売買)が行われたなどいくつかの例が挙げられており、ヴェーバーがもしムダーラバ契約を知っていたら、当然著作の中で取上げていたと思います。

参考文献:
田原一彦「日本法制下のイスラーム金融取引
Wikipedia:「ムダーラバ

サイトダウンのお詫びと再構築のお知らせ

このサイトは2020年1月1日深夜から2日早朝にかけて、ハッキングされ、このサイトにアクセスするとフィッシング詐欺サイトに飛ばされるということになっていました。
旅行中であったため、2日の午後に自宅に戻ってきてから調査し、結論として簡単には修復できないことがわかったため、全面的にサイトを削除して、再構築しました。このためサイトのデザインが微妙に変わっている可能性がありますが、ご了承願います。
なお、該当期間に転送されていたフィッシング詐欺サイトはここに記載されているものと同じです。見え見えの詐欺サイトなので、個人情報を入力されたり、クレジットカード情報を入力された方はいないとは思いますが、万一引っ掛かった場合はクレジットカードを至急停止し再発行してもらうなどの対策をしてください。
再発防止として、いくつか対策を行いましたが、完全な対策というのも存在しないため、いつかまた同じことが起きる可能性があります。その注意を喚起するためにも、この投稿を作成しています。

3. Geographisches Gebiet der Kommendaverhältnisse ドイツ語原文(11)P.170-177

ドイツ語原文の11回目です。
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3. Geographisches Gebiet der Kommendaverhältnisse.

Es ist hier nicht der Ort, auf Grund des außerordentlich reichen Materials den Entwickelungsgang der Kommcnda und societas maris in den einzelenen Kommunen zu verfolgen; hinsichtlich Pisas soll eine gesonderte Betrachtung in Kapitel IV nachgeholt werden, da das dortige Recht für unsere Zwecke ein Spezialinteresse bietet. – Eine gedrängte Übersicht des Materials über die Kommendaverhältnisse in den einzelnen Ländern aber gehört insofern hierher, als es für uns von Interesse ist, die nicht lokale, sondern internationale Bedeutung dieser Institute zur Anschauung zu bringen.
In derThat finden dieselben sich rund um das Mittelmeer.

Spanien.

In Spanien knüpft die Rechtsentwickelung an die oben cit. Stellen der lex Wisigothorum und der entsprechenden des Fuero Iuzgo an, ist aber wenig selbständig, entsprechend dem zumeist in fremden Händen liegenden Handel 20). Wesentlich wird das genuesische Recht kopiert, der Schwerpunkt des Interesses liegt nicht auf der Kommenda und nicht im Seehandelsrecht, sondern – so auch im Consolato del mare – im Seeschiffahrtsrecht, den Verhältnissen der Rheder zum Schiffer &c.
Das rapide eindringende römische Recht absorbierte dann schon im 13. Jahrhundert die nationale Rechtsentwickclung bis auf wenige Modifikationen 21). Nur in Barcelona 22) hielt sich das Institut.
Die Siete Partidas kennen auch hier nur römisches Recht.

20) Die Cortes de Agramunt v. 1118. das Fuero de Guadalajara behandeln die mercatores ohne weiteres als Ausländer, der Consolato del mare c. 172.175 enthält genuesisches Recht; in Barcelona geben Bestimmungen von 1258 völlig genuesisches Recht wieder; die Leyes de Recopilacion 1. VII t. X1. 3 haben Vorschriften gegen den Schiffahrtsbetrieb von Ausländern, in deren Händen sich speziell der Großhandel befunden zu haben scheint.

21) Die Costums de Valencia von 1258 wenden die Grundsätze des receptum an; in Mallorca herrscht in den Stat[uten] v. 1433 das reine römische Recht. Die Costums de Tortosa haben bei der Encomienda (1. IX r. 23) Modifikationen.

