III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.218 – P.221 日本語訳 (21)

新型コロナウイルスによる緊急事態宣言で、仕事の場所もあちこち変わり、私の会社でも3日の内2日の自宅ワークが始まりました。通勤時間が浮くといっても、私の場合元々会社まで歩いて13分だったんであまりメリットが無く、それより会社がリラックスと私的生活の場である自宅に侵入して来た感じで、また会社のネットワークへの接続が悪かったりで結構フラストがたまります。
そんな中、粛々と翻訳を進めていますが、今回は初期スペイン語の引用がいくつかあって大変でした。何故か現代のスペイン語辞書には載っていないのが、現代のイタリア語の辞書には載っていたりして、なかなか面白いといえば面白いです。スペイン語は入門段階で挫折しているのですが。その内ちゃんとやってみようかと思います。
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諸法規における家族ゲマインシャフトと労働ゲマインシャフト。序説。

 こうした(信用の担保としての共通の財産の利用と個々の成員の持ち分についての責任とのせめぎあいという)問題の立て方を通じてようやく我々は文献史料に基づいた論述を開始することが出来る。これまでに既に扱ってきた文献についての論述は色々な意味で先走りしたものになっていた。というのはそういった文献史料の状態に不備が多かったため、ある一般的な根本原理を作り出し、それによってそれらの文献史料がどういった問題を扱っていたかを明らかにするという必要性があった。

 諸法規の内容について適切な評価を行なうには次のことが必須である。つまり、商業と産業の極めて大規模な発展とそれに伴う非常に多くの新規の法律制定への新たな欲求以外に、ローマ法の伝播を考慮すべきということである。ローマ法のそうした影響については、考察するにあたっては、非常に強い影響力を持っていたものとして扱わなければならない。まさにそういったローマ法の影響について、商法の歴史においては、様々な都市の諸法規がより古い時代の諸制度を自分自身に適合するようにして、確定し取り入れてきたのだという説が唱えられている。

スペイン

 ローマ法の流入がどのように行なわれて来たかということについては、確かにごくわずかのスペインの文献史料が明白な証拠を提供してくれている。

 より古い時代の複数の地方の条例からは次の事が明らかになる。つまり、元々家族ゲマインシャフトからの帰結である連帯責任というものは、スペインにおける諸法規では既に良く知られていたということが。

 1142年のダロカ《スペインのアラゴン州サラゴサ県にある都市》法は次のことを前提としている。つまり父親はその息子の債務については疑わしき場合(in dubio)には責任を持つ 38a)ということを。この前提と共同相続人の間の相互の連帯責任については、実際の所当たり前のことと見なされており、間接的な表現では同時代の他の 39) 文献史料にも登場する。

38 a)この場合、父親の裁量に委ねられている。(Muñoz《Tomas Muñoz y Romero、1814~1867年、スペインの歴史家 》、 Colleccion de fueros municipales、マドリッド、1847年):
Si quis habuerit filium prodigum vel lusorem … desafillet illum si voluerit in consilio et si non receperit illum postea non respondeat pro illo. (もし誰かが浪費家である息子や放埒な息子を持った場合、…その息子を追放とさせよ、もしその父親が相談の上でそれを望んだとしたら、そしてもしその息子を後で貰い受けなかった場合には、その父親はその息子については責任を持たない。)―Desafillareという単語はつまり=家ゲマインシャフトから追放する、という意味である。(Muñozの本のP.534)

39)メディナセリ《スペインのカスティーリャ・イ・レオン州ソリア県の都市》の法(MuñozのP.435)においては12世紀の初めから(一説によれば既に武人王{el Batallador}アルフォンソ1世《1073年または1074年~ 1134年、アラゴン王およびナバラ王、在位:1104~1134年》の時代から)(特定の場合においては)免責とすることを必要と見なしている明白な規定が存在した。同様にアルフォンソ7世が1118年にトレドに与えた特権においては、逃亡者(fugitive)が元々権利を持っていたその母親の財産に関しての、妻と子供達の責任を特別に免除していた。同様の規定が1144年のペラルタ《スペインのナバラ州の都市》の法(MuñozのP.546)にも登場していた。1250年のカスティーリャの旧法は1359年に古い法素材(皇帝中の皇帝{el Emperador}と称されたアルフォンソ7世の時代から、またCortes von Najera《ナヘラ、スペインのラ・リオハ州の都市》などから)から改定されたものであるが、相続債務についての共同相続人の連帯責任について明確に述べている:(Fuero viejode Castillaの)l. V t. III:
 Todo ome o muger que muer, dejan fijos que reden lo suo de 5 sueldos en ariba, e deve el muerto debda manifiesta a otro ome, aquel a quien deve la debda, puede prendar los fijos e coger la debda si fallara en que e aquel fijo que pagara la debda puede mandar a los otros riedes que lo ayuden a pechar aquella debda quel pagò por suo padre, pues eredaron suos bienes tambien como el.(全ての男性または女性で死亡して、残された子供達がどちらからか5 sueldos以上を相続する場合、そして死んだどちらかが別の男からかなりの額の借金を負っている場合、その借金の貸主はその子供達を質に取ることが出来、もしその貸主が子供達の財産の中で支払いに充てられるものを発見した場合には、そこから貸金を回収することが出来る。そして死んだ父親または母親の借金を支払ったある一人の子供は、その父親の代りに借金を返すことについて他の相続人にも相応の負担を求めることが出来る。というのもそれらの他の相続人もまた、その子と同じく亡くなった者の財産を相続したのであるから。)

 またSanta Chritine《スペインのカタルーニャ州東部の町》の1212年 40)の法においても、共同相続人はイタリアでの諸法規と同様に、カスティーリャの法によって連帯して構成員(socii)として責任を持つ 41)べきであることが規定されている。

40)Muñozによる。

41)注39を参照。

 しかしこういった様々な条文は、ローマ法が侵入して来たことにより完全に取り除かれることとなった。

 既に1250年のCortes de Valenciaにおいては父親の息子に対する責任はその父親の同意に基づくとされている。アルフォンソ9世《1171~1230年、1188~1230年のレオン王》の巨大な立法の集成、つまりSiete Partidas《アルフォンソ10世の時にまとめられた7部からなる巨大なカスティーリャの法集成》は1256年から1265年の間で改定されているが、しかしながらローマ法を純粋な形でスペインに輸入しようと試みている。(例えば)Senatus consultum Macedonianum(Part. V 1,6)《紀元47年頃ウェスパシアヌス皇帝の時の法規で、父親から独立する前の子供が借金することを禁じたもの》、peculium castrense《兵士が軍務において得た財産》等の概念. (前掲書の2.)、actio exercitoriaとactio institoria《前者は債権者がある船長と契約した債権について、その船長を飛び越えて直接船主や船の借主に対して働きかけが出来る権利、後者は債権者がある店のマネージャーと契約した債権について直接に店の持ち主に働きかけが出来る権利》 (P. V 22, 8で規定)、その中ではそういったケースでの責任義務に制限が加えられている。Societas omnium bonorum《ソキエタスの全ての財産が現在及び未来において成員間で共有されるもの》(学説彙纂でのsocietas leonia《ライオンのソキエタス、イソップ寓話の「獅子の分け前」でライオンが狩りの獲物の分配の大半を取ってしまう話に基づくもので、そこから特定のソキエタスの成員がソキエタスのほとんどの利益を独占することを言う》に関する全ての定義や、特定の成員の立替金の勘定なども含めて)を含めた全てのローマ法でのソキエタス関係の法、これらの全てが次の規定に影響を与えている:compania que fazen los mercaders y los otros omes para poder gañar algo mas de ligaro ayuntado ssu aver en uno“ (ソキエタスで商人達と他の者達が共同で更に幾許かのお金を稼ぐために彼らの財産を一つにして投資するもの)(P. V t. X)Nueva Recopilation de Leyes《1567年編纂のスペイン大法典》では、次に(L. V t. XIII l. 1)特別な協定という観点から、各ソキエタスの成員は連帯責任ではなく、出資分に応じて責任を持つと言うことをまた特別に強調している。他のどこでもなくまさにここにおいて、ローマ法は実質的に使い回されている。これより以降の法的な文献史料はより古い時代の法的見解の残滓をごくわずかしか留めていない。

42)バルセロナではソキエタスの他の成員への法律上の(連帯)責任は後の時代にはもはや忘れられていた。それはMarquilles《James Marquilles、1368年または1370年~1451年または1455年、カタルーニャの法律家》による注釈(1491年出版の”De usaticis barchinonensibus”)において封建法関係についての特別な例外(P.337)的な事例として強調されて示されているのに見られる通りである。マヨルカ島の法規については、例えば”emancipatio in fraudem creditorum “(1413年のOrdinac de Mallorcaの新版)(債権者を欺くような債務者である息子の父親からの独立)の禁止のみが、わずかにその名残として考慮に入れられている。トルトサ慣習法(Oliver《Bienvenido Oliver、1836~1912年、スペインの法律家・歴史学者》による”El derecho de Cataluña”)のいくつかの部分は古い時代の法律の発展的解消を独特の方法で行なっている。それらの部分はソキエタスについてローマ法おソキエタスの法的テンプレートの内ごくわずかな条文だけを採用しており、特徴的と言えるのはただ資本から(extractis capitalibus)得られた利益が、出資金額の比率で分けられるのではなく、”mig par mig”つまり単純な頭数で割った金額で分けられねばならなかったということである。しかしながら、相続ゲマインシャフトについては、それらの部分は極めて風変わりな規定を採用している。つまり遺産分割の訴えは相続の事由が発生してから30年後に時効になるという規定である:I. II、第13章15節:”de XXX ans avant los uns no poden forçar los altros que venguen daquela cosa a parcio …”({事由が発生した日から}30年目のその日以降は甲は乙の遺産を分割するという権利を主張することは出来ない…)-ここにおいてより古い時代の理解が難しい人間関係にローマ法の法的テンプレートが適用されている。兄弟間の相続ゲマインシャフトにおける「兄弟の間での」(per frayresca)(l. VI r. II c. I)遺産分割のやり方は何かの意図による、遺産相続のコミュニティーについてのより古い時代の独特な基本原理の残滓である。さらに新しい時代の地方法においては、より手工業者間での自警団(警察)組織に関する内容が多くなっている。(ブルゴス《スペインのカスティーリャ・イ・レオン州のブルゴス県の県都》の法規がそうであったし、サラマンカ《同州のサラマンカ県の県都》の法もである。)スペインの地ではそれから、非常に明らかなことながら、(新たな)ソキエタス法の形成について独自な貢献はもはやされることが無くなっていた。Gonzola Suarez de Paz《詳細不詳》の”Praxis ecclesiastica et secularis” (1613年にフランクフルトで出版)は、訴訟の様式としては概してただ成員(ゲノッセン)間のactio pro socio《ソキエタスのある成員の他の成員に対する法的行動、訴訟など》だけを扱っていたし、それももっぱらイタリアの諸都市の法規を思い起こされるという意味においてのみ、告訴は仲裁(contadores)という名前の和解に至って結着している。これについては後述のフィレンツェに関する論考を参照せよ。

