折原浩訳の問題点(41)

まさかと思いましたが、この訳者はje mehr …, desto mehr …(~すればする程一層~する)の初級構文(英語のthe more…, the more …)を理解していないようです。これで2回目ですので間違いないでしょう。この文章ではJe mehrで始まる文が3回出て来るのに、単なる並列のようにしか訳していません。「それだけ」は訳していますが、前のJe mehrと関連していることが分かっていません。この文章は、Aという状況で、Bとなればなるほど、Cとなればなるほど、Dとなればなるほど、それだけEとなる、という構文でそれを外すとヴェーバーが強調したかった点がぼけてしまいます。

原文
Mit wachsender Macht der Jenseitshoffnungen, je mehr also das Leben in der diesseitigen Welt als eine nur provisorische Existenzform gegenüber der jenseitigen angesehen, je mehr jene als von Gott aus dem Nichts geschaffen und ebenso wieder vergänglich und der Schöpfer selbst als den jenseitigen Zwecken und Werten unterstellt gedacht und je mehr also das diesseitige Handeln auf das jenseitige Schicksal hin ausgerichtet wurde, desto mehr drängte sich auch das Problem des prinzipiellen Verhältnisses Gottes zur Welt und ihren Unvollkommenheiten in den Vordergrund des Denkens.

折原訳
彼岸希求の力が増大してきて、此岸の世界における生活が、彼岸の生存に比してたんに一時的な生存形式にすぎないとみなされ、此岸の世界が神によって無から創造され、[生と]まったく同様に移ろい行くものと見られ、創造者自身も、彼岸的な目的と価値に従属していると考えられて、此岸における行為も、彼岸における運命に照準を合わせておこなわれるようになると、世界とその不完全性にたいする神の原理的関係という問題もまた、それだけ思考の前景に押し出されてくる。

丸山訳
来世に対する希望の強さが増していくに合わせ、つまりは現世での生がただ来世に対してただの仮の存在の形と見なされれば見なされる程、またその現世が神によって無から創造されたものであり、また同じく再び移ろいゆくもので、創造主自身がそれを来世の目的と価値の下に置いたと考えられればられる程、そしてそれ故に現世での行為が来世での運命を考慮して遂行されればされる程、それだけ一層神と世界及び世界の不完全さとの原理的な諸関係が思考の前景に押し出されて来るのである。

何度も繰り返される折原浩の間違ったゲマインデ論

折原センセへのシノドスのインタビューを読み直していたら、そこでも以下の発言がありました。
これ、何度も書いていますが、全部誤読の産物です。
=======================================================
ところが、それでは、ヴェーバーのゲマインデを、かれ自身の理論展開に即して的確に捉えようとすると、まずは『経済と社会』(旧稿)中の用語法を網羅的に検索して、たとえば、(1)ペルシャ帝国の「大衆馴致政策」により、ネヘミアの監督下、祭司長エズラに率いられて「バビロン捕囚」からエルサレムに帰還したユダヤ教「教団」、(2)「家産制」的支配者が「区画して『ライトゥルギー(賦役-貢納義務)』を課しoktroyieren」、「連帯責任」を負わせた農村の「近隣団体」、(3)政治的「自首・自律」(注26)を達成した「地域団体」としての「西洋都市」など、各所に分散して出てくる適用例を拾い集めて、比較照合し、それらに共通の「ゲゼルシャフト結成に媒介された近隣ゲマインシャフト(群)」という一般的規定を突き止めなければなりません。

(注26)団体の「首長Herr」を、外部から指定されるのではなく、内部から選出するのが「自首Auto-kephalie」。団体の「秩序Ordnung」を、内部で制定するのが「自律Auto-nomie」。

ところが、そうするとこんどは、「ゲゼルシャフト結成に媒介されたゲマインシャフト」とは、一体全体どういうことか――「ゲゼルシャフト」と「ゲマインシャフト」というふたつの基礎範疇が、(どうやら、「利益社会」と「共同社会」と機械的に訳出される学界通念とは異なり、「対概念」ではなさそうなのだけれども、では厳密には)どう概念規定され、どういう関係に置かれているのか――と問わざるをえません。