折原浩訳の問題点(37)

と思ったら今日はさらに極めつきの誤訳がありました。unpersönliche und übergöttliche はOrdnungに両方かかる並記に過ぎないのに、折原訳では何故か「神々を越える有意味の人格的秩序と捉える 」などという完全な誤訳になりunpersönlicheのunが飛んでしまっており、更にそれに恥の上塗りのように余計な補足が付いています。ここもヴェーバー説ではなく単に折原説です、しかも間違った。

原文
Die ganze indische Religiosität ist von ihm in der durch die dort gegebenen Voraussetzungen bestimmten Art beeinflußt: auch eine sinnvolle unpersönliche und übergöttliche Ordnung der Welt stieß ja auf das Problem ihrer Unvollkommenheit.

折原訳
インドの宗教性全体も、当の地域の所与の前提によって規定された仕方においてではあれ、この神義論問題の影響を受けている。すなわち、世界を、神々を越える有意味の人格的秩序と捉える [「超感性的諸力」によって構成される「万神殿」の「合理化」が、唯一の超世界的人格神という観念とは異なる帰結に到達した]場合にも、やはり当の秩序の不完全性という問題に直面せざるをえなかったのである。

丸山訳
インドにおける信仰の全体は、そこでの所与の前提に規定された仕方で、そうした神義論の問題によって影響を受けている:ここでもまた意味深い、非人間的で神々をも超えた世界の秩序が、やはりその不完全さという問題に突き当たったのである。[1]

[1] ここのヴェーバーの議論はかなり恣意的であり、インドには唯一にして世界の創造神である神という概念は存在せず、神々すらも宇宙という舞台に登場する役者のようなものであり、神義論は元々存在していないし、成立の余地もない。

折原浩訳の問題点(36)

本日の折原誤訳日記。(笑)

何故この人は、Je mehr…desto mehr (~すればするほど、それだけ一層~となる)を普通に訳せないのでしょうか。政治家の答弁じゃあるまいし「遅かれ早かれ抱懐されてきて、応答が喫緊の課題となる。」って何ですか?そんな表現原文にはありません。大体誤訳だけじゃなくて「問題が抱懐されてきて」って日本語自体が変。(「問題」を抱懐する人はいない、また普通受け身では使われない。要するに「抱懐する」の語義を理解していない。)ついでに主語も「崇高な神」ではなく、その前の文章に出てきた「そういった神の卓越性のあり方と意味」(Art und Sinn dieser Erhabenheit)でしかあり得ません。

原文
Je mehr sie aber in der Richtung der Konzeption eines universellen überweltlichen Einheitsgottes verläuft, desto mehr entsteht das Problem: wie die ungeheure Machtsteigerung eines solchen Gottes mit der Tatsache der Unvollkommenheit der Welt vereinbart werden könne, die er geschaffen hat und regiert.

折原訳
ところで、そうした崇高な神が、世界を超越する普遍的な統一神という概念の方向に発展を遂げると、そういう神の威力の途轍もない昂揚と、その神によって創造され統治されているこの世界の不完全という事態を、いったいいかにすれば、和解させ、矛盾なく説明できるか、という問題が、遅かれ早かれ抱懐されてきて、応答が喫緊の課題となる。

丸山訳
そういった神の卓越性のあり方と意味が、普遍的な超現世的唯一神という概念の方向に推移すればするほど、それだけ一層次の問題が発生してくる:そういった神の途方もない力の増大と、その神自身が創造かつ治めている世界が不完全であるという事実がどのように統一的に解釈出来るか、ということである。

もう一つ。「一様に生々しく」のおかしさ。その前でそれぞれ独自の方向と言っているのに「一様に」は矛盾。またlebendig は「生々しく」というより、単に明確に、はっきりと、存在していたということ。(そのつ→その都度、は元からの誤記)

原文
Das so entstehende Problem der Theodizee ist in der altägyptischen Literatur wie bei Hiob und bei Aischylos, nur in jedesmal besonderer Wendung, lebendig.

折原訳
このようにして発生する神義論の問題 は、古代エジプトの文学にも、ヨブ記にも、アイスキュロスにも、もとよりそのつ独特のニュアンスを帯びてではあれ、一様に生々しく表明されている。

丸山訳
そのようにして生じて来た神義論の問題は、古代エジプトの文献にも、ヨブ記にも、アイスキュロス[1] にも、ただそれぞれにおいて独自の方向に向けてではあるが、はっきりと存在していた[2]

[1] BC525~BC496年、古代アテナイの三大悲劇詩人の一人。代表作品は「アガメムノーン」「縛られたプロメテウス」など。アイスキュロスの作品においては人間の苦しみは神が人間の不遜さを知らしめ、神の知恵を実現する手段と描かれている。[2] そこまで神義論を広げるなら、中国の史記の「天道是か非か」というのも十分に神義論的と言えよう。