III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.218 – P.221 ドイツ語原文 (21)

ドイツ語原文の第21回目です。
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Die Familien- und Arbeitsgemeinschaften in den Statuten.
Vorbemerkungen.

 Mit dieser Fragestellung gelangen wir endlich zur quellenmäßigen Darstellung. Derselben ist im vorstehenden vielfach vorgegriffen worden, weil der lückenhafte Zustand der Quellen es erforderlich machte, eine allgemeine Grundlage zu schaffen, damit ersichtlich sei, auf welche Fragen es wesentlich ankommt.

 Zur Würdigung des Inhalts der Statuten ist erforderlich, außer dem enormen Aufschwung des Handels und der Industrie mit zahlreichen neuen Bedürfnissen de lege ferenda das Umsichgreifen des römischen Rechts zu berücksichtigen. Der letztere Einfluß muß als ein sehr starker gedacht werden; gerade ihm gegenüber suchte das Handelsrecht die älteren, ihm konvenierenden Institute durch statutarische Fixierung zu behaupten.

Spanien.

 Für die Art des Eindringens des römischen Rechts liefern die allerdings spärlichen spanischen Quellen den deutlichsten Beweis.

 Aus den älteren Ortsstatuten ergibt sich, daß ursprünglich der Gedanke der aus der Familiengemeinschaft folgenden solidarischen Haftung dem spanischen Recht bekannt war.

 Das fuero de Daroca von 1142 setzt voraus, daß der Vater für die Schulden seines Sohnes in dubio haftet 38a); daß dies und die Solidarhaftung von Miterben füreinander in der Tat als Regel angesehen wurde, ergeben indirekt andere 39) gleichalterige Quellen.

38a) Es stellt dem Vater anheim (Muñoz, Colleccion de fueros municipales, Madrid 1847): Si quis habuerit filium prodigum vel lusorem … desafillet illum si voluerit in consilio et si non receperit illum postea non respondeat pro illo. — Desafillare ist also = ausstoßen aus der Hausgemeinschaft (S.534 bei Muñoz).

39) Die fueros de Medinacoeli (bei Muñoz S.435), wohl aus dem Anfang des 12. Jahrh. (angeblich schon von Alfons I. Batallador) halten ausdrückliche Bestimmung der Nichthaftung für nötig, ebenso schließt das Privileg Alfons VII. für Toledo von 1118 die Haftung der Frau und Kinder hinsichtlich des Mutterguts der fugitivi besonders aus. Ähnliches geht aus dem Fuero von Peralta von 1144 (S.546 bei Muñoz) hervor. Das Fuero Viejo de Castiella von 1250, neu redigiert 1395 aus altem Rechtsstoff (aus der Zeit des „Emperador“ Alfons VII., der Cortes von Najera usw.), spricht die solidarische Haftung der Miterben für Nachlaßschulden ausdrücklich aus: l. V t. III:
 Todo ome o muger que muer, dejan fijos que reden lo suo de 5 sueldos en ariba, e deve el muerto debda manifiesta a otro ome, aquel a quien deve la debda, puede prendar los fijos e coger la debda si fallara en que e aquel fijo que pagara la debda puede mandar a los otros riedes que lo ayuden a pechar aquella debda quel pagò por suo padre, pues eredaron suos bienes tambien como el.

 Noch das fuero de Sta Cristina von 1212 40) bezeichnet die Miterben, welche nach kastilischem Recht solidarisch haften 41), ebenso wie die italienischen Statuten, als socii.

40) Bei Muñoz.

41) Vgl. Note 1 hierselbst.

 Diese Ansätze wurden durch den Einbruch des römischen Rechts vollkommen beseitigt.

 Schon die Cortes des Valencia von 1250 machen die Haftung des Vaters für den Sohn von seinem Konsens abhängig. Das große Gesetzgebungswerk Alfons’ IX. aber, die Siete Partidas, redigiert zwischen 1256 und 1265, machte den Versuch, das römische Recht unverfälscht nach Spanien zu importieren. Es wird übernommen: das Senatus consultum Macedonianum (Part. V 1, 6), der Begriff des peculium castrense usw. (2 eod.), die actio exercitoria, institoria, quod jussu (P. V 22, 8), indem die Haftpflicht auf diese Fälle beschränkt wird, das ganze römische Sozietätsrecht inkl. der societas omnium bonorum (mit allen Definitionen der Pandekten über societas leonina, Anrechnung der Auslagen des socius), alles dies ausdrücklich erstreckt auf die „compania que fazen los mercaders y los otros omes para poder gañar algo mas de ligaro ayuntado ssu aver en uno“ (P. V t. X). Die Leyes de Recopilacion betonen dann (L. V t. XIII l. 1) noch besonders, daß, abgesehen von besonderer Abmachung, nicht solidarisch, sondern pro rata, gehaftet werde. Mehr fast als irgendwo anders hat hier das römische Recht wirklich durchgegriffen; die späteren Rechtsquellen enthalten nur dürftige Reste 42) der älteren Auffassung.

42) In Barcelona ist die Haftung für andere ex lege später nicht bekannt, wie die im Kommentar des Marquilles De usaticis barchinonensibus (gedruckt 1491) für Lehnrechtsverhältnisse als Besonderheit hervorgehobene Ausnahme (S.337) zeigt. Für Mallorca kommt nur etwa das Verbot der emancipatio in fraudem creditorum (Ordinac. novae v. 1413) als Reminiszenz in Betracht.
 Einige Partien der Costums de Tortosa (b. Oliver, El derecho de Cataluña) zeigen die Durchbrechung des alten Rechts in wunderlicher Weise. Über die Sozietät enthalten sie nur dürftige Sätze römischer Schablone, eine Besonderheit nur insofern, als der Gewinn extractis capitalibus nicht pro rata der Einlage, sondern „mig par mig“, nach Köpfen geteilt werden soll. Bezüglich der Erbengemeinschaft aber zeigt doch wohl die höchst wunderliche Bestimmung, daß die Erbteilungsklage nach 30 Jahren verjährt und dann ein Zwang zur Teilung nicht mehr möglich sein solle: — l. II, rubr. XIII, c. XV: „de XXX ans avant los uns no poden forçar los altros que venguen daquela cosa a parcio …“ —, daß hier auf ältere unverstandene Verhältnisse römische Formulare angewendet worden sind. Die Teilung „per frayresca“ (l. VI r. II c. I) bei der Erbgemeinschaft der Brüder ist wohl in irgendeiner Hinsicht eine Reminiszenz älterer eigenartiger Grundsätze über Erbkommunionen. Die späteren Lokalstatuten haben mehr handwerkspolizeilichen Inhalt (so die Stat. v. Burgos, das fuero de Salamanca). Auf spanischem Boden ist alsdann, soviel ersichtlich, für die Ausbildung des Sozietätsrechtes ein originaler Beitrag nicht mehr geleistet worden. Die Praxis ecclesiastica et secularis des Gonzola Suarez de Paz (Ausg. Frankfurt 1613) kennt als Klageformular überhaupt nur die actio pro socio unter den Genossen, diese nur insoweit an italienisches Recht erinnernd, als das petitum auf Benennung von arbitri (contadores) zur Auseinandersetzung geht. Vgl. dazu unten bei Florenz.