22) Statutarische Bestimmungen darüber finden sich aus den Jahren 1271, 1283, 1304,
1343 b. Pardessus, Collection des lois maritimes und Capmany, Memorias historicas sobre la rnarina. comercio y artes de la antigua ciudad de Barcelona. Madrid 1779.

Sicilien. Sardinien.

Die sicilianischen und sardinischen Städte haben, soviel ersichtlich, mangels selbständigen Großhandels das Institut nicht entwickelt 23)
.
Trani. Ancona.

Im Seerecht von Trani 24) werden noch die selbständigen Kommendatare nur als Surrogat der gewöhnlich mitgeschickten Faktoren des Kaufmanns erwähnt.

Amalfi.

In Amalfi finden sich in der Kolonna 25) die in der Kommenda entwickelten Gedanken zu einer Risiko- und Gewinnbeteiligung der Schiffsbesatzung verwertet, wie sie nur für einen primitiven Küstenhandel mit relativ kleinen Kapitalien anwendbar ist. Das eigentliche, dem Großhandel angehörige Institut scheint dort nicht selbständig entwickelt worden zu sein 26).

23) Aus den Stat|uten] von Palermo c. 76 kann wohl geschlossen werden, daß der Großhandel in ausländischen Händen lag. In Sassari (Sardinien) werden gelegentlich Kommenden von Ausländern an Inländer erwähnt. Die gesamte dürftige Ouellcnausbeute in Spanien. Unteritalien und den Inseln läßt zwar ersehen, daß das Institut bekannt war. zugleich aber, daß eine originale Entwickelung desselben dort nicht zu suchen ist.

24) Angeblich von 1063 (nach Pardessus), das Alter ist bekanntlich bestritten. Die Stat[uten] v. Ancona v. 1397 schließen sich an Trani an.

25) Cf. Laband zu der von ihm in der Zeitschr. für Handelsr. Bd. 7 publizierten Tavola de Amalfa und Silberschrnidt in der cit. Abh.

Die sämtlichen bisher erwähnten Küstengebiete mit Ausnahme von Barcelona haben einen eigenen, dauernden Großhandel nicht besessen und deshalb das Institut oder doch seine charakteristischen Grundsätze zwar gekannt, aber nicht originell und nicht zu der kasuistischen Vollständigkeit entwickelt, wie das in den großen italienischen Seestädten der Fall war.

26) Die Consuetudines civitatis Amalphiae (ed. Volpicella) von 1274 c. 14 stellen neben die societas vascelli (= Colonna) die soc[ietas] maris, aber ohne deren eigentümliche Grundsätze; insbesondere wird der Gewinn in dubio pro rata geteilt. Daß die soc[ietas] maris hierher importiert ist, nicht originell entwickelt, wird auch durch die von dem Statut für erforderlich erachtete besondere Motivierung dafür wahrscheinlich, daß den Kapitalisten die Gefahr der Unternehmung treffe.

Pisa.

Von diesen wird hier Pisa behufs besonderer Betrachtung (Kapitel IV) ausgeschieden.

Venedig.

Venedig hat in der collegantia, welche Silberschmidt dort schon für das 10. Jahrhundert nachweist, ganz die Grundsätze der Kommenda und societas maris entwickelt, wie die erhaltenen Urkunden 27) klar ergeben. Aus diesen geht zugleich hervor, daß auch hier der Träger der collegantia der eigentliche Unternehmer sein kann; die collegantia bildet eine Form werbender Kapitalanlage 28).

