ここも大きな間違い。ヴェーバーは「現世を超越している神と共にある諸宗教の救済信仰」が知性によって世界を知ろうとすることとも全く異なるけど、近代的なそもそも世界とは何か、という問いを放棄する知性主義とも全く異なると言っています。折原訳は「そうした「意味」探究それ自体に対して、むしろ厳しく対峙し、対決する。」とまったく反対の意味に訳しています。
更に、「ヘレニズム時代の碑文」は単なる碑文ではなく、墓碑銘です。
それから、ここでヴェーバーが仏教について言っていることも仏教全般に言えることではありません。(訳注参照)更には全般的に例の挙げ方が乱暴そのもので、脳が暴走しているとしか思えません。(笑)
原文
Hier wie überall betont die Erlösungsreligiosität der Religionen mit überweltlichem Gott die Unzulänglichkeit der eigenen intellektuellen Kraft gegenüber der Erhabenheit Gottes und ist daher etwas spezifisch gänzlich anderes als der buddhistische Verzicht auf das Wissen vom Jenseits — weil es der allein erlösenden Kontemplation nicht frommt — oder den allen Intellektuellenschichten aller Zeiten, den hellenistischen Grabschriften so gut wie den höchsten Renaissanceprodukten (etwa Shakespeare), wie der europäischen, chinesischen, indischen Philosophie, wie dem modernen Intellektualismus gemeinsamen, skeptischen Verzicht auf die Kenntnis eines »Sinns« der Welt, den sie vielmehr schroff bekämpfen muß.
折原訳
現世を超越する神を戴く諸宗派の救済宗教性は、ここでもまた、いたるところでそうであるのと同様、自分の知力では神の超絶性にとうていおよばないという関係を、強調して止まない。したがって、それは、仏教が、彼岸にかんする知を――唯一救済に通じる瞑想には役立たないという理由で――断念するのとは、なにかまったく別種の態度である。あるいはまた、あらゆる時代のあらゆる知識層に共通の――たとえば、ヘレニズム時代の碑文や(たとえばシェークスピアのような)ルネッサンスの最高の作品や、ヨーロッパ・中国・インドの哲学・とりわけ近代の知性主義に共通の――、世界の「意味」を知ることへの懐疑的断念とは、なにかまったく異なる態度である。現世超越的な神を戴く救済宗教性は、そうした「意味」探究それ自体に対して、むしろ厳しく対峙し、対決する。
丸山訳
どこでもそうであるようにここでも、現世を超越している神と共にある諸宗教の救済信仰は、神の卓越性に対しての人間自身の知的な力の不十分さを強調しており、そしてそのことからそれは例えば仏教においての彼岸についての理解の断念[1]--何故ならばそれだけが唯一救済に至る道である瞑想にそれは役に立たないからであり--と比べると特別で全く異なったものであり、あるいは全ての時代の全ての知的諸階層について、ヘレニズム期の墓碑銘[2] と同様に、最高レベルのルネサンスが産んだ作品(例えばシェークスピア[3])や、欧州・中国・インドの哲学のような[4]、近代的な主知主義に共通に見られるような、現世の「意義」の認識についての懐疑的な放棄に対しても同様に全く異なっており、救済信仰はそういった放棄とよりむしろ厳しく戦わなければならないのである。
[1] 古仏教は「慧」、つまり彼岸も含めて世界というものの成り立ちを正しく理解することを解脱に至る必須条件の一つとしており、ヴェーバーは例によって一般化が過ぎている。この「彼岸についての知識の放棄」というのが当てはまるのは、阿弥陀仏の慈悲にすがっていればいいといった大乗仏教の一部でしかない。
[2] ヘレニズム期の墓碑銘では、一種の文学であるかのように、単なる死の嘆きではなく、個人的な感情の表出が見られる。但し、実際の墓碑銘というより後から創作されたものも多いとされる。
[3] ここでのシェークスピアがどんな作品を想定しているか不明であるが、まずシェークスピアはイングランド・ルネサンスの人であり、いわゆるルネサンスの人ではない。また、シェークスピアはジュネーブ聖書から多数引用するなど、それなりに宗教的な人であり、ここで言うような近代的な懐疑主義の例として挙げるのは疑問。
[4] 具体的に何を想定しているのか不明。中国やインドに懐疑主義は確かにあったであろうが、個別名を挙げずにただ中国・インドの、というくくり方は乱暴そのものである。