III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.213 – P.218 日本語訳 (20)

日本語訳の第20回目です。かなり議論の中心点に入ってきていて、合名会社や合資会社における「無限責任」「有限責任」という考え方のせめぎ合いが、家ゲマインシャフトの「共通財産」との関係でどのように成立してきたのか、という話になります。
余談ですが、私はこの日本語訳において、なるべく原文に忠実な順番を守ろうとしています。何かというと、Es ist sicher, daß …というドイツ語文の通常の日本語訳は、「~ということは確実である。」となり、最初に来ている”Es ist sicher”の部分が最後に訳されています。これは日本語としてはまったく自然ですが、問題となるのはdaß以下が非常に長くなる場合で、ヴェーバーの文章はほとんどそうですが、ネイティブは最初に”Es ist sicher”を読んで、ヴェーバーが結論としていることをあらかじめ分った上で以下の文を読んでいけます。これに対して「確実である。」を最後に訳すと、日本語の読者にとっては、ヴェーバーの結論が何なのか最後まで読まないと確定しない、ということになります。これは読解の上でもまた私にとって翻訳作業においても、あまりよろしくないと考え、「次のことは確実である。つまり~」といった訳にしています。この訳し方だとやたらと「つまり」が出てきて却って読みにくいというご批判もあるかと思いますが、今の所最後までこの方針で行ってみるつもりです。
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2.構成員の個人責任

 (個人の成員の債務に対する強制執行がその成員の所属する家の総体に及ぶという)こうした考え方は、また共通の財産それ自身の責任(債務)でもあったし、そしてそれぞれの構成員のお互いに共通財産における自分の持ち分に対してだけの責任(債務)でもあった。しかしそれはある一人の成員の債務が他の成員にも連帯保証人として及ぶという直接的な関係にまでは至っていなかった。

 (共通の財産への責任とそれぞれの成員の共通の財産の中の持ち分についての責任との)この二つの違いについては、ベルガモのStatuti del paratico e foro della Università de’ mercatanti(1479年校訂、中身はもっと以前に記述されたもの、1780年版)の中に明確に規定されているのを見出すことが出来る: c. 92: … quod patres et filii masculi … et fratres stantes ad unum panem et vinum … talium fugitivorum teneantur et obligati sint creditoribus in solidum et contra eos procedi possit … realiter tantum … sed si intromiserint se de negociatione, tunc … teneantur sicut eorum ascendentes pp.
(父親とその男の子供達…そして一かけらのパンと一本のワインを共にする兄弟達であるということ…そのような逃亡者達については、責任を負わされ、債権者に対して全体で義務を負わされ、債権者に対して訴えを起こすことも可能であり…そしてただ実際には…しかしもし彼らがある業務に従事するならば、その場合…彼らは彼らの年長者と同様に責任をおわされる、等々。)
つまり:あるゲマインシャフトの成員の債務はそれ自体として債権者に対して他の成員にもその債務を負わせるでのはなく、ただ「実際上は」共通の財産に対してその債務が課されるのである。

 我々にとってここでまた問題なのはそういった債務が個人の責任になるかどうかということである。氏族の構成員の責任は次のようなものであり、またまさにそのようなものとして後に(この論考で)示される。つまり、それは家を共にする仲間(ゲノッセン)の責任であり、更に後の合名会社のそのもっとも初期の形成においては、常に合名会社の社員(socii)の責任だったのである。

 そのことはしかしながら、このような個人的な責任を(他の)構成員との関係において直ちにゲマインシャフトの財産に基礎付けることを認容するのでは決して無い。とりわけSohm《Gotthold Julius Rudolf Sohm、1841~1917年、ドイツの法学者・神学者・協会史家》がつい最近 32)《1888年12月22日》出版したばかりの論考《Die deutsche Genossenschaft》において、これらのゲマインシャフトをその基礎としている合手の原理《合有という形の共同所有で、各成員はその持ち分を自由に処分出来ず、利益も損失も共同で分かち合い、その共有団体が解消される場合にのみ各成員にその持ち分が分配されうような共有の形》から構成員の「債務ゲマインシャフト」という概念を、経営ゲマインシャフトへの相関概念として導き出す場合には、この箇所における合手概念の利用については経営ゲマインシャフトと対抗するような試みをすべきではないと考える 33)。そこにおいては(Sohmは)まず第一に論理的にはしかしながら次のことを仮定しているかのように見える。つまり、債務ゲマインシャフトが、丁度経営ゲマインシャフトと同様に、共有であった財産と同時に(共有財産が成立した)その後に共有になった財産にまでも及ぶということである。しかしながら連帯責任というものはそういったもの(債務ゲマインシャフト)よりも根本的に更に上位のものなのである。更にSohmが合手制における構成員に「構成員としてその者に帰属する管理権」を行使させるとする場合には、そのことは我々の例に適用すれば、後代のそして今日の合名会社においての共有の財産に対しての負債ということを解明するのに利用可能である。しかしそれにもかかわらず、これから試みる説明は正当であり、そこでは「業務上」締結された契約に対する責任への制限が、なるほど物事の本質における必要不可欠な、しかしようやく歴史的に発展して来た古き時代の無制限の責任への制限を意味するということである。とするならば、これらのより古い時代の法の状態についてのそういった定式化が可能かどうかと言う検討は、後の時代における歴史的根本原理を考慮していないと考えられる。(その際に不法行為についての責任はどこへ行ってしまったのか?)そういった(債務ゲマインシャフトのような)定式化は全くのところ個人における連帯責任が問題にされる限りにおいては、次のような考え方と相容れない。つまりある「管理する」権利についての論理的な帰結としてはただ、管理された財産についてのみ成立し得る 34)という考え方である。次のことには留意すべきである。つまり家計ゲマインシャフトにおいては、たまたま成立していた共通の財産も、またその家計ゲマインシャフトと共に古い時代から結成されていた労働ゲマインシャフトも、共通の業務を一緒に執り行う 35)ゲマインシャフトでは無かったのであり、標準的であったのは実際の所「個々の権利に基づくような」と言うべき関係だったのであり、そしてそういった契機は後の時代における今日の合名会社の形成に至るものとして再び見出されるのであり、本質的に合資会社に対置されるものを形成するのである。

32)Die deutsche Genossenschaft, “die Festgabe für Windscheid“から。《Bernhard Windscheid、1817~1892年、ドイツの法学者でドイツ民法典の起草者の一人》

33)最終章(第6章)を参照せよ。

34)SohmのP.30を参照:「これらの(他の)成員の財産の持ち分も処分出来るという権利。」

35)このことは同時代の法学文献における見解でもあった。BaldusのConsilia III. 451.

家の構成員の責任の源泉と発展

 家の構成員(ゲノッセン)の個人的な責任は今や文献史料においては多かれ少なかれ犯罪に関連した破産の事例と結び付くようになる。次のことについては除外されるのではないし、また―何かよりはっきりした事は肯定的な面でも否定的な面でも述べることは出来ない―それはつまり次の事に関してのわずかな蓋然性を語っているということであり、それは相互に姻戚関係にあった頃の記憶は法形成に影響を与えたのであり、またそういった法形成を容易にもしたと言う事である。しかしそれはまたそれ以上のものでも無い。(法形成の)発展それ自身は疑いも無く氏族的な考え方の外側で成就したのであり、そしてなるほど、姻戚関係という契機がもはや統一されたものでは無くなって初めてある役割をようやく演じたのである。ある特定の考え方は「他の物から現れ出た」のではなく、他の物を置き換えたのである。氏族社会的なゲノッセンシャフトの位置におけるゲマインデ関係(地域的な共同体)におけるように、近隣関係を基礎とする地方における耕地ゲマインシャフトというものが登場して来たのであり、そうした耕地ゲマインシャフトというものは、植民の場合においてはおそらく規則的に近隣関係と一つのものであったのであり、それ故にここにおいて家族の位置していた場所に、業務を主とする暮らしにとってもっとも重要な財産法的な特性、つまり共通の家計と業務ゲマインシャフトが登場してきたのである。より新しい原則が古いものから発展したのだということは、証明することが出来ないし、変化した部分について適切にその特徴を述べることも難しい。Vicus(古代ローマでの村)はおそらく決して氏族関係による構成員(ゲノッセン)だけを包含していたのではないし、共通の家計は確かに氏族関係に先行するただ一つの関係では決して無かった。そこでは確定されたある土地への定住と農業経済のやり方が、このやり方という点ではゲマインシャフトでの業務を主とする暮らしが諸都市において自らをはっきりと形作ったように、異なったかつ新しい原則が、その原則はその本質においては古い原則から原理的に差別化を図ったのであるが、古い原則を置き換えたのである 36)。

36)Lastigにおけるこの関係の形成の説明は、私には全くもって受入れ難いように思われる。

 さて家の仲間(ゲノッセン)の責任というものがより古い法においては原則的に無制限であったということが、一般的に諸都市の法規における法の発展の方向を常にそういう責任を制限する方向にするという結果に導いた。法においてそういう制限が設けられているということは、そのような制限が実際に家の仲間(ゲノッセン)同士の関係においても存在したということである。古き時代におけるある仲間(ゲノッセン)の他の仲間(ゲノッセン)に対する完全な責任は、原始的な商取引や信用関係においても疑うべきもなく存在していた。当時において、後の時代に先行して現れて来ていた個々の成員を拘束するということは、同じように自明なこととして、それぞれの成員が家共同体の共通の勘定について責任を持つということになった。それは今日において家長である父親が、家のメンバーが使った小売人や手工業者に対する代金を、ぶつぶつ言いながらあるいは黙って仕方なく支払うようなものである。そうした生き方の帰結としての共通の成功や破滅ということは、ある一人の成員の契約(の責任)が他にも及ぶということである 37)。

37) Constitum Usus Pisene civitatisは家ゲマインシャフトを次のように定義している:”si de communi in una domo vixerint et contractus et similia communiter fecerint, sive absentes sive praesentes, sive uno absente, altero praesente etc.” (もし彼らが一緒に一つの家に住んで契約及び同様の協定を取り交わした場合、またはある者が不在である者が居た場合、または一人が不在で他の者は居る場合、等々。)

 より古い時代の法に対する意識において、原理的に異なっている二つの考え方、つまり共通の財産それ自身の責任と、全ての構成員(ゲノッセン)の責任とを常に区別すること 38)は困難であると認めざるを得ない。この二つの区別は、財産ゲマインシャフトが本質において完全なものである限りにおいては重要性が低かった。これに対して―構成員(socii)の間よりもむしろ外部に対する関係において―次のような困難が生じてくるのが不可避だった。つまり、信用の意義が増大して来た時に個々の成員が債務によって拘束されることは、次のような性格を持つことになり、つまり当該の成員に債務について責任を取らせることは、もっぱら共通の家計という原則においてはしばしば不当なものと見なされるようになったということである。他方においては、当該のゲマインシャフトを業務を中心とする暮らしの中で信用の担保として使えるようにするために、まさにそのゲマインシャフトが無条件の責任を持つという形で対応したのである。こういった信用の担保としての利用は、また個々の成員の持ち分全額までへの責任の限定という場合において―それは普通当然と見なされる考え方であるが―放棄されることになったかもしれない。信用の担保として利用することの方が利害の上でより重要であった場合には、(無制限の)責任ははっきりと確立される必要があった。法の発展において、このような立法上の問題点は一体どのように解決されたのであろうか?

