折原浩訳の問題点(182)

下記の句の、fabulistischesはEigenpathosにかかるのであり、折原訳の「寓話作家なみに」はまったく意味不明の訳です。
これは英語ならfabulousで「まるでおとぎ話のように信じられないほど素晴らしい」といった意味でしょう。

原文
von Napoleon gelegentlich glänzend formuliertes fabulistisches Eigenpathos

折原訳
この情念を、ナポレオンは寓話作家なみに、ときに輝かしい光彩を添えて定式化した

丸山訳
それについてナポレオンが時折華やかに表現した信じがたいほど素晴らしき自己の情熱

折原浩訳の問題点(181)

ここのAnsehenを「人柄」と訳すのは内容をまったく理解していないひどい誤訳です。そもそもansehenという動詞自体が「~を見る」という意味なので、内面的な人柄に関して言っているのでまったくなく、(外から見える)「地位・立場・身分」に応じて振る舞いを変える、と言っている訳です。
また、「たとえばトマス・アクィナスによって問われている」も「またトマス・アクィナスにおいても」であり、何故こんな簡単な箇所を正しく訳せないのか理解に苦しみます。これは学術的な翻訳ではなく折原版「超訳」です。

原文
Daß man nach Ansehen der Person verschiedenen verfahren müsse, versteht sich der personalistischen ständischen Ordnung von selbst und nur in welchem Sinn wir gelegentlich, auch bei Thomas von Aquino, zum Problem. »Ohne Ansehen der Person«, »sine ira et studio«, ohne Haß und deshalb ohne Liebe, ohne Willkür und deshalb ohne Gnade, als sachliche Berufspflicht und nicht kraft konkreter persönlicher Beziehung erledigt der homo politicus ganz ebenso wie der homo oeconomicus heute seine Aufgabe gerade dann, wenn er sie in idealstem Maße im Sinn der rationalen Regeln der modernen Gewaltordnung vollzieht.

折原訳
即人主義的な身分秩序にとっては、人柄の如何に応じて対応を変えるのが、自明のことで、ただいかなる意味で自明なのかが、時折、たとえばトマス・アクィナスによって問われているだけである。今日の政治人は、経済人とまったく同様、近代的権力秩序の合理的規則に即して、もっとも理想的に [なにか変則的にではなく] 自分の課題を果たすときにこそ、「人柄の如何を問わず」「怒りも偏愛もなく」――憎悪がないとはいえ愛着もなく、恣意がないので寵愛もなく、つまり具体的な即人的関係に準拠してではなく、即物的な職業的義務として――、自分の課題を遂行する。

丸山訳
人が他人の身分・地位・立場[Ansehen]によって振る舞い方を変えなければならないということは、人格主義的な身分秩序自身には自明のことであり、ただどういう意味でかがその時々に、またトマス・アクィナスにおいても、問題にされるのである。「相手がどういう[立場・身分・地位の]人であるかに関係無く」、「怒りと偏見なしに[1]」、つまり憎しみもなく、それ故に偏愛もなく、恣意もなく、それ故に愛顧もなく、物的な職業義務として、具体的な人的な関係に拠るのではなく、ホモ・ポリティクス[政治的人間]とまさしく同様にホモ・エコノミクス[経済的人間][2] も、今日ではそれぞれの課題をまさに、その者がそういった課題を近代的な権力秩序の合理的な規則という意味でもっとも理想的な形で遂行する場合に、解決するのである。

[1] sine ira et studio、ローマの歴史家タキトゥスの「年代記」の冒頭に書かれた章句。

[2] ホモ・ポリティクス[政治的人間]もホモ・エコノミクス[経済的人間]も、人間の政治的・経済的な要素だけを純粋に取り出した仮想的な人間像のこと。近代経済学の仮定する経済的に合理的な行動はホモ・エコノミクスのものである。

 

折原浩訳の問題点(180)

