折原浩訳の問題点(140)

折原センセはここで「ファリサイ派」が出て来る意味を理解しておらず、「「ファリサイ主義者」と決めつけ、そういう決定論的範疇に属する言葉を、かれに投げつける」と全く逆かつ意味不明の訳にしています。ここは創文社訳は正しく訳しているのに、またもわざわざ誤訳にしてしまっています。要するに律法を遵守して他者を見下すのがファリサイ派態度であって、そういうファリサイ派的な人が、そもそもの性格からして自然と罪を犯してしまうような人を非難すると言っている訳です。
それから「決定論的範疇に属する言葉」もどこにもそんなことは書いておらず、「他者である決定論的な意味での「ファリサイ主義」」です。更には人間性には異質であるのは「[かれの苦悩も、他人の非難も]」ではなく、このような人格そのものが罪を犯す、という考え方です。ratioも理知とか理性ではなく、神の計画したことです。
ともかく全体にデタラメな訳で、これまでの誤訳の中でもトップクラスです。(笑)

原文
Nicht daß er dies getan hat, sondern daß er, ohne sein Zutun, kraft seiner unabänderlichen Geartetheit so »ist«, daß er es tun konnte, ist die geheime Qual, die er trägt, und ebenso das, was der deterministisch gewendete »Pharisäismus« der anderen in ihrer Ablehnung ihm zum Ausdruck bringt, — ebenso menschlichkeitsfremd, weil ebenso ohne die sinnvolle Möglichkeit einer »Vergebung« und »Reue« oder eines »Wiedergutmachens«, in ganz der gleichen Art wie der religiöse Prädestinationsglauben selbst es war, der immerhin irgendeine geheime göttliche ratio vorstellen konnte.

折原訳
近代的人間には、かれが、かくかくのことをしてしまった、ということではなく、かりにかれが関与しなかったとしても、かれには変えようのないかれの性質によって、かく「あり」、かくなし「えた」ということが、かれ自身が抱く秘かな苦悩なのであり、また、他人が、[かれが、かくかくのことをしたといって、そのかぎりで非難するのではなく、むしろ]「ファリサイ主義者」と決めつけ、そういう決定論的範疇に属する言葉を、かれに投げつける場合、その言葉に籠められている意味でもある。いずれも [かれの苦悩も、他人の非難も]、人間性には疎遠のことである。それというのも、いずれの場合にも、宗教的予定信仰そのものとまったく同じように、意味のある「赦し」や「悔い」や「償い」の可能性が絶たれている。もっとも、予定信仰においては、秘かな神の「理知」をなんらか考える余地が、まだ残されていた。

丸山訳
ある者がこれをした、ということではなく、その者の関与なしに、その者の変えることが出来ない固有の性質がそう「である」こと、その者がそれを成すことが出来たということ、それらが[その者にとって]秘かな苦悩なのであり、そしてまったく同様に、他者である決定論的な意味での「ファリサイ主義」がその者に対して、拒絶の印として示すものなのであり、--同様に人間性には異質なものであり、何故ならば同様に「免罪」と「悔悛」または「償い」の重要な可能性が、既定の考え方を宗教的に信ずること自体と全く同じで、そもそも存在しないからであり、ただ既定の考え方はともかくも秘められた神の「計画」をイメージすることが出来たのである。