折原浩訳の問題点(34)

ここは細かい点は指摘しませんが、折原訳を読んで意味が取れるかどうか試してみてください。混乱の極みですし、原文にないおかしな文章が多数追加されています。

原文
Das Interesse der privilegierten Schichten an der Erhaltung der bestehenden Religion als Domestikationsmittel, ihr Distanzbedürfnis und ihr Abscheu gegen die ihr Prestige zerstörende Massenaufklärungsarbeit, ihr begründeter Unglaube daran, daß den überkommenen Glaubensbekenntnissen, von deren Wortlaut beständig jeder etwas fortdeutet, die »Orthodoxie« 10%, die »Liberalen« 90%, ein wirklich wörtlich von breiten Schichten zu akzeptierendes neues Bekenntnis substituiert werden könne, vor allem die verachtende Indifferenz gegenüber religiösen Problemen und der Kirche, deren schließlich höchst wenig lästige Formalitäten zu erfüllen kein schweres Opfer kostet, da jedermann weiß, daß es eben Formalitäten sind, die am besten von den offiziellen Hütern der Orthodoxie und Standeskonvention und weil der Staat sie für die Karriere fordert, erfüllt werden, — all dies läßt die Chancen für die Entstehung einer ernsthaften Gemeindereligiosität, die von den Intellektuellen getragen würde, ganz ungünstig erscheinen.

折原訳
特権づけられた社会層の、既成の宗教を [大衆]馴致手段として維持することへの利害関心・彼らの威信を毀損するような大衆啓蒙活動に距離をとろうとする欲求・そうした活動への嫌悪感・誰もがその原文から常時 (「正統派」でも10パーセント、「自由派」ともなると90パーセントは) 割り引いて解釈する伝来の信仰告白に代わって、広汎な信徒層に文字どおり受け入れられる、新しい信仰告白が出現するはずはない、という根深い不信・とりわけ宗教問題や教会にかかわる形式的要件の充足は、多少は煩わしくとも畢竟対して犠牲を要することでもなく、誰もが知っているとおり、まさしく形式的要件なのだから、正統信仰や身分的慣習律の守護職に委ねておくのが最善であり、とりわけ国家が、彼ら守護職の立身出世-栄達のため、そう要求してもいるのだから、従っておくにしくはない、といった、宗教を軽蔑して見下す無関心――、こうした諸事由が全て、知識人によって担われる、真摯なゲマインデ宗教性が成立する見込みはまったくない、という印象の成立に、一役買っている。

丸山訳
プラスの特権を与えられた社会層の、既存の宗教を大衆を飼い慣らす手段として保持することへの利害関心、その者達の威信を破壊しかねない大衆への啓蒙活動に対して距離を取りたいという欲求と嫌悪、その者達の根拠のある次のことへの不信、つまり昔からの信仰信条について、誰もがその言い回しから常に多少なりとも新たな意味を読み取り、「正統派教会」の場合で10%程度、「自由主義神学[1]」の場合だと90%も、字義通り広範囲の社会層に受け入れられる新しい信条によって置き換えが可能である、という考え方への不信であるが、また取り分け宗教的問題と教会に対しての軽蔑を伴う無関心は、その問題と教会に対しては、結局は教会がほとんど負担にならない形式的な手続きで問題を処理することは何らコストがかかるものではなく、というのもそれが単なる形式上のことであることは誰でも知っており、それは正統派教会と聖職身分の慣習律の監督者によって、そして国家はその監督者については必要なキャリアを要求しているのであるから、処理させておけば間違いないといった無関心であるが、--全てのこうしたことはある真剣な教団的信仰で知識層によって担われるものを成立させる可能性を、まるで見込みがないもののように見せるのである。

[1] 19世紀のドイツに発生した聖書や教義を絶対視せず、歴史的・理性的に再解釈しようとうする立場。シュライエルマッハー、リッチュル、ハルナックなどが主唱。現在の学術的な聖書・キリスト教研究も元はここから始まっている。

 

折原浩訳の問題点(33)

毎日、必ずという確率で折原誤訳を発見します。これ本当に100回行きそうです。折原誤訳100物語ですね。(笑)
ついでに全集の注も批判しました。

(1) [神を信奉する人々のゲマインデ]ってほぼ全ての宗教にある話であり、ブラフモ・サマージの説明にまったくなっていません。
(2) インドにおける「ブラフモ・サマージとペルシア的啓蒙主義」なのに、インドの「ブラフマ・サマージ」とペルシアの啓蒙主義と訳しています。17~19世紀の話をしているのに、ペルシア!(「ペルシア的啓蒙主義」の方は私が訳注に記したように、ここで挙げるような話かについては疑問がありますが。)
(3) ヴェーバーは ist で断定しているのに、勝手に「であろう」と推測に変更。しかもなんで普通に訳さないで主語と述語をひっくり返すのか。私は可能な限り、元の語順を保った訳にすべきと考えて、出来るだけそうしています。だってネイティブは前から順に読んで理解するのですから。

Ein Produkt der Berührung mit europäischer Kultur ist andererseits die hinduistische (Brahma-Samaj) und persische Aufklärung in Indien.

折原訳
他方、インドにおけるヒンドゥー教 (ブラフマ・サマージ [神を信奉する人々のゲマインデ]) およびペルシアの啓蒙主義は、ヨーロッパ文化との接触の所産であろう。

丸山訳
そういったヨーロッパ文化との接触の産物であるのは、他方でインドにおけるヒンドゥー教の(ブラフモ・サマージ[1])とペルシア的な啓蒙主義[2] である。

[1] 19世紀のヒンドゥー教改革運動の一つで、名称は「ブラフマンの元に参集した人々」の意味。純粋なキリスト教とヒンドゥー教には一致点があり、そこに普遍性があるとして古代のヒンドゥー教の復興を目指した運動。
[2] 全集の注によればムガル帝国のアクバル帝の宗教融和政策のこととなっているが、それは西欧の影響は非常に少ないし(例外的にイエズス会と接触したりはしているが)、また時代的にも16世紀であり合わない。私見ではアクバル帝ではなく、その子のシャー・ジャハーンないしはダーラー・シコーの時代の話ではないか。シャー・ジャハーンの王妃はペルシア系であるし、ダーラー・シコーはウパニシャッドをペルシア語に訳させたりしているし、イエズス会士やヒンドゥー教の僧侶と議論したりもしている。この全集の注は先のGāthāへの注も含めて、インド関係になると急に信頼性が落ちているように思う。