折原訳は最初の文からおかしく、元々受動態で、「~を用いて論じられている、考察されている」(ローマの信徒への手紙のこと)なのに、それを「救済論上の諸観念が、現実に活きてはたらいている。」と能動態にし、また手段を主語にしてしまっています。
また、ヴェーバーがKompromißformeln(妥協的な定式化)と書いているのを「和協信条」と訳していますが、それはルター派だけのもので、しかもそちらの原語はKonkordienformelなので、間違いです。後者は前者の中の一つの例に過ぎません。
それから「宗教改革に荷担した諸教会」って集団で悪事を行ったんじゃないんだから不適です。
原文
Immerhin wird hier noch mit soteriologischen Vorstellungen gearbeitet, welche innerhalb einer an das Grübeln über die Bedingungen der Erlösung gewöhnten städtischen, dabei mit jüdischer oder hellenischer Kasuistik irgendwie vertrauten Proselytenschicht gangbar waren, und es ist andererseits bekannt, daß auch im 16. und 17. Jahrhundert breite Kleinbürgerkreise die Dogmen der Dordrechter und der Westminstersynode und die vielen komplizierten Kompromißformeln der Reformationskirchen sich intellektuell angeeignet haben.
折原訳
ともあれそこではなお、救済論上の諸観念が、現実に活きてはたらいている。それらが、救済の諸条件を穿鑿することに慣れ、しかもそのさい、ユダヤ的あるいはギリシア的な決疑論になにほどか通じている、都市の改宗者層の内部に、普及していたのである。他方また、十六、七世紀にも、広汎な小市民層は、ドルトレヒトやウェストミンスターの教会会議 で定められた教義や、宗教改革に荷担した諸教会の複雑な和協信条 の多くを、知的に「わがものとして獲得」していた。
丸山訳
ともかくも、ここではなお救済論上の諸観念を用いて考察されているのであり、それの諸観念は、救済の諸条件についての穿鑿に慣れていた都市の、そこでのユダヤ人のまたはギリシア人の決疑論をそれなりに熟知していた改宗者層の内部において一般化していたのであるが、そして他方次のことも知られている。つまり、16世紀と17世紀においても、広範囲の小市民諸集団は、ドルト(ドルトレヒト)会議[1] とウェストミンスター会議[2] の諸教義と、多くの複雑な宗教改革諸教会の妥協的に定式化された諸教義[3] を、知的な意味で自分のものとしていた、ということである。
[1] 1618年から19年にかけてオランダのドルトレヒトで開催されたオランダ改革派の宗教会議。その当時勃興していたアルミニウス主義の問題の解決のため開かれ、アルミニウス主義を完全に否定した。アルミニウス主義はカルヴァン派の予定説をある意味弱めようとしていて、神が救おうとするのは、最初から決められているのではなく、信仰を持つであろうと予見した者を救うとし、また人間が神の恵みを拒むことも出来るとしていた。
[2] 1643〜1649年の清教徒革命の時期に、イングランド長期議会の招集によって行われた宗教会議。カルヴァン主義によるイギリス国教会の改革を目的として、ウェストミンスター信仰告白などが定められた。1660年の王政復古でこの時に決められたことはイングランドでは無効とされた。
[3] その中でルター派内での妥協は、Konkordienformel(和協信条)と呼ばれる。