38)この点についての法学上の解釈が存在していた限りにおいては、後者(全ての構成員の責任)が全社(共通の財産についての責任)からの法学的な帰結として考察されている、例えばBaldusのConsilia V 125: ソキエタスの構成員(socii)は拘束される、何故ならcorpus societatis(ソキエタスの体)、つまりゲゼルシャフトの財産が拘束されるからである。

「合手」について

「中世合名会社史」の今訳している所で、「合手」という概念が出てきます。この言葉は一般にはあまり知られていないと思いますので、私なりに調べたことをお知らせします。
ドイツ民法に、共同所有の概念として共有(Miteigentum)、合有(Eigentum zur gesamten Hand)、総有(Gesamteigentum)の3種類があります。(ドイツ民法をベースに作られた日本の民法では、3つの概念の明確な区別の規定はありませんが、一部の「共有」の表現が同様の概念を包含しているとされています。)

「共有」はローマ法に由来するもので、今日でも一般的な共同所有の形態で、
(1)各共有者が自分の持ち分を自由に処分する権利を保持する。
(2)各共有者が共有物についてそれぞれの持分に応じた分割請求の自由を持つ。
というのが特徴です。

これにたいし、「合有」は、ここに「合手」(Gesamthand)が出て来ます。共有がローマ法に由来するのに対し、合有はゲルマン法に由来するものであるという説が、19世紀のギールケなどの歴史学派のゲルマニステンにより主張されました。そうした歴史的な起源にもかかわらず、今日でも組合、夫婦財産共同制、共同相続関係の場合に使われている概念です。特徴は、共有される物が、全体が各人に帰属しているのと同時に、残りの「合手者」全員に帰属していて各人の持分が明確になっていないことです。構成員の共同関係が存続している間は、各構成員は個別に自分の持分に相当するであろう分を自由に処分することは出来ません。共同関係を解消する際に初めて潜在的に存在していた「持分」が決定されて各自に配分され、それぞれでの自由な処分が可能になります。「合手=手を合わせる」という概念は、本来はドイツの封建制度において、ある亡くなった封臣が持っていた領地を、その封臣の息子達が領主の下にその領地を共同で相続することを認めてもらうために訪れた場合、領主は再授封の儀式としてその息子達がお互いの手を重ねているのを自分の両手で包むようにします。(両手を差し出すのは武器を持つ手を領主に委ねるという意味です。)

(一緒になった手=Gesamthand、左の絵はザクセンシュピーゲルの挿絵に登場する合手のシーン。)これによって、封臣の息子達は死んだ父親に代わってその領主に忠誠を誓い、領主はその忠誠の代償に改めて息子達に土地を与えます。(左の絵では、領主から土地を再度与えてもらった息子達はその従僕にも更に合手で土地を配分しています。)

最後の「総有」は、各構成員は共有物に対して利用・収益権だけを持ち、管理権は代表者のみが行使するという形態で、各構成員の持分請求はありません。 いわゆる山林などの入会権や、ドイツ民法54条における権利能力なき社団(登記がまだ行われていない会社など)がこれに該当します。

参考文献
ハインリッヒ・ミッタイス、世良晃志郎・広中俊雄 訳、創文社、1961年、「ドイツ私法概説」P.165他
高津 春久、「封建時代の主君と家臣の付き合い方 : 『レーエン法訴訟法書』が教えるもの」、ドイツ文學研究 (1995)、 40: 1-35

III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.213 – P.218 ドイツ語原文 (20)

ドイツ語原文の第20回目です。
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2. Persönliche Haftung der Genossen.

 Dies ist also Haftung des gemeinsamen Vermögens und Haftung der Genossen mit ihrem Anteil an demselben füreinander, noch nicht direkte Beziehung der Schuld eines Genossen auf den andern als Selbstschuldner.

 Den Unterschied beider finden wir deutlich erkannt in den Statuti del paratico e foro della Università de’ mercatanti von Bergamo (revid. 1479, der Inhalt ist älter, Ausg. v. 1780):
c. 92: … quod patres et filii masculi … et fratres stantes ad unum panem et vinum … talium fugitivorum teneantur et obligati sint creditoribus in solidum et contra eos procedi possit … realiter tantum … sed si intromiserint se de negociatione, tunc … teneantur sicut eorum ascendentes pp.

Also: die Schuld eines Genossen an und für sich macht die anderen noch nicht zu Schuldnern, sondern belastet nur — „realiter“ — das gemeinsame Vermögen.

 Es kommt uns aber gerade auch auf die persönliche Haftung an. Die Haftung der Sippschaftsgenossen war eine solche, und ebenso wird sich zeigen, daß es die Haftung der Hausgenossen und später der socii der offenen Gesellschaft auch in ihren frühesten Gestaltungen stets gewesen ist.

 Es ist keineswegs ohne weiteres zulässig, auch diese persönliche Haftung auf die Beziehung der Genossen zu dem gemeinschaftlichen Vermögen juristisch zu fundieren; wenn insbesondere Sohm in der soeben erscheinenden Abhandlung 32) aus dem Prinzip der gesamten Hand, welches diesen Gemeinschaften zugrunde liege, die „Schuldengemeinschaft“ der Genossen, als Korrelat der Erwerbsgemeinschaft, ableitet, so soll der Verwertung des Gesamthandsbegriffs an dieser Stelle nicht entgegenzutreten versucht werden 33), indessen würde zunächst logisch doch zu postulieren sein, daß diese Schuldengemeinschaft sich eben auch nur so weit erstrecke, wie die Erwerbsgemeinschaft, d.h. eben auf das Vermögen, welches gemeinsam war und gemeinsam wurde. Darüber aber geht die Solidarhaftung gerade grundsätzlich hinaus. Wenn ferner Sohm das Mitglied der Gesamthand in Ausübung eines ihm, als Mitglied, zuständigen Verwaltungsrechts [“] handeln läßt, so ist dies, auf unsere Fälle angewendet, für die Erklärung der Belastung des gemeinsamen Vermögens in späterer Zeit und bei der heutigen offenen Handelsgesellschaft wohl verwertbar; ist indessen die im folgenden versuchte Darstellung richtig, wonach die Beschränkung der Haftung auf die „für das Geschäft“ geschlossenen Kontrakte eine zwar im Wesen der Sache liegende notwendige, aber doch erst historisch entwickelte Einschränkung der alten unbedingten Haftung bedeutet, so ist die Anwendbarkeit jener Formulierung für diesen älteren Rechtszustand, die historische Grundlage des späteren, nicht unbedenklich (wo bleibt dabei die Haftung für Delikte?). Vollends ist sie, soweit die persönliche Solidarhaftung in Frage kommt, zu beanstanden: aus einem „Verwaltungs“-Recht können Konsequenzen logisch doch nur für das verwaltete Vermögen eintreten 34). Es ist daran festzuhalten, daß bei der Haushaltsgemeinschaft nicht sowohl das etwa vorhandene gemeinsame Vermögen, als die damit von alter Zeit her verbundene Arbeitsgemeinschaft, die Gemeinschaft des gesamten Erwerbslebens 35), ein in der Tat wohl „personenrechtlich“ zu nennendes Verhältnis, das Maßgebende war, und dies Moment findet sich auch bei den späteren Gestaltungen bis zur heutigen offenen Handelsgesellschaft wieder und bildet den wesentlichen Gegensatz gegen die Kommanditverhältnisse.

32) Die deutsche Genossenschaft, aus der Festgabe für Windscheid.

33) Cf. den Schluß.

34) Cf. Sohm S.30: „die Gewalt, über die Vermögensanteile auch dieser (der anderen) Mitglieder zu verfügen“.

35) Dies ist auch die Auffassung der zeitgenössischen juristischen Literatur. Baldus, Consilia III 451.

Ursprung und Entwickelung der Haftung der Hausgenossen.

 Die persönliche Haftung der Genossen knüpft nun in den Quellen gerade an den mehr oder weniger deliktartigen Fall des Konkurses an. Es ist nicht ausgeschlossen und — etwas Bestimmteres nach der positiven oder negativen Seite hin kann nicht behauptet werden — es spricht eine gewisse Wahrscheinlichkeit dafür, daß die Erinnerung an die alte Haftung der Versippten füreinander von Einfluß auf die Rechtsbildung gewesen ist bzw. dieselbe erleichtert hat. Aber mehr auch nicht. Die Entwicklung selbst hat sich zweifellos außerhalb der Sippschaftsgedanken vollzogen und erst, als das verwandtschaftliche Moment nicht mehr geeignet war, eine Rolle zu spielen. Der eine Gedanke war nicht „aus dem anderen hervorgegangen“, sondern an seine Stelle getreten. Wie in den Gemeindeverhältnissen an Stelle der sippschaftlichen Genossenschaft die lokale Flurgemeinschaft auf Grundlage der Vizinität trat, welche bei der Besiedlung vermutlich regelmäßig mit jener koinzidierte, so hier an Stelle der Familie deren für das Geschäftsleben wichtigste vermögensrechtliche Eigentümlichkeit, der gemeinsame Haushalt und die Gemeinschaft des Erwerbslebens. Daß der neuere Grundsatz sich aus dem älteren entwickelt habe, kann nicht erwiesen werden und ist schwerlich eine zutreffende Kennzeichnung der Veränderung. Der vicus enthielt vermutlich nie ausschließlich Sippschaftsgenossen, der gemeinsame Haushalt war sicher nie ein ausschließlich bei Versippten vorkommendes Verhältnis. Dort hat die definitive Seßhaftwerdung und die Art der agrarischen Wirtschaft, hier die Art, wie das Erwerbsleben der Gemeinschaften in den Städten sich äußerlich gestaltete, andere und neue Grundlagen, welche ihrem Wesen nach von den alten prinzipiell differierten, an die Stelle der letzteren gesetzt 36).