180回記念。今回も大物。
Racker von Staatは「国家というならず者」という意味なのに、何故か折原センセは「国家という膏血搾り器」というこれまた過去の俗流マルクス主義の亡霊みたいな訳です。しかもおかしいのは、自分で珍しく訳注を付けていて、全集のP.400を見ろとしているのに、そこに書いている正しい説明をまったく読んだ形跡がありません。こうなるともう翻訳というより個人の作文です。大体、現代の読者に「膏血」(人の脂と血という意味)自体が死語だと思いますが。(青空文庫で検索しても、ほぼ明治・大正まで。)私は国枝史郎の「神州纐纈城(しんしゅうこうけつじょう)」を連想しました。(笑)こちらも人の生き血を絞って染めた布を巡る話です。

原文
Ein Charakter der Gewaltbeziehungen also, an welche man ethische Postulate in dem gleichen Sinn stellen kann wie an jede andere rein persönliche Beziehung. Aber nicht nur die »herrenlose Sklaverei« (Wagner) des modernen Proletariats, sondern vor allem der Kosmos der rationalen Staatsanstalt, des von der Romantik perhorreszierten »Rackers von Staat« hat absolut nicht mehr diesen Charakter, wie wir s.Zt. zu erörtern haben werden.

折原訳
それらは、権力関係にはちがいないとしても、他の純然たる即人的関係のいずれにも倫理的要請を提起できるのと同じ意味で、倫理的要請を提起でき[て、制御でき]る権力関係という性格を帯びている。ところが、近代プロレタリアートの「主人なき奴隷状態」(ヴァーグナー)ばかりではなく、とりわけ合理的国家アンシュタルトの宇宙、すなわちロマン主義者に嫌悪される「国家という膏血搾り器(ラッカー)」[1]の宇宙は、もはやそうした性格をまったくそなえてはいない。この点については、後段のしかるべきところで論ずることになろう。

[1] 解説。全集版 S. 400.

丸山訳
しかし、ただ近代のプロレタリアートの「主人のいない奴隷」(ワーグナー[1])だけではなく、取り分けロマン主義によって嫌われた「国家というならず者[2]」である合理的な国家アンシュタルトの世界もまた、もはやこうした人格主義的な性格をまったく備えておらず、それについては後で詳しく述べることとする[3]

[1] Adolf Heinrich Gotthilf Wagner、1835~1917年、ドイツの経済学者で、国家社会主義や講壇社会主義の代表的論客。

[2] Racker von Staat、Rackerは「ごろつき、ならず者、盗賊」と言った意味。全体で「国家というならず者」という意味。語源としては諸説あるが、ある農民がヴィルヘルム4世に宛てた手紙で「皇帝陛下に税金を納めるのはやぶさかではないが、あの国家というならず者には納めたくない」に拠るというのが一つ。19世紀後半のドイツで一種の流行語のようになった。

[3] ここの前方参照の箇所は不明。書かれなかった可能性が高い。敢えて挙げれば近代的な官僚制に関する議論の箇所か。

 

折原浩訳の問題点(179)

personalistischもpersönlichも「即人(的)」で済ませているけど、仮に「即人的」というおかしな日本語を認めたとしても(私は認めませんが)同じ訳はないと思います。ここでのpersonalistischは要するに儒教の、文人的教養と儒教的礼を身に付けた官僚の「人格主義」のことであり、「即人主義的性格」は単に「即人的」より更に意味不明です。persönlichの方は要は「人と人の関係に基づく」ぐらいの意味です。
それから最後の「制御されている」って機械じゃあるまいし。ここは「特に行政」とあるのだから、「統治されている」です。

原文
Überdies aber ruhte die mittelalterliche wie die lutherische traditionalistische Berufsethik auch rein faktisch auf einer zunehmend schwindenden allgemeinen Voraussetzung, welche beiden mit der konfuzianischen Ethik gemeinsam ist: dem rein personalistischen Charakter ebenso der ökonomischen wie der politischen Gewaltverhältnisse, bei welchem die Justiz und vor allem die Verwaltung ein Kosmos des Sichauswirkens persönlicher Unterwerfungsverhältnisse ist, beherrscht durch Willkür und Gnade, Zorn und Liebe, vor allem aber durch gegenseitige Pietät des Herrschenden und Unterworfenen nach Art der Familie.

