折原浩訳の問題点(130)

この間100回に行ったと思ったら、早くも130回目到達。その記念にふさわしい大型誤訳。というかグノーシス主義をまったく理解していないということですが。
「霊知家」「唯物家」「心霊家」「信心家」って日本語にすればいいってもんじゃありません。オカルト主義者と唯物主義者と信心家の集まりっておかしいとは思わないのでしょうか。それぞれの正しい理解については私の訳注を参照してください。

それから「無理にも貫徹しようとすると」も変。「~という帰結なしには実施出来なかった」と言っているだけ。

原文
Allein unter normalen Verhältnissen ist eine solche Anforderung in Gemeindereligionen undurchführbar ohne die Konsequenz, entweder des Ausschlusses aller nicht zu den philosophisch Wissenden (Gnostikern) gehörigen (der »Hyliker« und der mystisch unerleuchteten »Psychiker«) vom Heil oder doch der Beschränkung auf eine Seligkeit geringeren Grades für die unintellektuellen Frommen (Pistiker), wie sie in der Gnosis und ähnlich auch bei indischen Intellektuellenreligionen vorkommt.

折原訳
しかし、通常の諸関係のもとでは、ゲマインデ宗教の内部でそうした要求を貫徹しようとしても、実行不可能であり、無理にも貫徹しようとすると、つぎのような帰結を免れない。すなわち、哲学的な知者(霊知家)には属さない全ての信徒(「唯物家」および神秘的な開悟にはいたらない「心霊家」)が、救済から排除されるか、あるいは、そうではなくとも、知識人でない敬虔者(信心家)が、現にグノーシス派やインドの知識人諸宗教に生じたように、一段格下げされた浄福に制限される、という帰結である。

丸山訳
しかしながら、通常の事情においては、そうした知的な教義の理解という要求は、次の帰結なしには実施不可能であった。その帰結とは、あるいは全ての、哲学的な霊智に至っている者(グノーシス主義者[Gnostiker[1]])には属さない者達(「ヒュリカー[Hyliker[2]]」と神秘的な光を受ける啓示には至らない「サイキカー[Psychiker[3]]」)を救済から除外するか、あるいはそれどころか知的ではないが敬虔な者達(ピスティカー[Pistiker[4]])にとっては至福についてよりわずかな程度の可能性しかないと制限するかという帰結であり、それはグノーシス主義とまた同様にインドの知識人諸宗教において起きたことであった。

[1] この場合、正確にはPneumatikerとするべきである。Gnostikerではグノーシス主義の信者の総称になってしまう。後ろにHylikerとPsychikerが出て来ることからも明らか。

[2] ギリシア語のὕλη(ヒュレー、質料)に由来し、物質的・肉体的な欲求に囚われて霊智(グノーシス)に達することが出来ない者のことを言う。

[3] ある程度の倫理性を備え、信仰心もあるが、未だ神の認識には至っていない中間層のこと。

[4] (再掲)グノーシス主義では「グノーシス(叡智)」を理解しているプニューマテコイと呼ばれる精神的エリートとただ素朴な信仰(ピスティス)だけを持っているプシュキコイが厳密に区別され、後者は低く見られた。

折原浩訳の問題点(129)

折原訳は最初の文からおかしく、元々受動態で、「~を用いて論じられている、考察されている」(ローマの信徒への手紙のこと)なのに、それを「救済論上の諸観念が、現実に活きてはたらいている。」と能動態にし、また手段を主語にしてしまっています。

また、ヴェーバーがKompromißformeln(妥協的な定式化)と書いているのを「和協信条」と訳していますが、それはルター派だけのもので、しかもそちらの原語はKonkordienformelなので、間違いです。後者は前者の中の一つの例に過ぎません。

それから「宗教改革に荷担した諸教会」って集団で悪事を行ったんじゃないんだから不適です。

原文
Immerhin wird hier noch mit soteriologischen Vorstellungen gearbeitet, welche innerhalb einer an das Grübeln über die Bedingungen der Erlösung gewöhnten städtischen, dabei mit jüdischer oder hellenischer Kasuistik irgendwie vertrauten Proselytenschicht gangbar waren, und es ist andererseits bekannt, daß auch im 16. und 17. Jahrhundert breite Kleinbürgerkreise die Dogmen der Dordrechter und der Westminstersynode und die vielen komplizierten Kompromißformeln der Reformationskirchen sich intellektuell angeeignet haben.

折原訳
ともあれそこではなお、救済論上の諸観念が、現実に活きてはたらいている。それらが、救済の諸条件を穿鑿することに慣れ、しかもそのさい、ユダヤ的あるいはギリシア的な決疑論になにほどか通じている、都市の改宗者層の内部に、普及していたのである。他方また、十六、七世紀にも、広汎な小市民層は、ドルトレヒトやウェストミンスターの教会会議 で定められた教義や、宗教改革に荷担した諸教会の複雑な和協信条 の多くを、知的に「わがものとして獲得」していた。

丸山訳
ともかくも、ここではなお救済論上の諸観念を用いて考察されているのであり、それの諸観念は、救済の諸条件についての穿鑿に慣れていた都市の、そこでのユダヤ人のまたはギリシア人の決疑論をそれなりに熟知していた改宗者層の内部において一般化していたのであるが、そして他方次のことも知られている。つまり、16世紀と17世紀においても、広範囲の小市民諸集団は、ドルト(ドルトレヒト)会議[1] とウェストミンスター会議[2] の諸教義と、多くの複雑な宗教改革諸教会の妥協的に定式化された諸教義[3] を、知的な意味で自分のものとしていた、ということである。

[1] 1618年から19年にかけてオランダのドルトレヒトで開催されたオランダ改革派の宗教会議。その当時勃興していたアルミニウス主義の問題の解決のため開かれ、アルミニウス主義を完全に否定した。アルミニウス主義はカルヴァン派の予定説をある意味弱めようとしていて、神が救おうとするのは、最初から決められているのではなく、信仰を持つであろうと予見した者を救うとし、また人間が神の恵みを拒むことも出来るとしていた。

[2] 1643〜1649年の清教徒革命の時期に、イングランド長期議会の招集によって行われた宗教会議。カルヴァン主義によるイギリス国教会の改革を目的として、ウェストミンスター信仰告白などが定められた。1660年の王政復古でこの時に決められたことはイングランドでは無効とされた。

[3] その中でルター派内での妥協は、Konkordienformel(和協信条)と呼ばれる。