36) Die Formulierung des Verhältnisses bei Lastig erscheint mir hiernach nicht durchweg annehmbar.

 Daß nun die Haftung der Hausgenossen im älteren Recht eine prinzipiell unbeschränkte war, geht schon daraus allgemein hervor, daß die Richtung der statutarischen Rechtsentwicklung andauernd auf Beschränkung dieser Haftung ging. Daß dem so war, lag in den Verhältnissen. Ein volles Einstehen des einen Genossen für den anderen hatte in alter Zeit, bei primitiven Handels- und Kreditverhältnissen, nichts Bedenkliches; die damals vorkommenden Verbindlichkeiten des einzelnen gingen ebenso selbstverständlich zu Lasten der gemeinsamen Kasse, wie etwa heute der Hausvater die Krämer- und Handwerkerrechnungen der Familienglieder mit oder ohne Murren begleicht; die Konsequenz des Lebens auf gemeinsamen Gedeih und Verderb ist eben, daß die Kontrakte eines alle angehen 37).

37) Das Constitum Usus Pisene civitatis definiert die häusliche Gemeinschaft: „si de communi in una domo vixerint et contractus et similia communiter fecerint, sive absentes sive praesentes, sive uno absente, altero praesente etc.“

 Schwerlich hat, das ist zuzugeben, das Rechtsbewußtsein dabei in älterer Zeit zwischen den beiden prinzipiell verschiedenen Gedanken: Haftung des gemeinsamen Vermögens und Haftung aller Genossen, stets geschieden 38). Die Unterscheidung lag fern, solange die Vermögensgemeinschaft eine im wesentlichen vollständige war. Dagegen mußten — und im Verhältnis nach außen noch mehr als unter den socii — Schwierigkeiten entstehen, als mit wachsender Bedeutung des Kredits die Schuldverbindlichkeiten des Einzelnen einen Charakter gewannen, welcher die Haftbarmachung der Genossen für dieselben lediglich auf Grundlage des gemeinsamen Haushalts häufig unbillig erscheinen ließ. Andererseits war gerade die unbedingte Haftung geeignet, die Gemeinschaft im Geschäftsleben, als Kreditbasis, aktionsfähig zu machen. Diese Kreditwürdigkeit wäre auch bei Beschränkung der Haftung auf den Betrag des Anteils des Einzelnen — ein sonst naheliegender Gedanke — aufgegeben worden. Für die Fälle, in welchen das Interesse des Kredits der Gemeinschaft überwog, mußte also die Haftung festgehalten werden. Wie löste die Rechtsentwicklung dies legislatorische Problem?

38) Soweit dafür juristisches Verständnis vorhanden war, betrachtete man letzteres als juristische Konsequenz des ersteren, so Baldus, Consilia V 125: die socii sind verhaftet, weil das corpus societatis, das Gesellschaftsvermögen, verhaftet ist.

III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.208 – P.213 日本語訳 (19)

日本語訳の第19回目です。ラテン語の所だけでなく、ドイツ語の部分も内容がそれなりに錯綜していて理解するのに時間がかかりました。
ただ、新型コロナウィルス騒ぎにも負けずにひたすら粛々とやっています。マルティン・ルターの
„Auch wenn ich wüsste, dass morgen die Welt zugrunde geht,
würde ich heute noch einen Apfelbaum pflanzen.“
(もし明日世界が滅びることを私が知ったとしても、私は今日それでも一本の林檎の木を植えるだろう。)
の気持ちと同じです。
コムメンダやソキエタス・マリスの時は、まず現実の具体例(公正証書等)があって、それから法規の話になったので理解しやすかったですが、この章では、諸法規の規定の元になっている現実というものはあまり具体的には示されず、最終的な結果として残された法文から逆に歴史の具体的な事実を遡って再構成するというやり方になっており、それだけ理解するのに苦労します。しかし、ヴェーバーは各都市の様々な法規を本当に良くチェックしており、直接の1次資料ではないにしろ学問的な努力という意味ではこの章の内容はそれなりに深いものがあると思います。
元のドイツ語はここです。
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第三者に対する法的関係。血縁を基礎とする責任関係。

 法的に重要な様々な事実が(何らかのゲマインシャフトの)構成員である個人の枠を超えて権利と義務を産み出すという現象は、疑うことなくまずは氏族(ジッペ)を基礎として発生するのであり、その氏族の間においては相互に義務(債務)を保証しあっていたし、またそれに相当する権利(債権)も持っていたのである。特に私的復讐の権利と義務はある種の”obligatio ex delicto”(違法行為から発生する義務)を創り出すのであり、そこにおいては各成員は能動的(復讐を行った場合)または受動的(復讐を受けた場合)に法規則に沿った形で関与するのである。このことに該当する法律上の規定は、中世後期になってもまだ完全には消滅していなかった 27)。

27) Constititum Legis Pisane civitatis l. II c. 77(ピサの市民法)に出て来る私的復讐が違法行為を行った者に対して行われる場合についての刑罰の規定を参照せよ。

 能動的・受動的な殺人に対する賠償金の義務が既にleges barbarorum(ゲルマン法)においてほとんど純粋に財産権法的な性質を帯びた(つまり債務となった)後においては、義務的債務についての責任という概念への原則的な制限がもはや存在していなかったかのように見える。それは特にローマ法における不正と(ゲルマン法における)犯罪との明確な区別が欠如しているということをあまり意識していない場合に特にそうである。実際の所、それ(殺人の賠償金、支払い義務が財産権法的な性質を帯びるということ)に関する法規上の条文は、ランゴバルド法において見出すことが出来る。とは言ってももちろん純粋に氏族的な関係に更に財産権法的な関係が追加された、という形においてのみであるが 28)。このような(財産権法的な)経済の根本原理は氏族関係においては存在していなかったし、少なくとも信用貸しがある程度行われるようになった時代においては、氏族関係はそれ自身はまったくもって経済的なゲマインシャフトではなく、それ故に犯罪から生じる責任を超えて発展することは無かったし、ビジネスの中で発生する債務についての土台という意味では、氏族関係は有効ではなかったし、氏族的な関係に基づく動機は金銭に換算出来るようなものではなかった。

28) Rubr. De debitis et guadimoniis et que liceat pignorare vel non. Rex Rothar: Nulli liceat alium pro alio pignorare, excepto illo qui gaphans esse invenitur id est coheres ejus proximior qui ad illius hereditatem si casus evenerit venturus est. (ランゴバルド法の中の表題「債務及び利益について、差し押さえが許されるもの、または不可のもの」。ロタリ王:誰も他人の名前において何かを差し押さえることは許されない。例外としてその者が”gaphans”であることが分った場合以外は。”gaphans”とは、その者がほぼ共同相続人に近しい者であって、財産を相続するためにやって来たという場合のことを言う。)
“Gaphans”についてAlbertusは次のように説明している:「それは近縁の親族であって相続するためにやって来た者のことである。」それ故に債務は最も近縁の親族に対してに限定されており、それは債務者がまだ生存している時においてもその最も近縁の親族に対して既に発生しているのであり、遺産との関係が重要である。どの程度まで相続人の債務がここに端を発しているかということは、はっきりしていない。更にLimprandus王《Liutprand王、712~744年の間、ランゴバルドの王。》:
Si quis debitum fecerit et res suas vendiderit et tale fuerit illud debitum, quod solvere non possit et filius ejus per uxorem suam aliquid acquisiverit vel postea sibi per quodcunque ingenium laboraverit postquam genitor ejus omnes res venum daverit vel pro debito suo creditoribus suis dederit: aut a publico intromissus fuerint; non habeant facundiam creditores res ejus quas filius ejus de conjuge sua habere videtur vel postea conquisivit aut laboravit … distrahendi … sie tamen ut … prebeat sacramentum quod de rebus patris vel matris sue si ipsa in mundio patris mortua fuerit nihil apud se habeat nec alicui commendaverit …
(もしある者が債務を負うことになり、(その債務の解消のため)自分の所有物を売却することになり、それでもその債務を(全て)解消することが出来ない場合、その者の息子がその配偶者から財産を得た場合、もしくはその息子がどこかで働いた結果としてお金を得た場合、その父親が全ての所有物を売却したか、その債務のためにその代金を債権者に与えるということが済んだ後で、またはその父親がその財産を公衆によって差し押さえられた場合、そういった場合においても債権者は債務者の財産(のように見えるもの)でその債務者の息子が配偶者から得たものまたはその息子の労働により獲得したものを強制的に取り立てる権利を持たないであろう。…しかしながら…その息子は父親の財産からまたは母親が父親の監督権下にある状態で亡くなった場合にその母親の財産から何も得ておらず、また隠してもいないということを誓わなければならない。)
Ariprandはこの箇所から次のような陳腐な結論を導き出している。つまり「財産を何も相続しない者は、債務についても何も相続することはない。」ランゴバルド法ではしかしながら、Pappenheimの”Launegild und Garethinx”のP.70で述べられているように、被相続人(親)の死後の相続人の責任については規定しておらず、その被相続人(親)がまだ存命中の(相続人の)責任について規定しているのであり、その第2節では相続人である息子に対してある一定の生業で得られた自由に処分出来る財産についての保証を与えており、その際には(その相続人である息子と)父親の所有物に対する関係が、再度本質的なものとして記載されている。―Petrus《Petrus、生没年不詳、12世紀初頭のフランスのプロヴァンスの法学者》の”Petri Exceptiones Legum Romanorum”のLL. RR. l. IV c. 53における以下の箇所が何かの意味があるのか、または何を意味しているのかは、つまり父親が召使いと息子との間の契約について責任を持つかどうかは、”si in rem patris versum est, in solidum”(それが、全体として父親の物に転じるかどうか)ははっきりしない。おそらくは、息子と召使いが家計においての何かの物について契約する、ということを意味しているかもしれない。