27) Auseinandersetzungsurkunde von 1081 (Archivio Veneto VI p. 318); genannt werden: rogadia, transmissum, commendacio, collegantia. Davon ist transmissum wohl ein Frachtgeschäft, vielleicht mit Schifferkommenda. commendacio ist wohl, wie sonst oft, Depositum, collegantia die societas maris, ob aber, nach Silberschmidt. rogadia die einseitige Kommenda ist. bleibt zweifelhaft. Aus I. III c. 3 der venezianischen Statuten geht hervor, daß collegantia sowohl die Form der Seesocietät umfaßt, bei welcher auch der tractator eine Einlage macht, als die bloß einseitige Kommenda. Möglicherweise ist rogadia die Übernahme einer Kommission gegen festen Entgelt, also die Vorstufe der Kommenda. Die Bezeichnung „roga communis” findet sich in den venezianischen Statuten (Promissiones maleficii c. 22). und zwar wird dort demjenigen, welcher communis rogam vel marinarium acccperit. die poena dupli angedroht für den Fall der Kontraktbrüchigkeit. Pardessus (Collect[ion] V p. 19) erklärt communis roga als „arrhes payées au nom de la ville pour engagement sur le navire de l’état“. Die Beziehung auf die Seefahrt ist auch aus der cit. Statutenstelle ersichtlich. Ferner ist aus 1. III c. 2 der venezianischen Statuten (die grundlegende Redaktion fand bekanntlich zu Anfang des 13. Jahrhunderts statt) als Zweck der rogadia Vertrieb von Waren ersichtlich. Aus 1.1 c.48 ist nichts zu ersehen. Hiernach bleibt das Verhältnis unklar.

28) Urkunden Arch[ivio] Veneto XX p. 75 von 1150, p. 76 von 1191, auch p. 325. Das Bankgesetz v. 21. XI. 1403 zeigt, daß die collegantia auch von Banken zur Kapitalanlage benutzt wurde. Cf. auch Stat[uta] navium von 1235 (Pardessus V p. 20 f.).

Genua.

Unzweifelhaft ist in der Verfassung, in welcher die Kommcnda und societas maris uns in den Statuten und Urkunden von Genua, an welches sich die südfranzösischen Statuten anlehnen 29), entgegentritt, die normale Gestaltung beider Institute zu erblicken. Die genuesischen Vertragsformulare werden wörtlich benutzt von sämtlichen Nationen des Mittelmeers in dem großen internationalen Handelsverkehr im Orient zur Zeit der Kreuzzüge 30). In Genua selbst ist die Form der Kommenda und socictas maris anscheinend die nationale Rechtsform des Fernhandels. Kein außerhalb der compagna communis Stehender darf an dieser Form teilnehmen; in den Urkunden treten die ersten Geschlechter der Stadt, die Auria und Spinulla u. a.. vorzugsweise häufig als Kommendanten auf. Sehr oft hat derselbe Kommendant sein Kapital gleichzeitig in mehreren, auf die differentesten Artikel bezüglichen societates stecken.

29) Nizza in den Hist. Pat. Mon. Leg. Munic.T. 1, Marseille von 1253 und Montpellier b. Pardessus.

30) Notariatsakten des Nikolaus Deus und des Antoninus de Quarto in Aïas in Armenien und des Lambertus de Satnbuseto in Famagusta auf Cypern aus dem 13. Jahrhundert in Arch[ivcs| de l’Orient latin vol. 1.1. Alle Nationen des Mittelmeeres sind vertreten.
Die Urkunden lehnen sich fast wörtlich an die Formulare des Giovanni Scriba in Genua an. Ein eigener orientalischer Ausdruck findet sich für die soc[ietas| maris – iatenum, von tchaten, zusammenlegen = collegantia.

