ここもひどい訳です。いわゆる「パウロ(サウロ)の回心」についてですが、persönlichenをあれほどこだわって「即人的」と訳していたけど、ここは何故か「個人」。それに「復活した者個人 [イエス]の運命」ではなく「復活した者の個人的運命」です。
またZusammensehen(一緒に見る)という単純な動詞を「一般的な概念的枠組みのなかに導入し、内面的また実践的に関連づけて捉え返す」と勝手に難しくして余計な意味を付加しています。私の訳と読み比べてみてください。
ただでさえ、ここのヴェーバーの記述は、使徒言行録には書いていないことを勝手に脚色している傾向が強いのに、折原訳はそれを更に脚色して結果としてさっぱり理解出来ない日本語訳にしてしまっています。(私は学生時代、荒井献先生の授業でMartin HengelのZur urchristlichen Geschichtsschreibungの第二部を読んでいて、訳読が当たった所がまさにこの「サウロの回心」のところだったので、それなりに今でも記憶しています。)
原文
Vor allem ist seine Bekehrung nicht nur eine Vision im Sinne des halluzinatorischen Sehens, sondern zugleich des inneren pragmatischen Zusammensehens des persönlichen Schicksals des Auferstandenen mit den ihm wohlbekannten allgemeinen Konzeptionen der orientalischen Heilandssoteriologie und ihrer Kultpragmatiken, in welche sich ihm nun die Verheißungen der jüdischen Prophetie einordnen.
折原訳
とりわけ、[ダマスコへの途上における]かれの回心は、幻視という意味におけるヴィジョンであるばかりか、同時に、復活した者個人 [イエス]の運命を、オリエント的な救世主救済論とその礼拝実践にかんする、かれにもよく知られた一般的な概念的枠組みのなかに導入し、内面的また実践的に関連づけて捉え返す、という意味のヴィジョンでもある。ユダヤ教の預言の約束が、かれにおいていまや、そうした概念的枠組みのなかに組み入れられ、整序される。
丸山訳
特に、彼の回心はただ幻覚として見たという意味でのビジョンというだけではなく、同時にまた復活した者[イエス]の個人的な運命と、彼がよく知っていたオリエントの救世主による救済論とその礼拝実践という一般概念も、自分の内部で実際的に一つにして見たという意味でのビジョンでもあり、彼にとってはその概念の中へいまやユダヤの預言による様々な約束も組み入れらるのである。