家計ゲマインシャフトを基礎とする責任関係

 家計ゲマインシャフトの領域において今やある構成員の違法行為についての責任は他の成員達が負うことになる 29)ということが(様々な法規で)見出される。しかし(法規の中の)そういった規定に続く詳しい説明では、ある成員の契約上の債務が他の成員に及ぼす作用ということに対しては、そういった(共同)責任は全くの所後退してしまっており、最終的には消滅してしまっている。しかしこの作用については、そういったゲマインシャフト関係を基礎として成立したのである。常に(そういった法規で)見出されることは、未成年者の法という観点において、ローマ市民法での違法行為とゲルマン法での犯罪がほぼ同じと見なさざるを得ない場合、つまり処刑法においてと特にここでは逃亡した者の破産において、違法行為から発生したのではない(単なる)債務が発生するという場合であっても、犯罪という観点(からの責任=債務の発生)を準用して考えるやり方への郷愁である。

29) クレモナの法規(1388年 第495項)とマッサの法規(1592年、規定自体はそれより古い)の l. IV c. 17は家の主人と父親に対し、召使いや家の息子に生じた損失について無制限に責任を負わせることを定めている。シチリア島において1282年の憲法(Pardessus V P.255)は、息子、父親、兄弟等の間での相互責任を無効としている、”cum poena suos tenere debeat authores”(処罰がそれを行ったものを結び合わせる場合は)。その他の法規(ボローニャの法規のv. J. 1250ff. l. II c. 8、ピサのConstitutum Ususの45―後代での追加―、ヴィチェンツァの法規のv. 1264 III c quod dominus、モデナの法規のv. 1327 ref. l. IV c. 10)は違法行為、特に家の息子達が行ったものについての責任についての制限という形で、より早い時期に成立した無条件の責任を規定している。これに該当するフィレンツェの法規の中身については、後でまた取上げる。

1.共有財産についての責任

 さて、今まで述べて来たような様々な人間関係について具体的なイメージを持とうとした場合、明らかなのはゲマインシャフトの成員の債権者に対する債務において、まず第一に次のような本質的かつ実際的な疑問が湧き上がって来ることである。その疑問とはその成員がその債務のために万一強制執行を受ける場合にどのように振る舞うのかということであり、特にその成員が共通の家の中において直接強制執行を受けるのかどうかということである。法の発展の中ではこの問いに対しては肯定を与えており、こうした全体のまとまりとしての家計という考え方が、疑いもなく基本的な法学上の思考形式を創り出していたのである 30)。そうした総体としての家計は処分したり、また誰かがそれを代表したりすることが可能であったし、―それらの適用の仕方が全成員において同等ではなかったにせよ―根本的にどの成員にも権利が与えられていたのであり―こうした考え方は私法においても公法においてもまたそれ以外でも重要な意味を持ったのである。こうした種類の責任 31) は、実際的には次のような法文の中に登場する。つまりあるゲマインシャフトの成員の債務について、その成員がその債務を支払わない場合、その債務全額に対する強制執行が家の総体に及ぶということである。こうした考え方が根本原則であることは、次のような場合に見出し得る。その場合とは、諸法規が既に共通の家の中に見出し得るものの全てに対しての無条件の責任に対し制限を加えた箇所において、そうした制限が、まずは家の中に存在する全ての物が一旦差し押さえられ、次に法規において全体または部分的な差し押さえの免除を受け得ることが規定されている者が我々の用語での「調停」を申し立て、無条件の責任に対する制限の法的根拠を立証しなければならなくなる、という形で実現される、そのような場合である:Statuta Communis Vicentiae 1264 l. III c. de emancipationibus:[„] … quicquid filius habet, hoc totum praesumatur de bonis parentum habere, nisi expressim et liquide possint probare … se acquisivisse ex officio vel successione vel … alia … justa causa …[“]Ebenso Statuta Massae (gedr. 1592) für die communio fraterna.  Liber tertius causarum civilium communis Bononiae (gedr. 1491):
(1264年のヴィチェンツァのStatuta Communis Vicentiae 1264 l. III c.の{子供の父親からの}解放について:「…ある息子が所有している物が何であれ、その全ては両親の財産から得たものだと推定され、明白に相続によって得たと証明される場合、職業上の正当な権利によって獲得した場合、財産の(相続以外の)継承による場合、または他の正当な理由による場合を除く。」)
マッサの法規(1592年)もcommunio fraterna(兄弟同士のソキエタス)について同様のことを定めている。

 ボローニャのLiber tertius causarum civilium communis Bononiae (1491年):父親(の父権)から解放されて一人前になった息子達は、差し押さえしようとする債権者に対して、自分達は当該の債務が発生するよりも前に解放されていた、と証明することになっていた。

30) 他の人間関係については:ヴィチェンツァでは公的な債務は家に対して賦課された。(Statuten v. 1264 l. II c の最後の所)ミラノではそれが家族に対して賦課された。(Statuten v. 1502 fol. 81、1217年の追放に関する法規のIの最後の箇所によっても既に規定されていたことを参照せよ。)家族の構成員は連帯してその賦課を負った。モデナでは(Statuta 1327 ref. I 165)各々の家族の構成員は家族に対して課された兵役の義務を果たした。シエナでは(Statuten v. 1292)個々の手工業の工房(bottega、より正確には工場と販売店を兼ねるようなもの)が、個人ではなく、ツンフト(同業者組合)への上納金を支払っている。モンカリエーリでは(Statuten v. 1388 H. P. M. l. Mon. I vol. 1450)fratres communiter viventes(一緒に住んでいる兄弟)の債権は、相互に所得税の評価のためには、それぞれの財産の中には組み入れられなかった。フィレンツェのカリマーラのStatuto dell’ Arte を一瞥すると、その地ではどのように個々の工房(bottega)と個々のソキエタスが、その土地でのツンフトの組織の基礎として使われていたかが示されている。

31) ローマ法についてはこの事柄についてはよりシンプルであった。家族の中の父親については家族全体が責任を負った。そして家族の中の息子については、その息子自身が責任を負った。manus injectio (債権者が債務者に対し手で触れるという、古代ローマ法においての強制執行の象徴行為)が息子に対して行われた場合には、父親がその息子に代わって債務を支払うことになっていた。―中世の法は財産能力の無い者が債務を負うということ自体を認容しなかったであろう。―別々に住んでいない共同相続人については、ローマ法はその譲渡可能な各人の相続分について責任を負わせた。こうした法概念は中世の法には見られない。

III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.208 – P.213 ドイツ語原文 (19)

ドイツ語原文の19回目です。
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Rechtsverhältnis gegen dritte. Haftungsverhältnisse auf verwandtschaftlicher Grundlage.

 Die Erscheinung, daß rechtlich relevante Tatsachen über die Person des unmittelbar Beteiligten hinaus Rechte und Pflichten erzeugen, findet sich unzweifelhaft zuerst auf dem Boden der Sippe, in der Pflicht des Eintretens der Genossen füreinander und den entsprechenden Rechten. Insbesondere bilden Pflicht und Recht der Privatrache eine Art obligatio ex delicto, an welcher aktiv und passiv jeder Genosse in geregelter Weise beteiligt ist; die betreffenden Rechtssätze sind noch im späteren Mittelalter nicht völlig verschwunden 27).

27) Cf. die im Constititum Legis Pisane civitatis l. II c. 77 getroffenen Strafbestimmungen für den Fall, daß die Privatrache sich gegen den Falschen richtet.

 Nachdem die aktive und passive Wergeldobligation schon durch die leges barbarorum fast eine rein vermögensrechtliche Natur angenommen hatte, scheint eine prinzipielle Schranke gegen den Gedanken einer Haftung auch für obligatorische Schulden nicht mehr vorhanden zu sein, zumal wenn der Mangel scharfer Scheidung des Delikts vom zivilen Unrecht in Betracht gezogen wird. In der Tat finden sich Ansätze dazu in der Lombarda, aber freilich nur unter Verhältnissen, wo zu den rein verwandtschaftlichen Beziehungen noch eine vermögensrechtliche hinzukommt 28). Diese wirtschaftliche Grundlage fehlte der Sippschaft an und für sich, sie war, wenigstens zu der Zeit, als der Kredit eine Rolle zu spielen begann, keine Wirtschaftsgemeinschaft und hat es deshalb niemals über die Haftung aus Delikten hinaus gebracht, auf dem Boden der Geschäftsobligationen war sie nicht aktionsfähig, das verwandtschaftliche Moment nicht verwertbar.

28) Rubr. De debitis et guadimoniis et que liceat pignorare vel non. Rex Rothar: Nulli liceat alium pro alio pignorare, excepto illo qui gaphans esse invenitur id est coheres ejus proximior qui ad illius hereditatem si casus evenerit venturus est. — „Gaphans“ erklärt Albertus: „id est proximior qui ad illius hereditatem venturus est“. Also die Haftung ist auf den Nächstversippten beschrä nkt, trifft diesen aber schon bei Lebzeiten des Schuldners; die Beziehung zur hereditas wiegt vor. Inwieweit die Haftung der Erben hiervon ihren Ausgang genommen hat, steht dahin. Ferner: eod. Rex Limprandus: Si quis debitum fecerit et res suas vendiderit et tale fuerit illud debitum, quod solvere non possit et filius ejus per uxorem suam aliquid acquisiverit vel postea sibi per quodcunque ingenium laboraverit postquam genitor ejus omnes res venum daverit vel pro debito suo creditoribus suis dederit: aut a publico intromissus fuerint; non habeant facundiam creditores res ejus quas filius ejus de conjuge sua habere videtur vel postea conquisivit aut laboravit … distrahendi … sie tamen ut … prebeat sacramentum quod de rebus patris vel matris sue si ipsa in mundio patris mortua fuerit nihil apud se habeat nec alicui commendaverit … Ariprand macht hieraus den trivialen Satz, daß, wer nichts aus der Erbschaft habe, auch nicht als Erbe für Schulden hafte. Die Lombarda aber spricht, wie auch Pappenheim, Launegild und Garethinx S.70 hervorhebt, nicht von Haftung des Erben nach dem Tode des Erblassers, sondern von Haftung bei Lebzeiten desselben und schafft in der zweiten Stelle dem Sohn aus gewissen Erwerbsarten von der Haftung freies Vermögen, wobei die Beziehung zu den res patris wieder als das Wesentliche hervortritt. — Ob etwas und was die Stelle bei Petrus, Except. LL. RR. l. IV c. 53 bedeutet, daß der Vater aus dem Kontrakt des servus und filius hafte, — „si in rem patris versum est, in solidum“, ist dunkel. Vielleicht heißt es: wenn sie in Sachen des Familienhaushalts kontrahieren.