Die statutarischen Bestimmungen sind von Silberschmidt ausführlich analysiert, soweit das juristische Interesse reicht; es soll daher hier nicht abermals ausführlich darauf zurückgekommen werden. Im wesentlichen enthalten sie dispositives Recht, regeln das Verhältnis unter den socii, und auch hier geben sie kein vollständiges Bild. Sie wie alle italienischen Statuten enthalten vielmehr – was für die Interpretation von Bedeutung ist – wesentlich einzelne Punkte, welche in praxi zweifelhaft geworden waren und Schwierigkeiten machten. Solche entstanden insbesondere über die gerade wegen des Schwankens der wirtschaftlichen Bedeutung zwischen „einseitiger Arbeitsgesellschaft“ und „einseitiger Kapitalgesellschaft“ (in Lastigs Sinn) oft zweifelhafte Frage, inwieweit der Kommendatar Anweisungen des Kommendanten bezw. socius stans während der Reise nachzukommen habe, wie weit er zu Abweichungen von der vorgesehenen Route ohne eigene Gefahr befugt sei, ferner naturgemäß über die Folgen des Todes des tracta- tor im Auslande und dergl.
Die Unselbständigkeit des tractator ist die Regel, das Gegenteil wird meist besonders stipuliert durch die Klausel, er solle die Societas tragen, quocunque iverit.
Die statutarischen Bestimmungen in Genua sind bezüglich dieses Instituts ungemein stabil geblieben, noch die Redaktion von 1567 enthält nennenswerte Änderungen nicht. Erst in der Statutenausgabe von 1588/9 finden sich erhebliche Differenzen, von denen noch die Rede sein wird 31). Damals hatten die Kommcnda und die societas maris in ihrer allen Form eine größere Bedeutung im Handelsverkehr längst nicht mehr; der Handel selbst hatte andere Bahnen eingeschlagen, der Seeverkehr des Mittelmeers stand nicht mehr obenan in der Welt, und seine alten Formen mußten anderen Platz machen, welche freilich zum Teil auf deren Schultern stehen.
Die Urteilssammlungen des 16. Jahrhunderts – die Decisiones Ro- tae Genuensis, Rotae Lucensis. Rotae Florentinae, Rotae Roma- nae – erwähnen der Kommenda und societas maris in ihrer alten Form nicht mehr.
n
31) Cf. letztes Kapitel.

2. Die Societas maris. 日本語訳(10) P.165 – P.169

ソキエタス・マリスの所の日本語訳です。注釈の中ですが、ついにここでは中世アラゴン語!が登場しました。さすがにそこまではカバー出来ない(アラゴン語の現在における話者の数は1万人くらいだそうです)ので、英訳本にある英訳をそのまま日本語訳しました。
今回のテーマであるソキエタス・マリスですが、先に紹介した泉谷勝美さんの「12世紀ゼノヴァの損益計算実務」の中に、ジェノヴァの公証人であったジョヴァンニ・スクリーバの公正証書の例が出てきて、あるお金持ち(委任者)と冒険心はあるがお金が無い若者(被委任者)がコムメンダでまず貿易を行いそれなりの利益を得、2回目ではその若者が1回目で儲けた利益をそのまま出資するという、まさにコムメンダがソキエタス・マリスに変わるという例が出てきます。
元のドイツ語はこちらです。
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2.ソキエタス・マリス(海のソキエタス)

 あるもう一つのゲゼルシャフトの形態、つまり一般にソキエタス・マリス(海のソキエタス)と呼ばれるものがもたらしたのは、大きな変革であった。ソキエタス・マリスでは、資本家の視点から見た場合、まず第一に一方向的なコムメンダから、双方向での出資を伴うソキエタスへと移行を果たしたのである。
 この新しい関係を公証人の下で公正証書を作成するためのジェノヴァにおける一般的な様式は以下のようなものである:

Chart.II 293 v.J. 1165: W[ilielmus Buronus] et I[do de Rica] professi fuerunt se ad invicem societatem contraxisse 200 librarum, in qua quidem duas partes W[ilielmum Buronum] et terciam I[donem] contulisse pariter confessi fuerunt. Hanc omnem societatem nominatus I[do] laboratum debet portare Bugiam et hinc ubi voluerit. In reditu utriusque capitali extracto proficuum debet per medium dividere etc.
(HPMのChart. II 293 v.J. 1165: Wilielmus BuronusとIdo de Ricaは二人が200リブラの金額の相互的ソキエタスの契約を締結したことを認める。その契約の中でWilielmus Bonorusが全体の2/3を出資し、Ido de Ricaが1/3を出資していることも了解した。このソキエタス契約に基づいた全ての商品を、Idoはその業務としてブルギアまで、さらにそこからIdoが希望する場所まで運送しなければならない。Idoが戻ってきた場合には、それぞれ自分の出資金を差し引いた後で、利益は折半されなければならない、等々。)