折原訳
そのうえ、中世およびルター派の伝統主義的職業倫理は、純然たる事実の平面においても、次第に減衰していく一般的な前提に依拠するものであった。その前提とはすなわち、両者と儒教倫理とに共通の、経済的また政治的権力関係の即人主義的な性格である。この性格を前提とれば、司法および行政、とくに後者は、即人的な服従関係が有効に行き渡っている宇宙であり、恣意と恩恵・怒りと愛・とりわけ家族関係に倣う支配者-服従者間の相互的恭順によって制御されていると見られよう。

丸山訳
その外にしかし、中世のまたルター派の伝統主義的職業倫理は、また純粋に事実として、ある次第に衰えていく一般的な諸前提の上に安んじており、その諸前提とは、両者と儒教倫理に共通のものである:つまり経済的かつ政治的な権力諸関係の純粋に人格主義的な性格であり、その性格においては、司法と特に行政は人的な服従諸関係が効果を及ぼす一つの世界であり、そこでの統治は自由裁量と慈悲、怒りと愛、取り分けしかし家族的な関係と見なされた支配する側と服従する側の相互の恭順によって行われている。

折原浩訳の問題点(178)

今回は訳注の例。この方は訳注が必要な箇所には全く訳注を付けないのに、一方では訳注が必要のない所に、勝手に自分が作った理屈を入れてしまっています。

折原センセが「神秘的救済追求および禁欲的達人宗教性とアンシュタルト的正統性との葛藤 」に付けた訳注:
訳注:「アンシュタルトの官職組織は、その統制下にあるアンシュタルト恩恵の域を越えて、個人的・即人的に救済を追求しようとするカリスマ的(ないしはカリスマを僣称する)分子を、通例、「異端」として排除ないし統制しようとする。そこに生ずる「正統」組織と「異端」分子との葛藤-闘争。」

ヴェーバーが宗教的Virtuosenが現世内秩序で役割を与えられた場合も、なおそういう争いが生じることがある、と言っているだけなのに、折原センセは勝手にそれを一般化してしまっています。またおそらくヴェーバーはフランシスコ会のスピリチュアル派がローマ法王によって弾圧されて多くが火刑にされたような事実を念頭に置いていると考えられ、現世の体制の中に組み込まれて役割を与えられた宗教的Virtuosenさえもが時として異端として排除されるということで、折原センセの訳注はそういう複雑さを全部排除して単純な正統-異端の問題にすり替えてしまっています。

折原浩訳の問題点(177)

9月に入りましたが、いきなりまたひどい訳の箇所。
(1)「黄金時代と至福の始原状態における人間の普遍的な無政府的平等」→何でひっくり返して係り受けが曖昧になるように訳すのか。「普遍的な無政府状態にあるような人間の平等という黄金時代と天国的な始原状態」であり、黄金時代=天国的な始原状態、です。
(2)「人間には、罪の結果は全て度外視するとしても、純然たる自然の差異がある」→ rein natürlichen Verschiedenheit der Menschen以下がトマス・アクィナスの主張であり、その前の部文は全て前にかかります。「アニミズム的な霊魂・あの世の信仰に多様な形で良く知られているイメージでもあり、自然な、また全ての罪の結果を見ないようにした場合のものであるが」(但し下記の訳注参照。)
(3)「形而上学的に演繹してもいる」→直訳調以外の何物でもありません。「そこから形而上学として演繹的に導かれる」とした方がはるかに自然です。
(4)「あるいは二元論的に動機づけられた世界の堕落のゆえ、いずれかによる。」→原文のverurteiltを訳していない。「判決を受けている」は直訳過ぎるけど、「宣告されている」「運命付けられている」ぐらいの訳が必要。
(5)「ストア派および古代キリスト教の教説」→なぜつながっているものを別のものにするのか。「ストア派的な古代のキリスト教」ということ。