Haftungsverhältnisse auf Grundlage der Haushaltsgemeinschaft

 Auf dem Gebiete der Haushaltungsgemeinschaft nun finden wir einerseits die Haftung für Delikte eines Beteiligten zu Lasten der übrigen 29); die folgende Erörterung wird aber ergeben, daß dieselbe gänzlich zurückgetreten und schließlich verschwunden ist gegenüber der Wirkung, welche Kontraktschulden eines Genossen für die übrigen haben, und diese letztere ist lediglich auf dem Boden dieser Gemeinschaftsverhältnisse erwachsen. Immerhin findet sich eine Reminiszenz an die Priorität des Deliktsgesichtspunktes darin, daß die nicht ex delicto entspringende Haftung an einem Punkte einsetzt, wo in den Augen des jugendlichen Rechts das zivile Unrecht dem Delikt am meisten verwandt erscheinen mußte: im Exekutionsrecht, und hier insbesondere im Konkurse des fugitivus. Von den meisten Statuten wird die Haftung der Genossen am ausführlichsten, von einigen nur bei Gelegenheit des Konkurses erörtert. Das ist nicht ohne historische Erheblichkeit.

29) Die Statuten von Cremona (1388 rubr. 495) und von Massa (1592, der Stoff ist älter) l. IV c. 17 lassen den Hausherrn und Vater für durch das Gesinde oder den Haussohn zugefügten Schaden ohne Einschränkung haften. In Sizilien hob eine Konstitution von 1282 (Pardessus V S.255) die wechselseitige Haftung der filii, patres, fratres &c für Delikte auf, „cum poena suos tenere debeat authores“. Andere Statuten (Statuta Bononiae v. J. 1250ff. l. II c. 8, Pisa, Constitutum Usus 45 — ein späterer Zusatz —, Vicenza, Statuten v. 1264 III c. quod dominus, Modena, Statuten v. 1327 ref. l. IV c. 10) zeigen durch die Einschränkungen der Haftung für Delikte, namentlich solche der Haussöhne, welche sie einführten, die früher bestandene unbedingte Haftung. — Von dem hierher gehörigen Inhalt der Stat. von Florenz wird noch die Rede sein. Doppelte Bedeutung der Haftung der Gemeinschaft.  Es tritt nämlich bei unseren Gemeinschaftsverhältnissen die Haftung nach außen in zwei nicht nur dem Grade nach voneinander verschiedenen Bedeutungen auf: 1. als Belastung des gemeinsamen Vermögens durch die Schulden des Genossen und 2. als persönliche Mithaftung der Genossen, als Schuldner, füreinander. 1. Haftung des gemeisamen Vermögens.  Stellt man sich nun die Verhältnisse konkret vor, so war offenbar bei Schulden eines Beteiligten für den Gläubiger die wesentliche praktische Frage zunächst, woran er eventuell im Vollstreckungswege wegen dieser Schulden sich halten, ob er namentlich unmittelbar in das gemeinsame Haus vollstrecken lassen konnte. Diese Frage hat die Rechtsentwicklung bejaht, und unzweifelhaft hat die Auffassung des Haushalts als eines Ganzen, über welches zu verfügen und welches zu vertreten — wenn auch nicht in gleichem Maße — grundsätzlich jeder Genosse berufen war — eine Auffassung, welche im privaten und öffentlichen Recht auch sonst von erheblicher Bedeutung war, die zugrunde liegende juristische Denkform gebildet 30). Diese Art der Haftung 31) stellte sich also praktisch in dem Satze dar, daß aus Schulden eines Genossen, welche dieser nicht zahlt, die Exekution auf den vollen Betrag in das ganze Haus geht. Daß dies der Grundgedanke ist, zeigt sich auch darin, daß, wo die Statuten schon eine Beschränkung der unbedingten Haftung alles im gemeinsamen Hause Vorfindlichen eingeführt haben, dieselbe dadurch praktisch verwirklicht wird, daß zunächst alles, was sich im Hause befindet, gepfändet wird; der statutarisch ganz oder teilweise Eximierte muß dann, nach unserer Redeweise, die Interventionsklage anstrengen und den Rechtsgrund der Beschränkung nachweisen: Statuta Communis Vicentiae 1264 l. III c. de emancipationibus:[„] … quicquid filius habet, hoc totum praesumatur de bonis parentum habere, nisi expressim et liquide possint probare … se acquisivisse ex officio vel successione vel … alia … justa causa …[“]Ebenso Statuta Massae (gedr. 1592) für die communio fraterna.  Liber tertius causarum civilium communis Bononiae (gedr. 1491): Emanzipierte Söhne haben dem exequierenden Gläubiger nachzuweisen, daß sie vor Entstehung der betr. Schuld emanzipiert sind.

30) Für andere Verhältnisse: In Vicenza werden die öffentlichen Lasten auf die Häuser umgelegt (Statuten v. 1264 l. II c. ultimo), in Mailand auf die Familien (Statuten v. 1502 fol. 81, Cf. schon wegen des bannus Statuten v. 1217 I am Ende), deren Glieder solidarisch dafür haften; in Modena kann (Statuta 1327 ref. I 165) jedes Familienglied die der Familie als solcher obliegende Wehrpflicht ableisten; in Siena (Statuten v. 1292) zahlt die einzelne gewerbliche Niederlassung, nicht die Person, das Zunftgeld; in Moncalieri (Statuten v. 1388 H. P. M. l. Mon. I vol. 1450) werden die Forderungen der fratres communiter viventes untereinander nicht in das Vermögen eines jeden behufs Einkommensteuerschätzung eingerechnet. Ein Blick in das Statuto dell’ Arte di Calimala von Florenz zeigt, wie dort die einzelne bottega und die einzelne societas als lokale Grundlage der Zunftorganisation galt.

31) Für das römische Recht lag die Sache einfacher. Für den pater familias haftete die gesamte familia, für den filius familias dessen Leib; die manus injectio gegen ihn mochte dann wohl den Vater zur Zahlung für ihn veranlassen, — das mittelalterliche Recht würde Verpflichtungsfähigkeit ohne Vermögensfähigkeit nicht angenommen haben, — für die unabgeteilten Miterben haftete römisch-rechtlich dessen Erbquote, die negoziabel war, — dem mittelalterlichen Recht lag diese Abstraktion fern.

III. Die Familien – und Arbeitgemeinschaften. P.203 – P.208 日本語訳 (18)

日本語訳の18回目です。家ゲマインシャフトと商業におけるゲゼルシャフト形成の関係がより詳細に論じられていきます。
ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」における、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトを対立する概念ではなく、ゲゼルシャフトがゲマインシャフトの特別な場合と考えるのは、この論文での研究が最初のきっかけではないのかと思います。
ドイツ語の原文はここです。
それから今回の分も含めて最初から通して読んでみたい方はこちらを参照願います。
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これらのゲマインシャフトの共通の土台

 この種のゲゼルシャフトの形態の全体構造に対する家ゲマインシャフトという要素の影響は疑う余地の無いものである。というのもそのような(Geselleとしての)ソキエタスの成員の地位は非常に高く、ソキエタスにおいて元々そうであったように、信頼関係に基づいたものでなければならなかったということは明白であり、ソキエタスはそのような(Geselleとしての)成員に対しては、丁度常時雇われている奉公人が都度都度雇われる賃金労働者に対するのと同じように振る舞うのである。これらの関係の家族的な性質もまた明らかである。親族という観点で見た場合、そして家の息子と召使い、またはfactorつまり(Geselleとしての)ソキエタスの成員とまだ独立していない共同相続人が非常に本質的な点で等しく扱われていることが見出される場合、それについては特別な説明は必要無いであろう。ここにおいて「家族法的な」根本原則が他の関係にそのまま応用されたということもまた出来ない。そうではなくて、等しい根本原則が平行的な法形成を導いたのである。というのは財産法において判定基準となるような関係が、二つのケースで同じように存在したからである。仕事を共にする仲間の関係は、本質的に家族による家計の中での構成員である家族同士の関係に似ており、他方ではその家族による家計は同時に何らかの事業経営の基盤でもあろうとした場合、簿記と外部から一つの法的主体として認識されるようにすることの二つの条件が必要であった。要するに、経営ゲゼルシャフトという形で財産法における重要な要素として扱われるために必要な全ての条件がこの二つだったのである。つまりは、家族による家計と経営ゲゼルシャフトの両方にて、法的に重要な要素は同じなのである 16)。ただ、家族ゲマインシャフトにおいては共通の家計という土台は最初から存在しているものであるが、家族以外の人との労働ゲマインシャフトにおいては共通の家計(記帳)は任意のものでしかなく、しかも改めて作り出されねばならなかった。これらのことから、家族ゲマインシャフトは、ある特定の観点から見てそれに該当するものとしての原生的法制度として把握されるのであり、それ故に文献史料にて(家ゲマインシャフトと労働ゲマインシャフトの)2つの集団が共通のものとして記述されている箇所がもっとも重要なのである。