歴史を遡ってコムメンダの存在を証拠付ける限りにおいて、この形のソキエタスもまた証拠付けられるのである。しかしながら、ジルバーシュミットがこの形のソキエタスをより新しいものとみなしている事については賛成せざるを得ない。14)  この場合においての、ソキエタスで委任される者の位置づけは、既に論じたようにより自立した存在にならなければならなかった。その行う業務が自分自身の勘定でも行われる限りにおいて、少なくとも共同企業人となったのである。

14) 文献史料を一読すれば、ソキエタス・マリスはコムメンダと比較してみた場合、そういう風に(コムメンダとは異なったやり方で)取り決めると意図されたことが疑わしく思え、ある種の特別協定の性格を帯びているということが分かる。ソキエタス・マリスの取り決めは、しばしば貿易に持ち込んだ商品の内、ほんの一部のみをカバーしている。(Chart. II 348など多数)Consolato del mare《アラゴンのペドロ3世(1239 – 1285)によって編纂された地中海の海事法の集成、現在のアラゴン語の元になった言語で書かれている。》では、ある一人の、自身の商品に同行してそれを運搬していくソキエタスの成員の存在が、コムメンダの被委任者と同様に有効と認められることが、こうした関係の特別な正当化のために不可欠であった。その理由はそうしたソキエタスの成員が提供するより金額の大きい保証金にあった:perçó com comendataris van per lo mon mults qui en tot ço que portan ne an alguna cosa. Encora mas si aquelles comandes no eran que hom los fa, irien à onta. Encora mas si aquelles comandes se perden, ells no y en res, perço car à ells no costarà res del lur ne y perden res … è en axi lo senyor de la nau ò leny no pot ne deu esser de pijor condició que un altre comendatari.“《以上はアラゴン語の元になった言語で書かれており、日本語訳はLutz Kaelberの英訳に載っているStanley S. Jadosの”Consulate of the Sea and Related Documents”の英訳を元にしている。》(何故ならば、船の命令を承諾する者の多くは、船上において彼ら自身の個人的な貨物を所持しておらず、ただ船から許可されて持ち込んだ物のみを、世界中をその船で旅する間所持する。さらには彼らが船に対する命令権を委託されていない場合には、その存在は無に等しい。もう一つ付け加えれば、海上で貨物が紛失した場合でも彼らはその貨物に対して何らの所有権も持っていないため、失う物は何も無い。…それ故に船の所有者が、船上の他の者よりも有利に扱われるということは公平ではない。)《訳者の推定であるが、ここをもう少し意訳すると、「何故ならばコムメンダで委託された者の多くは、船上で彼ら自身が出資した商品を保持しておらず、ただ一部の被委託者が自分で買い入れた商品を少しだけ許可を得て持ち込んでおり、それを世界中をその船で旅する間所持する。さらには彼ら自身が船主ではない場合にはその存在は無に等しい。もう一つ付け加えれば、海上で貨物が損害を受けた場合でも、多くの場合それは被委託者の所有物ではないため、彼らにとっての損害は存在しない。…それ故に(被委託者が船主であっても)船主が他の船上の者より有利に扱われることは公平ではない。」》