ちなみに、この部分ヴェーバーの記述も例によって飛躍がひどく、かなり眉唾です。

原文
Teils nimmt sie, wie z.B. Thomas von Aquino im Gegensatz — wie Troeltsch mit Recht betont — zur stoischen antik-christlichen Lehre vom goldenen Zeitalter und seligen Urstand der allgemeinen anarchischen Gleichheit der Menschen, die schon dem animistischen Seelen- und Jenseitsglauben vielfach geläufige Vorstellung von der natürlichen, auch, von allen Folgen der Sünde abgesehen, rein natürlichen Verschiedenheit der Menschen, welche ständische Unterschiede des Diesseits- und Jenseitsschicksals bedingt, auf. Daneben aber deduziert sie die Gewaltverhältnisse des Lebens metaphysisch. Entweder kraft Erbsünde oder kraft individueller Karmankausalität oder kraft dualistisch motivierten Weltverderbs sind die Menschen verurteilt, Gewalt, Mühsal, Leiden, Lieblosigkeit zu ertragen, insbesondere auch die Unterschiede der ständischen und Klassenlage.

折原訳
この有機体説的職業倫理は、一方では、たとえばトマス・アクィナスが、――この点はトレルチが正当にも強調したところであるが――黄金時代と至福の始原状態における人間の普遍的な無政府的平等というストア派および古代キリスト教の教説に反対して唱えた場合と同様、人間には、罪の結果は全て度外視するとしても、純然たる自然の差異がある、という考え方を採り入れる。これは、すでにアニミズム的な霊魂信仰や彼岸信仰にも多様に見られる、ありきたりの観念で、此岸および彼岸の運命が身分的に分化を遂げるのも、そうした自然の差異に起因すると考えられるのである。他方、有機体説的職業倫理は、この観念とならび、生の暴力的諸関係を。人間が暴力・艱難・苦悩・非情その他・とりわけ身分状況と階級状況の差異を耐え忍ばなければならないのは、原罪のゆえ、個々人の業-因果のゆえ、あるいは二元論的に動機づけられた世界の堕落のゆえ、いずれかによる。

丸山訳
有機的な[1] 職業倫理が部分的に受け入れているのは次のものである。それは例えばトマス・アクィナスが[2]--トレルチが正当にも強調したように[3]--ストア派的[4] な古代のキリスト教の教えである、普遍的な無政府状態にあるような人間の平等という黄金時代と天国的な始原状態に対して反対した、そういった考え方は既に、アニミズム的な霊魂・あの世の信仰に多様な形で良く知られているイメージでもあり[5]、自然な、また全ての罪の結果を見ないようにした場合のものであるが、[そうではなくて]純粋に自然な人間の差異、それは現世と来世の運命においての身分的な差異によって条件付けられたものであるが、そうった差異である[6]。それに並んでしかしそこから形而上学として演繹的に導かれるのは、生においての暴力的な諸関係である。原罪によってか、業の因果律によってか、あるいは二元論的に説明される現世の荒廃によってか、人間は暴力、困窮、苦難、無情さを、特にまた身分的・階級状態の差異をも耐え忍ばなければならないよう、宣告されているのである。

[1] 全集注によれば、中世の教会が世俗社会とのある意味一体化を果たし、現世の職業がある意味その身体の一部として組み込まれた、という意味。

[2] トマス・アクィナスは「神学大全」で人間は神の似姿として創られたという点では平等ではあるものの、神は世界の多様性を実現するために、それぞれの人間に差異を与えた、と説いた。

[3] この部分は全集注によれば、トレルチが1910年のドイツ社会学者会議で述べた内容に基づいているが、その内容は「教会が相対的な自然法と絶対的な自然法の区別について、ストア派的な二つの区別の考え方を受け入れることによって、自身の中に取り入れた。」であり、ヴェーバーがここでトレルチに言及しているのはかなりの論理的飛躍がある。

[4] ストア派は社会的な地位や財産といった外面的な差異は重要ではなく、人は等しく理性(ロゴス)を与えられた平等な存在であると主張した。

[5] ここは素直に文面通り読むと、「人間の差異」という考え方がアニミズムで一般的となるが、一般的なアニミズム理解と全く逆であり、訳者は「アニミズムでは人間平等的」と判断して訳している。

[6] この議論は例によって独断的であり、トマスの人間差異論は神が世界の多様性を実現するためにそうした、というもので、トマスはそれによって人間の運命が決定付けられてると言っているのではない。