 中世における法形成の過程が様々な都市で始まった時、古くからの親族関係に基づく公法及び私法の基礎原理は既に失われており、他の場合と同様にその地位は他の純粋に経済的な原理に置き換えられたのである 17)。

 手工業的な労働が家族の内側においても外側においてもゲマインシャフト的関係構築の共通の源泉なのである。

15) この点については後でフィレンツェの章で特別に詳しく扱うことになる。

16) ザクセンシュピーゲルの注釈14を参照せよ。手工業(における労働関係)が財産ゲマインシャフトの中で家族原理と並立するように存在している場合、ザクセンシュピーゲルはこの双方を不可欠なものとして扱っている。

17) この点についてはLamprecht《Karl Lamprecht、1856~1915年、ドイツの歴史家。歴史研究における法則性の発見の重要性を主張し、史料批判を重視するドイツの他の歴史学者との激しい論争を引き起こした。》の”Deutsches Wirtschaftsleben im Mittelalter”(ドイツ中世の経済的な生)のIのP.288の注3と、Inama-Sternegg《Theodor Inama von Sternegg、1843~1908年、ドイツ・オーストリアの経済史家。》の”Deutsche Wirtschaftsgeschichte”(ドイツ経済史)のP.75の注1を参照せよ。その意義についてはまたHeuslar《Andreas Heusler、1865~1940年、スイスの中世研究者で特にゲルマンとスカンディナビアを専門とした。》のInstitutionen Des Deutschen Privatrechts(ドイツ私法における諸制度)第2巻のP.304以下で詳細に論じられている。所有されている物が財産の主要部分を占めている場合、傾向としては物を(全体の財産から)分離して個人所有とする方向へ、また動産と手工業的労働の存在は商品ゲマインシャフトへと進んでいる。

共通の特質

 これらのゲマインシャフト関係の2つの特質について、ここにおいてまずは手短に確認しておくのが良いであろう。

1.男性socii(ソキエタスの構成員{複数})への制限

 まず第1のものはゲマインシャフトの男性 18) 構成員に対する、その個人としての影響力に対する制限である 19)。つまり、働いて収入を得て商業において自発的に活動するゲマインシャフトの成員が、ゲマインシャフトの共通財産に対する考え得る主体なのである。それについて新しく証拠となるのは、共通の業務を執り行うことにより、成功の場合も失敗の場合も運命を共にするということを出発点に置いているということである。

18) Ansaldus de Ansaldisの”Discursus legales de commercio et mercatura.”(1698年、ジェノヴァ)のDisc.49を参照せよ。そこでは姉妹の(共通の財産への)関与の問題が普通法上で議論の余地があるものとされている。

19) Bonani編の”Constitutum Usus Pisanae Civitatis”の”De societate inter extraneos facta”(家族外のメンバーとの間でのソキエタスについて)の章の”inter laicos et masculos”(俗人と男性の間で)を参照せよ。更に別の例は後でまた取上げる。特にヴェネツィアについての議論の所で。またランゴバルド法ではただ兄弟について述べており、ブルグンドの法では父親と子供達から成るゲマインシャフトを規定しているが、しかしそこでは夫婦間での財産共有ゲマインシャフトについては何らの規定も存在しない。

2. 不動産の除外

 2つ目は、ゲマインシャフトの共通の基金への帰属という意味での、規則に沿った形での不動産の除外である。既に海上取引に係わる諸ソキエタスにおいて、ソキエタスへの債権者の優先権が動産に対してに限定されたように 20)、ここにおいてもただ動産のみがゲマインシャフトの共通財産とその(各成員が持つ)個別の影響力の対象なのである 21)。共通の家というものは発展における出発点でありかつゲマインシャフトの土台であるが、(不動産としての)それそのものについては非常に明白なこととしてゲマインシャフトの共通財産には算入されていなかったし 22)、その他の動産は常に家の外に存在したのである。それ故に収益を上げる資本がさらなる発展のための材料なのである。

20) Statuta Peraeのc.20を参照せよ。

21) この部分はLattesによる”Il diritto commerciale nella legislazione statutaria”の§6の注5と6において言及されている商法における不動産の除外についての引用の中に含まれている。その他、この論考のフィレンツェの所でも再度言及することになる。

22) 家はそれぞれの持ち分所有者のソキエタスの取り決めに従った処分対象物の特別な一つのものとはならなかった。今日においてもあるソキエタス、例えば会社が不動産を(簡単には)売却することが出来ないように、持ち分所有者はその時々のゲマインシャフトの土台、つまり共通の家を、抵当に入れたり売却することは出来なかった。

財産関係における変化

 それ故に財産ゲマインシャフトがもはや単純に全体をカバーするのではなく、構成員の財産のある一部のみを包括するだけになった場合、そして、既に述べたように、個々の成員による財産の分割がそれによって益々進展した形で投資や各成員がゲマインシャフトにおいて保持する一つの勘定としての性質を持つと見なされた場合、この(各員の)勘定を全体として高い程度で独立した法的主体としてみなすのと、取り分けその勘定をそうした独立のものとして(共通財産とは切り分けて)処分する可能性を認める必要性が出てきた。実際の所、フィレンツェのAlbertiという家族 23)においての遺言と遺産相続手続において、(死亡した)持ち分所有者の勘定について、その勘定を利害関係者(相続人)の間で分割しそれぞれの勘定への振り替えが命じられているという事実が見出される。更には、ゲマインシャフトの成員の資金でゲマインシャフトの共有基金には属していないものについても、可能であればそのソキエタス(ゲマインシャフト)において投資させるという需要が生じて来て、その場合には個々の成員が二重の意味でゲマインシャフトの業務に参加するという特別な関係が見出されるのである。つまりはまずはその成員がゲマインシャフトの共有財産の中での持ち分の金額の範囲においての参加と、更にはゲマインシャフトで利用可能な投資された資本において、ジェノヴァでの文献史料 24) においてソキエタス・マリスとコムメンダが同時並行して行われていたという事実に適合するような、ゲマインシャフトの業務への出資者としての参加である。さらに後の時代では、家族において、元々は法律の規定によって成立していたゲマインシャフト関係を、契約に基づいてまたその時々の必要性に応じて作り出す 25) ということも行われるようになり、それによって家族ゲマインシャフトはソキエタス法に準じた形で規定されるようになったのである 26)。それから我々はここにいても「投資」という概念にたどり着いたが、それは全体の共有財産の中での一定の割合としてであり、その割合によって当該のソキエタスの成員の分としての利益、損失、そして資本が分割されるのであり、―それはソキエタス・マリスの場合と同様である。しかしながらここにおいて次のような疑問が出て来る。つまり、この投資とここで呼ぶものがコムメンダ関係におけるものと同じ意味を持っているのかということである。この疑問については他のはるかに重要な人間関係の側面としての、ゲマインシャフトの外部や第三者に対しての作用について考察した後に答えることが出来る。我々はこの目的については、まずは後の時代の発展の最終的に予想出来る結末について述べた後で、再びその結末の開始点へと立ち戻って行かねばならない。

23) Passerini《Luigi Passerini Orsini de’ Rilli、1816~1877年、イタリアの政治家・歴史学者・系譜学者。》の”Gli Alberti di Firenze”(フィレンツェのアルベルティ家)を参照。また下記の本稿でのフィレンツェに関する部分も参照せよ。

24) 下記の本稿でのフィレンツェに関する部分も参照せよ。

25) 注23のAlberti家の史料とPeruzzi《Simone Luigi Peruzzi、1832~1935年、イタリアの歴史家、メディチ家に連なる家系の出身。》の”Storia del Commercio e dei’ Banchieri di Firenze”を参照せよ。

26) それどころか、Registrum Farfense(注11参照)のNo.36の史料が示しているように、家ゲマインシャフトそのものが契約によって創り出されている事例が存在するのである。この文献史料においては、二人の同じ家に住んでいる兄弟が彼らの叔父(伯父)を家ゲマインシャフトに迎え入れている: te … affratamus et in tertia portione … heredem esse volumus.(我々はあなたを家族として迎え入れ、そして相続人として1/3の分け前を持つことを希望する。)このケースは田舎においての家共同体に関するものである。Brunnerの前掲書(注11参照)のP.12以下では血縁関係にある者同士のゲゼルシャフト形成を商業の目的で使うことと家族ゲマインシャフトとの類似について言及している。

formalとformell

ドイツ語で英語のformalにあたる形容詞としては、formalとformell、そしてförmlichというのもあります。後の2つはほぼ同義語です。
私見ですが、ヴェーバーはformalとformellを使い分けているように思います。
これは私の解釈であってどこまで正しいかは保証致しかねますが、formalはある意味ニュートラルな表現で、ともかく外見として何かの形(form)に沿っている意味だと思います。これに対し、formellはどちらかと言えば何かの法律とか規則とかの「内容に」適合している、という感じかなと思います。またformellは口語的なニュアンスですが、「形式張って堅苦しい」といった意味もあると思います。
なので、この2つが出てきた場合、機械的に「形式的な」と訳すのは時によっては適当でないことになります。

Pappenheimの”Launegild und Garethinx”

中世合名会社史の第三章注9に出て来る

Pappenheim《Max Pappenheim、1860~1934年、ドイツの法制史家》の Launegild und Garethinx 《1882年、ブレスラウ》は、c. 51, 1において liber legis Gundebadi(ブルグント王国のGundbad王の法律の書)を西ゴート王国の I ArfÞaer balker 9 principio (相続財産の一部?)と比較している。」の箇所ですがLaunegild und Garethinxのファクシミリ版を入手しましたので、該当箇所をご参考までにアップしておきます。言うまでもなく、著作権は既に切れています。(画像はクリックで拡大します。)