ソキエタス・マリスの法的性格

 このソキエタス・マリスという形態の、コムメンダと対比させた上での特徴は、何よりもまず本質的には危険の共有ということである。-そして例えば利益の分割の仕方のような事ではない。コムメンダにおいては、委任される者は出資0に対して利益の1/4を得る。それに対してソキエタス・マリスでは、慣習的に 15) 総資本の内の1/3の出資に対し、残りの2/3は委任する側が出資するのであるが、その委任される者の1/3の出資の利益の1/2、つまり1/6(1/2 x 1/3)だけ出資分の配当として多くもらうのである。これは委任する側から見れば、出資分の割合である利益の2/3の内の1/4だけ(2/3 x 1/4 = 1/6)が委任される者に取られるということである。海上取引にかかった費用の分担についても、コムメンダと異なる所はまったく無かった。 16) そういった利益やコストの分担の仕方の違いではなく、ただ危険の共有のみが2つの制度の違いを生じさせているのである。旅する方のソキエタスの成員(ピサでの呼び方ではtractator{トラクタトール})の商品は、ソキウス・スタンス(socius stans、ピサでただ出資だけの成員をこう呼んだ)の商品と一緒にされて船に積み込まれ、もしある一方の商品が海上で損害(海損)を被った場合、その損害は両方に共通の損害、つまりソキエタスの財産の減少として扱われるのである。《今日の海上損害保険における「共同海損」の原理》

 商品を販売したことから得られた利益は、その商品を用意した者の利益ではなく、一種の共有財産となるのである。-ソキエタスの財産についてはもはやソキウス・スタンスの特別勘定でもなく、またトラクタトールのでもなく、ソキエタス財としてある勘定を、-ソキエタスの資本勘定とここでは名付けるが-成立させるのであり、この勘定に対して貸方に記入したり(出金したり)、借方に記入したり(入金したり)するのである。(まだ商業簿記的にではなかったが、会計上ではこの時代において既に簿記とみなすべき先例が見出されるのである。)こういった共通勘定について、どのような支出を行いあるいは収入を得るかという、特にこの勘定の利益になることについて(”venire in societatem”{ソキエタスの中に入れる}、HPMのChart. II。380、457、487、604、619、729、734,910など多数を参照)、多種多様の取り決めを証拠付ける文献史料が残されている。多くのそういった勘定は、お互いに様々に異なった精算関係を持つことが可能になる。

 このようなソキエタス・マリスの発展においては、それが新しい制度だといってもコムメンダとの根本的な違いは共通の基金の形成という点を無視すれば、おそらくはっきりと認識されることはなかった。-しかしながら何らかの形で重要な相違が存在しているということは、(共通基金の形成という明確な区別が存在する故に)Lastigによっても否定はされていなかった。まさに通常の場合コムメンダを特徴付ける要素、つまり危険が委任する者だけによって負担されるとういうやり方は、ソキエタス・マリスにおいては変更が加えられているのである。ソキエタス・マリスが通常のコムメンダである度合いが薄いほど、新たな現象として危険が委託を受ける側でも負担される場合において、法的に見ればより一層次のことが重要になる。つまり、ソキエタス・マリスにおいては最初から最後まで、もはやある一人のソキエタスの成員が自分の勘定で海上取引という業務を執り行ない、そのことによりその者が業務の責任者となり、トラクタトール(委任を受ける者)にはただその労働力を提供させるというのではなくなり、-ソキエタス・マリスにおいては参加する委任者と被委任者の双方が相手の出資に対する危険をも分担するのである。

17) Chart. II 576を参照(陸上コムメンダの場合、後記。)

経済的な意味

 経済的な意味においても二つの制度の違いは顕著である。既にコムメンダ、特に資金委託の形のコムメンダの場合において、委託を受ける者が委託する者と販売市場の間に入る存在となっていく傾向があったが、ソキエタス・マリスにおいては更に、トラクタトール自身が自己資本を海上取引に投入しており、それもとりわけ多くのソキウス・スタンスが一人のトラクタトールと投資において関係を結ぶ場合において、コムメンダとの違いは明白であった。トラクタトールの活動が次第に困難さを増していく市場との関係において重要性が増せば増すほど、それだけ経済的には一層トラクタトールが企業家として、逆にソキウス・スタンスは単なる参加者に見えてくるというのが必然の成り行きだった。その場合にはソキウス・スタンスはもはや外部の労働力を自分の事業に組み入れる者ではなくなり、自分の海上取引における役割が単なる投資家に留まることを認めるようになる。後者の自己認識は紛れもなく、トラクタトールと取り結んだ種々の契約をソキエタス・マリスへの投資、つまり特別な形に統合された信託投資とかあるいはそれに似た短期利益を目的とした投資としてみなす、となっていくのである。18)いまやソキエタス・マリスが経済的にはこのような新しい意味を持つことが可能になるか、あるいは事実上しばしばなったにも関わらず、ソキエタス・マリスはその法的な構成という意味では、新しい影響をまったく及ぼさなかった。二つの制度の間に法的な差異は存在せず、経済的に旅するソキエタスの成員(トラクタトール)の労働またはソキウス・スタンスの資本を別の他の団体の業務であるかのようにみなすことになる。この最後のケースにおいては、ソキウス・スタンスの位置付けを自分の資本を外部の者による業務による利益または損失に関連付ける者とみなすことや、またその関係を経済的に「参加」と描写することを誰ももはや正当とは思わないであろう。-そこからソキエタス・マリスの曖昧さをしばしば批判し、その曖昧さがコムメンダ関係というものをそれに「参加する」者と捉えることに起因するというLastigのソキエタス・マリスの把握の仕方には反駁せざるを得ない。コムメンダについてはまさに参加という形で機能しているとも言えるのである。19)

18) Constit[utum] legis Pisanae civitatis (Francesco Bonaini《1806 – 1874、イタリアの文献・古文書学者》編の、 Statuti inediti della città di Pisa 《https://archive.org/details/statutiineditid00tusgoog/page/n9》 Vol. II) c. 21. Stat[uten] v. Pera c. 108.を参照。これをジェノヴァ市民の誓約ゲノッセンシャフト(コミューン)であるCompagna communis《11世紀の終わりにジェノヴァの市民によって結成された自治組織で後の共和国のベースとなった。》のソキエタスにおいて誰にも帰属しないお金を受け取ることについての誓約と比較せよ。(Breve della comagna v.1157)

19) Lastigはむしろコムメンダ関係を「一方向的な労働ゲゼルシャフト」として、彼が”participatio”(参加する)と名付ける「一方向的資本ゲゼルシャフト」とははっきりと区別しようとしている。ただ委任者と被委任者の関係において存在する要素のみが、ソキエタス・マリスにおいても経済的には問題であり、それについての解答は誰が海上取引業務の「主人」であり、つまり企業家であるとみなすことが出来るかということであり、-それは可能性として二者の内のどちらでもないことがあり得、それは結局二者のどちらもが等しくそうであると言うことになる。LastigEndemann《Samuel Wilhelm Endemann、1825 – 1899、ドイツの法学者・ドイツ帝国議会議員》の”societas pecunia-opera”《”in qua alter imposuit pecuniam, alter operam”、つまりソキエタスの一方の成員はお金だけを出し、他方の成員は労働だけを提供するもの。》等の理論(Endemannの„Studien in der romanistisch-kanonistischen Wirtschafts- und Rechtslehre.“《第1巻:1874年、第2巻:1883》の中の)に対して、経済的な見地を法的な観察に混ぜ込ませているとして、効果的かつ正当に反駁しているが、しかしLastig自身もまた彼が作成した(法的な)カテゴリーの中に経済的なものも混ぜてしまっているのである。(Lastigの言う)「参加」も、法的にはとりわけ多種多様な形態を取りうるのであり、ソキエタス・マリスを対象にしない技術的・法的な意味付けが、私の知る限りの出版されている文献史料には見出すことが出来ないのである。Lastig自身も曖昧さを後に認めているが、我々は後でピサにおいて特に次のことを観察するであろう。つまりソキエタス・マリスがそれが最初に花開いた時期から既にコムメンダと異なっていたこと、そしてまた参加というモードで見た場合にも機能しており、そこ(ピサ)においてこれらの原因によって特別な、他のものには欠けている法的な定義をすることが出来るということである。「参加」はそれ自身が本来法学的ではなく経済的な概念である。